2024-02-23

病床で「吸血鬼ドラキュラ」に励ましてもらった

実は、父娘の熱海旅行から帰って間もなくコロナに罹患してしまって肝を冷やした。自分の症状はともかく、高齢の父がかかってしまったら、もうこれは後悔してもしきれないと気が気でなかった。が、1週間しても父に症状が出ないのを確認し、ようやっとほっとした次第である。

私も週末2日間は高熱にうなされたものの、月曜から回復基調にのって今はほぼほぼ落ち着いた。クリニックの医師によると今は隔離期間が5日間のようで、それも開けた。

高熱がおさまってくると、ベッドの中で読みかけの怪奇小説「吸血鬼ドラキュラ」を開いて過ごしたが、思いのほか、この物語が私を励ましてくれた。

1897年に発表された、アイルランドの作家ブラム・ストーカーの長編小説で、ホラー映画はまったく観られない私だが、どう映像化するかが私自身にゆだねられている小説形式なら怪奇ものも読めないことはない、というのは発見だった。私の脳内監督は、一貫してピンボケ映像化に努めていた…。

このお話、メインキャラクターによる日記(あと手紙とか新聞記事とか)をつないで展開される「書簡体小説」という形式をとっていて、これが複数の主要人物による文章でつながっていくことで、立体的に状況が見えてくる物語になっている。

そこのおもしろさも多分にありつつ、私にとっては「知性とまごころの物語」と読めて、それが大いに励ましと示唆を与えてくれた。

長編小説には、本当に人を「大事にする」とはどういうことかが汲み取れる作品が多いと感じる。私が、それをこそ読み取ろうとする性向にあるというだけのことかもしれないが。

「大事だと言う」のは簡単だし一瞬だが、「大事にする」ということは難しく時間を要する。それがどういうものかを伝えること、二者の違いを伝承することも、また容易ではないし紙幅を要する。きちんとした物語世界を構築しないと、なかなか人から人へ伝えるということが叶わない。

単純な結論の導き方をすれば、例えば「高齢の父を旅行に連れ出し、コロナ罹患のリスクを負った」ところから「今後、安易に旅行に連れ出すべきではない」という結論も導けるわけだが、知性を働かせて、まごころを尽くして、人を思い、人を大事にするということの中で結論を導かんとすると、そこにはまた違った結論が起こしうる。むしろ、さきの結論の導き方は単純すぎて、軽薄で、浅はかで、無知性ともなる。そこにはいろんな結論の導き方があり、その選び方・作り方に個性も出てくる。

私は私で、自分なりの結論を、一つひとつのことに対して大事に導いていきたい。思慮深く、知性をもって、まごころを尽くして、私はどうするか、どうしないかを作っていきたい。それを豊かにするのに、こうした長編小説は大いに示唆を与え、励ましてくれる存在だ。まさかドラキュラを読んで、そんな励ましを得られるとは思わなかったのだが。

人は言葉に酔い、言葉に溺れやすい。自分を振り返って、「大事にする」行為より「大事だと言う」発信活動によっていると察したら要注意だ。しっかり立ち止まって、例えば長編小説を開き、居住まいを正す必要がある。そう思うのもまた、私の個性なんだろう。

*ブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」(創元推理文庫)

2024-02-22

母の命日、父娘の旅路

2月は、母の命日がある。今年は土曜日だったので、父と二人でその日にお墓参りへ行った。空は晴れ渡り、風もなく穏やかな日和、柑橘の匂いでも香ってきそうな大輪の菊の花を供えて(Instagram写真)、陽光が射すお墓に手を合わせた。

母が他界して13年になる。母の歳に13歳も近づいてしまった。私は写真の中で笑う59歳の母よりよぼよぼするまで生きながらえるだろうか。あと一回りすると、母と同い年になる。

父と毎週末、地元の映画館へ行くようになって一年が経つ。この一年で48本の映画を一緒に観た。前後にランチや買い物もするので、父とはその間にいろんなおしゃべりをするのだが、いつだったか、母親がいなくなっておまえはさびしくないのかと、父に尋ねられたことがあった。

