2021-01-19

山口周「ビジネスの未来」が美味だった

ホタテのバター醤油焼きなみに美味だった山口周さんの「ビジネスの未来-エコノミーにヒューマニティを取り戻す」の読書メモ。

山口周さんの本は、事実と分析と主張と挑発と激励が全部入りで、知性と理性と感性と野性と全部詰まって書かれている感じが好きだ。単純なので挑発にのって奮起し、激励によって快い読後感を得る。

導入部の心奪われポイントを走り書いておくと(キャラ全然違うけど)。

ビジネスはその歴史的使命を終えつつあるんだよ。低成長、停滞、衰退だとか、売上・利益が伸びない、株価が上がらない、成長機会が見つからない、新規事業が立ち上がらないとか言うけどさ、「低成長」って言い換えれば「成熟」した状態ってことだろ。「高成長」できる余地があるってのは「未熟」だってことさ。私たちはもう十分に成熟したってことさ。このビジネスゲームは、もう完了しつつあるんだ。

過去200年、いやいや古代から振り返ったって「物質的な貧困を社会からなくす」って使命はもう達成されつつある。古代から2000年に渡ってずっと上昇してきたGDP成長率の推移は1950~1990年にピークを記録した後、下降局面に突入。この先もう一度盛り返す気配もない。私たちは人類史上、初めて経済成長率が上昇から下降に反転する瞬間を生きているんだよ。

そういう自覚がなくって、過去のノスタルジーに引きずられてしまっているのは愚かだよ。私たちは「経済成長」というゲームに不毛な延命・蘇生措置を施すんじゃなくて、このゴール達成を祝祭しつつ、新しい活動、新しいゲームを始めるタイミングにあるんだ。この世界を「安全で便利で快適な(だけの)世界」から「真に豊かで生きるに値する社会」へと変成させていくのが新たな使命なのだよ、と。

ウィリアム・ブリッジズ(米国の臨床心理学者&組織開発コンサルタント)は、「転機をうまく乗り切れずに苦しんでいるケース」には共通して「過去を終わらせていない」という問題が潜んでいると言っているよ。終焉をポジティブに受け容れて、次のゲームに行こうぜ、という話。

これは本の始めのところで話されていて、ただ問題提起するだけでなく、次のゲームってどういうことという話に切り込んでいく。なんか、元気もらったなぁ。

私たちが乗っかっているさまざまな社会システムはやプラットフォームは「成長が当然の前提」となっている1950年代から1960年代にかけて作られたもので、それによって日本の社会ではさまざまな軋轢や齟齬が起きている、現状とシステムの不整合が起きている。

まずは、思考様式・行動様式が「インストルメンタル」から「コンサマトリー」に変わっていく社会を自覚して、頭の中でこねて馴染ませて、自分の思考・行動様式、身近なところの当たり前に見直しをかけていきたい。

インストルメンタル
・中長期的
・手段はコスト
・手段と目的が別
・利得が外在的
・合理的

コンサマトリー
・瞬間的
・手段自体が利得
・手段と目的が融合
・利得が内在的
・直感的

労働と遊びが融合して一体化する見通しをもって、わがごととして考えるべきことは多い。

2021-01-09

新しい習慣を作りたいときは66回繰り返す

昨年末にオンラインで行われたATD Japan Summitで、脳科学を専門とするBritt Andreatta博士(7th Mind, Inc.)がお話ししていた新しい習慣づくりのメモ(セッションの中のごく一部なんだけども)。

習慣は、繰り返しから生まれる。何かを繰り返しやっていると脳が「これ何度も何度も同じことやってるから、低エネルギーパッケージにして自動操縦にしようぜ」って頭を使うのだと。

そのときに紹介していたマジックナンバーが、20、40〜50、66。
●20回繰り返すと、神経ネットワークが形成される
●40〜50回繰り返すと、脳がそれを習慣に変えて、自動操縦になって、考える必要がなくなる
●66回繰り返すと、ニューロンはかなり太くなる

とのこと。ニューロンは筋肉のように使うほど太くなるのだと。つまり「習慣づく」ということだ。ジョギングも2ヶ月くらい毎日走り続けると習慣としての安定感出てきた気もするし、体感的にもふむふむ感があって印象に残った話。

