2026-05-19

セリフの主の男女を入れ替えてみる思考実験

小説を読んでいて、ちょっとした思考実験を思いついた。主人公が、以前つきあっていた彼(川名君)と別れた理由を訊かれて答えるシーン。彼女のセリフは、読者によっては「痛恨の一撃!」とも読めようか。

「最初の頃、川名君は楽しそうに見えた。それは私が川名君の詳しい話題に関心を持って大人しく聞いていたから。でも、多くの男性と同じで、彼は目の前の女が興味を持っている話題については考えようとしなかった。どんなことで傷ついて、どんなことで幸せを感じるのかも。優秀な男の人ほど、そんなことは知らなくても自分が魅力的でありさえすれば愛されると思い込んでるみたい。だけど私が求めていたのは、たった一人の言葉が通じる相手だったから、川名君とは別れた。彼は多少傷ついたみたいだけど、本当は自分のほうが惚れられていると思っていたからプライドが傷ついただけだと私は思っている」

どうだろうか。私は正直この手の「男女の構図」解釈が苦手で、「これって性別関係なくない?人間そういうタイプの人は男にも女にもいるし、そうじゃないタイプの人も男にも女にもいないか?」という読み方をしてしまうタチだ。

それはそれで、やかましいタイプの一例という自覚はあるので、あまり大きな声では言わないが(その手のことを知り合いの女性に話して、ダメな男をみる眼差しを浴びた経験が少なからずある。しかし、それもまた「男」がダメなのではなく「ダメな」がダメなのであってだなと思う面倒くさいやつなのだ)。

しかしまぁ、自分の手元で思考実験するぶんには人を不穏な気持ちにさせることもない。ちょっと気になって、上のセリフを「男性が彼女と別れた理由」に入れ替えてみたら、どういう印象をもつものだろうかと試してみた。

「最初の頃、加奈子は楽しそうに見えた。それは僕が加奈子の詳しい話題に関心を持って話を聞いていたから。でも、多くの女性と同じで、彼女は目の前の男が興味を持っている話題については考えようとしなかった。どんなことで傷ついて、どんなことで幸せを感じるのかも。モテる女の人ほど、そんなことは知らなくても自分が魅力的でありさえすれば愛されると思い込んでるみたいだ。だけど僕が求めていたのは、たった一人の言葉が通じる相手だったから、加奈子とは別れた。彼女は多少傷ついたみたいだけど、本当は自分のほうが惚れられていると思っていたからプライドが傷ついただけだと僕は思っている」

どうだろう。私的にはイケる気がする。つまり、別に性別とか関係なくない?という気がするんだけれども。もともとそう思っている私が思うだけでは、何の検証にもならないよな、と思って、終わった。

私は人の話を聴くのがめっぽう好きだし、女性なのだが、自分のほうに下手に関心もたれて気持ちを読もうとされると気疲れするほうなので、「伝えたいことは伝えるから変に詮索しないでくれ、そのほうが気が楽だ」というタイプである。「一貫してそういう人間だ」と言えるほど足腰しっかりもしていないが(人間だもの)、それはそれで自分の責任として請け負う腹づもりでもある。

もちろんだが、以上のことは主人公のセリフに考え巡らしたことであって、別に作品や作家に文句を言っている話ではない。この小説の中にも後半、「こちらから一方的に与えておいて、返って来ないと失望してしまう」のは無しよねって話がある。

自ら、気にしなくていい、という態度を取っておいて、今になって創にお金のことを持ち出すなら、最初の段階でもっと慎重に相談してはっきりさせておくべきだったのだ。

とあって、まさに「それな!」なのであった。作家の懐の深さに身をゆだねさせてもらえる、すごくいい小説だった。

上のネタは、いい感じに意見交換できる相手が身近にいらしたら、くれぐれもクローズドな空間で、話題にして読み比べてみて意見交換のネタにでも使ってみていただければと思うが、「ご利用は慎重に」である。一枚画像も置いておく。右のが元の文章で、左が私が男女入れ替えた版。

セリフの主を男女入れ替えても成立するか思考実験

セリフの主を男女入れ替えてみても成立するか

* 島本理生「ノスタルジア」(河出書房新社)

2026-05-17

村山由佳「DANGER」を読んで

村山由佳さんの「DANGER(デインジャー)」を読んだ。村山さんのお父上は、終戦後も4年間シベリアに抑留された。その抑留生活のことを、80歳を過ぎてから自叙伝に書き記した。その手記が、この小説の土台になっている*という。

主人公の一平(いっぺい)は25歳で、週刊誌の記者。同じ出版社で働く果耶(かや)先輩は27歳。今回ふたりがタッグを組んで取材する世界的バレエ振付家の久我(くが)氏は72歳。

そして読者の私は50歳、ちょうど真ん中に位置する。といっても、このお話は「今現在1992年」という設定なので、実年齢的には私のほうが主人公より1世代下にあたるが。

なんでそんなことを思ったかというと、読みながら久我氏の「伝える側」の気持ち、一平の「教わる側」の気持ち、どちらにも多分に共鳴するところがあったからだ。

50歳というのは、世代違いの後輩に「伝える側」にも立つし、世代違いの先輩に「教わる側」にも立ち続けている年代。あらためて、そういう自分の現在位置をみとめる読書体験だった。

20代より30代、30代より40代と歳を重ねるほど、伝える相手・教わる相手どちら方面も、年齢射程が広がっていくように思われる。直接対面して関わる相手もそうだし、本の著者など間接的に関わる相手も含めて。