おまえは彼女との死別を、どう乗り越えているんだ?と、そんな問いかけのように聞こえて私は「同化した、取りこんだ、お母さんを吸収合併したんだ」と笑って応じた。父は「なるほどな」と笑った。親子というのは、そういうのが成り立つものかもな、そういうのが健全であろうなとでもいうように、私の返事に頬をゆるめた。夫婦はそうはいかんのよと、苦笑いしているふうでもあった。

先週は、父を誘って熱海旅行に出かけた。父娘の旅は、昨年7月の「京都思い出探訪」以来か。ふだん乗らない特急列車に乗って、海か山、温泉があるところに宿をとって出かければ旅行に成る。私にはそういう思い込みがあり、今回は「踊り子」「熱海」「温泉宿」をそろえたところで準備万端、勝手にコンプリート感。

熱海は移動疲れもしないし、「さくっと海」にはちょうどいい旅先だった。お天気にも恵まれて、2月とは思えない穏やかな陽気のなかで海風を浴び、青い海と青い空しかない水平線をのんびり眺め、ふぃぃぃーと息をはいて、はぁぁぁーと息を吸った。沈んでゆく太陽を静かな部屋から、昇ってくる太陽を朝風呂に浸かって見届けた。

広大な海を目の前にして、心の中に何を思い描くか。昔の自分とは全然違うものを今、海の視界に覚え、思い耽る自分に気づく旅だった。父がこの海を前に何を思っていたか、私にはわからないし尋ねもしないけれど、この先も穏やかに、海を目の前にする時間をプレゼントし続けられたらなぁと思いながら背中を見ていた(Instagram写真)。

*昨年が13回忌だったので、今年は14年としばらく思い込んでいたが、今年は14年目の丸13年だった…ので後から訂正しました。

2024-02-09

生活と終活を淡々と両立するアラフィフ

生活っていうのは、生きるって字を用いるのだなぁと認識したのは、つい最近のこと。終活と対比して、はっとしたのだ。

昨年は家の中にあるぬいぐるみを手放し、今年に入って手放そうと決めたのはセラミックヒーター。けっこうな図体なのだが、どうも使い勝手が悪くて使わずじまいになり、キッチンの隅に何年も置いてあったのを、これはもう使わないなと手放すことにした。

「これはもう使わない」と思うとき、あたまに「残りの人生で」というのが自然のっかってくる発想のめぐりがアラフィフというやつで、「一生使わない」とか「生涯使わない」とかいうのが言葉の綾でなくリアルな時間感覚として身に迫ってくるようになった。

と言って、もう何十年か生きるかもしれないし、そこのところの尺のかげんがまったく見当つかないのが、現代人の一人一人が負っている、すさまじい生き様である。

とにかく「使っていない、この先も使わない」ものは、一つひとつ手放す手続きをコツコツやっていきたいわけだが、そればかりに偏るのも違うだろうという思いが去来してくるのが、これまたアラフィフ脳の粋なさま。

そんなわけで今年のはじめに、洗濯機を新調しもしたのだ。何十年ものという古い古い洗濯機を、いい加減と一念発起、お正月に家族に焚き付けられて購入に至った。まさに、生活だ。生きる活動のために洗濯機を買う。

この生活と終活の両立は、なかなか味わい深い。そして、徐々にその比率は変わっていくのであろうけれども、今しばらくは生活の比率高く、生きていきたい。終活より生活を、大事にして営んでいきたい。そう意思をもつ私を感じるところに、自分の健康を覚える。

死んじゃうのは嫌だなぁ、惜しいなぁ、怖いなぁと、平常心をもちながら思うことが、ここ1、2年でとても多くなった。それはきっと、ありがたいことなのだ。私は、この世界に愛着がある。そう実感する。静かに、ささやかに、確かな味わいを、大事な人たちと大事に過ごしていきたい。

