2026-03-09

50歳になった

これまで年齢の十の位が変わる時にも、それほど気負いなく誕生日をまたいできた気がするのだけど、さすがに自分が50歳というのは、ちょっとインパクトがある。が、そういうことになった。

早生まれなので同級生は一足先に50代にあがっているし、ちょい上の兄さん姉さんがたもご活躍なので、その後をついていく心強さはある。

一方で、「自分の道をゆくのは自分だけ」ということもわきまえているお年頃。私は脱サラして相当のんびり自己流で暮らしているので、自分なりの清閑な成熟の道をゆかねばと気の引き締まる思いもある。

昨日までは40代だったわけだが、この十年をかけて、今ここにあるものに感謝すること、もうここにないものを求めないこと、私に遺してくれたものを大事に育むことに精進した気がする。おかげさまで、ずいぶんと自然体で潔く五十路の入り口に立っている気がするが、どうかな。自分の評価というのは当てにならないものだ。

五十路初日、すこし前に読んだ「アイデンティティの心理学」*を再び手に取った。哲学者の森有正さんの、こんな言葉が引いてある。

本当の孤独というのは、経験──他人によって置きかえることのできない経験そのものであって、孤独であるということが、つまり、人間であるということだと、思うのです

「人間を生きる」となれば必然的に「孤独を引き受ける」ことになる、とも解釈できようか。

「経験する」ということは確かに、どんなに同じ時間、同じ場所で、同じような体験をしたとて、他の人とまったく同じということがない。人それぞれに違う「経験」をしていることになる。とすれば「経験する」には「孤独」を切っても切り離せない。それに「生きていくとは、経験することだ」と継げば、「生きていくとは、孤独を引き受けることだ」とも、個人的にはすんなりつながって見える。

これは、他人の経験をいくら聞いたところで、また他人が教えてくれる理論、フレームワーク、概念知識、ノウハウ、事例、教えの数々を要領よく頭に入れたところで、自分の感覚と経験を通して時間をかけて獲得しなければ、大事なことほど自分の何にもならないという話にも通じている。

自分の経験に孤独さ(あるいは独立性)を認めることで、見えてくる自分がある。認めることなくして、自己には出会えない。そういう話でもある。

私の解釈は、独立性、自律性、自立心といったものとグラデーションでつながっているような「孤独」なので、上で説かれているものより、ずっとあまっちょろいものかもしれない。

でも森有正さんの次の一節は、たぶん50歳になった今だからこそ、しみわたるように解せるのだ。

ひとつの生涯、あるいは一個の自己というものが、どれほどの生々しい凄惨な現実をそのうちに蔵していることであろう。それを徹底的に味わい尽くし、感じ尽くさなければ、一応形式的に確立された経験も形骸に過ぎぬものとなり、人生は酔生夢死に等しくなってしまうだろう。

これを心して、五十路を大事に生きねばなと。

ちなみに40代最後の昨日は、毎週末恒例の父との映画館。ついに父と一緒に観た映画が150本に達した。つまり、この習慣を始めて丸3年ということだ。

晩にはふと思い立って、久しぶりに母の写真を取り出して眺めた。そしたら、なんだかぽろぽろ涙がおっこちてきた。自分でも不思議だった。挙げようと思えば理由はいろいろ思い浮かぶ、どれか一つということもない。ただ、彼女は59歳で亡くなったから、自分が50代に足なみそろえる段になってみると、そりゃあ、きつかったよなぁ、という思いがめぐったのは確かだ。大切に生きねばな。

* 鑪幹八郎「アイデンティティの心理学」(講談社現代新書)

2026-03-07

提供された価値は「ものさしの測定結果」か「ものさし自体」か

AI開発企業のアンソロピックの報告書「AIによる労働市場への影響:新たな測定法と初期の実証」(*1)が話題になっているが、核心を突いて解きほぐしてくれていて有り難かったのが@finalventさんのnote(*2)だ。私は野生の勘で思っているだけだが、この手のものは核心をはずして読み取ると馬鹿をみるよなぁと思う。

ネット上を飛び交っているのは下のグラフで、「AIが労働市場にどのような影響を及ぼしているか」を職業カテゴリー別でマッピングしたもの。青い領域が理論値、赤い領域が実測値。

パッと見て、青の広がりに対して、赤の狭さが印象づけられる。つまり「理論上AIに代替される業務」は広く想定されているが、今のところ「実際にAIに移行している業務」は限定的だ、ということを示している。

職業カテゴリー別の理論的な能力と実測された露出度

Theoreticalcapabilityandobservedusagebyo

青と赤の隔たりを示したところに、この報告書の価値があるのは間違いないが、それが核心ではない。赤を測定する新しい「ものさし」を提案したことに核心がある。そこのところを分かりやすく示してくださったのが、@finalventさんの文章だった(ものさしの解説は文末のリンク先からどうぞ)。

赤い領域、つまり現時点ではまだ限定的な「実際AIに曝されている度合い」を測定する新しい「ものさし」自体を提案し、このものさしを使って今後の変化をできるだけ正しく定点観測していこうという野心的試み、そこに一番の価値がある。だからタイトルが「新たな測定法と初期の実証」となっているわけだ。

その上で、今回の観測においては次の辺りがポイントなのかなと。

●現状でAIの導入が進んでいるのは、「知的だがパターン化しやすいタスク」が業務の中核(文書作成、情報の要約・整理、定型的な分析)、かつ「業務フローの中に組み込むインセンティブが明確に存在する分野」

●AIの労働市場への浸透を決めるのは「AIに何ができるか」だけではなく、「現場がそれを使う動機と条件を持っているか」が同等以上に重要

●AIの影響が出ているのは、解雇の増加ではなく、若い世代の採用鈍化

それを踏まえつつ以降はただの呟きにすぎないのだが、私がどうにも気になってしまうのは、この「職業カテゴリー」という基盤の脆弱さだ。

AIによって職業がどうなる話が沸騰するたびに、私はどうしてもこの基盤の脆弱さにやきもきして、話半分に聞く姿勢になってしまう。

職業分類こそが、既成概念のかたまり。こんな変化の時代には、どろどろに溶解して実態を伴わず、言葉の有用性を著しく損なっているラベルだのに。そういう言葉を使ってものを考えることのリスク、本質に辿り着かぬ思考停止、中身のない議論、砂上の楼閣みたいなのが脳内に渦巻いてしまって、これで何かを得ようという思考の働かせ方そのものに軽薄さを覚えてしまう。

プログラマーは職を失うとか言うが、単純にいって「できるプログラマー」は別の職業名(役割)を作りだすだろう。「できるカスタマーサービス担当」だって、今はない別の職業名を作っていくだろう。需要高い特定分野に専門特化する方向、今はない高度レベルに市場開拓する方向、今はない産業で働く、いくらでも未開の地を開拓しうる。