それは別に、私の活動領域が広がったり活発になってという話ではなく、じわじわ自分のキャパシティや関心領域が広がりを帯びていった結果、微細な自然現象のように体感される。

興味をもって手に取る本も、若い頃に比べれば(あくまで過去自分比だが)多分野に広がっているし、百年前の歴史、数百万年前の人類史に興味を持ちだしたのも歳をとってからだ。

主人公の一平がいう「日中戦争から太平洋戦争へと至る道筋で起こった出来事、すなわち満州事変、盧溝橋事件、南京大虐殺、ノモンハン事件などなどについて、一応知っている」にも及ばない知識で読みだした私だが、読みながら一平に追いつき(整理したり調べたりして)、一平と同様「別もの」に思えるまでの機会を授かった。

<久我一臣少年>という具体的な存在をそれらの中心に据えたうえで眺める戦争は、これまで知っているつもりになっていたそれとはまったく別ものに思えた

西暦何年に何があって、その事件の経緯はこうで、それがどう展開したのかといった歴史的事実と別に、そこに生きて暮らしていた一人ひとりがいて、その生身の声に耳を傾けることで初めて想像がおよぶこと、汲み取れること、引き継げることがある。

僕がこれまで漠然と<過去の歴史>だと思いこんできたことの多くはもしかして、同じ今を生きる誰かにとっての<ついこの間の出来事>なんじゃないか。

小説は「過去の歴史」を「ついこの間の出来事」に置き換えてくれる力を与えてくれる。我が意を得たりだった。

僕は、腹に力を入れて見つめ返した。いま怖じ気づいてこの川を渡る覚悟をしなかったら、おそらく久我氏は僕らのことを諦めてしまって、そのぶん、ものすごく手加減して付き合おうとするようになるんじゃないだろうか。僕らの想像力が、彼の人生にどれだけ追いつけるものかはわからない。彼の言うように<想像しろというほうが無茶>なのかもしれないけれども、試してもみないうちから、話してもどうせ無駄だと思われるのだけは嫌だ。

そう言って、一平は「すみません。本来、こんな乱暴な訊き方をしていいような話じゃないってことはよくわかってるんです。ただ…」と喰らいつく。

私たち50歳には、まだ多くの先輩がいてくれる。けれど、怖じ気づいたり、あきらめてしまったり、面倒くさがったりしてしまえば、ここでバトンの引き継ぎは途絶えてしまう。

喰らいつく、ということを、自分は「教わる側」としてどれくらいできているだろうかと省みる。自分なりの度胸と関心と力量でも、まだまだできることはあるな、と思う。

インタビューに応じる久我氏の「伝える側」の胸のうちに、励まされる。

自分ひとりだったら思い出したくないことでも、真剣に聴いてくれる相手が目の前にいるのであれば、一度はちゃんと言い遺しておこうかという気にもなる

「伝える側」に回ってみれば、相手に喰らいつかれることで奮い起こされる勇気、引き出される伝承行為というのも、あると思う。

伝承に値するようなものこそ「伝える側」に立てば、そんなに簡単に口を開く腹が決まらないことだったり、言葉にするのが困難だったりする。思いつきでしゃべっては、伝えたいことの真髄がうまく伝えられないのではないか、そういう恐れも湧いてきて一筋縄でいかない。

教わる側、伝える側が、ある種結託するようにして力を出し合って、刺激しあって、お互いへの期待を持ち寄ったり、相対しながら信頼関係を育てていかないと、なかなかうまく運ばない伝承について思い耽る。

作品を読み終えてしばらくしてから、村山由佳さんのインタビュー記事*を読んだ。

戦争の話を聞いて育ち、作家になり、若い読者もいる。ちょうど間に立つ自分が、戦争のことを書かないでいるのは「怠慢だ」という思いをずっと抱いている。「まるでその場にいるかのように物語に入り込む小説だからこそ、手渡せることってある気がするんです。小説の力を信じていきたい」

「ちょうど間に立つ自分が」と読んだ時、あっと思った。この小説を読みながら、「ちょうど真ん中に位置する」と思った自分とリンクした。彼女が手渡そうとしたものを、手を差し出して、今の自分なりに受け取れた気がした。

*村山由佳さん「DANGER」 父のシベリア抑留経験が土台に「小説の力を信じ」戦争を書く┃好書好日

2026-05-16

河鍋暁斎の作品展を観てきた

六本木のミッドタウン内にあるサントリー美術館で、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)の作品展を観てきた。絵画鑑賞などド素人なのに、物語世界を楽しむような鑑賞体験で、とても楽しかった。幕末・明治期の絵師で、当時の風俗がユーモラスに描かれていて、風刺がきいていてコミカル味たっぷり。

当時流行したイベント「書画会」に来て、美術品と知識をひけらかしている文化人気取りの人々の鼻を全部天狗にしている「天狗たちの書画展観会」だとか。鬼が、湯気あがる徳利を背にして真剣に鰹をさばいている「酒のツマミに鰹を準備する鬼」だとか。

掛け軸「五聖奏楽図(ごせいそうがくず)」の異色コラボも目をひいた。十字架の上に、扇と神楽鈴を手に持った「キリスト」。その真下に「釈迦」がいて三味線を、その左横では「老子」が笛を吹き、いちばん手前で「孔子」が鼓をうっている。こういう一枚絵が成立できるんだなぁと、しばし掛け軸を見つめていた。