2024-02-04

際に立たずに立つ長編小説の文章

久しぶりに小説を読んでいる。嶋津輝さんの「襷がけの二人」。豊かな時間さね。和語が心に染み渡る。読み始めてすぐ、お初さんの家の描写があるのだが、

玄関先の竹筒に紫陽花(あじさい)花が挿してある。花弁はまだ色づいておらず葉のような薄緑で、それが却って目に涼やかで、清潔だった。筋目だって掃かれた路面には、きちんと水が打たれている。格子窓の手すりには、陶器鉢がひとつだけ、ちんと置いてある。

もう、これだけで、ぐっと小説を読む愉しみに浸かれる。作品の紹介文に幸田文、有吉佐和子の流れを汲むと見かけた。

際に立ったテキストがあふれるメディア社会において、あっちにつかず、こっちにつかず、文章はこういうところに立ち上がっている姿こそ凛々しく、美しく、価値があるものだなぁと染み入るのだった。はぁ、長編小説の尊さよ(主語がでかい)。

しゃっ、しゃっと、草履の裏で砂利を掃いて路上を浄めるように、滑らかな足取りで調子よく進んでゆく

自分の目に映る光景を、人の立ち姿や足取り、他者へのふるまいを、どうとらえるか。描写のもとには洞察があり、洞察のもとに現実がある。こんなふうに現実を豊かにとらえることができるんだよと、豊かな描写が教えてくれる。

自分の内側をどう豊かにしていくかは、こういう長編小説のなかにこそ、手がかりや助けがあるものだなぁと思う。

展開がうまくて面白い、読ませる物語だからこそなんだけど、いやぁほんとに、こんな作家さんが自分のちょい上の年齢で同時代に生きて作品を発表してくれているなんて、ありがたく心強いことだなぁと思った。

* 嶋津 輝「襷がけの二人」(文藝春秋)
* 山内マリコ「襷がけの二人」書評 家族からはぐれ女中と築いた絆(好書好日)

2024-02-02

若者の「転職に対する考え方」を日米比較した顛末

13〜29歳の若者の「転職に対する考え方」を日米比較してみて驚いた。下のグラフ、一見して「どっちが日本で、どっちがアメリカ」だと思うだろうか(クリック or タップで拡大表示)。

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私はなんとなく「上がアメリカで、下が日本」のように思えちゃうのだが、この印象って世代差あるのかな。若い人は逆に見えたりするのだろうか。

人によって日本観、米国観、日米比較観はそれぞれだろうけれど、私のようなアラフィフ世代だと「つらくても転職せず一生一つの職場で働き続けるべき」は日本のほうが比率高そう、「自分の才能を生かすため積極的に転職する方がよい」はアメリカのほうが比率高そうって思っちゃう人、けっこう多いんじゃあるまいか。

そして実際がどうかというと、2018年現在は逆。「上が日本で、下がアメリカ」なのだった。

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出典たどると、2003年(ちょっと調査対象年齢が違うんだけど)から2018年にかけて、日韓アジア勢は転職に強気になっていく一方で、欧米諸国は「つらくても一生一つの職場で」の保守が伸びているのが興味深い。

グラフは、労働政策研究・研修機構「データブック国際労働比較2023」の第3-14表「青少年の転職に対する考え方」(PDFファイル)から、2018年の日本とアメリカだけ抽出したもの。可視化が下手ですみません。

欧米諸国が「つらくても一生一つの職場で…」に傾く背景に何があるんだろう。そもそもつらい職場にいない、つらい職場が減った?相対的に転職のほうがつらいものになっている?若者の職・仕事に対する期待感が低下している?自己効力感が低下している?とか、いろいろ当てもなく思いつきが巡る。そしてどこにも到達していないままだが…。

でも、こうやって一つの表から、どこかに着眼して、そこのデータを抽出してグラフ化してみて、ビジュアライズが下手っぴだなぁとか思いながら配色とか配置とか罫線とかいじりつつ情報とたわむれる中で、小さな気づきとか疑問とか仮説とかを拾い集めて私はものを考えていく。

