2026-08-04

「デザイン業」倒産急増の報にふれて

今朝、「デザイン業」倒産が14年ぶり高水準という東京商工リサーチ調べの報にふれた。

ここ半年で40件あったという倒産の要因3つをざっくりまとめると、

1)顧客がデザインを内製化して、受注不振
2)広告市場のデジタルシフトで、紙媒体メインだった企業が受注不振
3)ハウスメーカー(木造建築工事)の倒産急増で、インテリアデザインの企業が連鎖倒産

ここ数年、同じ理由で買収の話も見聞きした。企業買収が行われると、人事制度の見直し、人材開発や組織開発方面も動きが必要になる。

この局面をデザイナー個人のキャリア観点で考えると、王道にして大事なスタンスは「〜デザイナー」や「CDO」といった肩書き、「デザイン会社所属」という見られ方や呼ばれ方にこだわらないことだろうなと、いよいよ思う。

デザインを心底生業としたい人は、自分がデザインをしているかどうかは自分の内心でわかるはず。人からの呼ばれ方がどう変わろうと、マーケットでの職種名・役職名をどうポジションチェンジしようと、自分がデザイン活動を通じて事業に貢献できているかどうかに照準を合わせられれば、デザインそのものの社会的ニーズは増えることはあっても減ることはないと思うので、仕事そのものの価値が損なわれることはないだろう。

ただ、こうした矜持の持ちようというのは意外と自己制御が難しくて、ちょっと持ちどころが違うと、ひどく心を揺さぶられる。一度ここらで真剣に内省して、意識的に自分の手のひらをグーパーグーパーして力みを抜いておくと良いかもしれない。

あと、自分がデザインの何にこだわるのか、場合によっては職業生活からはずれた創作活動も想定されるのかも、ここらで思考実験して確認・掌握しておくと、浮き沈む労働市場変化に柔軟に適応しやすいかもしれない。

キャリアデザインには変幻自在性が求められると言われて久しいが、私はデザイナーこそ、それをやってのける必要にも迫られれば、それをやってのけるだけの柔軟性の高さをもつ気がするのだ。

自分がこだわるデザイン対象があるのか(デジタルプロダクト、紙媒体、顧客コミュニケーション...)、曖昧なものを有形化する過程が面白いのか、自分のデザイン脳を働かせることで◯◯の役に立つことならなんでもやりたいのか。木材で、粘土で、漆でもの作りする素材×人生にこだわりたいのか。

デザイン×キャリア道は、人の数だけ、いろいろある。一人の生涯でも軸は変化する。などと朝っぱらから、この報を機にして遠くまで歩いてきてしまった。

2026-08-03

「事例解説」は、どんな意味をもつか?

大谷くんが高校生だったときに書いたというマンダラチャートを、最近じっくり見てみてびっくりたまげた。ロサンゼルス・ドジャースで活躍する大谷翔平選手のそれだ。これが話題になったのは、もうだいぶ前のことだが、そのときは実際に何を書きこんだかまで観ていなかったのだ。

そのすごさは、高校生にしてマンダラチャートを使っていたことでも、書き上げたことでもない。書いたことの全部を成し遂げたかどうかも私は知らない。

私が度肝を抜かれたのは、「運」を引き寄せるために自分は何をしたらいいか考えて、大谷くんが展開した8つの連想ワードである。これをみると、マンダラチャートを使いこなして目標に近づけるだけの中身を、能力的にも人格的にも当時の大谷くんがすでに築き上げていたことに、あっぱれ!と思うほかないのだった。

ちなみにマンダラチャート(マンダラートとも)とは、9×9の合計81マスを使って目標やアイデアを整理する思考フレームワーク。中心にメインの目標を置いて(黄色い背景のところ)、周囲の8マスに連想されるワードを書き込む(グレイの背景のところ)。さらにそれを周縁に展開し、8要素から連想されるワードを書き込んでいくことで行動計画に具体化していく。アイデアの品質を担保してくれるわけじゃないので、発想を広げるためのツールと言えるだろう。

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高校生の大谷くんは、メインの目標に「プロ野球8球団から、ドラフト1位指名されること」を置いた。そのために必要な要素として彼が書き込んだ8マスには「体づくり、コントロール、キレ、メンタル、スピード160km/h、人間性、運、変化球」とある。