絵の種類もいろいろで、じっくり描きこんだ掛軸、巻物、屏風から、イベント会場で即興的に描かれたらしい扇まで様々。即興上手だったので、たいそう人気者だったらしい。
酒飲みで、調子に乗って描いた絵が見咎められて逮捕、投獄されたりしている...。翌年放免後も活躍。

一枚の絵の中に、何十人もの登場人物(蛙や猫、鬼や神様のものも)を描きこんだ作品も楽しく、一人として同じ感じの人がいない、誰に注目しても個性や性格が透けて見えるのがすごい。

それを通じて、暁斎が筆をもって描いていた時間へワープするような引力がはたらく。あぁ、こんなふうに人物をみて、こんなふうに激変の時代を観て、こんなふうに皆でわいわいやりながら暮らしていたんだと。素人にもそんな作用を及ぼすなんて、おもしろいなぁと思った。

構図で物語が浮かび上がり、登場キャラクターで個性と愛嬌が湧き出て、描線や色彩によって世界が確かなものとして観る側の脳内に受け取られる感じ。

圧倒的な画力をもってこそ、自由自在に描くことを楽しんでいる感じがうらやましくもあった。文章でも絵でもいい、そういう表現力を「自分はこれだな」と何かしらがっちり基礎力で持っているのって、やっぱりなぁ、いいよなぁ、やっぱり訓練かーと思う。

* ゴールドマン コレクション 河鍋暁斎の世界(サントリー美術館)

2026-05-04

善いことをした後の用意はできていない

中身のたっぷり詰まった大きなゴミ袋が2つ、都会のど真ん中の、大通りのど真ん中に落ちていた。少し前に走り去ったゴミ収集車か何かの落とし物だろうか。それにしても2つとも丸々と大きく、落下地点も車道のど真ん中すぎる。

片道3車線だかの幹線道路とはいえ休日の朝方だったので車の往来は少なかったが、それだけに今まさに通らんとしている信号待ちの大型トラックが2台、その後ろにつく普通車1台の存在が際立って見えた。

私はそちらに向かってジョギングしている最中だった。赤信号をはさんで手前側に私、信号の向こう側に車が3台。人通りはなく、私たちの世界に他に動くものは何も存在しなかった。これは、やるっきゃない。

私は、車道の赤信号が青になるまで、もう数十秒はあると見当をつけて、前後きょろきょろしながら車道に走り出た。ど真ん中に転がるゴミ袋を2つ、右手と左手につかむと、思いのほか重たくないのにほっとしながら一気に歩道の端っこへ運んで事なきを得た。歩道にあがって数秒後、車道の信号が青に変わった。

ここまでは良かったのだが、この後の用意がなかった。急にどぎまぎしてきた。恥ずかしくなった。この「ジョギングのねえちゃん、窮地を救う」のドラマは、車高の高い大型トラックの運転席から真正面で鑑賞されたはず、二人の目に入っていないことはありえない。もしかしたらそれぞれの車内に感動増し増しのBGMすら流れていた可能性がある。

しかし、歩道から二人を見上げて「私、いいことしたでしょ」と問いかけるような笑みを見せるなど、昭和かたぎの私にはできない。ジェスチャーではどうか。さっと親指を上にあげて見送る、いや、欧米すぎる。自然な表情でにこっと笑ってバイバイと手を振る。バイバイ手を振るジェスチャーは昭和時代からあったろう?いや「自然な表情で」と心中で思っている時点で、ひきつり笑いになる公算が大きすぎる。

打つ手なし。と、これは秒にして3秒くらいの逡巡だが、結局寡黙に3メートル先の地面を向いて歩道をタッタと走り去った。

今思い出しても、これが最適解とは思われない。きっと、あそこでいくらかのノンバーバルコミュニケーションというのが成立させられれば、世の中に生まれる幸福の総量は微増したはずなのだ。しかし私には手立てがなかった。この不器用は、なかなか後をひきずった。せっかくいいことしたのになぁ。

2026-04-30

プチ講義「前回のメタ振り返り」のススメ

議論がどうも決着しない。決して意見が出ないわけではないのだが、みんなの発言をうまく秩序立てて整理し、次に展開させたり、決着をつけたりすることが難しい。そういう現場に入ってサポート役を果たすに際して、これはやって良かったなという介入策をシェアしたい。ちょっとしたことなのだが、どこかの現場の一助になれば。

私がしたのは、まず、その現場の話し合いに入って、ファシリテーター的にあれこれ質問を投げては話を聞きこむ(もちろん下準備して臨んでいる)。なるほど、そういうところで話が詰まってしまうのだなというのを感じ取りつつ、「それはこう考えてみたらどうか」「おぉ、それでいけそう?」というので、じゃんじゃか壁を突破していって、とにかく議論を前に進めていく(という壁突破の体験を皆さんにしてもらう)。

だいたい落としどころが見えたところで、「じゃあ今日の皆さんの話を踏まえて、こちらでプロジェクト計画書のたたき台を作って、翌週のミーティング前にファイルを共有するので、それをもって次のミーティングで計画書のフィードバックをください」といって解散する。

翌週、事前に共有したプロジェクト計画書のたたき台をベースに、「先週の皆さんの話を踏まえて、こういうプロジェクトとして動かしてみたらどうかと考えてみたのだけど、どうでしょうか」と、一通りのプランと、そう落としこんだ意図を丁寧に説明する。みんなから意見や不安、懸念点などじゃんじゃん挙げてもらってチューニングをかける。

