2020-01-16

似て非なる「スペシャリスト」と「プロフェッショナル」

「特定分野に専門性をもって働く人」という意味で共通イメージはあると思うのだけど、専門化の向かう先に実は大きな違いがある「スペシャリスト」と「プロフェッショナル」という話。

専門性を活かして働きたいという場合、スペシャリストの方では、この先なかなかつぶしがきかないのではないかと思い、2つの違いについてしたためてみることにした。

ちなみに、この分類はV.A.Thompson氏による「専門化の類型」らしい。私個人的には、この2つの方向性を見分ける分別さえつけば、その呼び名にさしたるこだわりはないので、「自分はここでいうプロフェッショナルの意味をもって、スペシャリストという言葉を使ってきたし、これからも使い続けていく!」という人は、それはそれで、そういうことで、斧をおいて穏やかな気持ちでおつきあいください。

大久保幸夫氏の著書(*1)によれば、スペシャリストとプロフェッショナルは混同されやすいけれども別物とのこと。頭の整理がてら起こしてみたのが、次のスライド(箇条書き以下、私の考えも混入している)。

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スペシャリストは、領域があらかじめ定義された仕事の一部を担当し、一定水準に達すると、その先の成長はスピードや正確さに限定される、一つの業務に精通する道。

対してプロフェッショナルというのは、専門性が高まるにつれ、自分で概念的な定義を加えながら自分の仕事や役割も上書きし、広がりや深みをつくりだして成長していく、終わりなき道。

と対比して2つ並べてみると、左方向のスペシャリスト的な専門化に向かうと、たいそう危ういなぁというふうに感じられる。

「一定水準の専門性をもって、一人前と呼ばれるようになりました。その後も、そのスピードや正確さを絶えず磨き上げてスキルアップしています」というだけの専門性では、その領域がなくなるや息の根が止まってしまう。

エリア固定というのが危ういのだ。地名がつくような領域は早晩、若者に取って代わられてしまうなり、自動化されて人間の仕事から取り上げられてしまう恐れがある。

地名がつくエリア=名前がつく職業ということは、それなりの労働市場があり、そこに今のところそれなりの人件費が割かれており、そこを無人化できたらコスト効率がいいなとか、その無人化を一極集中で預かるサービス作ったら一儲けできるなとか、誰かが思いついて実現しようと企むエリアだ。

その領域をカポッと、どこかのグローバルカンパニーに持っていかれたら、そこの労働市場は一気に沈没する。

そういう話じゃなくても、こういう変化の激しい時代には、今まで無法地帯だった領域に法整備が入って、今の仕事が数年以内に違法行為になるみたいなことも想定されるし、違法ならずともモラル違反になって実質まともな仕事でなくなることもある。人の価値観は変化するし、社会の常識も塗り替えられていくから、そういう意味でも、いつまでも市場ニーズが安定している仕事領域はない。

狭い専門領域に安住して、引っ越しを想定外にしていると、そこが消失したときに、にっちもさっちもいかなくなる。

ガラケーやFlashコンテンツの顛末、ネット広告の趨勢に思いを馳せつつ、思う。自分の役割・仕事領域を「私の専門はこれだ!」と絞り込んで固定してしまうのはリスキーである。

市場変化に応じて活動領域そのものを拡張したり軸足を移したりして、自分の役割・職域・職能を上書きし続ける人。エリア固定せず、上でいうプロフェッショナル方向に専門化の道を進む構えでないと、専門性を活かしたキャリア道は厳しそうである。

能力を階層的・複合的に構えて、表層が取られても足元は堅い、この範囲は奪われても隣りのエリアに活動拠点を移せるという職能を構築していくキャリアデザインが大事というか。

それはもう、勤め先に依存的ではなかなか難しくて、現実的には個人が生存戦略としてやらざるを得ないというか。そういうところを意識してクリエイティブ職のキャリア開発をサポートしていくのが自分の仕事なんだという心持ち。

*1: 大久保幸夫「キャリアデザイン入門[II]専門力編<第2版>」(日経文庫)

2020-01-13

さようなら、自己実現。自己はそこにない

仕事始めの1月6日、会社の勤怠管理システムから「リフレッシュ休暇が付与されました」という通知メールが届いた。私の勤め先は、勤続5年ごとに5日間のリフレッシュ休暇が付与される。

私はこれが3回目、つまり丸15年この会社に在籍していることになる。ということに、このメールで気づかされて、そっちのほうにびっくりした。この1月から勤続16年目に突入である。

20代に4回転職して、今の会社は5社目。ここに転職してきたときは、まだ20代後半だった。そこから30代まるまる、40代の今もって在籍中、たいそう長いことお世話になっている。

昨年10月に部署異動して、久々に自社の中核事業に仕えるようになったし、これまでとは意識を変えて…会社の事業展開にも寄与するかたちで社会貢献を自分なりにやっていけたらと思う新年。当たり前すぎるけど。

秋の異動では、2つの大きな転換があった。一つは、主な支援対象がクライアントではなく社内に向いたこと、自社やグループ会社の従業員、派遣スタッフになったこと。もう一つが、能力開発だけでなくキャリア開発の支援に、注力分野を広げて活動しだしたこと。これまでもゼロではなかったけれど、明らかに能力開発の方面に時間を割いていた。