その8項目を、周縁の9マスの中心(グレイ背景のところ)に転記して、それぞれをものにするために何をするか、8つの連想ワードをアイデア出ししていく。

そこまでブレイクダウンした大谷くんのマンダラチャートが下図だが、「運」のところだけ隠してみた。さて、大谷くんが「運を味方につけるには?」と考えて挙げた8つとは何か。と、これをクイズにするのも一つだが、大谷くんの答えを当てるより、自分だったら何を書き込むか?について考えるほうが筋がいい。どう筋がいいかは、この後で。

大谷選手が高校時代に作ったマンダラチャート(クリックすると拡大表示する)

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そして、「自分の答え」と「大谷くんの答え」を見比べてみるのである。どうだろう。

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私は、まず1つ目の答えにびっくりした。運を味方につけるには「あいさつ」と発想する、その能力と人格とが、10代にしてすでに形成されていることに拍手喝采だ。

1にあいさつ、2にゴミ拾い、3に部屋そうじ、4に道具を大切に使う、5に審判さんへの態度、6にプラス思考、7に応援される人間になる、8に本を読む。「神頼み」なんて方向には発想しないんである。

「自分が向かう発想を、どこに方向づけるか」にこそ、大谷くん事例からの学びどころがあると思った。

ここで、話の方向も急展開する。セミナーやら講座やらで設けられる「事例解説」というのは、こうして一工夫「問いかけ」をもちこんで受講者に提示するだけで、学習効果に好影響を及ぼす。

単に「これはマンダラチャートを活用した事例です」と紹介して終わらせるのではなく、教える側がその目利き力をもって、ここだと思うところを一部隠してクイズ形式だててみるのだ。

そうすると、受講者本人に「自分の答え」を考えてもらうことができ、その後に「良い事例」を紹介することで、おのずと受講者は「自分の答え」と「模範的な好事例」とを対比でき、自分とそれとのクオリティギャップをつかむ機会を得る。自分に何が足りないかを具体的につかんだり、どういう見方・使い方を獲得すれば新たに学んだ概念やノウハウを自分のものにして活かせるか、学習上の克服課題を方向づける収穫を得られたりする。

ここの学習プロセスは、一対多の一方的な講義形式では成し得ない。できることは、個別に「自分の課題」をつかんでもらう機会作りである。いかに構成・演出上で、その個別の学習機会を組み込むかが問題だ。

「事例解説」っていうのは、いろんな実務エキスパートが後進育成にあたって講師を務める際に、オーソドックスに組み込まれているが、なんとなく「そういうもんでしょ?」的に概論講義の後に組み込まれているばかりで、うまく使われていないなってもどかしく思うことが少なくない。ちょっとした工夫で、もっと効果的に使えるのになぁと。

教える側として「事例解説」を、先に講義した概念知識の具体イメージをもってもらうための「理解促進」だとか、「興味喚起」や「記憶定着」を意識して組み込んでいる方は少なくないと思うが、もう一声!もう一工夫!と思う。

受講者に考えてもらうだけの時間的余裕はない場合も、事前の仕込み時間が教える側で確保できるなら、「教えたことをうまく活用できている事例」と「ダメな事例」を両方とも自分で用意しておいてセットで提示してあげると、ぐっと伝わり方の濃さが増す。

大谷くんの例でいえば、ほんのちょっと「神頼み的なのが一個もないですね」とか「部屋の角に何色の物をおくとか、財布の中に何それを入れるとかもないですね」とかを一言はさむだけで、「好事例」と「ダメな事例」の境界を、受講者の脳内に立ち上がらせることができる。ダメに使うとはどういうことで、ダメに使うとどう滑稽で意味がないのかを印象づけたり、わかってもらる補助として「事例解説」が働いてくれる。

ユーモラスでセンスいい「ダメな例」を用意するのは手間がかかるが、それはそれで創意工夫の面白さがあるし、講座時間はさほど圧迫しないで済む。こういうのを織り交ぜて、学ぶ側本人の頭を動かす仕掛けを組みこんでうまく「事例解説」を使うことで、学習効果を上げることを狙いたい。セミナーや講座の中の「事例解説」には、まだまだ伸びしろがあるのだ。

2026-07-12

活かすか捨てるかは若者が判断すればいい論

自分と同世代か、その周辺の、年齢にして40〜60代くらいの人たちが、「自分たちのやり方は今の時代にそぐわないだろうから、若い人は若い人たちのやり方でやったらいい」というのに、「ちょっと待った!」と思うことがある。

実際そうすべき現場やシチュエーションというのも、世の中には多分にあるのだろう。現場現場で個別具体の事情が異なるから、長いこと不特定を相手にもの言う気にはならなかったのだが、ここでぼそっと書きながら自分の脳内にうごめく考えを整理してみたい。