従業員や部下に習慣を身につけさせたいといった場合は、どうすれば66回繰り返し練習するようになるかの学習環境をデザインすると良いとも。

習慣づくりはかなり奥深いので、これはあくまでその片鱗の知見ということになるけれども。個人の習慣、成功する企業の習慣、社会の習慣づくりまでを論じた本だと、チャールズ・デュヒッグ氏の「習慣の力」*にはいろいろ詰まっていて興味深く読んだ。けれど、けっこう分厚くて(Kindleで読んだんだけど…)読み終えるまで大変だったので、とりあえずぱぱっと生活の支えになりそうな目安の数字のシェア&自分の備忘録として。「騙されたと思って」というフレーズが絶妙に合うわ。

*チャールズ・デュヒッグ氏「習慣の力」(早川書房)

2021-01-05

人に会えるのは生きている間だけ

3年前の年賀メールきりになっていた方が、2年ほど前に亡くなっていたことを昨晩知った。同じ世界に生きながら、私よりずいぶんと複雑な世界に身をおいて孤独に闘っている哲学者のような女性だった。

一人の人間という容れ物におさめるにはあまりに複雑な情報を感受せざるをえない精巧なつくりに生まれついてしまって、それを切り盛りできるだけの優秀な頭脳と精神とを持ち合わせてもいて、だけどもやっぱり人間だもの、いかに優秀といえ大変な苦労をしているように思われた。

私が一緒に過ごした時間はたいそう短く、やりとりしたメールも数少ない。けれど、いつも彼女は自分の本当の言葉を選んで、話して、書いた。そういう日々のことだけでも、大変なエネルギーを使っていたのではないか。手元にある彼女からのメールを読み返してみて、改めてそう思う。自分の本当を全うするって、大変なことだ。だけど、彼女は本当じゃないことを選べなかったのではないか。

今回は、共通の友人が年賀状を送ったことから、ご家族より返事があって、このことがわかったけれど、私のようにメールのやりとりじゃ、ネット上で届かぬメールが右往左往して、いずれ消失してしまうだけ。ぼーっとしている間に2年でも3年でも経ってしまう。

伊坂幸太郎「モダンタイムス」に出てきたセリフが、脳裏に浮かぶ。

あなたはまだ実感ないだろうけど、人に会えるのはね、生きている間だけだよ

そうは言っても、自分が会いたい人誰しもに会えるわけじゃない。大方は、もう会えないのだろうなぁとも思う。だからこそ、自分に時間を割いて会ってくれる稀有な人とは、大事に時間を過ごしたいと改めて思った。本当に限られた、ありがたい機会なのだなと。こんな時勢ではあるけれど。

2021-01-03

今年はきちんと

昨年は地味につらい時間に覆われていたので、今年の始めは(私にしては珍しく)この節目をうまく使って気持ちを切り替えよう、ひと区切りつけようという意識が高い。いつもはもっとずるずるって感じの幕開けなのだけど…。

この年末年始に改めたのは、まず静寂時間の確保だ。静かな時間を大事にしている。そうすると、いろんなことを自分の頭で考えたり、あれをしよう、あれはどうなっているんだっけ、そういえばこれを調べたかったんだ、本を読もうと、あれこれ自分が始動する感覚がわく。これは手放してはいけない。

昨年はわりとYouTubeやTVerなんかも見て気晴らししていたのだけど、視聴覚を奪われるのはやっぱり、どうも意識も時間ももっていかれ過ぎるきらいがある。これをラジオに戻し、なんとなくじゃなく人が手をかけた作品にきちんと向き合うのを本と映画から摂取するようにすると、なかなか豊かに暮らせることを、この年末年始で実感した。

あとは、この休みのほとんど仕事の宿題を抱えて書いたり読んだりうんうんうなったりしていたので実質、日常生活の延長だったのだけど…。

大晦日と元日の2日間は年末年始っぽく過ごせた。大晦日に父と一緒に母のお墓参りに行って、年越しそばを食べて、スーパーで大量の買いものをして、晩は妹方が送ってくれたカニ鍋を作って満腹。元日は兄一家を迎えておせち料理とお雑煮とお年玉でもてなして。妹は急遽、遠方から帰省できなくなってしまい、初詣も先延ばしにしたものの、家族で父を囲んで過ごせて良かった。

今年は、きちんと自分を生きていこう。

2020-12-27

開放、自然、野性、編集、物語り

今年はしんどかったなぁ。一年を振り返ろうとすると、喉がきゅっと締まって、目の奥がぐっと熱くなってしまう。こういうときはあんまり過去を振り返らずに、今やるべきことをやり、未来に目を向けて突破するのが年越しの健全な過ごし方だろうなと思う。