調理師やライフガードは職を失わないとか言うが、「できない調理師」「できないライフガード」「できないバーテンダー」は、いま影響度ゼロでも生成AIに代替されるだろう。機械対応でOK、自動システムで十分になる。そういうことではないか。

そこに需要があれば、一人が担ってちょうどいいサイズ感や質感の役割の束を作って、新しい職業名になっていくし、新しい職業名にならずとも、ある職場の、ある職務を遂行してもらうための1雇用枠は成立する。

今後、それぞれの分野で、さほど固定的で汎用的で明確な職業名は作られなくなっていくかもしれない。そうそう人の仕事上の役割を「束」でラベルづけして何十年と、意味をもって流通・活用させられる言葉って、作りがたくなっていくのではないか。

というか今だって別に、便宜的に職業名を使い回しているだけで、実態は千差万別なのだ。職業名にとらわれすぎて中身が薄っぺらい議論など、ここ何十年かを振り返ってみても蔓延っているし、企業側も個人側も頭を悩ましてきた。

だから、下手に全乗っかりしてこういうのを見るのは馬鹿を見るだけだし、報告書の主だってきちんと核心をつかんで活用してくれよって思っているだろうと思うし、んー、やっぱり「職業」を解体的にみながら「意味ある仕事をできる」ようになる仕組みづくりのほうに主眼をおいていくことが大事だよなって思う。

*1 Labor market impacts of AI: A new measure and early evidence┃Anthropic(2026年3月5日)
*2 AIは仕事をどう変えていくか?┃finalvent(2026年3月6日)

2026-02-28

本を読むとき、スマホをどこに置くか問題

スマホを「机の上に置いた状態」と「カバンの中にしまった状態」で、明らかに自分の読書持続時間が違うのは薄々気づいていたし、それ系の記事を読んだ記憶も今思えばあった気もする(が定かでない)。それが、まさに今自分の読んでいる本にそのことが書いてあったので、遅まきながら意識的に「スマホをカバンにしまって読書」してみたらば没頭しているうちに90分。「ほ、ほんまや!」とびっくりした。

書きものや作りものをしていてあっという間に時間が過ぎていることはあっても、読書に没頭していて気づいたら90分間経過というのは、はて私の人生にそんなことがあったろうか…と遠い目になってしまうほど過去に例が見当たらなかった。人体マジックショー。

「自分のスマホをどこに置いて」課題に取り組むかで、課題の成績に差がつくかどうかを調べた実験。調べてみると、2017年に米テキサス大学の心理学者エイドリアン・ウォード氏の研究チームが発表している。

1)実験内容

520人の大学生(スマートフォンユーザー)に「深く集中しないとクリアできない課題」を与えて取り組んでもらう。その際、「自分のスマホをどこに置いて」課題に取り組むかで、被験者を3グループに分けた。

Aグループ:画面のほうを下にして机の上に置く
Bグループ:ポケットかバッグの中にしまっておく
Cグループ:別の部屋に置いておく

ざっくり図にすると、こんな感じだ(クリックすると拡大表示する)。

Braindrain_q

つまり、Aは、自分の近くで視界に入る所に。Bは、自分の近くだが視界に入らない所に。Cは、自分の手の届かない遠くに置いた状態。どのグループも、サイレントモードに設定しておくよう指示を与えてある。

さて、集中しないとクリアできない課題を与えてやってもらって、3グループに成績差がつくかどうか。

2)実験結果

ずばり、成績にはグループで差が出た。スマホの置き場が、成績に影響を与えたのだった。グループごとの成績は、こうだ。

Aグループ(机の上)が、最も低い成績
Cグループ(別の部屋)が、最も高い成績
Bグループ(ポケットかバッグの中)は、Cよりやや低い成績

Braindrain_a

一連の実験を通じて、スマホの画面が下向きでも、電源がオフであろうとも、自分のスマホがそばにあるだけ、視界に入っているだけで、注意力が散漫になって生産性を下げてしまうことが実証された。

「スマートフォンのことを考えないでおこう」と脳が無意識で考えることが、脳の能力の一部を消費してしまっている、そういうことらしい。

3)今後の活用

というわけで、「スマホを視界の外に置くと、集中力が持続する」という話だ。まぁ実生活で、とくに外出時にスマホを「別の部屋に置く」までして手放す状況はなかなか作れないが、今後は意識的に「カバンの中にしまう」ようにして、集中したいものに集中することに決めた。

2017年の研究だけど、自分的にはますます価値が高まっている感あるお話だったので、ここに共有。もはや時代と逆行すると思う人もいるかもしれないが、どこで使うかは、それぞれの考えどころ。私は個人的に、けっこう使いどころがある暮らしを営んでいる。

* 米テキサス大学エイドリアン・ウォード氏らの研究 "Brain Drain: The Mere Presence of One’s Own Smartphone Reduces Available Cognitive Capacity."(シカゴ大学出版局ジャーナル)

2026-02-24

選択肢の一つに加えようという話を、それに全とっかえする話と組み違えて糾弾する問題

中原先生のこのポスト、全然相容れないんだよなぁ。だけどポストの引用コメントを追っても、反対意見は全然つかない。一様に中原先生の「裁量労働制は反対」に賛同の向き。そして私も、異を唱える引用コメントをつける気がわかない。中原先生の書籍や発信活動にはお世話になったし、この大勢を前にモノ書く気にはなれない。まず、フィルターバブルに想いを馳せる。

「自己成長のために、今は長時間働きたい」という若者のニーズに応えるために「裁量労働を適用する」という論理を振りかざす。
ごくごく少数の事例をもって、「全体のシステムを変革するロジック」に用いるのはおかしい。
もちろん「自己成長を目指す若者」もゼロではないだろう。でも、それよりもっと多いのは「残業代が欲しいから、若いうちは、長時間働いて、稼ぎたい」だよ。裁量労働適用したら、残業代、みなし額以上には、出ないよ。

なかには「一部の声で全体を変えるのは反対」って賛同コメントもあるけど、別に全国一律どの企業も「裁量労働制に差し変える」話なんてしていないだろう、「選択肢を増やす」かどうかの議論だよな?