というわけで秋口からは、キャリア関連の文献に目を通すことも増えたのだけど、年始に再読して目に止まったのが「自己実現」という考え方に関する言及(*1)。

「自己実現」って言葉は、「なぜ働くのか?」の選択肢に「自己実現のため」とあったりして、キャリアを語るときによく出てくる言葉だけれども、これは20世紀的で、とりわけ変化の激しい21世紀は「自己構築」にコンセプトを置き換えたほうがいいのではないかという話。

自己実現という考え方には、中核となる自己はすでに個人の中に存在するものであるという前提がある。しかし、21世紀においては(略)、基礎となる自己とは前もって存在するのではなく、自己を構築することが生涯のプロジェクトであるという考えへの置き換え

が必要ではないか、というメッセージ。

なんとなくよそから持ってきた言葉を借りて、自己実現のために仕事しているなんて軽々しく使ってしまいがちだけど、「自分は(努力もなしに)何かをあらかじめ持っている」感に懐疑心を向けてみるのは、なかなか健全な眼差しだなと思った。

私は、自己実現のために仕事するって思った記憶がなく、たぶんそういう志向性ではないのだけど…。ただ、近くに書かれていた、この一節には共鳴するところがあるし、いい考え方だなぁって思った。

自己とは一つのストーリーであり、自己を一連の特性によって定義される静的な実態とは捉えない

キャリアカウンセラーとして誰かの相談にのっているときにも、その人の話の中にストーリーを見出して、自分の解釈を話して聴かせてみることで、その人の活動の意味づけを一緒に検討する働きをしていることがわりにあって、なので、ストーリーっていう表し方は、なんかしっくり来るのだった。

と、そんなこんなで、今年も人から大いに学び、よく噛んでよく揉んで自分の内側を豊かに耕しつつ、人にも事にも素直に実直に向き合い、自分で考えられるかぎりを考え抜いて、伝えたい人に伝えたいことが伝わるように言葉を大切に表し、相手からのフィードバックを真正面からきちんと受け止めて、物ごとを前へ展開し、行けるところまで行ってみて、あとは野となれ山となれだ。頑張ろう。

*1: 編著者 渡辺三枝子「新版 キャリアの心理学[第2版]キャリア支援への発達的アプローチ」(ナカニシヤ出版)

2019-12-31

やわ心に触れ、腕まくる年末

10月の部署異動から年末にかけて、一気に社内の人たちの考えや思いが耳に入ってくるようになった。というか、今までが距離を置きすぎていたのだろう、いくらか人並みに近づいたということなんだろうけれども。

暮れも押し詰まるここ数週間は特に、ランチなり忘年会なり、社内のちょっとした隙間時間なりで、いろんな人と放談する機会をもった。人の苦悩に触れ、目のふちに必死にとどまる涙も見た。問題意識をともにする同僚から、それで今こういう取り組みをしているんだという話も聴いた。その時々で新たな発見があり、相手に気持ちを重ねた。自分に何かできないか、と心が揺さぶられた。

これまでは「クライアント・外部の講師・自分」という三者構造で、自分が手がけるクライアント社内の人材育成にどう貢献するかを考えている時間が圧倒的に長かったのだけど、10月を境にそうではなくなった。

うちの会社の、特に自分が所属する人材事業部門の社員、それを統括する上層部、映像・ゲーム・Web業界のクライアント、そこで働く派遣スタッフが目先のステークホルダーとなった。短・中期的な実務スキルアップではなく、中・長期的な仕事能力の開発と、自律的なキャリア形成のサポートをいかにすべきかが自分のテーマになった。

派遣ビジネスというのは、国から煙たがられているのはわかるけれども、そういうアゲンストの中でやる意味はあるのかないのか。政治がアゲンストだからというのですぐ意味がないと見立てるのも早計かもしれない。

派遣がそういう状況でも実際には数字が伸びているということは、その形態を選ぶ人にはその人たちのニーズがあるのかもしれない。それが正規社員を希望しているんだけれども叶わずの派遣という選択なら、正規社員化を推し進める支援が有効なのかもしれない。

一方で、派遣という形態にメリットを見出して本人が主体的に派遣を選んでいるのだとしたら、何をメリットに感じて選択しているのかを把握した上で、それを継続的に提供できる事業・サービスを、正規・非正規にとらわれず模索していく必要があるのかもしれない。

もうちょっと引いてみると、正規雇用にこだわる価値観は今後も大切にされる考え方なのかどうなのか、これについても懐疑的に評価し続けていかないと、と思う。個々人で望ましい答えが違うのは当然だけど、正規雇用こそが望ましいのか、現代の価値観の総意はどう変化していくのか。概念の表す中身も、それに対する人の評価も、時間とともに変わっていく。

私の中は「かもしれない」どまりのオンパレードだ。でも、たぶん私の役立てるところは、自分に有効な答えが出せるという過信をせずに、いろんな「かもしれない」を漂流させた状態で、皆で議論したり協力して調べる道筋づくりに寄与することじゃないかと、そんな気がしている。

