2025-06-15

「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」の個人的読書メモ

あまのじゃくな性向が災いしてか、たいていのことの初動が遅いのが災いしてか、この中途半端な時期に重たい腰を上げて「生成AI」の入門書を一冊、手に取った。という話は一つ前の話で書いたが、

これが本当に分かりやすくて楽しく読み終えられたので、内容についても個人的なメモを残しておく。

※強調するが、この本に書かれていること(そのまま)ではなく、私の解釈で自分の脳内用に作り替えたメモ

まず「生成AIツールの主な用途」として、私が列挙したのは


  • サマリーやレポートをまとめてもらう
  • アイデアを列挙してもらう
  • コンテンツのたたき台を作ってもらう
  • 調べ物をしてもらう
  • レビューをしてもらう
  • 実行計画を立ててもらう(実行してもらう)

著者の深津さん曰く「文章を作らせるよりも、レビューをさせるほうがいい仕事をする」印象をもっているとのこと(2024年8月時点)。

こうした依頼をかけるときのポイントとして、「〜を考えて」とか「〜を作って」とか、一言で雑な質問をするな!という話である。

じゃあ、どうしたらいいのかという問いかけの基本文型や文例が、書籍では体系立てて解説してあるわけなのだが。

その体系をちょっと崩して、ざっくり私の脳内に接続する言葉に言い換えると、こんな感じである。

ChatGPTに問いかけるときの構成要素。


まず基本として、

1)AIに役どころ(何をやってほしいの?)を示し、
2)文脈(誰向けの、何に使うもの?)を示し、
3)元資料なり参照資料を与え(or 検索範囲を指定)、
4)回答時の形式(目次構成、文字数や段落数、箇条書きや個数など)を指定する

オプションとして、

5)回答までに踏ませるステップを指定する
6)回答サンプルを与える


そうすると、精度高く、少ないラリーで、欲しいものが手に入りやすくなるという話。

1、2を与えれば、目的に適った回答を得やすくなる。
3を与えれば、どこからもってきたかわからない情報だとか誤情報などが混じりにくくなる。
4を与えれば、用途に適った形式で出力されやすくなるというわけだ。

これまでに私も、先行して生成AIツールをビジネス利用している人の話を聞く中で、全然「要件定義」せず依頼していて、それだったら自分で一から作ったほうが断然能率がいいんじゃないか?と思うことが少なくなかったので、ほんと使いようだよなぁと改めて、もぐもぐ味わった次第。

さらにオプションである。5を与えれば、どういう経路をたどってAIがその答えに辿り着いたのかわけわからん、ということがなくなる。「調査分析してから企画立案して」とか、「一般論」を回答させた上で「それに従った個別事案を考えて」とか「その一般論からはずれた個別事案を作って」とか、「複数のアプローチで複数案を出してくれ」とか、そういった回答までの段取りをマネジメントできる。

6を与えれば、与えたサンプルに倣って「言葉選びや表現」を作ってくれる。小学生向けの教材か、法人営業のマニュアルか、個人カスタマー向けのFAQかで、適切な言葉遣いは異なる。サンプルを与えれば、その辺のニュアンスを汲んで新たに作るものも生成してくれる。言い回しや単語の用い方、文章の長さにとどまらず、テイストだ、トーンだ、出力形式も何も、細かいニュアンスを汲んで寄せてきてくれるというわけだ。

この辺を、具体的にどう問いかけたらいいかという文例がふんだんに詰まっていて、わりとさくっと短時間で読めるのもいい。部分的に、使いたいように、自分の日常に取り込めるライトさも良い。

著者2人の掛け合いの読みやすさ、読者を惹きつける構成の妙、具体例の作りの巧さは、前の話でふれた通り。一通り読み終えて、なお「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」*は、ビジネスパーソンの入門書に最適だなと思う。私同様、そろそろ一冊読んでみようかなぁという方は、ぜひ。

* 深津貴之、岩元直久「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」(日経BP)

2025-06-07

教えるとき「基礎を取り出す」構成の妙(ソロ タキソノミーのメモ)

これは本当に分かりやすい!思った「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」。重たい腰をあげて生成AI、LLM、ChatGPTの基礎知識を、と手に取ったが、ビジネスパーソンの入門書に最適だった。著者2人の掛け合いでテンポよく解説する小気味よさ、シチュエーションや活用例の巧さも然ることながら、本の構成が見事だなと感服。

「ビジネスシナリオでのChatGPT」を一章にまとめず、
第3章 ビジネスシナリオでのChatGPT(基礎)
第5章 ビジネスシナリオでのChatGPT
と、2つに分けられている構成の妙に、うなった。

第3章は「サマリーを作って」「FAQを作って」「検索して」の3本立て。「汎用的で(誰でも)、ライトで(すぐ)、ビジネスで役立つ(使える)」基礎をコンセプト立て、具体例を示しながら紹介している。これによって、第1章から第3章までの前半部で読者を小気味よく虜にして、後半に送り出す手さばきが見事なのだ。

すでに学習内容を熟知している著者の立場(先生として物事を教えるとき)って、無意識でいると、この分割になかなか頭がまわらない。無意識に教えるべきことを構成だてていくと、(ごく概念的な知識は別としても)「ビジネスシナリオでの〜」みたいな実践の件(くだり)で基礎部分だけを取り出して一章を立てることに、なかなか思い至らない。