投稿文にも「裁量労働を適用する」って書いてあるけれども、「全部をそれに差し替える」なんて話はしていない。正しくは「裁量労働制を選べる対象範囲を拡大する」かどうかって話だろう。だから私には、「ごくごく少数の事例をもって、『全体のシステムを変革するロジック』に用いるのはおかしい」というロジック立てで糾弾している、そのロジックのほうがおかしく思えるんだよな。

一回落ち着きたい。

悪用する企業があるから「全体を差し替えうる」って懸念から、話が拡大解釈されてゆくのだろうが、こういう論のすり替えって、すごく不健全で、建設的じゃないと思うんだよな。

本来の「裁量労働制」って、働く本人(個人)が自己裁量で働き方を決められるところに価値があって、労使が望むなら、それも選べるのが多様性社会なんじゃないの?という話だと思うんだ。

この時点で「それは建前であって」ってつっかかってきて相手の話を封じにかかる人って、自分のほうが「本音と建前」を持ち込んで、無駄に議論を複雑化している気がする。最初から、裁量労働制の「本音」をつかみにいって話し出さないと、いつまでも本論に入れない。

もし、その本来価値が(一部の人には)確かにあるだろうと認めるなら、裁量労働制を成り立たせるときに、「不当な長時間労働に悪用する企業」をどう排除するか(発見して罰するか、予防するか)を、抱き合わせで論点化して、ある程度整備できたら導入すればいいという話。そういうふうに構造化・展開させる前、リングに上がる前から、はぎ落としにかかる感じが、もどかしい。

素朴に、素朴に考えて(私は素朴にしか考えらないのだが)。個人が「成長したい(自分ができること増えたらおもしろい)」と思うこととか、「自己裁量でやりたい(自分の自由にやりたい)」と思うことって、別に普通だし、そのほうが健全じゃない?って思うんだけど。労働時間も、労働時刻も、どう集中力を緩急つけて進めるかも。

多くの人がそう思えなくなっちゃっているなら、そう個々人が思うような社会づくりに取り組んでいくほうが、国の姿勢として真っ当じゃない?って思うのだが、ここからずれているんだろうか。

いや、「個人が自律的に生きることを目指す」なんて、国としてあるまじき指針立てだというご意見なら、はぁそうですか…としか返す言葉がないけれど。「組織の管理下に、労働者個人を従わせる」前提で、「労働者個人が害を被らないようにする」組織体制づくりを志向するのって、なんか20世紀な発想って気がしてしまうんだよなぁ。

「裁量労働制を労使の選択肢として認めた上で、それが悪用されない整備をする国」と、「悪用する組織が出ないように、個人裁量で働き方を選べる自由を認めない国」では、国づくりの姿勢が全然違う。

私は前者でいくべきと思うけど、中原先生は、そんな自由を許して、まともに活用できる個人など「ごくごく少数」だという理屈なのか。「そんな成熟した国民じゃないんだから」という理屈で、こう言っているってことなのか?

学者・研究者としての見識がそう言わせているのかもしれないが、私は「だとしたら、成熟した国民を増やせるような国の施策を考えて提言するのが学者や研究者の務めじゃないのか?」って思っちゃうんだよな。私の頭がお花畑な可能性もあるけれど。

なんで、大声で「多様性社会」を訴えながら「画一的な仕組みづくり」に邁進しているのかと思っちゃうんだよな。

中原先生の他の関連ポストも見ると、“「裁量労働でないひと」に「裁量労働制度」を安易に適用”しようとすることに反対しているみたいなんだけど、そりゃもちろん議論は進まない。

推進派は「裁量労働能力がある人」「裁量労働権を行使したい人」の自由・選択肢を国が封じ込んでいることに対して、選択肢としては認めるべきじゃないかって話をしているんだから。

アカデミックと産業を橋渡ししてきた中原先生だからこそ、私みたいな一実務者のもやもやもぶつけられるはめになっちゃって気の毒な立場なのかもしれないけれど。

なんか、こういう平行線の論点で、両者が踊って疲れて家帰って寝て起きて、何も進んでいないけど今日も1日働こうみたいな論点ズレが、識者の間でも、すごく多い気がするんだよな。「懸念事項が、目的を凌駕する」提案の潰し方というのが、好きくないのだなぁ。という長すぎる一市民の呟き、ここに眠る。


参考までに、すでに適用されている事業所で働く労働者に調査した厚生労働省の「裁量労働制実態調査(労働者調査)」によれば、適用者の満足度は「満足している」が41.8%で最も高く、次いで「やや満足している」が38.6%」。たすと8割がポジティブ。

(クリックすると拡大表示する)

Satisfactiondicretionaryworksystem1

適用者本人たちの働き方の認識を、複数回答で問うた結果は、1位が50.4%で「時間にとらわれず柔軟に働くことで、ワークライフバランスが確保できる」。次いで、48.9%が「仕事の裁量が与えられることで、メリハリのある仕事ができる」。3位は45.7%「効率的に働くことで、労働時間を減らすことができる」。

Recognitionworkstyledicretionaryworksyst

もっと詳しく知りたい方は、こちらのリンクから。

裁量労働制実態調査の概況┃厚生労働省(2021年6月25日)

2026-02-19

アンケートの選択肢が、回答者の認識を偏狭な檻に閉じ込めてしまう問題

アンケート調査結果を論拠にして何かを問いている文章で、私が眉間にしわを寄せてしまうシリーズ。前々回前回の勢いついでに、今回も私の引っかかり突っかかりをお焚き上げ。つまり今回も面倒くさい話だ。

最初に例を示すと、「今後の日本の将来について、AとBのうち、あなたはどちらを選びますか」という設問で、下のA/Bを挙げたもの。

A:このまま緩やかに日本経済が衰退しても、穏やかに暮らせるほうが良い
B:日本経済を維持・発展させるために頑張りたい

調査結果は、A寄り回答を「衰退派」、B寄り回答を「発展派」と分けて、「衰退派が6割」と銘打つ。

Japanfuturechoose

東洋経済オンラインの記事タイトルは、こちら。

「がんばるくらいなら、日本経済はこのまま衰退してかまわない」と思う若者たちが60%もいるという衝撃*

これを見て私が真っ先に思ったのは、選択肢Aの「衰退して尚、穏やかに暮らせる」というのは具体的にどういう現実的なイメージをもって成り立つって話なのだろうか?だった。

アンケート作成者は、わりと手堅くありうるだろう認識のもとに、Bに対置する選択肢として、Aの一文を設けたのか。それとも、そこのところはあまり熟慮せずに置いたのか。後者の場合、個人の主観・価値観を問うのだから現実性の高い低いは問題にならないという理屈なのか。この辺は前々回の「AとBは、対等な意見が用意されているか問題」にも通じるところだが、悶々としてしまう。

AとB、どっちがいい?という選択肢を用意されていれば、回答者は「両方選べるんだったら、こっちがいい」と、両者を対等に並べて選ぼうという構えになるのが自然のなりゆき。私的には、それなら現実解として相応の見通しを、選択肢には求めたいのだった。

もちろん「究極の選択」でA/Bをこしらえる設問も、世の中にはあっていいと思っている。が、それは時と場合によるだろう。このテーマや調査結果の使われようだと、その理屈は通らないように思える。

日本経済が衰退すれば、そのぶん外圧から受ける影響は相対的に高まる。弱体化した国として、外国の政治、経済、軍事などなどにコントロールされるところ大きくなり、場合によってはいいように扱われたり差別されて見下されたり、土地を奪われたり。蔑まれる、従わされる、労働を強いられる、戦場と化すことも、あり得ないではない。そうなっては、もちろん穏やかには暮らせない。