私は「その取捨選択って、年輩の自分たちが判断することじゃなくない?」って胸がざわつくことが、ままあるのだ。

次の時代・次の世代に「それまでのやり方、考え方」が使えるのか使えないのか。ちょっと応用することで使いものになるから基礎としては知っておきたい、身につけておきたいことなのか、そういうものじゃないのか。断じて使いものにはならないが、それを下手に使わないためにも年輩者からじっくり教わっておくのが得策か、話半分で切り上げたいか。そうしたことは、受け取る側の若者が判断することであって、受け渡す側の年輩者が判断つくことじゃなくないか?と。

それを、何を勝手に、自分にその判断ができると思い込んで、あれもこれも渡す前から「若い人には使えないもの」と決めこんで、「教えない、伝えない、授けない」に、謙虚な風情で断定しているのだ?と。

アナログな作り方。基礎から作る工程や要諦。一定のストレスを自分にかけて突破していく面白さ。見知らぬ人と仕事を通じて出会い、少しずつ信頼関係を結んでいって志しが通じ合い、活動を励まし合って多様な世代と親しんでいく楽しさ。自分ひとりではできなかったり思いもよらなかったことを、勤め先や業界の後ろ盾をもって自分が社会的役割を果たしていくやりがい。

そうだな、こう書いていると私は「自分が経験的に嫌だった、不毛だと思ってきた」慣習などを、年輩者が自分のところで断ち切っている様をみても、別に「ちょっと待った!」とは思わない。

どういうときに「ちょっと待った!」と思うのか自己洞察してみると、自分では経験的に「楽しかった、面白かった、充実感をおぼえて今も自分はそのやり方、生き方を大事にしている」ということを、若者に教えない、伝えない、「いやいや、今の若い世代は違うんでしょう?」と勝手に決めつけて「私らおばさんおじさんは、とち狂っちゃってるけどさ。気にしないで若い衆は若い衆で自分たちの楽しいこと自由にやんなさい。押しつけたりしないから」みたいなことを見聞きする場面だ。

そんなに世代で全部を言い切れるもんじゃなかろう?人間という生き物は、ひと世代でそんなにがらっと一斉に、興味関心を総入れ替えして、画一的に性質を変えるものだと思うのか?と。

それを、さも自分が寛容で賢明で、新しい時代精神をわきまえている人間のようなふるまいをしているのに「ちょっと待った!」って思っちゃうのだ。

自分は上の先輩たちから、上の先輩たちはさらに上の先人たちから、たくさんのものを教わり、たくさんの人や新しい機会との出会いを授けられてきたのに、なぜその伝承・継承のあれもこれも思慮浅く、自分のところで断絶していいと思っちゃうのか。その判断の根拠は、どれほど確かなものなのかと。

とりあえずは押し付けでなく若者に伝えてみて、それをどうするかは若者に判断を任せたらよかろう。そうしたものが、今伝えることを差し控えている年輩者の「楽しい」「面白い」「有意義」な経験の中に、まだたくさんあるのではないか。

いらなかったら若手が捨てる。いるなら若手が活かす。今流に改良を加え、自己流にアレンジして活かすものもあろう。なぜ、そのリソースの提供を出し惜しむのだ。押し付けでなく、いったん教えてみたら、伝えてみたら、披露してみてもばちはあたらないんじゃないかと。

勝手な決め込みをはたらく腹のうちを探っていったとき、実は「教えたくない、自分の仕事や役割、ポジションをとられたくない」という保身のためであったり、「教えるのが面倒くさい、面倒くさい人と思われたくない、自分のことだけこのままやっていたい」という怠惰のためという自分都合ってことはないかと。

もしそうだとすると、これは一度じっくり考えてみたほうがいい案件だ。自分は分をわきまえた賢明で寛容な人間だから、老害をはたらかず若手を自由にしてやっているのだと思い込んでいる場合、そのまま行った先で自分自身のキャリアが急に断絶してしまうリスクもある。

率先して引き継ぐ、教える、伝授する、そうして徐々に自分の役割や立ち位置をずらしていく。空いた時間で他をやってみる体勢にシフトしていくほうが、実はキャリア選択の柔軟性が帯びていって、仕事を長く続けやすくなったりするかもしれない。逆に、出し惜しんで自分の仕事を自分の手のうちに囲っていると、その仕事は組織の中で価値を停滞・後退させていって、気づいた時にはどうとも選択肢を失っているかもしれない。