「具体的で骨のある答えを導き出せそうな問いを立てること」「多様な人たちが有意義な情報・意見交換をできる場を構造だてて設えること」「集まった情報・意見を整理してストーリー化すること」「プロジェクトとしてゴール設定し、具体的な計画に展開して、進行・効果検証までサポートすること」、非力ながらそういう曖昧なところで働くのが、配役としては一番マッチするのではないかというのが現時点の見立て。

映像、ゲーム、Web、それぞれの業界を專門に手がける社内の営業メンバーや、2020年4月の派遣法改正にも精通する人事や法務專門の面々、長く人材派遣ビジネスに従事してきた彼らと力をあわせて、自分のこの、周囲にはよくわからないだろうけれども、自分にはなんとなく発揮どころがわかる曖昧な役割を果たしていくことができたらいいのかなと、そんなことを思っている。

そういう仕事の積み重ねが、関わる人たちの能力開発・キャリア形成にも意味ある活動に通じるように活動できれば、本質的な仕事になるなという淡い期待。

キャリア形成の主体が組織から個人へ変わり、否が応でも自律的に自分のキャリアを舵取りしていかないといけない時代だと言われる。若いときに身につけた専門技能、就職した会社、就いた職業で生涯やっていけない前提で、既成の境界線にしばられず越境し、キャリアの変幻自在性が求められる時代とも言われる。一つの山を決めて登りきるというより、ノンリニアなキャリア観のほうが現実的な時代になったと言われる。確かにな、と思う。そうした中で、どう本質的に人のキャリア形成のサポートに関われるのか、従来のやり方にダメ出ししてアップデートしていけるのか、模索は続く。

ただ、人のやわらかい心に触れて、腕まくりしたくなる感覚を覚えた年の暮れであるのは確か。ムキになる自分、よくしゃべる自分、古びた既成概念を叩き割りたくなる自分。思いつきでしゃべり過ぎて後で浅はかだった…と自己嫌悪する自分。なんかちょっと懐かしい感覚を覚えた。

来年はちょいと、自分の働き方とか、会社への向き合い方というのを模索してみようと思っている。それがどういう形になるかは手探りだけれども、手探りするというのは、なかなか創造的で面白いではないか、と。

こんな曖昧な文章に、ここまでおつきあいいただき恐縮です。来年も、あれやこれやよくわからない文章を書き連ねたりすることも多かろうと思いますが、2020年もおつきあいのほど、どうぞよろしくお願いします。どうぞ、よいお年をお迎えください。

2019-12-25

Web制作はいつの間にかチームスポーツに

「ルールを作りながらゲームをする時代」とは、よく言ったものだよなぁと思いつつ、誰が言ったんだっけな、よく言われているよな…?と不安になってGoogle検索してみたら、自分が2012年に書いたブログ記事が一番トップに出てきて、誰も言ってないってことが7年越しに発覚した…。

それでも、そういう前提でむりやり話を展開しちゃうと、ルールは新たに作られるだけでなく、ゲーム途中に変更が加わることもあるんだよなって最近思った。

Webデザイナー(便宜的に)をゲームのプレイヤーに見立てると、1990年代からこれまでの間のどこかで、個人スポーツからチームスポーツに、競技の根幹が変わっていったのかもなぁと(いや、全部が全部じゃない、同じ走るでもマラソンも駅伝もリレーもあるように、いろいろっちゃーいろいろなんだろうけれども)。

だから、もともと個人競技を志向して参入した古参の中には、時代が進むとともに肌に合わなくなっていった人もあるかもしれない。ずっとグラウンドに立ち続けているうちに自然とチームスポーツに順応できて楽しんでいる人もいるかもしれない。これから新たに参加してくる若者などは、最初からチームスポーツが好きで入ってくるのかもしれないなぁという、最近の、なんとなくな思いつき、思いこみ?推敲なしの呟きメモでした。

(文章はイメージです)

2019-12-14

「生涯発達の6つのモデル」にみる人生観の六変化

最近、人のキャリア形成に関する本をいくつか読み返していた中で手にとった1冊*に、やまだようこさんの「生涯発達の6つのモデル」(下の表)が紹介されていて、6つのイメージの違いに興味をひかれた。これって「人生観」の移り変わりみたいだなぁと、勝手に読みかえて味わってしまった。

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人の「発達」っていうと、子どもから大人になるまでの成長過程にフォーカスする(成長モデル)のが従来の見方だったけれども、人生100年時代それじゃあ、あんまりさびしかろうと。

成人して以降の変化も「発達」の枠に入れて解釈してみようよ、「人間は生涯を通して進歩、成長しつづける」っていうふうに考えようよって見方(熟達モデル)が出てきた。

そうすると、いやいや″何でも″成長っていうのはさすがに無理があるでしょ。ある機能は年齢とともに確かに衰退するんだけれども、一方で発達しつづける機能もある、そういうふうに分けて考えるのが適当では?という冷静な見方(成熟モデル)が出てくる。