「おぉ、なんか、いい感じにプロジェクトを始動できそうじゃない?」となって次の展開が定まったところで、解散する前に一つ「前回の振り返り」コーナーを設ける。時間にして3分もないプチ講義。1週前にみんなで話したのが、今日ここまで落とし込めた。その前進できた感覚と、議論が着地した足場の安定感をもって、前回のことも快く振り返りやすい。

前ふりが長くなったが、ここからが本題である。

前回の会議では、まずみんなの「気がかりなこと」をいろいろ挙げてもらった。そう言って、まず最初のシーンをスライドを見せて振り返る。1週前のことなので、あれは誰々さんが挙げた件、あれは自分の発言だと、みんなの記憶も鮮明で「超自分ごと」で入ってくる。

(以下スライド画像は、クリックすると拡大表示)

Lecture01

ここで、私なりの(前回の会議の観察を踏まえた)仮説を述べる。「たぶん、これまで議論が平行線に終わってしまったり堂々巡りになってしまって、その自覚はあるのに脱出方法がわからないで困っていたというのは、この1つ目のところで話が終わってしまっていたからじゃないか?と。

だから、ここでダメだと思わずに、「じゃあ、どうしたら?」という問いを立ててみるのを意識的にやると、突破できるのでは?そうやって皆が現場にいた「前回の会議」をネタにして、実務スキル的な側面にフォーカスして、何が壁になっていて、どう突破したらいいかを提案する。

Lecture02

「なるほど」と腑に落ちた様子を示したら、前回みんなで体験した「その先、どう話が展開していったか」を構造だてて振り返っていく。前回の話し合いでは、みんなから挙がった気がかりに対して「こうしたらできるんじゃないか」って現実的な結論を、一つひとつ出していった。それを「挙がった気がかり」と「出した現実的結論」を対応づけて確認していく。

Lecture03

その後、それを実際にやっていくには?って考えると、「全部を一気にやるのは無理」「直近のプロジェクトでは、こういうことを重視したい」「この順でやったほうが能率的、これは後」って、必然的にプロジェクトの焦点や範囲、ちょうどいいサイズ感、手をつける順序が見えてくる。そうすると、今回落とし込んだようなプロジェクト計画の骨子というのが、自ずと立ち上がってくる。

Lecture05

こんな感じで、前回の会議が、時系列でみて、どう展開し、構造的に枠組みすると、どういう展開だったかを1枚スライドで見せる。

つまり、ファシリテーター(私)の脳内でどう観察され、秩序立てられ、会議時間が進行され、今日のプロジェクト計画書に落とし込まれたかを、大きな流れとして見直し、掴み直してもらう。このメタ的おさらい時間を仕込むのは、なかなか学習に効果的ではないかと思った。

私は別に、ファシリテーションのプロでもないし、マネージャーやプロジェクトリーダーとして敏腕なわけでもない。だから「手本を示す」というより「サンプルを示して参照させる」「自分の視点と対照化させるための材料を提供する」くらいしかできないけれど、これでも反応が良かったので、もっと敏腕の主が、こういう「前回のメタ振り返り」をプチ講義すれば、もっと効果的な学習機会になるのではないかと夢みる。

演繹的に学ぶ教材に取り囲まれた現代において、現場で帰納的に学ぶ教材・学習機会が相対的に乏しく、頭でっかちになって足踏みしている若者に触れ合うことが少なくない。ここを突破する手を差し伸べられるのは、個別具体の文脈を共有する、われら名もなき現場の先輩たちじゃないかと思う。上のは一例にすぎないけれど、現場の「効く」人材育成施策を発想する一助なり手がかりになれば幸いなのだった。

2026-04-26

クローズドな空間で、伝えたいことがあるんだ

ちょっと前の話になるが、4月に入って早々、大学生向けに授業をさせてもらった。授業のタイトルは「作品批評のリテラシー」、相手は入学して間もない1年生300人ほど、単発授業90分の一本勝負だ。

この授業を始めて、実は今年で3年目なのだが、大学側にこれの著作権まわりを譲りおさめたものと思いこんでいたので、これまで具体的なことは一切口外しないでいた。そのことを察した大学側が声をかけてくれ、それが私の勘違いと発覚したので、今さらながらちょっと書いてみている。

といっても何か一言触れようとすると、あれもこれもと脳内で絡みついてきて端的に書くのが難しいので、結局ちょっとしか書けないのだが。それだけ思い入れがあり、作りこんでいるコンテンツであり、終えた後の充実感とかは、私の中でけっこう、相当なもの。その熱の帯びぐあいが「いつもの林さんとちょっと違う」らしく、大学の依頼主がにこにこして私の顔をみている。お恥ずかしい。

もともとのご相談は、これから学生が自分の作品を世に出していくときのメンタル面の足場作りだった。そういう機会を、入学早々に学生に対して一つ授業として設けられないだろうかと。それを受けて私が提案したのが、「メンタルケア」の枠にとどめず、「メディアリテラシー獲得」の一環として授業を立たせたほうがいいのでは、というコンセプトの置き換えだった。

「あぁ、入学オリエンテーションとして、メンタル云々のお話ね…」と聞き流されてしまうことなく、「え、批評っておもしろいし、批評されるって自分の作品やスキルを伸ばすことになるし、ただ玉石混交の反響を防御して、手厳しい指摘を巧くかわせるようになればいいってことじゃなくない?そんなことしてたら損するわ」って気づきを入学時に埋め込むことを、きちんとした授業の体裁をもってやってはどうかと。