なので、あんまり自分の生活に「自動でポン」というのを取り入れすぎると、自分は自分が大事にしたい時間を失ってしまうんだろうなぁと思う。

処理能力が高い人、処理できるまな板がとんでもなくだだっ広い人というのはいて、その人にはその人の高度な道具の使い方というのがあって当然なのだが、それが必ずしも自分にとって有用で豊かさをもたらす使い方かというと、そうではない。私は私なりの、自分を豊かにする道具の使い方を作り出していかないといかんのだ。

人は頭の中で目的地を仮置きして、その道中で次への手がかりを発見したり、寄り道を楽しんだり、よそに逸れたりしてきたわけだが、そこスキップして目的地に瞬間移動できる道具を手に入れたとき、その道中の楽しみを別に見出すのか、道具を使わない時間も確保し使い分けるようになるのか、人それぞれか。

そんな投稿をTwitter改めXに先月書き残していたが、なんかそれを思い出しちゃったな。などと全然あさっての方向に思索めぐらす。

2024-01-29

いろんな仕事人の話を分かろうとする仕事

クライアント仕事の面白いところは、必要に迫られて過去一度も前に立ったことがない大型書店のコーナー前に仁王立ちし、みずからは決して手を伸ばすことがなかった本に興味を持って手を伸ばす気にさせてくれること。

実際買ってきて読んでも「なるほど」と興味をもって読め(なるほどと思って読めそうな入門書しか手を出していない…)、宿題を作って持っていくと、その道の専門家に直接話が聞けて新たな世界が広がり、一緒に宿題の精度を上げていけること。このプロセスが面白い。だけど、これってお客さんに恵まれているからこそだわと、はっとして改めて感謝した。

と思いながら週末パシャリしたInstagram写真。こういう他力本願というか、ある種流れに身を任せることによって活力を与えられ、知識欲をおぼえ、楽しく生きながらえている仕事人もいるというのが、私のようなタチの若者にも知れ渡ると、仕事観というのはもう少し豊かに映るのではないかと思ったりするのだが。バリバリ働くでも、仕方なく働くでもない、ぬるっと楽しく働く人も社会には生息しているのだ。

まぁ、この案件で言えば、たまたまの縁で得られたもので私もこのタイプを受注する再現性は乏しいのだが。本件は、私の仕事力の不透明ながらこの辺が核心だろうなと肌感覚でご存じの元上司だったから振ってもらえただけで、私は人事制度設計のコンサルタントとかでキャリア積んでいるわけじゃなし、そういう会社に所属したキャリアも持たないので、制度設計全体を預かれるわけでもなく、発注される見込みもない。この先、組織の人事制度づくりのプロジェクトに今回のようなプレイヤーとして組み込んでもられることは、まぁちょっと難しい。

そういう引いた見立てをしながら思うのは、一方で、これってこれまで自分がやってきた人材開発系、企業研修の分析・設計で使ってきた能力と丸かぶりだったよなぁということ。なので、組織のHR施策の要件定義であれば、この手の職人技は何にでも使えるんだなっていう発見機会でもあった。今後関われる全部に使っていこう、全部で使えるように継続して鍛え上げていこうと意識することができた。

あと、こういう組織活動の文脈でもそうだし、最近お能の入門書とかを本屋で物色しているときにも思ったのだけど、私は「業種」とか「文化」とかのカテゴリー切り口ではなくて、どの業種でもどの文化でも「そこで生きる人」がどんなふうに職能を発揮したり、どんなふうにその業界、その仕事、その専門性をとらえて現場で振る舞っているのか、現場で良い仕事をするために、どんな鍛錬を積んで、どんなところに目配せして、何を大事にしているのかみたいな話を聴くのが大好きで、それを分かろうと努め、その切り口で情報摂取のアンテナをはっているんだなということ。仕事なら、その理解・洞察の深さによって「要件定義から施策展開」の精度を上げていくのが、大好きなのだなというのを自覚した。