すると、もういくらか引いてみて、いや何事も、ある観点からみればプラスであり、別の観点からみればマイナスっていうことなんじゃないの?という、ひとつの機能でも観方次第で発達とも衰退とも読み取れるんじゃない?って見方(両行モデル)も出てきた。

それとは別に、上がるとか下がるとか、発達するとかしないとかじゃなくて、ただ年齢を重ねていろんな出来事を経験する中で、現実的な変化を体験していくプロセスが人生ってやつなんじゃないの?みたいな見方(過程モデル)もあれば。

人生を通じて循環・回帰していく、最終的には無に帰すように時間軸をとらえる見方(円環モデル)もあろうなと。

本の中では、ものの見方のモデルパターンとして6つ紹介があっただけなので、「〜という見方が出てきた」というのは私が勝手に読みながら、そういう分化をたどったのかなぁと妄想した話にすぎないのだけど、いかにも人間の頭が作り出しそうなモデルパターンの分化プロセスではないか!と勝手に納得。

二十歳やそこらで後は衰退の一途をたどるっていうのはむなしいので、もっと長尺に発達する意味を与えるようになり、ポジティブな意味にこだわるようになり、意味を複雑に解釈するようになり、そこからもう少し死を間近に意識する老年になると、意味を問うこと・こだわることから解放されたくなり、無に帰するように導かれていく、と。人間、そういうの考えそう!という。

自分のことでいうと、おとなになる過程で解釈に多様性を求めだし、多様な解釈の中からよりポジティブな解釈を採用しようとし、もう一歩複雑に考えようとも試み、成長→熟達→成熟→両行モデルをたどってきた感じがする。さらに歳を重ねると、過程とか円環モデルに移行していくのかもしれない。その感覚もわからなくもないというか、そう遠くないところにある感じはする。

そう考えると、一人ひとりの中に、6つのモデルどれも多少なりとは感覚するところがあるのかなとも思う。歳を重ねながら、しっくりいくメインどころが移り変わっていくような。一方で、人によってしっくりくるモデルもあれば、そうでないモデルもあるというものなのかもしれないなぁとも思う。人生観の話、人間観の話、何について話しているのかもよくわからないけれど、思っちゃったんだからしょうがない、ということでメモ書きしておく。

*岡田昌毅「働くひとの心理学―働くこと、キャリアを発達させること、そして生涯発達すること」(ナカニシヤ出版)P76

2019-11-17

人のキャリア開発に関わる心構え

9月末にここにも書いたけれど、この10月から部署異動してキャリア開発グループに所属している。

これまでと大きく変わったことの一つは、支援対象が社外のクライアントではなく、社内のスタッフになったこと。

社内といっても、私の勤め先はクリエイティブ職の人材派遣業を営んでいるので、支援対象にはまず派遣先に就業しているクリエイティブ職スタッフが挙げられる。これに加えて、うちの会社に正規雇用されている、いわゆる従業員も対象だ。

中にもクリエイティブ職はいるし、広げれば傘下グループの映像関連各社の人材開発面のサポートも視野には入れているので、見据える対象は広範に及ぶけれど、当面はまず、クリエイティブ職の派遣スタッフと、同じ事業部内の営業職やバックオフィスのメンバーをサポートしていく感じ。

さて、もう一つ大きく変わったのが、これまでは能力開発メインだったのが、キャリア開発にも軸足をおくようになったこと。

長いこと、私はクリエイティブ職の実務研修を扱ってきた。今後も社内向けには、現場の実務能力を向上させる育成施策を(研修に限らず)扱っていくつもりだけど。派遣スタッフ向けの私の役どころは、彼・彼女らクリエイティブ職のキャリア形成をどうサポートしていくかがメインテーマになる。

もともとキャリアカウンセラーとして、キャリア開発支援の一環として、当面は実務能力の開発に力点をおいて仕事に従事するという構えで個人的にはやってきたつもりなので、広い意味での軸足に変更はないのだけど、活動領域を広げるタイミングなのか、いよいよキャリア開発ど真ん中に、本業で取り組むことになった。

とはいえ、能力開発のほうから遠のくのか?と自問してみると、そんな気はさらさらないという自答が返ってきたので、どちらも自分の専門としつつ、これまで1〜2割だったキャリア開発を5〜6割に引き上げて取り組んでいく感じだろうと、これを書きながら思い至る。

この週末も、これまで他部署の管轄で準備してきて、今後は自分が引き継ぐ前提の派遣スタッフ向けキャリアセミナーの本番に出向き、後ろで様子をみながら、いろいろ考えた。

人のキャリア開発に真正面から従事することについては、気の引き締まる思いを募らせている。

「能力」というのは、高いとか低いとかの評価が伴う概念だ。何か特定分野を掲げて、この人の遂行能力は秀でているとか、この人の能力は低くて要件に満たないとか、基準に対する優劣評価を成しうるのが能力である。

ゆえに能力開発というのは、基本的に「上を目指して、現在地からアップしよう」という方針や方向性が常識的に定まっている。時に、何かを学ぶために何かをunlearningすべき事案はあるけれども、それも何か新しい能力を獲得、向上、ひいてはうまく統合する一環である。