思い至っても、その基礎部分を、この範囲とスコープ立て、これとコンセプト立て、一章として独立的に機能する構成内容を作っていくことが、かなり創造的な、ひと仕事となる。それに価値を見出さないと、やっていられない。これをしっかりやってのけているところに、巧いなぁ!とうなったのだ。

ここに意識が及ばないと、「第3章」に全部入りになっちゃうか「第5章」に全部入りになっちゃうかで、一章に束ねられる。こうなると「目次」として眺める分には、きれいですっきりしているんだけど、学習の実効性としては落ちる。しかし熟知している著者側は、それに気づかぬことも、ままあるだろう。

これは本にかぎらず、講義、授業、セミナー講演などで人に教える場の構成・時間割でも、言えることだ。

「初学者にとっての学びやすさ」という構成指針を取り入れると、どういうふうに学習範囲を絞り、構成要素を分割し、順序立てると良いかの答えが変わってくる。

演習課題を取り入れよう、ワークショップ形式にしようだとかの趣向を凝らすより前に、もっと基本的な骨格づくりの甘さをどうにかするほうが先決では?という現場は少なくない気がする。「実務者による、実務者のための、実践的な講座にすべく、ワークショップ形式」という話し運びだけで基本構成を固めてしまうのは、ちょっと安直である。

人の理解は「浅い理解から、深い理解へ」と段々に進むし、人の思考は「単純な思考から、複雑な思考へ」と段階を踏んで学習していく。

「人の学習段階」を5つにレベル分けして示したソロ・タキソノミー(SOLO taxonomy)は、概念的だが、良い道標になる。

「浅い理解」ステップを踏まずして「深い理解」には至れない。「単純な思考」を踏まずして「複雑な思考」へはなかなか至れないのが、アナログな人間の学習プロセス。

実践的だというだけで、ハイコンテキストな事例そのままに演習課題を与えて「複雑な思考」を求めても、初学者には考える足場がなく学習なしえないのだ(興味をもつことには貢献する場合もあるが)。

一足飛びに「深い理解」「複雑な思考」を求める育成イベントをしかけて、学習効果ゼロに終わることがないように歩みを企てよ!という示唆を、ソロタキソノミーは与えてくれる。

ソロタキソノミー(SOLO taxonomy):参考までに私のメモ的スライド(クリックすると拡大表示)

Solotaxonomy

それにとどまらず、その段階の踏み方を、どう組んだらいいかを考える道標としても使える分類表である。

一方、あくまで道標でしかないという認識も極めて重要だ。実際には「どこまでがレベル1なのか、どこからがレベル2になるか」は各現場で考えなくては仕方ない。実際には、その学習テーマ、その学習者次第ということになるから、仮説立てて、やってみて、検証してみて、手直ししてってサイクルを自分の手元でまわすしかない。

どちらかといえば「どこまでをレベル1と見立て、どこからをレベル2と見立てるか」という表現のほうが、実際的だ。決めの問題なのだ。違ったら直せばいい。

「急いては事を仕損じる」というのは学習においても言えること、急いては学習を仕損じる。最近、人間のアナログ性について、よく思いふけっている。

*深津貴之、岩元直久「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」(日経BP)

2025-06-04

教える側は、初学者に谷越えまで伴走すべき(ダニング・クルーガー効果からの考察)

筆記テストを受けて部屋から出てきた大学生をつかまえて、「自分は何点とれていると思う?」と尋ね、「本人の推定得点」と「実際の得点」を比較分析した研究がある。

Dunningkrugereffectexperiment

2種類のデータを手にした研究者は、受験した学生を「実際の得点」順に並べて、4つのグループに分けた。成績の上位25%、中の上25%、中の下25%、下位25%である。

さて、そこから見えてきたものは何だったか。

Dunningkrugereffectexperiencereport

結果を上の表にまとめてみた(画像をクリックすると拡大表示する)が、ざっくり言うと、上位25%の学生らは自分の点数を、実際より低く見積っていたのに対し、下位25%は実際より、自分の点数を高く見積っていた。つまり上位グループは自分を過小評価し、下位グループは自分を過大評価していたわけだ。

さらに言えば、上位グループの過小評価より、下位グループの過大評価のほうが、実際の点数との認識ギャップが大きかった。正答率でいえば「上位グループが自分を低く見積もった誤差」は5%だったが、「下位グループが自分を高く見積った誤差」は20%ほどのズレがあった。

ちなみに、テスト内容はユーモア、文法、論理を扱ったもの。そのすべての課題で、成績の低かった学生ほど、実際よりも自分のランクを高く見積もっていたという。

この実験から展開された研究成果は大変注目され、認知バイアスの一種「ダニング・クルーガー効果」(1999)として知られている。アメリカの社会心理学者デイヴィッド・ダニング氏とジャスティン・クルーガー氏によって提唱された。

「自信の高さ」と「能力の高さ」って、どんな関係だろうか?と自ら問いを立てて考える機会も、なかなかないものだ。だから無意識に持っている素朴なイメージは、下のようなグラフになっているのが、素直で善良な市民というものではなかろうか。