私はその方面の専門家でもないし、どの方面の強力な思想・信条ももたないので、「日本経済の衰退」がどう作用するかについて何の専門的見通しも主張も述べられない。

けれど、ごく一般の市井の人として、「日本経済の衰退」と「穏やかな暮らし」の現実性が、どういうかげんで成り立つと想定して、アンケート作成者がAをこれと作文して、Bとの二択に打って出たのかは、ちょっと理解しがたいのだ。

言葉の抽象度の高さも気になる。A/Bで対置させている「衰退」と「維持・発展」の境い目には様々な切り分けようがあって、「何をもって」という解釈や評価のつけ方は一様ではない。

「あくまで回答者が主観的にどう思っているか」を問うて把握するものだからという意図は理解の上だが、この回答結果を足場に論を展開することに、どれほどの価値があり、またそれによる副作用をどれくらい考慮しているのだろうかと眉間に皺が寄ってしまうのだ。

一番恐れるのは、回答者が、どう現実的にありうるかは全然イメージを掘り下げないままに、「選択肢にあるということは、そういう選択肢が実現性高く成り立つんだろう」という漠然としたイメージを植えつけられるようにして、Aを選択し、Aを選択した経験を記憶の底に沈澱させていくことだ。そういう選択経験が、知らないうちに自分の見解として内面化していくのを恐怖している。

そこに見出される「諦念、あきらめの境地」傾向が、記事では展開されていく。言うのは簡単だが、具体的にどこまでどう「衰退した社会生活」を受け入れられるかのイメージが掘り下げられないまま回答が集められ、そこを足場に論を展開することの社会的価値とは何なんだろうか。諦念て、内実そんなに簡単に至れる境地のことを言っている言葉じゃないだろうと思うし。

私も代わりの妙案をここで示せるわけじゃないし、この問いでとりたいことのニュアンスは汲める、別にこれに噛みつくのが主旨でもない(のに、すみません)。

これに限らず報道機関のアンケートでも、ネットで簡易にとられているアンケートでも、「ありえない現実解」を回答者に植えつけかねない選択肢だったり、もう少し具体的に特定しないとそれだけではなんとも言えない選択肢だったりを用意しているものは少なくない。

もう少し具体的な言葉を加えて選択肢を分ければ、集まる回答は2方向に割れるだろう選択肢を、あえて分けずに抽象的な言葉で束ねたままにすることで、アンケートをとった側が主張したいことに有利な結果が出るよう操作しているようなのも散見される世の中だ。

意図的にそう作っているものが出回るのは世の常とも言えるけれど、意図せずして思慮不足でそうなっちゃっているだけのものは、ぜひともアンケート回答者に与える副作用にも目配りして、設問や選択肢の言葉選びに推敲がなされていくといいなと思う。

キャリア関連のテーマで言えば、社会に出て仕事を経験していない学生をつかまえて「ワークライフバランスの志向性」をアンケートで問うているのも、見るたびに勘弁してくれと嘆いている。

学生にしてみれば、経験がないワークより、経験していると自認するライフのほうに重きをおく選択に寄るのが自然。問われれば、そうなる。そうして選択肢から「ライフ重視」を選ぶという自分の回答行為を重ねることによって、ワークを経験する前から「ライフを大事にしたい」「ワークとライフのバランスを重視したい」という自己認識が内面に築かれていく。そういう思い込みをさせているのは、問うている側の大人のしわざだと、私はけっこう腹を立てている。

エドガー・シャインが提唱した「キャリア・アンカー」についても、8つのタイプを並べて「あなたが仕事において重視することは何か」を選ぶことで、自分の仕事観を明らかにするというので、使い勝手もよく、キャリア理論に基づいた専門的見地からの問いだてに見せられることもあって、学生に(あるいは対象者属性を問わずに)設問するのを見かけたりする。が、あれも悪手だ。提唱者のシャインも、あれは社会に出て仕事をしていない学生に対して使うもんじゃないと言っていたはずだ。

まだまだ自分自身でも未知のことが多い若者をつかまえて、早々「自分はこういう人間だ」と規定する問いを投げかけ、今時点で思う自分像の檻に閉じ込めてしまう悪手を、不用意に働かないようにしたい。

アンケート回答者が、与えられた選択肢から自分の答えを選ぶ行為を通じて、無意識のうちに「自分はこう思っている」「自分はこういう人間だ」という自己イメージを強固にしていき、それが内面化、硬直化して、作成者も回答者も無自覚なままに言葉の檻に閉じ込められてしまうことがないように。また実現性についてさほど練られていない選択肢が、さも「社会にはこういう選択肢があるんだ」「将来にはこういう選択肢があるんだ」と思いこんでしまうことがないように。

程度問題なのだろうけれど、アンケートって低コストで誰でも簡単にとれるようになった今だからこそ、こういう副作用に対して、問う側も答える側も目配りできたほうが健全だろうって思うのだった。

*金間大介「がんばるくらいなら、日本経済はこのまま衰退してかまわない」と思う若者たちが60%もいるという衝撃(東洋経済オンライン)

2026-02-17

年代による違いを世代論の根拠に使う違和感

前回の話ついでに、もう一つアンケート調査結果を論拠に何かを説く文章を読んでいて違和感をおぼえるところを書き表してみたい(面倒くさいやつ)。アンケート調査の回答結果を年代別で比較して「若年層と中年層では、こんな違いがあるんです。だから〜」と展開する文章は、そこらじゅう出回っているが、「年代」による違いを根拠に「世代」論を展開する文章に、毎度違和感をおぼえている。

正直、「だから〜」以降の自分の仮説を言いたい思いが先走って、間に合わせの調査結果をどこかから持ってきているか、それっぽい調査を簡易的に実施したか、いずれにせよ仮説を裏づける検証としては役割を果たせていない調査結果が添えられていると思うことが少なくない。その表れの代表格が本件だ。

ある世代を特徴づける論拠として、私が腑に落ちるのは「今の40〜50代が、20代だった頃に聞いた結果ではA寄り回答が多かったのに、今20〜30代に同じ質問をするとB寄り回答が多い、A寄りは下火だ」という結果から、「今の若者(20〜30代)はB志向だ」と展開するもの。

一例に、マイナビの「2026年卒大学生就職意識調査」(*1)から「大学生が就職先を選ぶポイント」を挙げてみる。一番左側の02年卒をみると「安定している会社」は2割を下回っているが、右方向に視線をずらしていくと、どんどん上がっていって一番右側の26年卒では5割を占めるまでに上昇(画像をクリックすると拡大表示する)。