それに大学側も乗ってくれて、意気投合して作り上げて、3年前に初回を行った。

「授業」というのは、つまるところ仮説に基づいて作り上げて、やってみるしかない。授業後に「やってみてどうだったか?」検証することになるわけだが。

大学側のフィードバック、そして授業に参加してくれた大学一年生の授業後アンケート数百人の声を聴くと、自分の仮説がどんぴしゃはまっていて、しかもきちんと届いて、それぞれに受け取ってくれているのがわかって、泣けたさー。自分の経験と今回の授業がどうつながったか書いてくれていたり、授業のここのところで自分のこういう思いこみに気づいた、大学生活でこういうふうに自分を変えたいと思ったなど、かなり丁寧に書いてくれる人がたくさんいる。

本当に一通一通が、自分宛てのお手紙のように読めて、涙が出るほど嬉しく、ありがたかった。なんて尊い経験をさせてもらっているのだろう。

自分が仮説をもって「こういう思い込みがあるかもしれない」「けど、そうではなくて、こう」と、石をどかすようなシナリオを組んで、演出を凝らして、うまくはまるケーススタディや演習課題をこしらえて「どうぞ」と提示したものを、こんなによく噛んで食べてくれるなんて。

とりわけ「知っている・わかっている=できている」と混同していた、思い込んでいたことに気づいたという声は、自分の授業設計の総合力を注ぎ込んでいるので嬉しい。

授業は、相手にわかりやすく順序立てて構成すればいいのではなく、ここぞというところに落とし穴を掘っておいて、しれっと導いて落ちてもらって、そこから腕を伸ばして引き上げて、と一緒に歩いてもらって進めないと、本人に「できていない」状態への気づきを与えることはできない。趣向のこらしどころだ。

あと今年の授業で、これまでより明確に伝えるようアップデートしたのが、「第一印象をもつことと、その後リテラシー能力を発揮することとは別物」という話。前者は自分のコントロール下にない。そこを下手に「私はこんなことを思う人間じゃないわ」とかいって思うこと自体を否定したり、見て見ぬふりして無意識下に押しとどめるようとすると健康に良くないのでお勧めしないと伝えた。

誰だって第一印象で、自分でもぞっとするようなことを思ったりはするものだ。最初にどんなことが思い浮かぶかは、自分にはどうしようもないことだ。そこをコントロールしようとするのではなく、その後が大事。「でもな、こういう見方もあるかな、ここはどうなっているんだろうな」と、解釈を広げられたり、疑問をもって調べられたり、自分の見方をアップデートできるリテラシー能力を発動できるか。そこに能力開発の頑張りどころがある。そこを、取り違えちゃいけないと話した。

これにアンケートで反応してくれている声もいろいろあって、すごく嬉しかった。ややっこしい話だからアンケートに書くのも骨が折れたろう。

自分が作ったものに対するフィードバックを受けたとき、作品批判と人格否定の分別が難しいという話も、よく反応がある。ここを分別するのは、けっこう訓練がいることだという話は、知識として知っておいていい。ここへの反応を読むと、あぁ、やっぱり伝えて良かったなと思う。

自分はこれまで、友だちが作ったものに対してネガティブなことを言うのはひどいことだと思って、やらないのがいいことと思っていたけれど、ネガティブなことでも率直に伝えてみることで広がる発想、改善の糸口が見つけられること、そうやって世の中の製品やサービスが良くなっていることを感じ取ってもらえた声もあって、それもまた嬉しく、趣向を凝らしてやった甲斐があったと思う。

この4年間でいろんなフィードバックをしあう関係が築かれ、経験に裏づけられた基礎体力(メディアリテラシー)がそなわって、そうやって社会に出ていってもらえたらなって思う。きっと手厳しい先輩のフィードバックの受け身を、今よりずっととれるようになっている。

クローズドな空間で、あなたになら、こんなことを伝えたい。私は、そんなふうに駆動するんだなぁと思ったりする今日この頃。結局だらだら長くなってしまった。

2026-03-09

50歳になった

これまで年齢の十の位が変わる時にも、それほど気負いなく誕生日をまたいできた気がするのだけど、さすがに自分が50歳というのは、ちょっとインパクトがある。が、そういうことになった。

早生まれなので同級生は一足先に50代にあがっているし、ちょい上の兄さん姉さんがたもご活躍なので、その後をついていく心強さはある。

一方で、「自分の道をゆくのは自分だけ」ということもわきまえているお年頃。私は脱サラして相当のんびり自己流で暮らしているので、自分なりの清閑な成熟の道をゆかねばと気の引き締まる思いもある。

昨日までは40代だったわけだが、この十年をかけて、今ここにあるものに感謝すること、もうここにないものを求めないこと、私に遺してくれたものを大事に育むことに精進した気がする。おかげさまで、ずいぶんと自然体で潔く五十路の入り口に立っている気がするが、どうかな。自分の評価というのは当てにならないものだ。

五十路初日、すこし前に読んだ「アイデンティティの心理学」*を再び手に取った。哲学者の森有正さんの、こんな言葉が引いてある。

本当の孤独というのは、経験──他人によって置きかえることのできない経験そのものであって、孤独であるということが、つまり、人間であるということだと、思うのです

「人間を生きる」となれば必然的に「孤独を引き受ける」ことになる、とも解釈できようか。

「経験する」ということは確かに、どんなに同じ時間、同じ場所で、同じような体験をしたとて、他の人とまったく同じということがない。人それぞれに違う「経験」をしていることになる。とすれば「経験する」には「孤独」を切っても切り離せない。それに「生きていくとは、経験することだ」と継げば、「生きていくとは、孤独を引き受けることだ」とも、個人的にはすんなりつながって見える。