Photo_20250604085601

横軸を「能力の高さ」、縦軸を「自信の高さ」とするなら、左下と右上に丸を置いて、右肩あがりの正比例。

能力が低い人は自信がなく、自信がない人は能力が低い(左下の丸)。能力が高い人は自信があり、自信に満ちた人は能力が高い(右上の丸)のが普通では?と。

しかして、その実態は!研究によれば、全然ちがう線がグラフ上に描かれたのだった。

Dunningkrugereffect2

グラフの左側。能力の低いうちに、まず自信過剰になる「馬鹿の山」がそびえ立っている。そこから右へ、少し能力が高まったところで「絶望の谷」に急落する。そこから抜けた場合「啓蒙の坂」を登っていって、「継続の大地」に到達するんである、という激動。

この軌道は、実にセンセーショナルだ。そんなわけで、この研究は2000年にイグノーベル賞も受賞しているそう。

なぜ、このような認識ギャップが生じるか。「能力の低い人」は、自分の能力が低いことを知る手段をもたないために、自分の能力を過大評価する傾向をもつ。一方、「能力の高い人」は、自分よりも他の人が容易に同じタスクを遂行できると考えるために、自分の能力を過小評価する傾向をもつ。

つまり、能力が高い人の場合は、自分の能力を見誤るというのではなくて、他人の能力を(過大に)見誤るというわけだ。自分にわかる・できることは、他の人もわかる・できると、無意識のうちに思い込んでしまう。ここに認識ギャップが生まれる。

これって、職場で、産業界で、熟練エキスパートが若手〜中堅メンバーに専門知識・スキルを教えるときにも、災いのもとになっている。

何かの講師・講演・指導役を任された熟練エキスパートは、教える相手のことを、無意識のうちに、実際よりも過大評価してしまっている。すると、どんなことが起こるか。

まず、説明不足になる。「これくらいのことは知っているだろう」と、本人に確認もせずして思い込んでしまう。ただでさえ、熟練者は、話が抽象的になりやすく、自分はすでに自動処理できるようになっていることを改めて意識(言葉)に戻して説明することが難しいため、いくらでも初学者にとって話がわかりづらくなる懸念を負っていることに自覚的でなければならない。

最も手っ取り早く有効な策は、思い込まずに本人に「何を知っていて、どこまでできるか」訊くことだ。

また、初学者が習得までに要する時間も、熟練者こそ見積もりが甘くなる。訓練時間を短く見積ってしまうのも、学習者を過大評価しているからこそだ。

別の研究に、「前の授業でこの技能を習得するのに、自分がどのくらいの時間を要したのかですら過小評価した」ともある。学んだそばから、自分が費やした学習時間を、実際にかかった時間より短く記憶改竄する愚かさをもつのが我ら人間と心得たい。

人に教えるに際しては、それを学習・訓練・獲得・発揮するまでの時間を短く見積もりやすいことをわきまえて、現実的な学習経験を積み上げ算出しながら計画立てたい。

熟達者は、初心者にとっての課題の難しさに鈍感で、難易度を軽視する傾向にあることが分かっている。学ぶ側も、教える側も、ともに学習・育成活動における自分の立場の弱点に目を向けると、学ぶ活動も教える活動も、より協力的で実効的なものに見直していけるだろうと思う。

そして、この研究成果を紐解きながら思った最大のことが、教える側は、初学者にどこまで伴走すべきか問題だった。

若手育成のアプローチとして「伴走」の必要や有効性は、よく聞かれる。ただ、どこまで伴走するかという論点も、きわめて重要だと思ったのだ。先のグラフを眺めながら、教える側・組織の育成施策としては、初学者が「啓蒙の坂」を登りだすまで伴走する視野が肝要ではないかと思い耽った。

今は、職場・産業界でも、勉強会だ、セミナーだ、ネットワーキング・イベントだと、人を育てる系を目的に掲げた活動は実に活発だ。それは単体で見れば、大変素晴らしく喜ばしいことなのだが、単発イベントも多く、伴走まで含んだ中・長期の仕組みは十分といえない。タイプ的に選り分ければ、単発イベントというのは、先のグラフでいうところの左サイド(初学者)向けに、どうしても数が偏りやすい。

だからこそ、意識的に「どこまで伴走しないと、むしろ育成施策もマイナスに作用するリスクが高い」という視点をもって、人材育成の諸活動をプランニングしていくことが大切になる。そうしないと、せっかく人材育成のための施策活動を数多く打っていても、「馬鹿の山」と「絶望の谷」の山間部から出るに出られぬ人たちを多く生み出す活動に滞ってしまう恐れがある。

これは個人にとっても、組織にとっても、産業界にとっても、社会にとっても痛手だ。大変もったいない。「絶望の谷」を抜けて、「啓蒙の坂」に入って、学習者本人が自走しだすのを見届けられればこそ、いろんな諸活動がテコの原理をきかせて、ぐっと活きてくる期待もある。その辺のことをきちんと考えて、小さくとも本質的な人材育成に資する活動に取り組んでいきたいと思ったりしたのだった。