Mynavi2026employmentattitudesurvey

こういうデータを論拠にして「X世代(今の若い世代)は、安定志向に傾斜か」という世代論が展開されるぶんには、違和感はないのだ。

一方で、こうした経年変化を追わずに、単に今時点で、全世代対象にアンケートをとってみたところ「40〜50代はA寄りの回答が多く、20〜30代はB寄りの回答が多かった」という調査結果を論拠に、「X世代はA寄りだが、Z世代はB寄りだ」みたいな文章を続けられると、え、それ世代は関係なくない?とヤキモキしてしまう。

もちろん、「年代」の意味を指して「世代」という言葉を用いることもあるのは重々承知の上だ。でも文脈上、そこははっきりさせたほうがいいのでは?というところを、意図的にか無意識にか分別つけずごっちゃに使っている文章が散見される。年代と世代の区別がなく捉えていて、ジャンプしているのにジャンプを自覚していないような飛躍をみることがある。書き手がごっちゃなら、読み手の理解もごっちゃになる。世代論を語りたいなら、書き手はそこをごっちゃに述べちゃいかんだろうと思うのだ。

一つ前の話でも取り上げた金間大介さんの「無敵化する若者たち」(*2)から例を引くと。この本の中には著者が行った「5年後の幸福度調査」の結果が多く掲載されており、下のように、年代別で示した「総合的に見て、これからの日本社会は良くなると思うか」とか「今いる状況に対して、『このままでいいだろうか』と漠然とした不安を覚えることがあるか」とかの回答結果を論拠に、若者たちについて話を展開していく。これが、どうも腑に落ちない。

Surveyhappinessofyoungpeople5yearslater

「年齢によって、AかBかって違うよねぇ」とか「若くなるほどA寄りだね」とか「若い頃はA寄りだけど、歳を重ねていくとB寄りに変化していくってことかな。そりゃ今の若い人がどうなるかはわからないけどさ」みたいな年代差の話にとどまっていれば、もやもやはしない。

上のグラフなら「20代が、これからの日本社会が良くなると思えていない傾向が顕著だ」とか「年齢が若くなるほど、悲観的だ」とか。下のグラフなら「20代で、漠然とした不安を覚えることがある傾向が顕著だ」とか「年齢が若くなるほど、不安を覚えている人が多い」とか。それは、私もそう読むのだ。

しかし、これが「Z世代の特徴」なのか、Z世代とか関係ない「若者全般の特徴」なのかは、この調査では測れていない、よな?

若い頃というのはそういうもので、X世代だって若い頃は悲壮感や不安感が高かったし、Z世代も歳を重ねていけば、今の40〜50代に近しい回答率に近づいていくやもしれない、もちろんそうじゃないかもしれない。そういうことは、この調査では測っていないから、わからない。この調査単体で言えるのは、そういうことだと私は思っているわけなのだが。

あるいは著者も、そう分別して書いているのかもしれない(たぶんそうなんだろうとは思う)のだが、このグラフの後、下のように文章をまとめて次の節に移られてしまうと、

結果は、やはり学生を含む20代の日本社会に対する悲壮感や不安感が際立つ

なんだろう、この「無敵化する若者たち」という書籍に通底する文脈上、世代論を語っているように受け取れてしまって、腑に落ちないのか。それは一読者の私が勝手に、ここに至るまで暗黙的に「世代論」の本でしょと思いこんで読み進めてきてしまったがゆえの、こちら側の落ち度なのかもしれないが。

しかし、この本に限らず、いまいち特定世代の特徴を語りたいのか、特定年齢層の特徴を語りたいのか、焦点が定まらないままデータをもって足場が組まれ、そこに発信者の持論(提案やら問題提起やら、取り組むべき課題やら)が展開されるケースによく遭遇する。

それがなぜ問題かって、使っているデータがどっち足場かによって、向かうべき課題って方角が全然変わってくるじゃない?って思うからだ。

「Z世代は、昔の世代と違ってこう変わったんです」という話なら、古い世代は変わったことを受け入れて、下手にZ世代のやり方を変えようとしたりちょっかい出して老害を働くなよという論も納得がいく。

しかし、これが「若者はいつの時代も、悲壮感や不安感を覚えがち。それを年配者の導きや支援的関わりもあって、歳を重ねるごとに少しずつ悲壮感や不安感が軽減されていく。それはどうやらZ世代でも同じようだ」という話なら、年配者が若者との接触をできるだけ避けよう、自由にやらせてやろうと関わりを絶っていくのは問題になる。全然、今の若者の救いにならない。

だから私は、この2つ、年代で違うのか、世代で違うのかは、意識的に分けて、取り扱うべきだと思うんだよな。伝える側も、受け取る側も。

単純に、西暦で経年変化を追っているデータからは世代論を読み取り、一時点の年代別の違いを比較しているデータからは年齢段階論を読み取るように、読み手リテラシーを身につけなさいよという話なのかもしれない。つらつら考え書いているうち、私の腑の落ちなさは、とんでもなくこちら側に難があるような気もしてきたが、これも一つの散歩道である。

*1: 2026年卒大学生就職意識調査┃マイナビ
*2: 金間大介「無敵化する若者たち」(東洋経済新報社)

2026-02-14

「AとB、あなたはどっち?」のAとBは、対等な意見が用意されているか問題

「AとB、あなたはどっち?」というアンケート調査で、選択肢に「A」「どちらかといえばA」「どちらかといえばB」「B」の4つを並べて1つ選んでもらって、「A」「どちらかといえばA」の回答数を一つに束ね、「B」「どちらかといえばB」も同じように回答数を一つに束ねて、「A寄りの人が◯人、B寄りの人が◯人」と発表しているレポートがたくさん出回っている。「どちらとも言えない」という中立の選択肢を設けないことで、回答者は強制的にA・Bどっちか寄りに振り分けられ、傾向がはっきり示せるので世間の耳目を集めやすい。それ自体は別にいいのだが。

この「AとB、あなたはどっち?」と問うとき、「AとBが対等」な意見を用意できているか?が気になる。

個人的には「いやぁ、これ、明らかにAに回答を集めようとしてるでしょう?」と思っちゃう、時に悪どさすら覚えてしまうAとB設定というのがあって閉口する。それが世に「優良な調査」「役立つレポート」として受け入れられ、そこから何か見解が導き出されているのをみると、引っかかっている自分のほうがおかしいのかもしれない、とも思う。しかし、なかなか検証することもできない。

なので今回は、ちょっと時間を使って、自分は「何に、どういうふうに」対等でないと思うのか、「どう改めたら」自分的には対等な感じがしてくるのかを考えてみた。

下で取り上げたのは、私のような小人につっつかれてもダメージないだろう「リクルート就職みらい研究所」の調査レポートから一部抜粋したもの。2025年3月卒業予定の大学生・大学院生に対して、2024年4、5月時点で「働きたい組織について」実施したアンケート調査だ。