けれども、「キャリア」はそうじゃない。能力と地続きにつながっているようにも見える概念なので気をつけなきゃいけないけれど、キャリアというのは人の生き方の問題で、他人がいいだの悪いだの、縦軸で優劣をつけて評価が成り立つ概念じゃない。少なくともキャリア支援の専門家としては、そんな考え方、職業倫理上あってはならないと思っている。

ゆえに、皆に共通の「こうすべき」がある世界でもない。一方で、キャリア支援の専門家として活動していくからこそ、そこの落とし穴に堕してしまいやすい危機感も強く抱いている。

例えば、キャリアとはどういうものかを理論をひいて説明する、キャリアについてこういう考え方があると解説する、といったことを人前に立って講義なんぞしていると、何か自分が尊い教えを提唱して説法でもしているかのような勘違いを引き起こしやすい。「〜すべき」という盲信も育ちやすい。そうならない自制力は、キャリア支援の専門家に欠かせないスキルだと私は思う。

人に生き方を指南できるような何者でもないのに、なんだかしゃべっているうちに、そんな気分に飲み込まれそうになってしまうのを防ぐためには、心構えだけでなく、常に自分に懐疑的な目を向けてチェック機能を働かせるスキルをもって対処せねば、すごく危うい。

さらに、キャリアには「採用市場性」という側面があって、ここには高い低いという評価が伴いうるのが、ややこしいところ。高学歴だったり、誰もが知る大手企業に新卒で入社して経験を積んでいると「市場性が高いキャリア」と評価されるなどは実際にある。

けれど、キャリアの価値は採用市場性だけで語られるものでは決してない。何をおいても、本人にとっての納得感や充実感が優先される概念だ。こうした「ややこしさ」をしっかり分別して扱えることも、人のキャリア支援に仕える実務家として大事なポイントだと思う。

自分が何者であって、どんな支援はできるが、何はできないか。どんな支援はすべきで、どんな行為は愚かしいものか。常に自分の心の中も、人に向かう行為や言動・アウトプットも自己チェックして、本当に意味がある、相手に有用で本質的な働きかけを吟味してやっていきたい。

もしかしたら、キャリア開発の業界に行き渡っているキャリア形成の概論的知識が、今の時代には古びたものになっていて、それを手放しに人に伝えて活かしてもらおうとする試みは、かえって人のキャリア形成の足を引っ張ることになってしまうかもしれない。

今、自分の脳の中にインプットされている固まった理論的知識に甘んじることなく、今の時代をよく見て、自分の目の前で関わる人をよく観察して、自分なりのキャリア支援をしていきたい。自分に取りこんだ知識を盲信せず、感受性や洞察力をもって自分のやるべきこと・とどまるべきことを整理しながらアウトプットしていかないと、と思う。それがキャリアの研究者でなく、各々の現場でキャリア支援の実務者がすべき仕事だ。

そうした自分なりのアウトプットには、至らぬ点が含まれてしまうリスクもある。けれど、著名な教授の提唱する理論だって、そうした巨人の肩の上に乗って私が現場で考えたことのアウトプットだって、誰にも万能に働くツールじゃないのは同じこと。最終的には本人が自分に引き寄せて、自分のいいように道具として採用したり、しなかったり、加工して応用したりしないとどうにも役立たない。そこのサポートを身近でできるのが実務家の仕事だ。

そう割り切って、自分のアウトプットに対して返してくれるフィードバックを正面から受け止めて、よく噛み砕いて、自分のできるところから改めていって、柔軟に現場で役立つ仕事を磨いていけたらと思う。

自分の身の丈では、この構えで丁寧にやっていくことだけが、どうにかキャリア開発の従事者として真っ当に人の役に立っていける肝になるんじゃないかと、そんなふうに思っている。

キャリアについてなんて、自分で考えるもの。へたに他人が手を出すものじゃない。というゼロベースから、でもどんなことだったら、こちらから伝えて、知識をもつことが有意義に働くか。どんなことだったら、他人から問うて、考えてみてもらう時間が意味をもちそうか。どんな問いかけをしたら、その人のキャリアデザインを能率化したり、自分の現在地や目指す先の視界をクリアにする助けになるか。そういうことを丁寧に考えて、まずはできるだけ短時間に濃縮させたワークショップをリデザインしてみたいと思う。

2019-11-04

[読書メモ]インタフェースデザインのお約束

先日ここでも取り上げた「インタフェースデザインの心理学」と同シリーズの新刊「インタフェースデザインのお約束 -優れたUXを実現するための101のルール」を、縁あって頂戴することに。

これまた良書だった。副題にあるとおり「優れたUXを実現するための101のルール」が詰まっている本なのだけど、UXデザインといって「ユーザーに驚きや感動を与えようとする前に、ユーザーのストレスを一掃せよ。話はそれからだ!」というような。んなこと書いてないけど…。

「フォーム」の章に40ページ近くの紙面を割いていたりして、サイトやアプリを使い勝手よく提供するのに欠かせない視点、実装願いたいものの具体的な指摘が勢ぞろい(実装方法がこと細かに書いてある本ではない)なので、ぜひご興味ある方はお手にとってみてください。