* 上記の画像スライドをまとめてPDFファイルで確認したい場合は、SpeakerDeckにて。

* ジョン・ハッティ、グレゴリー・イエーツ著「教育効果を可視化する学習科学」(北大路書房)

2025-05-24

その仕事をしなくなるなら、その仕事能力を身につける必要はなくなるのか問題

何かにつけ「AI時代の〜」と枕がつく今日この頃だけれど、「AIの台頭で人間の仕事はどう変わるか」からの「この仕事はAIに代替されるから、人間がやる必要はなくなる」からの「今後人間に求められる仕事能力は、こう変わる」みたいな論を読むにつけ、どうも論の拙速さ、ピースの不足感を覚えることが多い。

人間が職場で何をやるかという意味では、確かに「AIに代替されて、人間がやらなくなる」移行は進むと思う。ただ、実際にやる「仕事」と、その仕事を成し遂げるために働いている「仕事能力」は別物だ。

一つの仕事をやり遂げるのには、それを成り立たせる仕事能力が水面下で働いているわけだが、仕事能力というのは仔細にみると、じつに複雑に絡まりあい、階層的な構造をもって発揮されている。とりわけ、専門家の仕事能力とはそういうものだろう。

ここで私が言う専門家というのは広く、一定の専門性をもって特定の業種、業態、事業、職業の経験を積んで仕事をしている人くらいのニュアンスなのだが。

水面下で働く仕事能力の代表格として、ひとつ取りあげて迫ってみたいのが「長期記憶」だ。参考までに、最近整理した「長期記憶」についてのメモを下にはっておく。

感覚記憶と長期記憶、流入元で変わる作業記憶の働き(クリック or タップすると拡大表示)

Longtermmemory

ここでフォーカスしたいのは、今すでに専門家として活躍しているアラフィフ・アラフォーな人たちが、生成AIを活用しながら、いかに自分の仕事を洗練させていくかではない。これから社会に出て専門性を育んでいく若者の「専門家の長期記憶」は変わるべきなのか、変わるべきなら何を目指すように変わるべきで、どう育て方を変えるべきだというのか、その「べき論」である。

私が読んできたのは、若者も含めて、これまでと変えるべきという話なのか、それは別・それは知らんよという話なのかが明示されていなかった。それで、もやっているのだ。ゆえに今のところ「変えろ」論を訝しみ、これまで通り長期記憶を涵養すべきではないのかという認識を保ったところで、うろうろしている。変えどきには、あっさり変えられる人間でありたいとは思っているのだが。

専門家にそなわる長期記憶って、職場での実行役をAIに移行するからといって、そんな安直に手放せるものかしら。長期記憶のあるべき論・育て方論って、そんな簡単に変えちゃっていいのかしら。簡易化したり、身につけるべき能力を別の力点にごそっと差し替えちゃっていいのかしら。その点が、いまいち腑に落ちていない。

専門家のもっている長期記憶は、素人とは大いに異なる。専門家は、外から同じ情報(相談とか課題とか)が持ち込まれても、素人とは全然違う反応をみせる。それはなぜかって、長期記憶の作りが、素人のそれとは全然違うからだ。

専門家の長期記憶は、その道の専門知識と、その周辺の関連知識、一見すると専門とは遠い教養、実務経験や日常生活から培ったノウハウなどが渾然一体となって、複雑にスキーマ化されている。

新しい情報(相談とか課題とか)が外から持ち込まれたときには、その複雑なスキーマから、うまいこと必要十分な要素を、機能的な様態で組み合わせ、無駄は削いで、「作業記憶」に持ち込むことができる。

素人には、それが複雑な問題か単純な問題かの判断もつかない、あるいは単純化して見誤ってしまう。学び途中の人にとっては、たとえそこに複雑さは認められても、作業記憶がそれを処理するだけでパンクしてしまう。玄人は、複雑な状況・情報が入ってきても、その多くを「単一の要素」としてパターン認識して自動処理でさばくことができ、他の事がらに労力を注いで仕事に取り組むことができる。

だから、専門家を育てるには、専門家の長期記憶をじっくり涵養することが要の一つとなってきた。私の理解は、そういうふうである。

その長期記憶の厚み、縁の下の仕事能力を、専門家のそれとして涵養することなく、AI活用の能力、専門的な知識・文脈と関連づかないロジカルシンキングだの発想力だの、なんちゃら力だのの単体で切り刻んだ訓練に全振りしたところで、どうとも転がらない気がしてならない。

だから、つまり、今のところ、その仕事そのものは人がやらなくなり、AIに任せることになったとしても、そのAIの仕事を監督・評価したり、修正・追加指示したり、自ら修正したり他と連携させたり、その仕事を包括する事業活動の価値を着想したり創造・マネジメントしていく上では、専門家としての長期記憶を育むプロセスって、人材育成の一環として手放せないんじゃないの?みたいなのがある。

長期記憶の作りによって、作業記憶の処理は劇的に違ってくる。このことは、アナログな人間の体に規定されたものであるから、そうがらりと一変するものでもなかろうと。

その辺のことが、野良な自分には、うまく説明もできなければ、ここにもやもや書きつけることしかできないのがもどかしいのだが。それに、もう少し「人体そのもの」が変わっていった先は、こんなもやもやも一掃されてしまうのかもしれないし。