実際には、丁寧に年輩者から若手に教えている現場というのがいくらでもあるのだろうし、へんな言説がメディアにのって悪目立ちしているだけだとも思うのだけども。

自分の脳内をこうして探ってみるに、自分が面白いと思って生きてきたことは、若者にも出し惜しみせず、まずは教えたれよ、共有してみようよってことかな。自分は先輩たちにたくさん教えてもらって、今ここにいるのだから。

2026-07-11

能力要件を整理・言語化して一覧化する云々

人事院が「国家公務員に求められる能力を整理・言語化、スキル一覧を作成して各府庁に提供した」というリリース。職業柄こういうものはわりと好物で、よく噛んで味わう。

省庁や業務を超えて共通性が高いと考えられるスキルを特定し、57の能力要素を言語化したラベルを作成したという。

説明資料まで目を通してみると、「ヘルスリテラシー」っていうのが私的には新用語だった。巷でそこそこ使われている言葉なのだろうか、それともこの話し合いの過程でオリジナルに作り出したワードなのだろうか。あと「ナラティブ力」出た!と思った。

国家公務員スキル一覧(クリックすると拡大表示する)

Nationalcivilservantsskillslist

「分類」というのは、現実世界のカオスから、どこかの誰かが何かしらの秩序を持ちこんで体系だてる作為であるからして、それをした人らの思想やらポリシーやら美意識やらが反映され、目的やら戦略やら戦術能力やらが顕現する。ときに中の人の無意識のまま、死角やテキトーさが剥き出しとなって露呈していることもある。

非公開の内部資料までつなげてみれば見え方も変わるものだから、外野からの見立てはあくまで妄想と憶測にすぎないわけだが、健全に言い換えれば「検証なき仮説」とでも言おうか。私は、いわば日常のトレーニング教材として、自分の関心ある分野の「分類」というのを外部資料でも、するめのように味わう。

それでいうと、これは、なんというか、別にこれといった出汁の出ていない感じが、味わい深かった。

「国家公務員の〜」をはずして、一般的なスキル一覧として市販書にサンプル掲載されていてもおかしくない感じというのか。地方公務員とどう違うのか、民間企業とどう違うのか立ち上がってこないところに個別具体性の低さを覚え。この後これを足場にして自ずと何が導けて、どう使えるつもりなのか見えてこないところに有用性の低さを覚え。

もちろん、こう見えている私の目が節穴であることを、こう書いていることによって自分で露呈している可能性だって十分ありうるわけだが。

良くも悪くも、この手のものは「作成者の自己満」成果物に陥りやすいので、眉間に皺を寄せながら見る癖がついてしまっている。

分類というのは、どうも人を「漏れなくダブりなく作れたら達成」という気分にさせて、当初目指していた「役に立ってなんぼ」という志しを煙に巻く作用があるんじゃ?と私は疑ってかかっている。

今後は同一覧を人事院が実施する各種研修の充実、主体的な学びの支援などに活用していく。

とあるが、最悪な展開は、個別具体の文脈こそものをいう「ナラティブ力」みたいなのを、これだけ切り出して超脱文脈化した「ナラティブ研修」とかやって満足しちゃう顛末だ。そういうのは、全業種対応、誰でもござれの薄利多売系「ロジカルシンキング研修」で、なんともならなかった事例を彷彿とさせる。

「漏れなくダブりなく」だけ頑張ったキレイな体系図は、受け取る側からすると「ほんで?」「だから?』「So what?」ってなるんだけれど、渡す側があんまり生き生きとした表情で持ってくると、鼻をへし折る気になれず「あぁ、どうも」と受け取って、さらっと置きっぱなしになる。そういうやりとりで終わってしまうと、一向に問題は露呈せず、組織の人材開発も前進しない。声をかけあっていきたいものだ。

とか、いろいろ思っちゃうけれども、こういうのを開示してくれるのはありがたいことだ。感謝して、頭を肥やしていこう。

2026-07-05

いまだにメールを全部手打ちしている

私はメールを、いまだに全部手打ちしている。「お疲れさまです」と書いているときは、お疲れさまだなぁと思いながら打っている。「お世話になっております」と書いているときには、お世話になっているなぁと思いながら打っている。

みんな忘れているかもしれないが、本来「お疲れさまです」とは、「お疲れさまだなぁ」と思って贈る言葉である。「お世話になっております」とは、「この人にはお世話になっているなぁ」と思いながら、贈る言葉である。

私も別に立派な人間ではない。「思うが先か、書くが先か」と詰問されれば、私はしどろもどろになって「書くほうが、先行しているかもしれない」と応じる。しかし、手打ちしていると、むくむく言葉が自分の心を立ち上げてくる。