「大学生・大学院生の働きたい組織の特徴 2025年卒」調査レポート*には、こんな説明がある。

大学・大学院生の『働きたい組織の特徴』について、「経営スタイル」「貢献と報酬の関係」「成長スタイル」「ワークスタイル」「コミュニケーションスタイル」5つの観点で、29項目を挙げて、各項目について、A/Bの対立意見を、「A」「どちらかといえばA」「B」「どちらかといえばB」の4つの選択肢の中から自身の考えとして、当てはまるものを1つ回答する形式で聞いた。

まさに、である。下のA・B文は、その29項目のA/Bの対立意見で、私が違和感を覚えたもの(画像をクリックすると拡大表示する)。

どうだろう、自分が働きたい組織を問われたとして、「対等な意見AとBから、自分の志向性をどっちか選ぶ」という感覚がもてるだろうか。

Equalopinion

※この一覧は、今興味深く読み進めている金間大介「無敵化する若者たち」*内の図表からの一部抜粋なので、原典リクルートのアンケートとはAとB入れ替わっているものがある。

上から、どどっと見ていこう。1つ目は「貢献と報酬の関係」という観点から、自分が働きたい組織をA、Bから選ぶ。2025年卒予定の大学生・院生ともA寄りの回答結果になっている。でも、このAとBって対等な対立意見が用意されているか?というのが私の論点だ。

Q1

私にはAの「制度を充実させる」に対して、Bが「制度はない」というのが腑に落ちない。「ない」なの?と思っちゃう。じゃあ、どう改めたら腑に落ちるというのかという話になるわけだが、自分なりの代案は「制度が手厚い代わりに」と「制度は手薄な代わりに」でA、Bを対応させるという按配だ。

Q1r

これだと個人的には、だいぶ対等感を覚える。こんな具合いなのだが、人にとってこれは瑣末なことなのだろうか?

数打ちゃ、分かってもらえるかもしれない。2つ目に行こう。こちらも「貢献と報酬の関係」という観点から、どっちが自分が働きたい組織かを選ぶもの。

Q2

Aが「年功主義」を採用している組織を表しているのはわかるが、Bは単にAの出来損ないを置いてあるだけのように私には見える。もしかすると一定数Bに入れている人はいるので、私のつかめていない意図が成立しているのかもしれない。でも私の脳内には「Bのほうも、何によって高い給与がもらえるようになるかを示さないと対等じゃなくない?」というツッコミが駆け巡って冷静にみられない。

Q2r

修正案を考えてみる。例えばAの年功主義に対して、Bは成果主義か能力主義かを置いて「仕事の成果や発揮した能力次第で高い給与がもらえるようになる」とかになっていれば納得感がある。報酬制度の主義を対立させて選択させるなら、わかるんだが。

3つ目は「成長スタイル」の観点から、自分が働きたい組織を選ぶもの。

Q3

これもAは「会社のもつノウハウや型を学べる」とあって、会社が与えてくれるものが明らか。 AとBで対等な意見を並べるなら、Bも「会社としては、何を提供するのか」という観点で文を作るべきではないのか。「個人が試行錯誤を行うことで」では、そこが欠落しているので、そりゃAに回答が流れるのも当然では、と作り手の誘導的作為を疑ってしまう。

Q3r

私なりに考えてみた修正案は、Aの「教育機会を充実」に対して、Bは「挑戦機会を充実」を置くアプローチ。言葉の表現は、ちょっと洗練さに欠けるかもしれないが、アプローチとしては、こういう対立軸が良いのでは?と思った。

最後まで駆け抜けよう。4つ目も「成長スタイル」だ。

Q4

これも、Aが「どこの会社に行っても通用する」に対して、Bが「その会社でしか役に立たない」感を醸し出している気がしてならないんだが、私の思い過ごしなのか。私にはBって「つぶしの効かなさ」が強調されている文にしか読めない。

Q4r

Aに対応させて、対等なBの修正案を作るなら、「その会社に属していてこそ獲得・修練できる、企業独自の特殊な能力が身につく」あたりになろうか。この設問を作った人が、どういうAとBを対置させたかったのか、汲み取れていない修正案かもしれないが。

あと2つ、次は「ワークスタイル」の観点で、自分の働きたい組織を選ぶものだ。

Q5

これも素朴に思うのが、なぜAの「個人の裁量権は小さいが」に対応させて、シンプルにBは「個人の裁量権が大きい仕事ができる」としないのか。なぜBにわざわざ「主役感のある仕事ができる」というズレた表現を置くのか、わからない。

Q5r

というわけで、私の修正案はBを「個人が大きな裁量をもって仕事できる」というふうに、シンプルにAとBを対置させる表現を選んでみた。

最後は「経営スタイル」の観点で、自分の働きたい組織を選ぶもの。

Q6

経営の意思決定、どっちの会社で働きたいって話だが、いやぁ、どうにも「対等なAとBの対立意見」を用意して、今の若者の志向・傾向を分析しようという設問には思えないんだよなぁ。「正確性に致命的な欠陥があったら取り返しつかなさすぎない?」って思うのは、私が私の志向性に取り込まれているからなのか。

Q6r

自分だったら、もう少し緩めて「Aを重視し、Bは段階的に高める」みたいにするか、「正確性と迅速性」を同格におくのをやめて「クオリティとスピード」の対立軸に置き換えるのはどうかと思案した。

私がこの調査レポートを知った、今読みかけの金間大介「無敵化する若者たち」では、

本調査が優れているのは、すべての設問においてAまたはBの対立意見を用意し、「A」「どちらかといえばA」「どちらかといえばB」「B」の4つの選択肢の中から、自身の考えとして当てはまるものを解凍してもらっている点だ。

と前置きして、この調査結果を紹介している。この「対立意見」というところに引っかかってしまったわけだが。

最後の6つ目「意思決定の際は」を取り上げて、金間さんは「正確性重視が8割、迅速性重視が2割」という結果を引き合いに、

昨今の経営環境、特にイノベーション創出を巡る競争環境下では、いかに迅速に実行サイクルを回すかが問われる。(中略)正確性や完全性が担保されるまで意思決定できないというのであれば、どんどん国際競争から遅れてしまう。だが、迅速性を志向する若者がこんなにも少ないとは。イノベーション論を専門としている身としては、とても不安になる。

と関連づけているが、ここを紐づけられちゃうのは回答者的には不本意というか、心外な気がしてしまった。この回答をもって「完全性が担保されるまで意思決定できない」志向だとまで持っていかれちゃうのは、ちょっと強引すぎるというか。

問いかけの些細な言い回しによって、回答ってすごく変わっちゃうので、言葉選びは慎重にって思うんだな。「科目でいったら国語が得意なほうでした」という人間のたわごとかもしれないけど。

* リクルート就職みらい研究所「大学生・大学院生の働きたい組織の特徴 2025年卒」(2024.07.23)
* 金間大介「無敵化する若者たち」(東洋経済新報社)