とにかく私としては、自分の頭を柔らかくして、ほぐしほぐし、手放すべきこと、変えるべきことにも、手放すべきでないこと、大事にすべきことにも心を開いて本質を自分なりに見定めながら、目の前の仕事に関わっていきたいのだ。

* ジョン・ハッティ、グレゴリー・イエーツ著「教育効果を可視化する学習科学」(北大路書房)

2025-05-22

「神経を抜く」との出会い

「神経を抜く」との出会いは、40年ほど前に遡る。小学生の時だった。テレビやラジオからではない。じぶんの人体に及ぼされる直接の行為として、その言葉を耳元で聞いた。そう、歯医者だ。

Removenerve

40年以上前から、お口の中では「神経を抜く」ということが、一般庶民に受け入れられるかたちで言葉としても流通していたし、行為としても普及していた。

あの頃すでに、我々は人工人体化の一線を越えてしまっていたのだ。昨今、あの頃の歯医者体験を思い出して、人工人体化する世の中のあれこれに一定の理解を働かせようとする自分がいる。

口の中で抵抗なく行われていることは、時代進めば、他の部分にも一般化しうるし、それが一つの人体において複数箇所に及ぶことも想像に難くない。それがじわじわ多数へ、全体へと波及するのは当然の流れ。いったん部分が始まってしまえば、全体への広がりは歯止めがきかない、なんつって。

「言葉がある」「名前がつく」が人を動かすパワーは、やはり強大だなと改めて思う。有無を言わさず受け入れる感じ、そういうものなんだと子どもの頭が受け入れる感じ。「神経を抜く」と平然と大人に言われれば、「はぁ、そういう医療行為があるのだな」と受け入れてしまう。言葉が日常語として一般家庭に、子どもにまで流通すれば、行為への抵抗感は薄れていき、適用範囲は際限なく広がっていくのだろうなぁ。

などと思いつつ、私はその手前で、この世をおさらばする気でいるけれども。ただ、例えば運良くあと10年だか20年だか生きたとして、その間に自分の同世代が「明日、神経抜く人間ノイド行ってくる!」「わぁ、どんなだったか話聞かせてー」なんてやりとりしだして、それが一気に広まって続々と人工人体化して、「えー、みんなこの世に残るの?」みたいなことになったら、さて私はそのまま昭和人間としてこの世を立ち去れるか。100%絶対そうするとは、なかなか言い切れない。けど、やっぱり今のところ、今の人生観でおさらばするつもりなのだけれど。この世は一体全体、どうなるんだろうなぁ。

2025-05-06

教える側の効率より、学ぶ側の能率

ある算数の授業を、同じ教え方、同じ授業時間で条件を合わせて、一方のグループには「1回にまとめて120分」で教え、もう一方のグループには「4回に分けて120分」で教えてみて、学習効果に違いが出るかを実験した研究がある*。

Spacedlearning

学習効果に違いは出たか。出たとすると高かったのは、どちらか。

一見すると効率が良さそうな「集中学習」だが、結果は「分散学習」のほうに軍配が上がった。間隔をあけて教えたほうが、生徒はよく学習したという。記憶に定着しやすく、学習内容の理解も深まりやすかった(Hattie, 2008)。

この手の実験は何十年も前から行われていて、分散学習の有効性はよく知られたところ。なのだが、なかなか教育現場に取り入れられないまま今日に至るのが実状。

素人アタマでどうしてだろうって妄想してみると、一つに「いや、知らんがな」、一つに「変えるの面倒くさい」が思い浮かんだ。

長く続けてきたものがある界隈では、変えるのは面倒くさい。重たい腰をあげて変えるメリット、変えないデメリットをひしひしと感じないかぎり、なかなか人は変える気になれない。

また一回にまとめて行ったほうが、教育プログラムの計画上も、運用上も、教える側の手間を考慮しても、何かと楽で効率がいい。

そういうことだとすれば、つまり「学ぶ側が、学び終えるまでの能率」ではなく「教える側の、その場かぎりの効率」によって、集中学習スタイルが採られ続けている、ということになるまいか。

(妄想から結論するな、という話だが)だとするならば、分散学習の有効性を知らなかっただけで、有効ならやるさ!という身軽な層は、必要な現場で、どんどん取り入れていったらいいよな、と思った次第だ。

ことに会社の部署内の勉強会、同業界・同職種コミュニティの勉強会あたりでは、教えるアプローチや教材リソースにそう長大な歴史的蓄積を抱え込んでおらず、能率アップするなら身軽に変化を加えていける現場も多いだろう。そういうところで積極的に分散学習を取り入れていったらいい。

全面的に今やっている集中学習スタイルを刷新するとか、極端なことを言い出さずに。部分的に分散学習のやり方を取り入れてみたり、一部の集中学習を分散させてみたり、考え方として取り入れてみたり、柔軟に思考を巡らして、柔軟に試行してみたらいいのだ。

極論や曲解は、もうたくさん。古いAの画一から、新しいBの画一へと、全面移行する発想は貧しい。AもBもうまく取り入れて、自分とこの、それぞれの文脈で活かす態度こそ、人間の教養の尊さよ。