定型句を書きながら、その人への思いが改めて確認され、深まっていく。そのうち、その人から離れたところまで自分の考えるフィールドが広がっていって、いろいろな思考なり感情なりが私の中で膨らんでいく。

その人への感謝の念が篤くなる、健康や快復を願う、あの後どうなったかなと慮る。きっとうまく行きますように、と祈って応援する。

そうだ、あの件を教えてあげよう。あのことを話そうと思っていたんだった、この人はこれについてどう思うだろう。そんなふうに、あれこれの話題を思いついたりもする。そうしたことは、今度会ったときに話そうというので、手元のカレンダーアプリや次回のアジェンダメモに書きつけておくことも多い。

そんなことをしているうち、自分の関心と、最近読んだ本の一節が頭の中でリンクしたりして、本を手にとり直したり、その時のノートを開き直したり、仕事のファイルを確認したりと、別の頭が働きだす。今やっているこの仕事と、こう重なるんだよなぁ、今度時間に余裕があったらシェアしてみようなどとも思いつく。

そんなふうにして型通りの挨拶や定型句は、それを起点に様々な定型外へ展開していく。ときに道くさし、ときに羽をつけて飛んでいき、ときに本筋に深く深く潜っていく。そうやって方々へ編みこまれていくのを、私は人の日常の営みとしてとても大事に思っている。人にメッセージを書く過程というのは、その相手がいなければ得られなかった、私固有の尊い人生時間である。

ここ数年、仕事はメール以外にメッセンジャー、案件によってSlackを使うが、仕事ど真ん中を離れると、季節の挨拶や感謝の気持ちを届けるのに、封書とハガキが加わった。

封書やハガキで手書きをしていると、しみじみ一言を選ぶ意味というのを感じられる。何を書いて、何は書かないか。どういう言葉で伝えるか。便箋も選ぶし、封筒も選ぶ。ペンも悩む。文字の書き方もあらたまる。一つひとつ真剣にのぞむ必要に迫られる。

これが、人が人にメッセージを送る行為の原点、基本的な価値なんだろうと体感する。

一番おおもとにはきっと、送り先の相手が立ち上がって、送り先の相手に届けたい自分のメッセージがあって。これが自分を駆動させて、そこに、どうしたら相手に真意が伝わるだろうかと創意工夫が生まれてくる。相手に配慮する言葉や心遣いも生まれてくる。

効率化や付加価値追求もいいけれど、基本的な価値を見失ったり、浅はかに削り落とされたりした人の営みには、本来的な意味が残っていない。それならば確かに、メッセージを送ることそれ自体無駄に感じられて、いっそやめてしまえというのも理にかなっている。

しかしそもそも、何の意味を求めてそれを始めたのだったか。今それを根こそぎにして手放していいのか。その辺の思考回路のいまいちつかめない効率化や付加価値追求の活動にふれることも少なくない昨今なのだった。

どんなにシンプルでも、基本的価値に満ちた営みにこそ意味がある。私はそこに立脚して、自分の時間を大事に使いたいと思う。

お便りというのは、一回性に基本的な価値があるように思う。私の人生はお便りのおかげで、たいそう豊かになっている。とても感謝している。

2026-06-19

65歳以上の歩みの最新動向にふれる

最近目にとまった情報をスライド化した3枚。

1枚目)65〜69歳の就業率は、5割を上回っている

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ここ数年で「60歳定年」から「65歳定年」に塗り変わった感はあったけれども、そこ超えて60代後半の就業率も、すっかり5割を上回ってるんですねぇ。70代前半も36%。

2枚目)65歳以上の一人暮らしが増え、男性15.0%、女性22.1%

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約10年後には、65歳以上の一人暮らし世帯が1千万に迫る勢い。「65歳以上の一人暮らし世帯向けサービス」は、お客さん増えそう。そこのビジネスを狙う人には、薄利多売系で考案願いたい。

3枚目)頼れる人に「友人」「近所の人」を挙げる人は1割程度

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4カ国の65歳以上に調査したところ、「同居の家族以外に頼れる人」で「友人」「近所の人」と回答した割合が、日本は一番低かった。どちらもドイツは5割を超える。みんな、老後は助け合い、共助だ。50代のうちから共助していきたい。

眺めながらそんなことを思ったという3枚共有。


出典は、いずれも内閣府の資料(2026年6月12日)。

2026-06-15

「外発的動機づけより内発的動機づけが強い」わけでもない話

モチベーションは「外発的動機づけより内発的動機づけのほうが望ましい」という見方は、ふわっと巷になだれ込んでいる気がするので、「そうとも限りまへんで」という小話は、小耳に挟んでおいて損はないかも。ということでプチプチスライド共有。