2026-02-10

母の命日、今年は職業人として思い出す

今日は母の命日、他界して15年になる。改めて、おぎゃーと生まれた赤ん坊を成人させるって偉業だよなぁと、こうべを垂れる。母は3人の子育てに加えて、生涯仕事もよくしていたなぁと今年は振り返った。

何かの専門職というわけじゃない。職場の事業内容も、彼女の仕事内容も、40年近い職業生活では時期ごとに様々だった。家の中で工業用ミシンをゴォゴォ鳴らしていた時期もあったが、たいていはマイカー通勤できる職場に出かけていた。新聞にはさまっている求人広告をよく見ていて、そこから平日日中の事務の仕事など、働きやすそうで通いやすそうなのを見つけているようだった。

家庭に入って専業主婦するのが性に合わないことを、はなから分かっていたんだろう。彼女は常に、自分個人としての職場コミュニティをもち、家庭外にも役割を作っていた。末期がんが見つかって亡くなるまで2ヶ月足らずだったから、この世を去る2ヶ月前までは普通に出勤していた。

お葬式には彼女の職場の人たちもたくさん来てくれて、おいおい泣いていた。私もおいおい泣き通しだったので、お礼も挨拶もそうしっかりできたわけではないけれど、親戚や近所の人ばかりでなく、私の知らないいろんな人がやってきて、若い人も年配の人もみんなして泣いている光景を目撃した。彼女は彼女の人生を生きていた、その証を最期に見せつけられたようだった。実にチャーミングだ。

女性が出産・育児期間をもつのを「キャリアの断絶」とか「ブランク期間」とかって呼ばない社会になるといいなぁと思う。親をする個人の側の意識もそうだし、雇用する企業の側も、私のように人のキャリアを支援する立場の人間はもちろん。育児期間をキャリアの「断絶」とも「ブランク」とも思わない、呼ばない、そういう言葉が口をついて出てこない社会が広がっていくといいなぁと。

べつに職場を離れた先で自分の好き勝手に遊びほうけているわけじゃない、むしろ職場以上に責任逃れできない環境で、自分だけでなく他人の生命存在を預かって、命懸けで親の役割を遂行している。それを今は、多くの人が職場の仕事と両立して果たしていたりするわけで、キャリア発達をさせないほうが難しいんじゃないかと思うくらいだ。

なんだけど、なんとなくビジネスと家庭で発揮する能力が縁遠いという思い込みだけで短絡的に解釈して「断絶」だの「ブランク」だの言っているだけなんじゃないか。少なからず、そこには解釈の余地があり、個人差があり、職場差があり、場合によっちゃ、ちょっと言葉をかませるだけで、けっこう簡単に接続できるのではないか、そうも思ってしまう。

岡本祐子さんの「中年からのアイデンティティ心理学」という本にある一節は、我が意を得たりの名文だった。

育児体験によって培われた他者への気配り、人ひとり(あるいは数人を)成人させるという体験によって養われた、あらゆる局面の物事に対する力は、子育てが終わった後、新たな役割を獲得する上で、重要な役割を果たすのではないだろうか。

子育てほど、人類が連綿と引き継いできた尊い営みもないだろうと思う。だから、出産・育児期間を本人が卑下したり負い目を感じてしまうことがない社会通念みたいなものが健全に育まれていくといい。

もうすこし気負いや不安なく、子育てを一段落した女性が職場に重心をおき直したり再就職を検討しやすくなるといい。これから子どもを産み育てたいと思っている人たちも、先々の職場復帰や仕事の両立にまで不安をおぼえずに、意気揚々とそれを選択できるようになったらなと思う。

下の表は、先ほどの本の中で紹介されていたもので、子育てを通じて親の側に成長・発達がみられる6因子だ。

まだ粗削りだけど、一応キャリアの棚卸しシートっぽくしてみた。項目(主なもの)をみながら、過去自分比で「自分は育児経験を通じて、こう変わったなぁ」と思うものに丸をつけて、関連する思い出をメモっていくと、ちょっとした「育児経験によるキャリアの棚卸し」に使えるかもしれない。

親となることによる成長・発達に関する6因子(画像をクリックすると拡大表示する)

6factorsrelatedtogrowthasparent

これって、組織側の視点にまわってみると、中年期・ミドル層の社員らに発揮してほしい能力特性のド真ん中を突いている気もするのだ。となると、これは「育児経験で培われるポータブルスキル」の一覧とも言えようか。

ここには危機管理系の能力が明示はされていないけれど、その辺りもそんじょそこらの職業経験者には負けない研鑽を積んでいる猛者が、育児一段落した転職組にけっこう潜んでいるのではないかとも思う。

ともあれ、短絡的に「断絶」とか「ブランク」といったラベルを貼りつけずに、個人でも採用担当者でも行ける人から、新鮮な目をもって「育児経験を通して培った経験・スキル」を再解釈し、中年層のキャリアの道筋を開拓していけるといい。

ご近所での、「あの人はいい人、温厚な人、包容力がある、情深い、人間ができている」にとどめておかず、その評価を別の言葉で掘り下げ、ビジネスシーンに接続させ、往来して道を踏みならし、発揮どころを広げていく。その余地は大いに残されている気がする。

 と、まぁ、こういうことをあーだこーだ考えているから話がとっ散らかるのだ。ともかく日常話に紛れこませて、しれっとごちゃっと、ここにまずは置いておく。

* 「親となることによる成長・発達に関する6因子」(柏木、1995)は、幼児をもつ親との面接および自由記述から具体化して作成した質問紙調査によって導き出したもの
* 岡本祐子「中年からのアイデンティティ心理学」(ナカニシヤ出版)

2026-02-05

流行と、新常識と、自分のやり方と

ものを書くのが難しくなった。いろいろ理由は挙げられそうだけれども一番は、一つ書き出すとあれもこれもといろんなことにつながってしまって収拾がつかなくなるから。どこで終えるか、どういう文章として収めるのか、拠り所がなく心許ない気持ちになる。だから自分の手元に中途半端なメモがうずたかく積み上がっていくばかり。ちっちゃなことでも書き出すと、すぐこのありさま。一例に。

ネットのさざなみで「お礼を言わないのが流行っている」という文字の連なりを目にして、しばらく固まってしまった。自分の友だちが急に「世の中の流行にのって、自分にお礼を言わなくなった」らドン引きしないか?