同じ会社の部署内であれば、年に一度の研修プログラムに寄せて育成施策の整理をつけないで、ふだんの定期ミーティングに15分程度の勉強会タイムを設けて、連続的に展開してみるという手もある。

上司や先輩が、部下や後輩に個別に教えるなら、教える側にとっても隙間時間をうまく使って教えるほうがやりやすいことも多々あるだろう。「これはちょっと厄介だから、まとまった時間がとれたときに丁寧に教えてあげよう」と思いながら先延ばしにしてきたことはないか。

その中にはもちろん、説明にまとまった時間が必要な事柄もあれば、厄介で複雑だからこそ、小分けにして連続的に教えたほうが良い事柄もあるだろう。

時間をあけて同じ情報に約6回出会うと、学習した情報は長期記憶に残るようになるという。そんなイメージに差し替えれば、一度で覚えられない部下・後輩にヤキモキしている心持ちにも、いくらか心の余裕が生まれてくるかもしれない。

車の運転が好例だが、とくに何かの操作・やり方を学ぶようなスキル習得においては、最適な状態で15〜30分を一区切りにすると費用対効果が高いとされる。車の運転なら、2時間ぶっ続けて学ぶより、1週間以上の間をあけて各20分間を6回以上に分けて練習したほうが効果が出やすい。

集中学習と分散学習の組み合わせ技でオーソドックスなのは、最初に集中学習をもってきて、その後を分散学習で継ぐやり方じゃなかろうか。最初、まとまった時間を設けて講義中心に研修を行う。それ一度きりでやりっぱなしにせず、ちょっと期間をあけて、次からは分散学習スタイルに切り替える。ちょっとした時間を使って、課題を与えて、やってみさせて、フィードバックを与えて、修正させて。そういう時間なら、小分けで展開しやすい。少しずつ課題の難易度をあげていって、基礎知識の記憶定着と並行で、熟練化を狙うこともできる。

集中学習と分散学習、両スタイルを教える手段の選択肢に入れてイメージすることで、実現できる打ち手もいろいろ発想しやすくなるかもしれない。身軽に変えられる教え手・環境にある人たちから、分散学習をうまいこと取り入れていったらいいなぁと思う。

*ジェフ・ペティ「科学的エビデンスに基づく最適の教え方実践ガイドブック」(東京書籍)

2025-05-01

学習効果が高いフィードバックの仕方(ルース・バトラーの実験)

何かを誰かに教えようというとき、フィードバックは有効な策だ。一方的に「話を聞かせておしまい」ではなく、「課題に取り組ませて、本人の回答や作品に個別のフィードバックを与える」ことは学習に効果的(というか、それなしに完遂する学習なんて、そうそうない。その割りに前者どまりの教示活動が多いことを危惧している)。

ただ、フィードバックすれば、やり方はなんだっていいというものでも、もちろんない。フィードバックの仕方を誤れば、むしろ興味の維持、能力の向上を阻害することだって、ある。

「今この相手にとって、どのタイミングに何をフィードバックすれば学習に効果的か」の最適解を探る、文脈に応じたチューニングが肝。ということを腹落ちさせるのに、なかなか示唆的なルース・バトラーの実験(1988)が興味をひいた。

実験手順としては、こうだ。

1)学力が高い層と低い層を混ぜた3つの生徒グループを作り、3つの課題に取り組ませる。
2)課題に取り組んだ後、グループごとに異なる方法で、生徒にフィードバックを与えた。

Experiment

さて、3つのうち、どのフィードバックを受けた生徒グループの成績が向上したか。

Aタイプ)コメントのみを与える
Bタイプ)グレードのみを与える
Cタイプ)コメントとグレードを与える

Question

一見すると、コメントとグレードの両方を与えるフィードバックが、最もフィードバックが充実していて学習効果を高めそうなものだが、少し冷静になって考察してみると、いやいや…という気持ちがわいてくる。

そう、実験結果はこうなったのだ。

Answer1

Aタイプの「コメントのみを与える」だけ、成績が伸びた。他のグループと比べて約33%アップ。Bタイプ「グレードのみを与える」はもちろんのこと、Cタイプ「コメントとグレードを与える」フィードバックも、成績の向上はみられなかった。

BタイプとCタイプのフィードバックを受けたグループの生徒たちの変遷をみると、「学力が低い層」は、3つの課題を進めるごとに「課題への関心」が低くなっていった。学んでいるテーマそれ自体に興味を失っていったわけだ。これではフィードバックしている意味がない。

しかし、学習の道半ばで不用意に「E判定」(最下位)と突きつけられれば、やる気を削ぐのは想像に難くない。「自分には無理だ」と思わせるフィードバックは、育成上マイナスに作用する。

では、BタイプとCタイプのフィードバックを受けた「学力が高い層」の変遷はどうだったかというと、「課題への関心」は維持していた。が、3つの課題を進めるごとに、教師が与える「コメントへの関心」が低くなっていった。

A〜Eの5段階で「B判定」と通知されれば、まぁこれくらい取れていればいいかと、現在地に安住する気持ちもわいておかしくない。人は修正することを面倒くさがるもの。そこそこできているという判定を受け取って尚、コメントを読んで、修正を加えて、完成させようという気を起こすのは、なかなか至難である。