1枚目)モチベーション(動機づけ)って、「内発的」と「外発的」に分けられて、「内発的動機づけのほうが強い」って印象あるかもしれないけれど。

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2枚目)最近は見方がアップデートされているみたい。「自律性の程度で4段階分け」してみるって話。活動が「それ自体目的」か「目的達成の手段」かに関わらず、本人が自律的にその活動に取り組んでいるかの程度で、モチベーションの高低差がつくんだと。

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3枚目)え、じゃあレベル3(同一化的調整)は、「自律性高く、活動に積極的」だけど「外発的動機づけ」に該当するってわけで、「外発的動機づけにも良し悪しある、一括りで甲乙つけられない」って話になる。

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もっと言えば、内発的動機づけに該当するレベル4(内的調整)の人は、その活動が自己目的化しているので、継続的な努力を予測できない。ある日興味が失せたら終わりだし、あさっての方向に向かって帰ってこないかもしれないコントロール利かなさが弱点。

対してレベル3(同一化的調整)のほうは、あくまで目的のための手段で活動しているので、明確な目標を設定して、適切な方略を使い、適宜モニタリングして、やり方を軌道修正するアプローチが期待できる。目的達成のための継続的な努力・達成予測がしやすい。

ということだと、レベル3最強説ともなって、外発的動機づけはいよいよバカにできない。

ある時知った「それっぽい概念ワード」で、状況を見立てて分類して、優劣の価値づけをして、そのものの見方が固定化しちゃうと、足元すくわれることがいくらでもあるご時世。皆で声かけあって、注意喚起と労りあいを大事にアップデートしていきたい。

*小塩真司「非認知能力の発達 生涯にわたる変化と影響」(北大路書房)を参考にスライド作成

2026-06-14

「働く時間」と「のんびりする時間」は対称的か?

電通報の調査レポート記事「人生100年時代の捉え方で、消費行動はどう変わる?」* では、冒頭で回答者を「人生100年時代とはつまり、」と前置いて、2つの回答者集団に分けている。

【A】働く時間が長くなると言うことだ
【B】のんびりする時間が長くなると言うことだ

Worktimeorrelaxationtime

これがたいそう手荒く恣意的に感じられて、先に進めなくなってしまった。一手目の足場組みで踏み外しちゃうと、その先への拒否反応がすごくて全然頭に入ってこなくなるものだなぁと思った。

どう調査対象者を分類して展開するか、いわば調査の屋台骨で、「働く時間」に対して「のんびり時間」を対置して二分されちゃうと、いやさぁ...となる。

堅真面目に区分するなら、「働く時間」の逆は「余暇時間」とでも表現しようか。その「余暇時間」をどう過ごすかは、必ずしも「のんびり」過ごすことには当たらない。というのは、3秒考えればわかることで、「えー、気づかなかったー」なんてことはなかろう。それをさも、2つで大別できるかのように、しれっと枠組みしているやり方に疑問符がとれない。

「どちらとも言えない」の選択肢もないから、「のんびり時間は違うなぁ」と思った人は消去法的に「どちらかというとAに近い」働く時間のほうへ傾くのではないか、だから4割強で最多になっているのじゃないか。

それを足場にして、その後の調査分析を展開されても、どうも腑に落ちない。

眉間に皺を寄せてみている私のほうが、偏狭にはまっている可能性も大いにあるわけだが、最近こんなふうに街場の言葉の採用の仕方につまずくことが多い。いよいよ、確かな言葉で綴る本が大好きに。いったん、落ち着こう。

* DENTSU DESIRE DESIGNが考える、「欲望理論」からのマーケティング再構築 [35/37]「人生100年時代の捉え方で、消費行動はどう変わる?」┃電通報(2026/04/21)

2026-05-19

セリフの主の男女を入れ替えてみる思考実験

小説を読んでいて、ちょっとした思考実験を思いついた。主人公が、以前つきあっていた彼(川名君)と別れた理由を訊かれて答えるシーン。彼女のセリフは、読者によっては「痛恨の一撃!」とも読めようか。

「最初の頃、川名君は楽しそうに見えた。それは私が川名君の詳しい話題に関心を持って大人しく聞いていたから。でも、多くの男性と同じで、彼は目の前の女が興味を持っている話題については考えようとしなかった。どんなことで傷ついて、どんなことで幸せを感じるのかも。優秀な男の人ほど、そんなことは知らなくても自分が魅力的でありさえすれば愛されると思い込んでるみたい。だけど私が求めていたのは、たった一人の言葉が通じる相手だったから、川名君とは別れた。彼は多少傷ついたみたいだけど、本当は自分のほうが惚れられていると思っていたからプライドが傷ついただけだと私は思っている」