振り返りは、そうだな、10年くらい寝かせるとちょうどいいくらいかな。10年前のそれを思うと、そのくらいがちょうどいいあんばいな気がする。その頃には、どういう形でか軽やかになっていたい。あたたかく、強く、しなやかに生きていたいものだ。

この間、駅前の大きな交差点で地図を片手に困っていそうなおじいさんがいたので、「お困りですか?」と足を止めて声をかけたら、「そうなんです。困ってるんです!」と志村けんのコントみたいな滑舌で返ってきて、田舎から出てきて右も左も分からないと言うので、一緒に地図を見て道案内をした。おじいさんは行き先を把握すると、しゃきっと右手を額にあてて敬礼、「ありがとうございますっ」と言って顔をくしゃっとさせた。

そうだ、こうやって生きていったらいいんだと思う。ダメだダメだと自分で自分の首をしめるようなことをせず、こうやって生きていったらいいだけなんだと。

仕事内容はこの一年で大きく変わり、年末にはだいぶ、自分はこういう役どころで所属の枠組みなく野性的に活動したらいいんだという役割の果たしどころが見えてきた。サラリーマンとして働いていることを弱さとみる人もいるけれど、職業や就業形態といった属性をもって人の生き方や働き方に優劣、強い弱いの評価をつけるのは偏見だよなって、何十回も考えて自己問答して今は思う。

一方で、気を抜くと自分が勤める組織・環境に過剰に内部化してしまって、いわゆるサラリーマンになってしまうっていうのも体験的に思うところあり、それはそれで自分で注意してかからなくてはならない。

また職種や所属の枠組みにこだわらず、縦横無尽に自分の使いどころある所どこでも働くスタイルを追求するつもりだけれど、それによって専門性を磨くことを止めてしまわないように、無個性化していかないように、健全な自己批判とのバランスが大事だ。要は、職種や組織の所属なんて小さい枠組みにおさまってたまるかという野性を大事にしてやっていこうという話だ。人間だもの。

私はデータや数字の取り扱いにめっぽう弱いのだけど、データや数字が情報になるあたりで興味が出てきて、それを編集して知識から知恵へ、それを編集してコンテンツからサービスへ、それを編集してシナリオ立てて人と人をつなぐメッセージへ展開させたいという思いがあるらしく。その辺の総じて編集という役割を期待されることが多いので、そういうゆるふわをいろんなところでつかまえて、いろんなところに分け入って、いろんな人の中にある情報をもらって、自分なりに物語をつむいで提示していけたらいいなぁと思う年の瀬。

2020-11-14

「組織への忠誠心・帰属意識を育む」課題の揺らぎ

エドガー・シャイン博士の5日間の講義がライブで受けられるとあって、パーソル総合研究所が主催する日本向けのオンラインセミナーに参加した。

キャリア理論の創始者、組織開発研究の大家として知られるシャイン博士、現在92歳。今回はサンフランシスコとつないで「組織社会化」をテーマに講義。講義といっても、参加者とのやりとりを大事にしたいということで、2日目以降は前日の参加者の質問を冒頭で聞いて、それに応じる時間に30分〜50分近くを使い、残り1時間を当日の講義にあてるようなスタイルで進められた。

初日は、武蔵大学教授による1時間ほどの話題提供から始まった。このプレゼンは、在宅勤務には知識共有やコラボ促進する力があるので、もっと前向きに活用していきたいといった趣旨の話から始まった。

これに対して1時間後、一通りプレゼンを聞き終えたシャイン先生が(素晴らしいプレゼンと褒めた後)、「互いを知り合うことはイノベーションに大事なこと。在宅勤務だけではダメでしょう。どのような仕事のタイプなら在宅勤務がふさわしいのか、仕事のタイプ分析・見極めが大事」と切り込むところから話が始まって、すごいジャブ、のりのりやないかい!と思いながら、その後のレクチャーを拝聴した。

いろいろ考えるべき論点の刺激はもらったのだけど、その一つは「組織への忠誠心を育む」という考え方が、一様に大事とは言えなくなってきているんだなということ。

そもそもアメリカでは、組織に対して「コミットメント」という言葉は用いることはよくあるけれど、「ロイヤルティ」という言葉はあまり使わないという話も。確かに、そんなイメージはある。