「インタフェースデザインの心理学」とは著者は違うのだけど、体裁は共通していて、101のルールが1〜3ページごと紙面を割いて、簡潔明瞭に解説されるテンポの良い一冊。

事例も多く含まれ、「見せて納得を得る」ことに心を砕いているし、最後にポイントが3〜4コ、箇条書きされているのもシリーズ共通のよう。

101各項のポイントが、本当によくポイントをついた箇条書きになっているので、時間のない玄人層はポイントだけ読んでいって、ん?と思うものだけ本文に目を移す読み方でも良さそう。

あと、「〜の心理学」著者のSusan Weinschenk氏以上に、今回の「〜お約束」著者、デザインにかけては純粋主義者(ピュリスト)を自認するWill Grant 氏は、単純明快で単刀直入な物言いをする印象。

まえがきで、

「これには賛成できない」と思えるルールもあるかもしれないが、それはそれでかまわない。なにしろこれは私が自説を披露する本なのだ。

と断りを入れたうえで、中身はばっさり、ぐっさり、小気味よく展開していく。「は、やめろ」「は、やめておけ」「なんて禁物だ」「なんて言語道断だ」「など作るな」「など使うな」が、あちらこちらに。べらんめえ口調?だが、頼れる兄貴的なテンションで読むと、気持ちよく読める。

ご指摘は実にまっとうなベスト・プラクティスのオンパレード感がある。1ユーザーとしては、指摘されるアンチパターンのどれも納得感がある。

作る側として読む立場にあっては、私のように頷いて読んでいるだけではなく、一通りを自分の作るプロダクト・サービスに埋め込んでいかなきゃいけないので大変だろうけど、101のうち、できていることはささっと読んで、できていないことをピックアップして自分の品質チェックリストに取り込んでいくように読めば、ぐっとアウトプットの精度をあげられるのではないか。

知れば簡単に実装できるものも、知ったところで実装するには一手間二手間かかりそうなものも含まれているけれども、知らないでは済まされない観点という意味では、一通りなめておきたい知識だ。

エピローグの章に、「ブランド」になど振り回されるな、という項がある。10億人規模の顧客を擁するグローバル企業のメガブランドと違って、多くのUXデザイナーが手がける「ブランド」なんて、誰も気にも留めないものだと言いはなった後、

ユーザーが着目するのは、あなたの製品あるいはサービスを利用すると何がやれるのか、あなたの製品が暮らしをどう改善し、生産性をどう上げるのか、といった点だ。つまり、あなたの製品(サービス)を利用する際のUXそのものがブランドとなる。そんなUXのデザインを担当するのは、だからマーケティング担当チームなどではなくUXのプロでなければならない。

と、落とすかにみえて、UXデザイナーを鼓舞している一節が印象に残った。

翻訳も安定のクオリティ。図版まで丁寧に翻訳してくれている。「金科玉条」(きんかぎょくじょう)とか、「苦心惨憺」(くしんさんたん)とか出てきて、手練の業を感じた…。感想や誤植もご報告してお役目も果たせた感。今回は、シリーズにして初だと思うけれど、大型本ではなく単行本サイズ。この週末、気楽に持ち歩いて読めました。

2019-11-02

「仕事は経験でしか学べない」と言いつつ、教える側にまわると講義に終始しちゃう問題

仕事は、経験でしか学べない。自分は現場で学んできた。と確信しているものの、自分が教える側にまわると、研修とか勉強会とか"現場から離れた"ところに学習者を呼んで、講師・講演者として話を聞かせる活動に終始してしまう、ということはないだろうか。

マネージャーとして部下の育成施策を講じる場合でも、メンバーをセミナールームに集めて、とりあえず講義、とりあえず研修をやろうという施策に、思考が閉じてしまう。

エキスパートの話を聴く中に、学びがある。これはこれで、確かなことだ。けれど、それはあくまでパーツの一つであって、それで学びが完遂するわけじゃないのは、誰もが知るところ。

ここで「話を聞いた後、伸びるか伸びないかは本人次第、あとは本人にしかどうしようもないでしょ」というのは早計で、「話して聞かせる」以外にも、他者の能力を伸ばすアプローチはいろいろある。

なぜ、教える側にまわったときに講義に終始してしまうか考えてみると、ざっとこんな要因が思いつく。

1. 講義以外の方法を知らない、思いつかない(知識不足)
2. 講義以外の方法は手間がかかるので、やる気・時間がなく手が出ない(時間・動機不足)
3. 講義以外の方法をうまくやる専門性がないので、できない(スキル不足)

そもそも、それを教える専門家ではなく、それの専門家なのだから、当たり前といえば当たり前の話。端的に(〜不足)と分けてみたが、こう表現するのも落ち着かない。

ともあれ、ここでは導入とも言える1を取り上げて、一枚のスライドを紹介したいのだ。マーク・ローゼンバーグ氏が"The Best Training is No Training" という題目で講演したときのスライドの1枚を取り出して意訳してみたもの。