Answer2

この実験から得られる示唆は、むやみに「グレード」を付けてフィードバックすると、学習の質が落ちるということ。

「コメントのみ」にしぼったほうが、「他の人より自分は上か下か」といったことに意識を散らすことなく、自分のことに集中して「何を間違ったか」「何が(理解)できていないか」「間違いを直すにはどうしたらいいか」に意識を向けやすいということだ。

本人の回答、作品、パフォーマンスに評価してグレードを付けなきゃいけない状況、本人にフィードバックすべきシチュエーションというのは、確かにある。得点化してグレード判定し、選抜・採否を決める、等級を上げ下げする、報酬額を決める。本人は「判定と、判定根拠」を受け取ることによって、結論の透明性や妥当性を認めて納得できる。

だけれど、こと「育成」目的において、本人にグレードをつけてフィードバックすることが「常に」必要、妥当、有効ではないということ。そういう認識をもっておいたほうが、教えるという行為に思慮深く向き合える。何を今本人に伝えるべきなのか、伝えるべきではないか、取捨選択の意識が働いて良いのではないかなと思う。

以上、スライドにもまとめてSpeakerDeckに置いたので、勝手が良ければ、こちらでご確認ください。

学習効果が高いフィードバックの仕方(ルース・バトラーの実験)┃SpeakerDeck

*ジェフ・ペティ「科学的エビデンスに基づく最適の教え方実践ガイドブック」(東京書籍)P275-276より

2025-04-26

「普通の人」の見方に、凡庸と非凡が出る

昨日は「来し方行く末」という映画を観た。大学院を出て脚本家を志す青年が、生計を立てるため北京で弔辞の代筆業をしている、とても丁寧に。

静かな映画だった。だからこそ観る側の想像力を駆動させる。セリフが生きて届き、監督から観客へと意味の受け渡しが、うまく運ぶ。

作り手が余白を残して送り出してくれるからこそ、受け手は手づかみして内に取り込み、己に編みこんで育てられる。余白をもって送り出し、その余白が自分の予知する範囲をこえて、受け手側で開拓されることを信じる。そのための最善を尽くして作りこんだら、潔く手放す。これが、作り手や送り手の心得だ。

人の弱さと、善良さは、よく混用される。

こんな短いセリフでも、私たち観客は自分のうちに編みこんで、さまざまに思い馳せることができる。

脚本家は、第一幕で問題を仕かけ、第二幕で展開させ、第三幕で美しいラストを描こうとする。でも多くの人の人生に、第三幕はない。第二幕で閉じる。

そんなふうに「普通の人」の人生をあらわす。その尊さに光を当てた映画。

私は、普通を尊ぶ。「普通の人」を一束でくくる見方を雑だと思う。普通と凡庸は、ちがう。普通を凡庸とみるのは、そう観る人が、いわば凡庸な見方なのだ。

普通の中に、それぞれの個性を観る人間の力こそ尊い。鍛錬したいとも思う。その鍛錬は生涯きっと終わらないだろうとも思う。それは私にとって、とても創造的な活動だ。

予告をみて、この映画を観たいなぁと気にとめたのも、その辺に肌なじむ感があったからだろうなぁと思う。

なんだか、転機にある人のお話をじっくり対面で伺う機会が、重なってあったなと振り返る4月。人と過ごす静閑で豊かな時間。旅にも出た(写真は厳島の満ち引き)。風のようになった。

2025-04-05

300人の若者の表情をみられる単発講師案件

演者としての自分の心許なさを抱えて、うーむと唸りながら準備して臨んだ本番2日間を終え、一息した週末である。天気も快く、すがすがしい。春が来た。

昨年度に引き受けた大学1年生向けの90分単発授業が、なかなか良かったというので、今年度も行うことになった。一年前より実施日程が早まり、4月2日、3日に授業を行うことになったので、もう本当に入学したてだ。ちょっと前まで、高校生だった人が大半だろう。少し前に東京に引っ越してきた人もあるだろうし、国をまたいで今ここにいる人もいるだろう。人生これからだ。

昨年度から、中身もゴールも大きく変更は加えない前提だったものの、そういうときこそ落とし穴にはまりやすいもの。なので、今回も一から準備するスタンスで、けっこう前から前年度の内容を見直し、今回対面する大学一年生に、自分としてどう向き合うか、何を伝えたいかと思案していた。

自分が話したことは、それはそれとして。300人の若者の表情が見られる体験というのは、とてもいい。しかも、自分がこさえてきた授業の反応をもらえるのだ。

どの話を聴いたときに、表情をどう動かすのか。何を話しているときに、私と目線を合わせて「ふむ」と頷くのか。これについてどう思うかと問いかけたときのリアクション。考えてみてと投げたお題を、一人で考えてみているときのアウトプット、数人で話し合いながら検討を重ねていく中でのワークシートの煮詰まり具合。各々のアウトプットから、交わす発言から、頭の中の躍動が(私の妄想こみで)汲み取っていける。

あぁ、ここが壁になっているのだな、ここの突破が難しそうだ、こういうことを考えているのだけど、うまく言葉に表せなくてもどかしそうだ、そういうことが、いくらでも想像を広げて汲み取れる。これはもう、大変な経験である。