そういう意味で、やっぱり私は組織のHR施策を中心に仕えたいし、組織のHR施策と個人のキャリアデザインをどう止揚するかという役割を足場にして社会に関わっていけたら嬉しいなと思い新たにした。まぁこの先の仕事がどうあるかは独立1年目で不透明すぎるけれど。今の仕事を一つひとつ大事にやっていって、そこで自分が思うことを大事に、次につないでいったら幸せじゃないかとのんびり構えている。

2024-01-16

専門性を磨く/専門家を育成する「手順」の落とし穴

専門性を磨く、専門家を育てるニーズっていうのは、個人目線でも組織目線でも高いと思うのだけど、欠かしてはならない前提が、専門性を発揮したり専門家の役割を果たすには「深さ」も必要だが「広さ」も必要になってくるってことだと思うんだな。

で、これを入門する段階で一気に両方身につけるのは無理って考えると、身につける順序、教えたり教わったりするステップの踏み方に一考の余地があるってことになる。

そこで、あぁこういう落とし穴にはまりがちなのかもしれないと思ったのが、次のスライド(クリック or タップすると拡大する)。

20240116

左の図、右の図、ともに縦・横に線をひいて十字にきって、上下の線が「学ぶ領域の広さ・狭さ」、左右の線が「学ぶ領域の深さ・浅さ」と分けている。

左側の図が、こういう落とし穴に落ちがちなんじゃないかと思った3ステップ展開。学び始めに、左上の「浅くとも広い」領域を経験する・させることなく、左下の「浅く狭い」領域、言い換えれば「簡単な作業」から入っちゃう。そこから実務経験を積み始めて、専門家に求められるだろう右上の「広く深い」領域を目指した場合、そこに到達する手前でヘタっちゃうんじゃないかな、と思ったのだ。

実務未経験の新卒社員が入ってきて、その若手を専門家として育てあげて戦力化したい。そのとき、手っ取り早く「実務経験を積ませる」ということでいうと、手元にある実務をふって、部分でも、とにかくこれをやってみろと、左下の浅く狭い仕事(簡単な作業)をふっていく。これの寄せ集めをこなすだけで「実務経験3年以上」の経歴保持者になることも、大いにありうる話だ。

しかし本当の意味で「専門性を身につける」ということは、一朝一夕で済まないのが前提の話。長い期間さまざまな困難を克服して壁を突破できるかというのを念頭におくと、右側の図のように、学び始めに「浅くとも広い」領域を経験する、ここの足場があるかないかが、長旅を続けて右上の「広く深い」領域に到達する可能性に効いてくるんじゃないかなぁと思う。

この4ステップ展開って、意識的に仕組まないことには、なしのまま左側の3ステップ進行するのが常だろうなと思い、対比的に図にしてみた次第。

高いレベルは求めない、組織が「浅く低い」領域を任せられる作業者を量産したい施策なら、左側の3ステップで事足りるのかもしれない。が、本人のキャリア戦略であれ、組織の人材戦略であれ、高い専門性を育みたいなら、右側の4ステップで「浅くとも広い」経験を最初手にどう組み込むか、どう許容するかが、けっこう大事な気がしたのだった。

これは実務貢献度とのトレードオフにもなるから、自分・自社環境で現実的に許容できる按配をはかって設定する必要があるんじゃないかな。というのもあって、すごく抽象的な描き方にとどまるけれども。

そんなことを考えさせてくれたのは、観世銕之亟「ようこそ能の世界へ―観世銕之亟 能がたり」*だったりするのが、人の世の趣きあることだなぁと味わっている。

能役者は、子どものとき稽古するのに、だいたい神さまの能から始めるのです。それからしだいに人間のドラマへと入っていく、そうしないと戯曲がだんだん細ってしまうのです。つまり、神の偉大さということを体現していないと、どうしても演技に膨らみがでてこないのです。

平易に言えば、まず仕事の醍醐味から味わう、その活動の大義に触れること、魅力に接触すること、というのかな。それなしに、ぐいっと跳躍が必要なスケールの成長の軌跡って、なかなか見込めないんじゃないかな、などと思ったりするのだった。