「お礼を言わない」のが流行ったら「自分もお礼言わなくなる」のか。それって事象としてありうるか?一人二人じゃなく、流行として認められる一定数に起こりうる現象だろうか。

服の流行りとは種類が違う。「人に謝らない」「人と目を合わせない」「人に挨拶しない」のが流行ったら、それに自分のふるまいを変えられるのか。逆に「見知らぬ人にも、がんがんもの言う、批判も非難もいける」とか真逆の攻めにも、それが流行になったら転じられるのか。受け身として「見知らぬ人に、がんがんもの言われてもOK」になれるのか。なんだ、その柔軟性の高さ、これが21世紀の新人類か。

それで、また流行が変わったら、新しい流行に従って変われるのか、流行に合わせて変えたくなるのか、変えなきゃって思うのか?流行らなくなったものは「ダサい」「時流に合わない」といってやめられるのか、やめたくなるのか?ダボっとした服着るか、ピチッとした服着るかと同じ感覚で、自分のふるまいも着脱自在だというのか。いや、ダボっとした服を着慣れた人がピチッとした服着るのだって相当な困難を伴うか。

と、まぁ、悪態と極論で自分の脳内がおかしくなったところで、「私がダメだ」と溜飲を下げて一息つく。

さて、そのSNSの投稿をいくらか掘り起こしてみると、ビジネス文脈でいう「お礼だけのメールは、いちいち返信しないのが新常識」みたいな話っぽい、ちがうかもしれないが。さっきのよりかは、ずいぶんと理解と許容ができる。

いっときの「流行」じゃなくて、古いやり方から入れ替える「新常識」。そう言葉を置き換えるだけで、人の許容度はこれほどまでに変わるものかと思う。

こんな言葉の差し替えと認識のこんがらがりが、SNSでは個人から多数へと伝播されるたび行われている。無意識のもの、恣意的な操作が混じり合っている。それだけで途方に暮れて、またしばらく固まってしまう。

ビジネスコミュニケーションの常識が変わっていくのは、私も目の当たりにしてきたから分かるぞ。郵便から電子メール、メールからSlackなんかに変わっていって、今じゃメールを日常的にチェックしない人もいるそうじゃないか。私も見落とされた経験がある。

私は相変わらず日常的にメールチェックしている(そしてSlackを日常使いしていない)旧態人間だが、郵便ポストを毎日必ずチェックする習慣は途絶えたクチなので、高橋源一郎さんの「これは、アレだな」みたいな感じで理解はできるのだ。

自分のほうがアップデートしていない人間と思えば、読み落とされても許容できる。まぁその人も大事な人からのメールは読み落とさなかったりするのだろうが、そこでいじけても仕方がない。

それはそれとして、これは「自分として」新常識をどこまで取り入れて、どこは取り入れずに自分のこれまでのやり方に踏みとどまるか、あるいは新しいものをマージして自分のやり方にアップデートかけるか、そういう話に発展する。

これは激しい変化の時代を背景に敷くと、けっこう大事な見極めであり、頻発する意思決定の案件であり、個々に委ねられるところ大きい日常の創造的営みだと思う。「流行に乗るか反るか」とは一線を画す話だろう。

変化の激しい環境下では、自己の行動や考え方を柔軟に適応・順応させ、自律的にキャリアや状況を構築していくアダプタビリティ(適応能力)が必要だと言われ、プロティアン・キャリア(変幻自在なキャリア)が提唱されて久しい。

ただ、自分のアイデンティティを持たずんば、アダプタビリティは上手く働いてくれない。「自分はこう」という足場たる自己意識がないと、どこを時代変化に適応させて変えていって、どこは自分のやり方として残し続けるのか、自分としてあり続けるのか、判断がつかない。足元が不安定だと、どんどんしんどくなっていく。

「お礼を言わないのが新常識だか今どきの流行だか知らんが、自分はこの件について、この人にすごく感謝の気持ちをもって、気持ちを届けないではいられないから送る」という、そういうものがあったら送ったらいいし、そんなふうに思って自分の日々の行動を選択して生きられたら、それこそが人間本来の健全な生き方だろうと思う。

逆に、形式的なお礼の送信なら、新常識に差し替えて無くしたところで痛くも痒くもない、合理的な判断ということになろう。形骸化された運用マニュアルにのっとって、AさんにもBさんにも名前のところだけ差し替えて同じ文面で送りつけているだけのお礼メールなら、ただちにやめて、他の仕事に意識と時間をあてる、ネットのトラフィック量を減らしたほうが合理的だ。それはそれで、そうですねと思う。

人に何かしてもらって、ありがたいなぁ、嬉しいなぁという気持ちが、せわしなさや慌ただしさの中で、芽生える機会を損失しているなら、今こそ取り戻せる時機かもしれない、そうとも思う。

コスパ、タイパを追求した先に得たいものがなんなのか、よくわからない発言を聞くことも多い昨今。私個人的には、お礼の気持ちをもつのって、それを届けられるのって、とても幸せなことじゃないかなぁと思う。

ありがたいことって言葉通り、実は「有るのが難しい」ことだし、感謝を相手に届けられるのも実は当たり前のことじゃない。生きていてこそ、会える人であってこそ、届けても迷惑じゃないだろうって思える人だからこそ、届けられるのだ。人生の限られた時間にしか、その人にそれを届けるってできないことだから、実はけっこう貴重なのだ。

なんて、そういうことを、ここに書いた何倍もうにょうにょ寄り道して考えてしまうから、どんどんとっ散らかっていって、いっこうに文章が着地しなくなる。こういうのを、そのまま描き散らかしていくのも、それはそれでありかもしれないが。noteじゃない、ココログだしな、とも。

2026-01-28

ミドルシニア層のための 自己診断「アイデンティティの状態」

思うところあって「中年期のアイデンティティ再探索」をテーマに最近いろいろ読んだり考えたりしている流れで、今の自分の「アイデンティティの状態」をセルフチェックできるプチスライドをこしらえてみた。

Selfcheck_identitystatus

12のリストを読んで、一番自分に当てはまるものを一つ選ぶ。下のリンク先からアクセスしてもらうと、4タイプ分けした診断結果とプチ解説が読める。

ミドルシニア層のための 自己診断「アイデンティティの状態」┃SpeakerDeck

たくさんの人に診断をやってもらいたいというわけではなく、自己診断の12項目のうち、自分に近しいものを考えてみると、けっこう中年期って「モラトリアムの再来」感があるなぁって思ったことを、同世代とシェアしたくなったというのが本音。あと最後につけた「モラトリアムは一生に一度じゃない」というアイデンティティのラセン式発達モデルを共有したかった。なので、とても簡易なスライドだけど、そこはご愛嬌。

なんというかな、ここに出てくる「将来のことは」っていうのが、若い頃だったら「20代とか30代とか」をイメージしていたのが、アラフィフになってみると「60代とか70代とか」をイメージして、そのまま「今の自分のアイデンティティ状態」を問う設問として成立する感じ。既視感と切実感、懐かしさと新鮮さが同居する文が並んでいて興味深い。

ちなみに「モラトリアム」にネガティブな印象をもつのは日本特有らしく、ポジティブか中立なワードという話。人生二度目のモラトリアムは、少し余裕をもってそれ自体楽しむのもありかも。こういうのは、気にしないときは本当にどうでもいい話題だと思うけれども、ふと興味をもつ時期が各々に巡ってきたりする。というわけで、ネットの片隅においておきます。

より以前の記事一覧