どうだろうか。私は正直この手の「男女の構図」解釈が苦手で、「これって性別関係なくない?人間そういうタイプの人は男にも女にもいるし、そうじゃないタイプの人も男にも女にもいないか?」という読み方をしてしまうタチだ。

それはそれで、やかましいタイプの一例という自覚はあるので、あまり大きな声では言わないが(その手のことを知り合いの女性に話して、ダメな男をみる眼差しを浴びた経験が少なからずある。しかし、それもまた「男」がダメなのではなく「ダメな」がダメなのであってだなと思う面倒くさいやつなのだ)。

しかしまぁ、自分の手元で思考実験するぶんには人を不穏な気持ちにさせることもない。ちょっと気になって、上のセリフを「男性が彼女と別れた理由」に入れ替えてみたら、どういう印象をもつものだろうかと試してみた。

「最初の頃、加奈子は楽しそうに見えた。それは僕が加奈子の詳しい話題に関心を持って話を聞いていたから。でも、多くの女性と同じで、彼女は目の前の男が興味を持っている話題については考えようとしなかった。どんなことで傷ついて、どんなことで幸せを感じるのかも。モテる女の人ほど、そんなことは知らなくても自分が魅力的でありさえすれば愛されると思い込んでるみたいだ。だけど僕が求めていたのは、たった一人の言葉が通じる相手だったから、加奈子とは別れた。彼女は多少傷ついたみたいだけど、本当は自分のほうが惚れられていると思っていたからプライドが傷ついただけだと僕は思っている」

どうだろう。私的にはイケる気がする。つまり、別に性別とか関係なくない?という気がするんだけれども。もともとそう思っている私が思うだけでは、何の検証にもならないよな、と思って、終わった。

私は人の話を聴くのがめっぽう好きだし、女性なのだが、自分のほうに下手に関心もたれて気持ちを読もうとされると気疲れするほうなので、「伝えたいことは伝えるから変に詮索しないでくれ、そのほうが気が楽だ」というタイプである。「一貫してそういう人間だ」と言えるほど足腰しっかりもしていないが(人間だもの)、それはそれで自分の責任として請け負う腹づもりでもある。

もちろんだが、以上のことは主人公のセリフに考え巡らしたことであって、別に作品や作家に文句を言っている話ではない。この小説の中にも後半、「こちらから一方的に与えておいて、返って来ないと失望してしまう」のは無しよねって話がある。

自ら、気にしなくていい、という態度を取っておいて、今になって創にお金のことを持ち出すなら、最初の段階でもっと慎重に相談してはっきりさせておくべきだったのだ。

とあって、まさに「それな!」なのであった。作家の懐の深さに身をゆだねさせてもらえる、すごくいい小説だった。

上のネタは、いい感じに意見交換できる相手が身近にいらしたら、くれぐれもクローズドな空間で、話題にして読み比べてみて意見交換のネタにでも使ってみていただければと思うが、「ご利用は慎重に」である。一枚画像も置いておく。右のが元の文章で、左が私が男女入れ替えた版。

セリフの主を男女入れ替えても成立するか思考実験

セリフの主を男女入れ替えてみても成立するか

* 島本理生「ノスタルジア」(河出書房新社)

2026-05-17

村山由佳「DANGER」を読んで

村山由佳さんの「DANGER(デインジャー)」を読んだ。村山さんのお父上は、終戦後も4年間シベリアに抑留された。その抑留生活のことを、80歳を過ぎてから自叙伝に書き記した。その手記が、この小説の土台になっている*という。

主人公の一平(いっぺい)は25歳で、週刊誌の記者。同じ出版社で働く果耶(かや)先輩は27歳。今回ふたりがタッグを組んで取材する世界的バレエ振付家の久我(くが)氏は72歳。

そして読者の私は50歳、ちょうど真ん中に位置する。といっても、このお話は「今現在1992年」という設定なので、実年齢的には私のほうが主人公より1世代下にあたるが。

なんでそんなことを思ったかというと、読みながら久我氏の「伝える側」の気持ち、一平の「教わる側」の気持ち、どちらにも多分に共鳴するところがあったからだ。

50歳というのは、世代違いの後輩に「伝える側」にも立つし、世代違いの先輩に「教わる側」にも立ち続けている年代。あらためて、そういう自分の現在位置をみとめる読書体験だった。