*観世銕之亟「ようこそ能の世界へ―観世銕之亟 能がたり」(暮しの手帖社)

2024-01-02

十何年越しかで、母の言葉を聞く

大晦日に帰省した。妹も帰ってきて、兄一家が元旦にやってきて、父を囲んで実家で新年会を開いた。午後には、母のお墓参りに行った。快晴だった。昨年はコロナにかかって寝込んでいたので、今年は家族で新年を迎えられてよかった。

おせちをつまみながら、義姉とおしゃべりしている時。甥っ子らの子育てについて話す流れで義姉が、生前の母(彼女にとっては姑)が私について話していた印象(というのか認識というのか)を聞かせてくれた。

そのときもきっと母と義姉のあいだで、子育てを話題にしていたのだろう。母は、私について「あの子は大丈夫。しっかりしてるから」と言っていたそうだ。

そんなこと、初めて聞いた。まぁ、当たり前か。母が(私のいないところで)人に話す私の印象、そんなの聞く機会ないものな。でも、これまで一度も、そんなことが在るなんて想像すらしたことがなかったのだ。

落ち着いて考えれば、母が義姉と子育てについて話すなら、私なり兄なり妹なりの話をするのは自然のこと。母が手短に人に話せる息子・娘の印象というのをそれぞれ持っているのも、そりゃあそうかと思う。よそ様に尋ねられてさくっと答える機会もあっただろう。なのだけど今回聞かせてもらうまで、まったく想像もしなかった。

義姉とのおしゃべりを終え、ひとり台所でお皿を洗っているときに思い出し、「あなたは大丈夫。しっかりしてるから」と、母が十何年越しかで言葉をかけてくれて、励ましてくれているような気持ちがした。嬉しかったなぁ。あったかい気持ちがした。もう二度と直接言葉をかけてもらえることなどないと思っていた人から、十何年越しかで言葉を贈ってもらえたような気がした。

実家の台所は母の背丈に合わせて作ってあるから、皿洗いをしていると腰が疲れてくるのだけど、なんかそれも入り混じって、じんわりしてしまった。今年も健やかに自分のつとめをコツコツやっていく。本年も、どうぞよろしくお願いします。

* 写真は2024年元旦、母のお墓参り

2023-12-31

伝えようとする人の意を汲もうとすること

鶴見俊輔さんの「文章心得帖」の中に、

自分の言いたいと思うことが、完全に伝わることはない。表現というのは、何か言おうとしたならば、かならずうまく伝わらなかったという感じがあって、出発点に戻る

という一節がある。そうして「無限の循環をする」のが表現というものなんだと、冒頭で腹をくくる。

文章というのは、書いたものが人に読まれたときに初めて意味をもつわけではなくて、自分の内面で何か思いついたときから意味をもちだしている、とも。

実は自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるものが文章であって、文章が自分の考え方を作る。自分の考えを可能にする。だから、自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を書くとすれば、それがいい文章です

自分の文章であれ、人の書いた文章であれ、何かを思いつかせてくれたり、何か自分にはずみをつけてくれたとき、そのことを大事に認識したい。文章に限らず、人が表現したものに対して。

何かを完璧に伝えられたなんて表現はない。そういう前提に立てば、自分の表現にも、人の表現にも寛容さが生まれる。

そういう中でも表現を試み続けている人のそれを、両手を差し伸べるようにして受け取る心もちになる。その姿勢がとても大事だし、それによって実際に自分が受け取れるものもぐっと豊かになっていくだろう実感がある。

鍛錬すべき能力というと、とかく批判的にものを見たり文章を読んだりするスキルが語られがちだけれど、それ以上に大事なのが(大事なのに当たり前すぎてなかなかメッセージ化されて情報流通していないのが)、なにかの出来事に触れたり、話や文章を通じて人の考えや気持ちに接したときに、そこにポジティブな意味を見出そうと努めること、相手の意を汲んで読み取ろうとすること、それを発見して前に展開させる力だと思う。