さらに、シャイン先生いわく、Appleの従業員から聞くのは、Appleには所属したくないけど、Appleのプロジェクトに参加することにモチベーションがあるという話。

会社自体ではなく、その会社が手がけるプロジェクトとか(この会社にいることで、そのプロジェクトに参加できる)、会社の中のサブユニット(ある事業部、ある職能集団とか)に参画意欲がある人もいるでしょうという話。その場合、組織内のジョブ・ローテーションで別部署に配置されれば本人は不本意で辞めてしまったりもする。

組織としては、従業員に対して組織への忠誠心なり帰属意識を求めたり、コロナ禍で在宅勤務が続く中、どう自社への帰属意識を維持・醸成しうるかを盲目的に問いがちだけど、一足飛びにそれを課題として位置づけずに、「どこに対するコミットメントを我が社は従業員に求めるのか?」という問いを一度検討してみるのが得策かもしれないと思った。

従業員が自分のところの「組織」に忠誠心なりコミットメントをもつことを目指すのか、それとも「プロジェクト」に、「事業」に、「職業」にそれを抱くことを許容するなり、推奨するなり、そこをこそ醸成してサポートする姿勢をもつのかどうか。そこら辺も、組織をまわす側、雇用する側の論点としてあるんだなぁというのを意識する機会になった。

それ以外にもいろいろ考えどころ、自分の役割の模索どころを与えてもらった気がする。大局的には、自分の見ているものが合っている感覚を持てたのも収穫。自分のもっている知識の網の目、解決アプローチの選択肢の網の目を細かくできたとも思う。解決アプローチの選択肢の良し悪しについて、自分がちょっと偏ってみていたなぁっていうのに気づいてニュートラルに戻すことができたりもした。だいたいの観点で、産業によっても組織によっても答えが変わってくるって話も、自分にも自分の持ち場での働きどころがあるかもって期待がもてて良かったし、自分の役割の広げ方についてもヒントをもらえた感じ。参加して良かったなぁ。

2020-11-09

専門技能の高さをどうやって見抜くか問題

自分のチームに実務経験者を中途採用したいとして、選考を受けにきた人が特定の専門技能に長けているかどうかを、何によって明らかにできると思いますか。次から最もふさわしいものを一つ選んでください。

1.世の評判
2.実務経験年数
3.パフォーマンス

とあったら、どれを選ぶか。加えて、いま実際に選考を行っているとしたら、このうち何によって評価を行っているか。って尋ねたら、1〜3以外にあれやこれや出てくると思うので、そうとう荒削りの文章なのは初めに断っておくとして…。

1.世の評判

今どきはSNSなどのネットを駆使して特定分野の評判を得るのが容易になったし、探さずとも情報がなだれ込んでくるようになったが、そこで評判を作り出している人の多くは、その人と直接仕事をしたことがなかったりするから、表層的な評判を評価材料に用いるのは危なっかしい。

その分野で著書を持っているとか、ネット上で記事を書いたり講演したり活発に発信をしているとか、その界隈ではよく知られた名前だとしても、活動の活発さや業界の知名度が実質的な仕事の評価とリンクしているわけではない。

ネット上の発信、あるいは講演などの体外的活動には熱心だが、社内の評価はいまいちという人だっている。著書をもっていても、編集者や周囲のサポーターが泣きながら手直ししているケースもあれば、本人の手腕そのままに世には出ているものの実際ページをめくってみると目を覆いたくなる仕上がりの本も少なからずある。本のコンセプトに惹かれて手にしてみたものの中身が伴っていなさすぎて驚いたことも少なからずあった。それでもAmazonのレビューは★5つってこともあるので、私の評価の妥当性もどうみていいかにんともかんともだけど。

一方で、著作の中身の洗練さをもって、この人は間違いなく仕事がめちゃめちゃできる人だとうっとりしてしまうような人もあるし、著名かつ敏腕な熟達者ももちろんいる。しかし無名かつ敏腕な熟達者だっている(社内や、直接の顧客の評価がすこぶる高い)。

少なくとも著書の有る無し、世の知名度の高い低いと、仕事のできるできないは実質的なつながりをもたないと私は考えている。ちなみに、その人の知名度や人脈の広さこそが、わが社の欲するところなのだということであれば、また話は違ってくる。

2.経験年数

経験の長さで言えば、実務経験がゼロあるいは半年程度というよりは、3年とか5年あったほうが実務的な経験値は高いだろうという一旦の見立てに異論はない。けれど、職業上のスキルに関する研究では、仕事の