これは、他人の経験をいくら聞いたところで、また他人が教えてくれる理論、フレームワーク、概念知識、ノウハウ、事例、教えの数々を要領よく頭に入れたところで、自分の感覚と経験を通して時間をかけて獲得しなければ、大事なことほど自分の何にもならないという話にも通じている。

自分の経験に孤独さ(あるいは独立性)を認めることで、見えてくる自分がある。認めることなくして、自己には出会えない。そういう話でもある。

私の解釈は、独立性、自律性、自立心といったものとグラデーションでつながっているような「孤独」なので、上で説かれているものより、ずっとあまっちょろいものかもしれない。

でも森有正さんの次の一節は、たぶん50歳になった今だからこそ、しみわたるように解せるのだ。

ひとつの生涯、あるいは一個の自己というものが、どれほどの生々しい凄惨な現実をそのうちに蔵していることであろう。それを徹底的に味わい尽くし、感じ尽くさなければ、一応形式的に確立された経験も形骸に過ぎぬものとなり、人生は酔生夢死に等しくなってしまうだろう。

これを心して、五十路を大事に生きねばなと。

ちなみに40代最後の昨日は、毎週末恒例の父との映画館。ついに父と一緒に観た映画が150本に達した。つまり、この習慣を始めて丸3年ということだ。

晩にはふと思い立って、久しぶりに母の写真を取り出して眺めた。そしたら、なんだかぽろぽろ涙がおっこちてきた。自分でも不思議だった。挙げようと思えば理由はいろいろ思い浮かぶ、どれか一つということもない。ただ、彼女は59歳で亡くなったから、自分が50代に足なみそろえる段になってみると、そりゃあ、きつかったよなぁ、という思いがめぐったのは確かだ。大切に生きねばな。

* 鑪幹八郎「アイデンティティの心理学」(講談社現代新書)

2026-03-07

提供された価値は「ものさしの測定結果」か「ものさし自体」か

AI開発企業のアンソロピックの報告書「AIによる労働市場への影響:新たな測定法と初期の実証」(*1)が話題になっているが、核心を突いて解きほぐしてくれていて有り難かったのが@finalventさんのnote(*2)だ。私は野生の勘で思っているだけだが、この手のものは核心をはずして読み取ると馬鹿をみるよなぁと思う。

ネット上を飛び交っているのは下のグラフで、「AIが労働市場にどのような影響を及ぼしているか」を職業カテゴリー別でマッピングしたもの。青い領域が理論値、赤い領域が実測値。

パッと見て、青の広がりに対して、赤の狭さが印象づけられる。つまり「理論上AIに代替される業務」は広く想定されているが、今のところ「実際にAIに移行している業務」は限定的だ、ということを示している。

職業カテゴリー別の理論的な能力と実測された露出度

Theoreticalcapabilityandobservedusagebyo

青と赤の隔たりを示したところに、この報告書の価値があるのは間違いないが、それが核心ではない。赤を測定する新しい「ものさし」を提案したことに核心がある。そこのところを分かりやすく示してくださったのが、@finalventさんの文章だった(ものさしの解説は文末のリンク先からどうぞ)。

赤い領域、つまり現時点ではまだ限定的な「実際AIに曝されている度合い」を測定する新しい「ものさし」自体を提案し、このものさしを使って今後の変化をできるだけ正しく定点観測していこうという野心的試み、そこに一番の価値がある。だからタイトルが「新たな測定法と初期の実証」となっているわけだ。

その上で、今回の観測においては次の辺りがポイントなのかなと。

●現状でAIの導入が進んでいるのは、「知的だがパターン化しやすいタスク」が業務の中核(文書作成、情報の要約・整理、定型的な分析)、かつ「業務フローの中に組み込むインセンティブが明確に存在する分野」

●AIの労働市場への浸透を決めるのは「AIに何ができるか」だけではなく、「現場がそれを使う動機と条件を持っているか」が同等以上に重要

●AIの影響が出ているのは、解雇の増加ではなく、若い世代の採用鈍化

それを踏まえつつ以降はただの呟きにすぎないのだが、私がどうにも気になってしまうのは、この「職業カテゴリー」という基盤の脆弱さだ。

AIによって職業がどうなる話が沸騰するたびに、私はどうしてもこの基盤の脆弱さにやきもきして、話半分に聞く姿勢になってしまう。

職業分類こそが、既成概念のかたまり。こんな変化の時代には、どろどろに溶解して実態を伴わず、言葉の有用性を著しく損なっているラベルだのに。そういう言葉を使ってものを考えることのリスク、本質に辿り着かぬ思考停止、中身のない議論、砂上の楼閣みたいなのが脳内に渦巻いてしまって、これで何かを得ようという思考の働かせ方そのものに軽薄さを覚えてしまう。

プログラマーは職を失うとか言うが、単純にいって「できるプログラマー」は別の職業名(役割)を作りだすだろう。「できるカスタマーサービス担当」だって、今はない別の職業名を作っていくだろう。需要高い特定分野に専門特化する方向、今はない高度レベルに市場開拓する方向、今はない産業で働く、いくらでも未開の地を開拓しうる。

調理師やライフガードは職を失わないとか言うが、「できない調理師」「できないライフガード」「できないバーテンダー」は、いま影響度ゼロでも生成AIに代替されるだろう。機械対応でOK、自動システムで十分になる。そういうことではないか。