Marcrosenberg

けっこう前に見たものなのだけど、印象的だったので、折りにふれ思い出すスライドだ。

これで共有したいことを2つ書き起こしてみると。

●育成施策には、Training(いわゆるフォーマルな研修、体系だてたカリキュラム)だけじゃなくて、ツールやソーシャルメディアを活用した支援もあれば、コーチングやメンタリングもあるということ

●学習者の習熟度合いによって、適する育成アプローチは変わる。Trainingは初心者には有効だが、習熟度が上がっていくにつれ、Trainingの必要性は減じていく。逆に、コーチングやメンタリングといった、インフォーマルで個別的な支援が有効になってくるということ

なので、自分が教えたい、育てたい相手が、習熟度としてどこに位置するのかを想定した上で、どういう育成施策が効果的なのかを、Trainingというアプローチに閉じずに発想するのが肝要だ。

「経験でしか学べない」という実感・実体験が、自分の中にあるならばこそ、教える側にまわったとき、「いかに話して聞かせるか」に閉じないで「いかに経験させるか」を問い、現場環境を中心に据えた育成施策の全体像を構想してみるほうが理にかなっている。

で、1はいいとして、2(時間・動機不足)や3(スキル不足)をサポートするところこそ、私の本領発揮しどころだ。人材育成を生業として、学び手も、教え手も、より専門的に手助けしていけるように鍛錬し続けていきたい。

*上記のスライドそのものはネット上で見つけられなかったが、ご本人の弁はこちらで確認できるので、ご興味があれば。
Marc My Words: New Ways to Enable Learning | Learning Solutions

2019-10-20

「内容より、まずデザインをどうにかしましょうよ」と推したいときの説得材料

自社のウェブサイトをテコ入れしたいとき、「コンテンツが先か、デザインが先か」という問題が浮上したとする。一気に両方をどうにかすることはできない。優先順位をつけて、「今期はこっちをやって、そっちは来期予算でやりましょう」と、時期を分けて取り組まなきゃいけない、としよう。

そのとき、コンテンツを見直したい勢と、デザインを見直したい勢が出てくる。話し合いは平行線、互いに引かず、根性比べの様相。

とまでややこしい状況じゃなくても、一人の頭の中で、どっち先行で手をつけるべきかを根拠づけなきゃいけないシーンはあるかもしれない。ないかもしれない。よくわからない…。が、もしあったとしたら、次の研究結果は、話し合いを建設的に進める役に立つかもしれない。

エリザベス・シレンスの研究チームが、高血圧症の患者を被験者に、高血圧に関する情報をウェブで探してもらったところ、こんな研究成果が得られた。(*1)

人はまず、信用できないサイトを「デザイン」でみて排除してから、残ったサイトについて信用に値するかどうかを「内容」をみて判断するという。

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確かに、自分のウェブ検索行動を振り返ってみても、何か調べものをするときは、Google検索で上位にあがってくるページの数々をざざざーっとタブで開いていった後、まずは「信用できない」第一印象を受けるところを削って、絞り込み作業をしていたりする。フォントやレイアウトや色といったデザインから受ける漠とした印象から、まともそうで読む気がするところを厳選してから、内容を読み込んでいくステップを踏んでいる気がする。

とすれば、「デザインのテコ入れが先行」ということになる。

コンテンツの充実を先行したところで、デザインに問題があれば、まず見てもらえず意味がない。デザイン上の問題を先行して解決するのが賢明でしょう、という話。

とはいえ、「デザインの問題」が致命的なものでないかぎり、そう話は単純じゃないんだろう。デザインもそこそこ、コンテンツもそこそこというときに、この話がどれくらい使えるものかという現実問題は頭に浮かぶけれど、まぁ何かに使えることもあろうかなと、ちょっとスライドにしてみた次第。

これを踏み台にして、定量調査として「アクセス解析すると、〜から来訪したうち○%の人が1ページ目で離脱しているんですよ。見た目の第一印象で「信用できない」と判断されていることが懸念されます」というのとか。

定性調査として「同様の調査を、当社の事業領域をテーマにユーザーテスト形式でやってみたところ、○%の人が当社のサイトを「信用できない」と判断して1ページ目で離脱してしまったのです」とかいうのを入れて、肉づけていく感じなのか。

世の中そんな単純に話は運ばないのかもしれないけど、何かの検討の一助になればということで。

*1: Susan Weinschenk(著)、武舎広幸+武舎るみ+阿部和也(訳)「インタフェースデザインの心理学 ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針」(オライリー・ジャパン)

2019-10-09

[読書メモ]インタフェースデザインの心理学

スーザン・ワインチェンク著「インタフェースデザインの心理学 ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針」(*1)を読んでいる。翻訳本が出たのが7年前になるのだけど、今でも増刷を重ねている名著として知られる(のに今はじめて読んでいる)。けど、これは本当に名著だ!(遅)

おもしろく、わかりやすく、しっかりした根拠をもって、インタフェースデザイン実務に役立つ100の指針を丁寧に解説しているところが素晴らしい。

一言で言えば、そういうことなのだけど、この本のすごいところを個人的にもう少しくどくど書き連ねるなら、書いてあることを、この本づくりの中で体現して、手本として成立させているのがすごい。