20代より30代、30代より40代と歳を重ねるほど、伝える相手・教わる相手どちら方面も、年齢射程が広がっていくように思われる。直接対面して関わる相手もそうだし、本の著者など間接的に関わる相手も含めて。

それは別に、私の活動領域が広がったり活発になってという話ではなく、じわじわ自分のキャパシティや関心領域が広がりを帯びていった結果、微細な自然現象のように体感される。

興味をもって手に取る本も、若い頃に比べれば(あくまで過去自分比だが)多分野に広がっているし、百年前の歴史、数百万年前の人類史に興味を持ちだしたのも歳をとってからだ。

主人公の一平がいう「日中戦争から太平洋戦争へと至る道筋で起こった出来事、すなわち満州事変、盧溝橋事件、南京大虐殺、ノモンハン事件などなどについて、一応知っている」にも及ばない知識で読みだした私だが、読みながら一平に追いつき(整理したり調べたりして)、一平と同様「別もの」に思えるまでの機会を授かった。

<久我一臣少年>という具体的な存在をそれらの中心に据えたうえで眺める戦争は、これまで知っているつもりになっていたそれとはまったく別ものに思えた

西暦何年に何があって、その事件の経緯はこうで、それがどう展開したのかといった歴史的事実と別に、そこに生きて暮らしていた一人ひとりがいて、その生身の声に耳を傾けることで初めて想像がおよぶこと、汲み取れること、引き継げることがある。

僕がこれまで漠然と<過去の歴史>だと思いこんできたことの多くはもしかして、同じ今を生きる誰かにとっての<ついこの間の出来事>なんじゃないか。

小説は「過去の歴史」を「ついこの間の出来事」に置き換えてくれる力を与えてくれる。我が意を得たりだった。

僕は、腹に力を入れて見つめ返した。いま怖じ気づいてこの川を渡る覚悟をしなかったら、おそらく久我氏は僕らのことを諦めてしまって、そのぶん、ものすごく手加減して付き合おうとするようになるんじゃないだろうか。僕らの想像力が、彼の人生にどれだけ追いつけるものかはわからない。彼の言うように<想像しろというほうが無茶>なのかもしれないけれども、試してもみないうちから、話してもどうせ無駄だと思われるのだけは嫌だ。

そう言って、一平は「すみません。本来、こんな乱暴な訊き方をしていいような話じゃないってことはよくわかってるんです。ただ…」と喰らいつく。

私たち50歳には、まだ多くの先輩がいてくれる。けれど、怖じ気づいたり、あきらめてしまったり、面倒くさがったりしてしまえば、ここでバトンの引き継ぎは途絶えてしまう。

喰らいつく、ということを、自分は「教わる側」としてどれくらいできているだろうかと省みる。自分なりの度胸と関心と力量でも、まだまだできることはあるな、と思う。

インタビューに応じる久我氏の「伝える側」の胸のうちに、励まされる。

自分ひとりだったら思い出したくないことでも、真剣に聴いてくれる相手が目の前にいるのであれば、一度はちゃんと言い遺しておこうかという気にもなる

「伝える側」に回ってみれば、相手に喰らいつかれることで奮い起こされる勇気、引き出される伝承行為というのも、あると思う。

伝承に値するようなものこそ「伝える側」に立てば、そんなに簡単に口を開く腹が決まらないことだったり、言葉にするのが困難だったりする。思いつきでしゃべっては、伝えたいことの真髄がうまく伝えられないのではないか、そういう恐れも湧いてきて一筋縄でいかない。

教わる側、伝える側が、ある種結託するようにして力を出し合って、刺激しあって、お互いへの期待を持ち寄ったり、相対しながら信頼関係を育てていかないと、なかなかうまく運ばない伝承について思い耽る。

作品を読み終えてしばらくしてから、村山由佳さんのインタビュー記事*を読んだ。

戦争の話を聞いて育ち、作家になり、若い読者もいる。ちょうど間に立つ自分が、戦争のことを書かないでいるのは「怠慢だ」という思いをずっと抱いている。「まるでその場にいるかのように物語に入り込む小説だからこそ、手渡せることってある気がするんです。小説の力を信じていきたい」

「ちょうど間に立つ自分が」と読んだ時、あっと思った。この小説を読みながら、「ちょうど真ん中に位置する」と思った自分とリンクした。彼女が手渡そうとしたものを、手を差し出して、今の自分なりに受け取れた気がした。

*村山由佳さん「DANGER」 父のシベリア抑留経験が土台に「小説の力を信じ」戦争を書く┃好書好日

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