そこに需要があれば、一人が担ってちょうどいいサイズ感や質感の役割の束を作って、新しい職業名になっていくし、新しい職業名にならずとも、ある職場の、ある職務を遂行してもらうための1雇用枠は成立する。

今後、それぞれの分野で、さほど固定的で汎用的で明確な職業名は作られなくなっていくかもしれない。そうそう人の仕事上の役割を「束」でラベルづけして何十年と、意味をもって流通・活用させられる言葉って、作りがたくなっていくのではないか。

というか今だって別に、便宜的に職業名を使い回しているだけで、実態は千差万別なのだ。職業名にとらわれすぎて中身が薄っぺらい議論など、ここ何十年かを振り返ってみても蔓延っているし、企業側も個人側も頭を悩ましてきた。

だから、下手に全乗っかりしてこういうのを見るのは馬鹿を見るだけだし、報告書の主だってきちんと核心をつかんで活用してくれよって思っているだろうと思うし、んー、やっぱり「職業」を解体的にみながら「意味ある仕事をできる」ようになる仕組みづくりのほうに主眼をおいていくことが大事だよなって思う。

*1 Labor market impacts of AI: A new measure and early evidence┃Anthropic(2026年3月5日)
*2 AIは仕事をどう変えていくか?┃finalvent(2026年3月6日)

2026-02-28

本を読むとき、スマホをどこに置くか問題

スマホを「机の上に置いた状態」と「カバンの中にしまった状態」で、明らかに自分の読書持続時間が違うのは薄々気づいていたし、それ系の記事を読んだ記憶も今思えばあった気もする(が定かでない)。それが、まさに今自分の読んでいる本にそのことが書いてあったので、遅まきながら意識的に「スマホをカバンにしまって読書」してみたらば没頭しているうちに90分。「ほ、ほんまや!」とびっくりした。

書きものや作りものをしていてあっという間に時間が過ぎていることはあっても、読書に没頭していて気づいたら90分間経過というのは、はて私の人生にそんなことがあったろうか…と遠い目になってしまうほど過去に例が見当たらなかった。人体マジックショー。

「自分のスマホをどこに置いて」課題に取り組むかで、課題の成績に差がつくかどうかを調べた実験。調べてみると、2017年に米テキサス大学の心理学者エイドリアン・ウォード氏の研究チームが発表している。

1)実験内容

520人の大学生(スマートフォンユーザー)に「深く集中しないとクリアできない課題」を与えて取り組んでもらう。その際、「自分のスマホをどこに置いて」課題に取り組むかで、被験者を3グループに分けた。

Aグループ:画面のほうを下にして机の上に置く
Bグループ:ポケットかバッグの中にしまっておく
Cグループ:別の部屋に置いておく

ざっくり図にすると、こんな感じだ(クリックすると拡大表示する)。

Braindrain_q

つまり、Aは、自分の近くで視界に入る所に。Bは、自分の近くだが視界に入らない所に。Cは、自分の手の届かない遠くに置いた状態。どのグループも、サイレントモードに設定しておくよう指示を与えてある。

さて、集中しないとクリアできない課題を与えてやってもらって、3グループに成績差がつくかどうか。

2)実験結果

ずばり、成績にはグループで差が出た。スマホの置き場が、成績に影響を与えたのだった。グループごとの成績は、こうだ。

Aグループ(机の上)が、最も低い成績
Cグループ(別の部屋)が、最も高い成績
Bグループ(ポケットかバッグの中)は、Cよりやや低い成績

Braindrain_a

一連の実験を通じて、スマホの画面が下向きでも、電源がオフであろうとも、自分のスマホがそばにあるだけ、視界に入っているだけで、注意力が散漫になって生産性を下げてしまうことが実証された。

「スマートフォンのことを考えないでおこう」と脳が無意識で考えることが、脳の能力の一部を消費してしまっている、そういうことらしい。

3)今後の活用

というわけで、「スマホを視界の外に置くと、集中力が持続する」という話だ。まぁ実生活で、とくに外出時にスマホを「別の部屋に置く」までして手放す状況はなかなか作れないが、今後は意識的に「カバンの中にしまう」ようにして、集中したいものに集中することに決めた。

2017年の研究だけど、自分的にはますます価値が高まっている感あるお話だったので、ここに共有。もはや時代と逆行すると思う人もいるかもしれないが、どこで使うかは、それぞれの考えどころ。私は個人的に、けっこう使いどころがある暮らしを営んでいる。

* 米テキサス大学エイドリアン・ウォード氏らの研究 "Brain Drain: The Mere Presence of One’s Own Smartphone Reduces Available Cognitive Capacity."(シカゴ大学出版局ジャーナル)

2026-02-24

選択肢の一つに加えようという話を、それに全とっかえする話と組み違えて糾弾する問題

中原先生のこのポスト、全然相容れないんだよなぁ。だけどポストの引用コメントを追っても、反対意見は全然つかない。一様に中原先生の「裁量労働制は反対」に賛同の向き。そして私も、異を唱える引用コメントをつける気がわかない。中原先生の書籍や発信活動にはお世話になったし、この大勢を前にモノ書く気にはなれない。まず、フィルターバブルに想いを馳せる。

「自己成長のために、今は長時間働きたい」という若者のニーズに応えるために「裁量労働を適用する」という論理を振りかざす。
ごくごく少数の事例をもって、「全体のシステムを変革するロジック」に用いるのはおかしい。
もちろん「自己成長を目指す若者」もゼロではないだろう。でも、それよりもっと多いのは「残業代が欲しいから、若いうちは、長時間働いて、稼ぎたい」だよ。裁量労働適用したら、残業代、みなし額以上には、出ないよ。

なかには「一部の声で全体を変えるのは反対」って賛同コメントもあるけど、別に全国一律どの企業も「裁量労働制に差し変える」話なんてしていないだろう、「選択肢を増やす」かどうかの議論だよな?