パフォーマンスと働いた年数の測定結果の間には、実質的な関係がない*

ことが明らかになっている。漫然と仕事経験を年数重ねただけではスキルは向上しない。高みを目指し、目標とフィードバックが組み込まれて高度に組織化された経験学習を積んでいかないことには、スキルは停滞するか衰退していくことさえ、ままある。

3.パフォーマンス

上記を踏まえると、そりゃあ、その専門的技能を発揮したパフォーマンスそのもので評価して採否を判断できれば、それに越したことはないという話になる。

けれど、実際のパフォーマンス、あるいはそれに限りなく近しいものを採用選考のプロセスに組み込めるのかというと、ここの難易度が高いのがパフォーマンス評価の、いけずなところだ。

例えば、長期におよぶ大規模なプロジェクトを、プロジェクトマネージャーとしてまわせるかどうかは、短い選考プロセスの中でパフォーマンスしてもらうわけにいかない。かといって選考プロセスを長引かせれば、優秀な人ほど愛想を尽かして別の企業に行ってしまうだろう。

とはいえ、現状がもし「実際のパフォーマンスレベルは、結局入社して一緒に仕事してみないとわからないからなぁ」にとどまって実質、中途採用の判断を経験年数や評判に頼っている職場があるとすれば、今よりは精度の高い選考の仕組みを企てうるんじゃないかという気がする。その人が今持っているパフォーマンス能力自体を評価する、あるいは経験は浅いが潜在能力の高い若手を検出して採用・育成する機会を創出する創意工夫。

手がけている会社は、んなのもうやっているよって話だとは思うんだけど、職種によってはそこまで手がまわっていない職場も多いんじゃないかなぁと推察。

私は採用支援の会社に身をおいていながら、実のところ採用ビジネスにはあまり興味がないのだけど(興味の軸は人材育成にある)、選考プロセスの適正化(現状の採用ミスマッチの解消、未経験者の就業機会の創出)という観点で創意工夫の余地を掘っていくテーマには、有意義さや面白みのようなものを感じる。そこら辺はちょっと掘り下げていきたいなぁと思った週末。

*ジョン・ハッティ、グレゴリー・イエーツ著「教育効果を可視化する学習科学」(北大路書房)

2020-11-07

ガス抜きか、ストレッサーか

今年2月に叔父が亡くなったので、11月に入ったところで先週末、父に電話をかけた。前年に年賀状を出したのと同じ送り先に喪中はがきを送っていいか確認するためだ。

そこからあーだこーだ話が脱線するのはいつものことなのだけど、さまざまなループをくぐり抜けたところで、再び母が先立ってしまった話にたどり着く。父は言う。病気がわかって2ヶ月もしないうちに天国に行ってしまったと。私は天国だけど、あなたは天国には来られないからって母が言っているのだと。

そんなのは、父が勝手に作った母のセリフ、母はそんなこと言い遺してはいない。私は父の妄言を止めようとして、つい言葉が出る。

お母さんは、そんなこと言ってないでしょ。そんなの、自分で勝手に作ったお母さんの言葉じゃないの。

父は止まらない。いーや、涼しい顔して、さっさと風のように行っちゃって。

そんなふうに言い返してくるのを黙って聴いておれず、私はさらに突っかかる。お母さんはもっと生きたかったよ。もっと長く生きたかったんだよ。だから、泣いてたじゃない。

そう口にした途端、目頭が熱くなってくる。自分の発した言葉に泣かされる。人間て、そういうとこあるよなぁと思う。

あぁ、そんなことを父に言い放ちたいわけじゃないのだけどなぁ。これはもはや父の口癖。いつもはもっと穏やかに父の話を聴いて、気持ちを受け取ることに集中できるのに、今日の私はなんだ、体調が万全じゃないせいか。そんなことを思いながら黙る。

「あぁ、涙出てきたわ。おまえは○子(母の名)みたいな口をきくなぁ」と電話口で父が言う。そりゃあ娘だもの。

私は落ち着いた声で言い添える。「お母さんはそんなこと思ってないよ。自分がもっと生きたかった分、こっちにいる私たちに楽しく生きてほしいって思ってるよ、下ばっかり見てないでさ。お母さんは、そういう人だよ」と。