この本の読書体験をもって、読者はその実践例を目の当たりにし、その指針を取り入れることの効果を十二分に体感できる仕立てになっている。つまり、この本のインタフェースが素晴らしい。

副題に「ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針」とある通り、この本は心理学の知見を「ウェブやアプリ」を作るのに役立つエッセンスに落とし込んだものなので、全部が全部、「本」という体裁に持ち込めるわけじゃない。けれども、本にも共通するエッセンスを多く含んでいて、それが余すところなく、この紙面で体現されている。

あらゆる標題や見出しが洗練された言葉で付けられているし、各項目のポイントは4つ以内に整理されて簡潔明瞭に示されているし、具体的な言葉や絵を見せてわかりやすく&記憶に残りやすく例示する工夫も随所にあるし…。

読者である私は、書かれている指針そのものに理解を深められるのはもちろんのこと、この紙面でもそれが実践されているからこそ、私の中に今この深い理解が成立しているのだという重層性に思いを馳せ、インタフェースデザインの心理学に基づく指針に倣うことの価値を実感させられる作りになっている。

10章100項目にわたる指針は、1項目2〜3ページくらいで小気味よく語られていくのだけど、私がこれまで読んだ中で最も心打たれた項目が、「人は物語を使って情報をうまく処理する」である。この項目は、こんな書き出しで始まる。

何年か前のある日、筆者はユーザーインタフェース関連のデザイナーが集まるセミナーの講師を務めました。部屋は満杯でしたが、参加したくもないのに上司の指示で参加している人がほとんどでした。

こんなふうに、「いきなり理屈」ではなく「著者の物語り」から、新たな項目が書き起こされている。

物語は、この項目の中で示されている通りに、「場面設定、登場人物、状況や(主人公が立ち向かう)障害を聞き手に説明」していく流れをたどっている。読者の私は、これを読んで「筆者はこの後、やる気もない参加者にどう立ち向かっていくのか」と、物語の次の展開が気になる。

それで自然と、その先を読み進めていく。すると、筆者が「物語」の力を使って、参加者の注意を引きつけ、このセミナーを成功におさめる着地をみる。その様子を、私たち読者に物語った後、こう続ける。

さて、ここまでの話も立派な「物語」であることに気がつきましたか?物語には説得力があります。相手の注意を引き、その後も気をそらさせません。しかし、それ以上の力もあります。物語は、人が情報を処理するのを助け、物事の関係を伝えてもくれるのです。

ここまで読み終えたとき、私は今しがた筆者の物語を読んだ体験をもって、物語には説得力があること、相手の注意を引き、その後も気をそらさせない力があること、人が情報を処理するのを助け、物事の関係を伝える力ももつことに、疑いの余地なく腹落ちした状態になっている。

しかも、こうした物語の挿入は、この「物語」の項目のところだけにとどまらない。100の指針のいろんなところで、著者の物語は書き起こされ、挿入されている。そんな書き出しに出会うたび、厚ぼったい本だけど、読み物を楽しむようにページをめくっていける物語の力を、読者として体感する。

自身の読書体験を通じて、「あぁほんとだ、筆者がいうとおりだ」と思う。「物語は人が情報を処理するのに適した自然な形式」であり、「物語を使えばわかりやすく、興味深く、記憶しやすいものになる」という物語の効果を、ひしひしと感じるのだった。

いちいちそれぞれの指針に自分の物語をこしらえるなんて、実に大変な仕事である。この重層的で、丁寧な本づくりに感服する。

そんなわけで、この本は私にとって、一冊で三重においしい本だった。まず、自分がサポートする対象の人たちが学ぶべきサイトやアプリのインタフェースデザインについて学べる(支援対象の学習テーマ)。

次に、私こそが学ぶべきインストラクショナルデザイン(私自身の学習テーマ)とも領域がかなりかぶるので、そこの指針としてもおさらいや知識補完ができる。

さらに先に述べた通り、この本自体の読者に対するインストラクションが見事で、事例として素晴らしい。何を具体例に示して納得を得るか素材選びもドンピシャだし、説明にどんな言葉を用いるかもシャープで、教え方や伝え方の手際も良く、素晴らしい学習体験だった。

ちなみに、まだ少し先が残っているけれど、今のところ(ラジオリスナー的に)この本の中で一番テンションが上がったのは、「人はどう見るのか」という章の中にあった一節。

あるものを実際に知覚しているときよりも、それを想像しているときのほうが視覚野の活性度は高くなります[Solso 2005]。活性化する領域は同じなのですが、想像しているときのほうが活性度が高いのです。ロバート・ソルソの説によると、刺激となる物体が実在しないため、その分、視覚野が奮闘しなければならないとのことです。

「実際にものを見ているときより、目の前にものがない状態で想像しているときのほうが、脳の視覚野は活性化している」というのだ。全ラジオリスナーにシェアしたい!と思った。

Susan Weinschenk(著)、武舎広幸+武舎るみ+阿部和也(訳)「インタフェースデザインの心理学 ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針」(オライリー・ジャパン)

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