投稿文にも「裁量労働を適用する」って書いてあるけれども、「全部をそれに差し替える」なんて話はしていない。正しくは「裁量労働制を選べる対象範囲を拡大する」かどうかって話だろう。だから私には、「ごくごく少数の事例をもって、『全体のシステムを変革するロジック』に用いるのはおかしい」というロジック立てで糾弾している、そのロジックのほうがおかしく思えるんだよな。

一回落ち着きたい。

悪用する企業があるから「全体を差し替えうる」って懸念から、話が拡大解釈されてゆくのだろうが、こういう論のすり替えって、すごく不健全で、建設的じゃないと思うんだよな。

本来の「裁量労働制」って、働く本人(個人)が自己裁量で働き方を決められるところに価値があって、労使が望むなら、それも選べるのが多様性社会なんじゃないの?という話だと思うんだ。

この時点で「それは建前であって」ってつっかかってきて相手の話を封じにかかる人って、自分のほうが「本音と建前」を持ち込んで、無駄に議論を複雑化している気がする。最初から、裁量労働制の「本音」をつかみにいって話し出さないと、いつまでも本論に入れない。

もし、その本来価値が(一部の人には)確かにあるだろうと認めるなら、裁量労働制を成り立たせるときに、「不当な長時間労働に悪用する企業」をどう排除するか(発見して罰するか、予防するか)を、抱き合わせで論点化して、ある程度整備できたら導入すればいいという話。そういうふうに構造化・展開させる前、リングに上がる前から、はぎ落としにかかる感じが、もどかしい。

素朴に、素朴に考えて(私は素朴にしか考えらないのだが)。個人が「成長したい(自分ができること増えたらおもしろい)」と思うこととか、「自己裁量でやりたい(自分の自由にやりたい)」と思うことって、別に普通だし、そのほうが健全じゃない?って思うんだけど。労働時間も、労働時刻も、どう集中力を緩急つけて進めるかも。

多くの人がそう思えなくなっちゃっているなら、そう個々人が思うような社会づくりに取り組んでいくほうが、国の姿勢として真っ当じゃない?って思うのだが、ここからずれているんだろうか。

いや、「個人が自律的に生きることを目指す」なんて、国としてあるまじき指針立てだというご意見なら、はぁそうですか…としか返す言葉がないけれど。「組織の管理下に、労働者個人を従わせる」前提で、「労働者個人が害を被らないようにする」組織体制づくりを志向するのって、なんか20世紀な発想って気がしてしまうんだよなぁ。

「裁量労働制を労使の選択肢として認めた上で、それが悪用されない整備をする国」と、「悪用する組織が出ないように、個人裁量で働き方を選べる自由を認めない国」では、国づくりの姿勢が全然違う。

私は前者でいくべきと思うけど、中原先生は、そんな自由を許して、まともに活用できる個人など「ごくごく少数」だという理屈なのか。「そんな成熟した国民じゃないんだから」という理屈で、こう言っているってことなのか?

学者・研究者としての見識がそう言わせているのかもしれないが、私は「だとしたら、成熟した国民を増やせるような国の施策を考えて提言するのが学者や研究者の務めじゃないのか?」って思っちゃうんだよな。私の頭がお花畑な可能性もあるけれど。

なんで、大声で「多様性社会」を訴えながら「画一的な仕組みづくり」に邁進しているのかと思っちゃうんだよな。

中原先生の他の関連ポストも見ると、“「裁量労働でないひと」に「裁量労働制度」を安易に適用”しようとすることに反対しているみたいなんだけど、そりゃもちろん議論は進まない。

推進派は「裁量労働能力がある人」「裁量労働権を行使したい人」の自由・選択肢を国が封じ込んでいることに対して、選択肢としては認めるべきじゃないかって話をしているんだから。

アカデミックと産業を橋渡ししてきた中原先生だからこそ、私みたいな一実務者のもやもやもぶつけられるはめになっちゃって気の毒な立場なのかもしれないけれど。

なんか、こういう平行線の論点で、両者が踊って疲れて家帰って寝て起きて、何も進んでいないけど今日も1日働こうみたいな論点ズレが、識者の間でも、すごく多い気がするんだよな。「懸念事項が、目的を凌駕する」提案の潰し方というのが、好きくないのだなぁ。という長すぎる一市民の呟き、ここに眠る。


参考までに、すでに適用されている事業所で働く労働者に調査した厚生労働省の「裁量労働制実態調査(労働者調査)」によれば、適用者の満足度は「満足している」が41.8%で最も高く、次いで「やや満足している」が38.6%」。たすと8割がポジティブ。

(クリックすると拡大表示する)

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適用者本人たちの働き方の認識を、複数回答で問うた結果は、1位が50.4%で「時間にとらわれず柔軟に働くことで、ワークライフバランスが確保できる」。次いで、48.9%が「仕事の裁量が与えられることで、メリハリのある仕事ができる」。3位は45.7%「効率的に働くことで、労働時間を減らすことができる」。

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もっと詳しく知りたい方は、こちらのリンクから。

裁量労働制実態調査の概況┃厚生労働省(2021年6月25日)

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