これだってずいぶんと勝手に、母の言葉を作り出している。父も私もどっこいどっこいなのだ。母が亡くなって10年近く経っても、こんなありさま。時々やってしまう。二人して母のことを想って、目に涙をためて、そらごとを口にして。

これは父と兄、父と妹との間ではしていなさそうな会話だ。兄と妹は聞き流せるのだろう。私はどうも時々、真正面から突撃してしまう。これが、いいことなのか悪いことなのか、父にとってガス抜きになっているのか、無用なストレスをかけているのか、よくわからない。

まぁそんなやりとりをしても、「それで、なんの電話だっけ?」と話は戻り、私がまた喪中はがきがどうだの、おせち料理は手配しただの、オレオレ詐欺に注意しろだの言って、父は「ありがとう。じゃーねー」と言って電話を切る。別れぎわが軽い挨拶なのがいい。つながり続けている確かさからくる軽い挨拶。

電話を切ると妹にLINEして、「お父さん気にしてたから、転送してもらった郵便届いたら、お父さんに無事届いたって連絡いれるんだよ」と一声かける。妹から「はいっ」と連絡が返ってきて、これで元気出るといいなぁと思う。

泣き虫と弱虫は別物。泣き虫なのは涙腺の、極めて身体的な問題だからいいんだ、弱虫じゃなきゃさ。そんな屁理屈を思いついて以来、自分が泣き虫なのは割り切って受け入れちゃってるんだけど、弱虫はしんどいので、やめときたい。

それで弱虫じゃなくする方法も考案したのだ。簡単じゃないけど単純な方法は、自分が守られる側ではなく、守る側に立つこと。弱虫のときは、どうも自分を前者と認識している甘えがあることに気づいたのだ。なので、この脳内転換をビシッと決めるだけで、わりといけるという解を見出したのだけど、時々よたついてしまう。

だけど、自分が強くなったり弱くなったり揺れ動くところには必ず、自分の大事にしたい人、大事にしたいことがあって、それのために強くなったり弱くなったりしているようなのだ。だから強さと弱さは表裏一体で、きっと心の持ちようで、大事にするって気持ちを強くもてば、もう少しよたつかずに強くなれそうな伸びしろは自分にもありそうなんである。

そっからだよな。そこに立ってからがほんとのスタートで、何が本当に大事にするってことになるのか。独りよがりでない、大事にするってことが、どんなことか、それを作り出したり探り当てたり見極めたり、それこそが本当に難しいところなんだ。まだまだ、先は長い。自分の会話がガス抜きとストレス、どっちに作用しているかも判断つかない未熟者の先は途方もなく長い。

目が帯状疱疹になったメモ

右目の上がぷくっとなってきて、ものもらいかなと思いきや帯状疱疹だった話。10月末に気になりだして、翌日にはかかりつけの眼科に行ったのだけど、いつもお世話になっている先生がお休みだったので、別の先生にみてもらうことに。それでまぁ、ものもらい的なものじゃないかっていうことで、抗生物質の目薬を処方してもらって帰ってきた。

が、金曜から週末にかけて、言われたとおり目薬をこまめにさし続けても一向に良くなる気配がなく、どちらかといえば悪化している感じ。かゆいような、痛みが出てきているような、より膨れてきているような。

それで翌週月曜の昼休みを使って眼科を再訪し、いつもの敏腕医師に診てもらうと「こりゃ帯状疱疹だね」と返ってきた。ものもらいだと、まぶたの裏側も炎症を起こすんだけど、裏側がそうなっていないので、これは帯状疱疹だろうとの見立て。

帯状疱疹て、私は体に出るものだと思っていたので、目の症状で帯状疱疹と診断されるとは驚き。そして、かかった友人知人からきついきついと噂に聞くあれになったのかと、その診断にビクついた。

え、っていうことは、悪化すると体にもまわるってこと?え、痛くなるやつ?え、え、と動揺しつつも一応オトナな対応に努めて、先生の話を聴く。

「帯状疱疹ってことだと、ちょっと治るのに時間がかかるね。進行を止める内服薬を出すから、それを飲んで、1週間後にまた見せに来て。白目が充血してきたら、広がっていっているってことだから、1週間待たずに来て」とのお達し。

一言一句聞き逃さずに頭の中に記述して、「運動は?」と訊くと「安静にして、運動NG、飲酒NG」と返ってきた。はぁ、ジョギングも取り上げられてしまった。ここからしばらくは天気良さそうなのになぁ。