うまく表現しきれていないけれど、相手が表現しようとしていることに己の想像力をめぐらせて汲み取ることができる。汲み取ろうと努めることができるし、鍛錬によって汲み取るスキルを高めていくことができる。これって、とても尊い人の性質だと思う。

大事なことってだいたい両極をもっているし多義的だ。何か一つのことに傾注しているとき、他にもいろんな大事なことがあるって前提を見失ってしまうと足元をすくわれてしまう。シーソーの中心に立っている自分の足の感覚をいつでも大事にもっていたいし、その足腰を支える基礎を養い続けることを一番に大事にしたい。

鶴見俊輔「文章心得帖」(筑摩書房)

2023-12-26

『Agend』のインタビューで普通のことを力説

「将来いんたーねっつになりたい」と願ってやまない事業家のフジイユウジさんが、私との茶飲み話を記事にしてくれました。

「これからどうなりたい」を話すと、個人もチームも良いことがある。キャリアプランを活かすチームコミュニケーション。

「仕事でのチームコミュニケーション」をテーマにした情報を発信するメディア『Agend』(アジェンド)。経営層向けの組織論とかじゃなくて、もっと中間層のマネージャー向けに現場の実践に焦点をあてた記事を出したい、ということでメディア活動をされているのだとか。

お声がけいただいたときは、役立つことが一言でも言えるのか正直分かりませんでしたが、茶飲み話的に話してみて、つまめるところがあったら記事にするという感じでお受けして、わいわいおしゃべりしたのでした。その後、いただいた原稿をたたきにしてあーじゃこーじゃと書き直したりして記事が仕上がった次第。

しかし日を追うごと「普通すぎる」とか「凡庸すぎる」とかで終わっちゃうんじゃないかという気が充満してきて、私はこれが等身大だから仕方ないとしても、このメディアを傷つけることになるんじゃないかと悶々、とりあえず年内に出しておくのがいいんじゃないかと少々気が焦った年末…。

それが今朝の公開を見届けるに、フジイさんがSNSでシェアしたのを読んで、共感を示してくれたりする方の声に触れることができ、感涙するほど嬉しい気持ちになりました。あぁ、こういうふうに現場で有意義に仕事されている方の声が彰らかになる作用がはたらいたなら、媒介価値があったと自分を許してやっていいんじゃないかと、そういう安堵がありました。本当に、ありがたい。

また個人的には、この機に乗じてお話ししたり文章を書いたりする過程で、自分一人ではなかなか言葉がまとまらなかった考えに当たる時間をいただけて、これだけでも大変ありがたいことでした。

一方で、やはり「普通に大事なこと」を現場仕事ではなくメディア記事のような形で出力しようとすると、どうしてもエッセンスが抽象化されるわけで、「抽象化した普通のこと」の語りって、どうしても「凡庸」と紙一重になってしまう。そこを簡潔に巧く示せる人もいるとは思うんですが、私はその辺が力不足で、メタファとして地図っていっても、具体的にどういう地図よっていうようなのが下手だよなぁと思います。

「普通のことすぎる!」というお叱りの言葉もあろうかとは思いますが、普通を具現化する仕事こそ大事だし難しいし、現場の各人の腕次第だしという思いを詰め込んだということで堪忍して。おせち料理の中の「なます」みたいな感じで、年末年始のごちそうの合間につまんで味わっていただければ幸いです。

メディアを騒がす極論と極論のあいだに、最適な按配を見極めて自分たちの答えを作り出していく現場の創造力が、すごく尊いと思っていて。手法としては斬新ではないんだけど、丁寧に個別具体で当たらないと意味をなさないタイプの創造的な仕事ってあって、目立たないけれどそここそ頭数が必要で、自分はそこが持ち場だと思っている。なので私も、入らせてもらえる現場で「組織の人材マネジメント」と「個人のキャリアデザイン」を止揚する役割を果たせるよう、来年もせっせと働けたらなと思っております。

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