なにせ90分授業なので、一つのことに割ける時間は、ごく短い。それでも私的には、相手から勝手にキャッチしていくボールの手触りを、とても豊かに感じる。

私が「そういう怒りのエネルギーが、素晴らしい作品作りの燃料になることもあると思うんですよね」と話したとき、ものすごい目力をもって、私に目線を合わせてくれた学生がいた。

私は、話を続けた。

だけど、その手綱を自分で握れていないと、人の印象操作に簡単にのってしまうし、いちいち感情的に振り回されて、へとへとになってしまっては、自分の創作にも活かせない。私がここで共有したいのは、「そうかもしれないし、そうではないかもしれないと断定できない情報に対して」解釈を拙速に一つに決めこまないことです。

なんとなく、彼が頷いたように見えた。あぁ、この人は、これまでの人生の中ですでに、この言葉に思い致すような経験をもったのだろうかなと想いを寄せながら、話を続けた。

大学1年生の最初にあった90分授業のことなど、なかなか覚えているものではないだろうけれど、無意識的にも何か残るものが働いて、今後の人生を歩む下支えにポジティブに作用してくれたらいいなと思う。

それにしても、作、演出、出演、全部一人でやる先生業を生業にしている人への敬服の念は、年々募るばかり。本当にお疲れさまです。

2025-03-18

企業と労働者で認識がズレる「OJTの実施状況」

企業と労働者それぞれに「人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査」を行ったレポートが、私の中で話題。注目したトピックの一つが、企業と労働者で認識のズレが際立つ「OJTの実施状況」だった。

企業と労働者の「効果的なOJT実施」状況の認識差(クリック or タップすると拡大表示)

企業と労働者の「効果的なOJT実施」状況の認識差

企業のほうに「日常の業務のなかで、従業員に仕事を効果的に覚えてもらうための取り組み」を質問して、「何も行っていない」と回答したのは、たった2.9%。何かしらはやっている、というのが企業サイドの認識だ。

一方、労働者のほうに「仕事を効果的に覚えるために、いまの会社で仕事をするなかで経験したこと」を質問して、「特にない」と回答したのは28.0%にのぼる。3割近くの人たちが、会社に何かしてもらった覚えはないがなぁ、という認識。

ざっくり言って3%と30%、この開きは大きいなぁと思った。

この調査は、厚生労働省からの要請を受けて独立行政法人労働政策研究・研修機構が行ったもの。上の図は、同じ観点で、企業と労働者それぞれに調査した結果レポート(6ページ目、14ページ目)を取り出して並べたものだ。

これに興味をおぼえて、手元でがっちゃんこしてみたのが、下の棒グラフだ。

企業と労働者の認識別「具体的なOJTの取り組み」(クリック or タップすると拡大表示)

企業と労働者の認識別「具体的なOJTの取り組み」

具体的なOJTの取り組みとして、「企業が、やっていると認識している」ものは青色の棒で、「労働者個人が、会社のなかで経験したと認識している」ものは赤色の棒で引いて、上下に並べてグラフ化してみた。

1つ目でいえば、従業員には「とにかく実践させ、経験させる」ことをやっていると認識する企業が6割あるのに対して、「とにかく実践させてもらい、経験させられた」と認識している労働者は3割にとどまった。

2つ目は、「仕事のやり方を実際に見せている」と認識する企業は6割におよぶが、「仕事のやり方を実際に見せてもらった」と認識している労働者は3割程度にとどまるというわけだ。

グラフの右側に、企業と労働者の認識ギャップが大きい取り組みには星をつけてみた。上の2つは、極めて認識ギャップが大きいが、それ以外も一つずつ下ってみていくと、企業サイドはやっていると認識している施策が、労働者サイドではそう認識されていないんじゃないか疑惑が募るばかりの結果だ。

ちなみに、この調査、企業調査と労働者調査それぞれ別個に行っているようなので、労働者調査の回答者は、企業調査の回答企業に勤めているわけではない。

全国、業種さまざまで、従業員数5人以上の企業と、従業員数5人以上の企業に勤める個人(正社員&直接雇用の非正社員、男女、18〜65歳)に、それぞれ調査。調査実施時期はいずれも昨秋2024年10〜11月、公表日は今春2025年3月13日。詳しくは下のリンク先で。

人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査┃独立行政法人労働政策研究・研修機構

こういうのを眺めていると、「企業、経営陣、人事部門、上司は、やっていると認識している施策」が、「従業員、現場、部下からは、やっていると認識されていない施策」というのは、これに限らず各所でいろいろあるんだろうなぁと妄想が広がってしまう。

おたがい「相手方も、当方と同じ認識であろう」と思い込んでしまって、あえて問いただす機会もないまま、認識ずれが顕在化せずに放置され続けて早幾年か。こういうのを解消する突破口は、なんとかフレームワークとか作ったり使ったりしている場合じゃなくて、「ねぇねぇ、ところでさぁ、ちょっと聞いてみたいんだけどもさぁ」みたいな一言だったりするのかもしれないなぁとか。職場の「ねぇねぇ」は、けっこう大事だ。

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