肩を落として挨拶をして、診察室を後にし、これは、ものもらいとはだいぶ違う展開になってしまった…とため息。ショックをしょって帰ってくる途中から、にわかに帯状疱疹的な症状が出始めた。かゆいというより痛い感じがしてきていない?あれ、頭痛もやってきた?と。

ネットで調べてみると、帯状疱疹は半身にだけ症状が出るとかで、私は右の目、右の頭だけ痛い。なんか間違いなさそうだなぁ。やれやれ。

そこから火曜、水曜と、出勤してたくさんしゃべらないと成り立たない仕事が立て込んでいたので、朝から晩まで社内でサングラスをかけたまま過ごすことに。打ち合わせの席でもサングラスをかけ、しかもベラベラしゃべる役回りが多かったため、弱っている人というより、ガラの悪い不良サラリーマン風情。

まぁなんとか事なきをえて、週の後半は家で黙々と仕事。早寝して、あまり早起きしないように努める。頭痛も落ち着き、目の上もかさぶたっぽくなってきて、やはり先生、素晴らしい見立てだなぁと敬服する。たぶん、そのままものもらいのつもりでいたら、体のほうまで進行しちゃっていたんだろうなぁと思う。医師の見立てで事態は大いに変わるのが現実だ。

1週間経ったところで眼科を再訪し、「だいぶ落ち着いてきたとは思うんですけど…」と右目を見せ、「あの後、わかりやすく帯状疱疹的な症状が出てきたんだけど、薬を飲んだおかげか2〜3日で頭痛もおさまったし、目のほうもかゆみや痛みはなくなりました」と報告。

先生いわく、あの状態で帯状疱疹と気づくのは、やはり経験だということ。いや実際、そうなんだろうなぁと思う。若いほうの先生が初診(症状出て1日経過)で気づいていてくれれば尚良かったけれど、それでも翌週月曜(症状出て4日経過)に帯状疱疹の治療に切り替えられたことで、だいぶ事態は軽く済んだんだろうと思う。初診の先生が今後、私の症例をもって誰かの帯状疱疹を早期発見できるようになったら良いなぁと思う。

もう1〜2週間はおとなしくしておいたほうがいいということだったけど、体調的には症状が出てから10日間で、まずまず落ち着いた感じ。今週は頭から、もうガラの悪いサングラスをかけて会社で仕事する必要もなくなった。プロジェクトマネジメントのプチ勉強会を開いて前でしゃべったり、いろいろ個別に相談にのったり、議論を仲立ちする機会も多く、頭も表情も身体も活力が必要だったので良かった。いろいろと峠を越えた感。心が開いている。

2020-10-08

孔子に寄って総合職している

最近は週1ペースで会社に出勤している。4~6月はほぼ出勤せず、7~9月は週1か2週に一度くらい出勤していたのだけど、10月に入り、この先しばらくは週1~2くらいの出勤と、あとは在宅勤務というペースで進行しそう。平日に社外の人と会うことも出てきて、しばらくふさがっていたところに風が少し通りだした感もある。

会えばだいたい「わー、久しぶりー」みたいな感じになる。見るかぎり相手の健康そうな状態を確認し、それからコロナ禍でのお互いの環境変化、仕事の変化など話したり。

そうした中で、「いや私、ここ10年近く老子寄りだったのが、最近孔子寄りになりましてね」ってな自分の心もちの変化についても、何度か言及した(もちろんTPOをわきまえて、そういう話を嫌がらなさそうな人に限定しているので大丈夫なはず!だ…)。

老子のいう「無為自然」っていうのは、すごく自分の肌にあう思想だなぁって思いながら近年やってきたんだけど、老子の思想っていうのは、孔子の思想が先にあったからこそカウンターとして出てきたものであって、孔子なくして老子の無為自然は立ち上がらなかっただろうなぁと思って。

そういう意味では、後世に生まれた一凡人としてはですよ、孔子も老子も自分の中に取り入れて、自分なりにバランスさせながら生きていくっていうのが健全なんじゃないかって。

私の中には、孔子に共鳴する小僧もいれば、老子に共鳴する小僧もいる。両方いるほうが自分として自然なのだ。

自然のまま、あるがまま、水のように…とか言いながら漂っているのではなく、ことを前に進めよう、自分がなすべきと思うところは、しっかり足を踏み込んで自分でなしていこうと。それこそが実際のところ、私の自然体であって、無為自然なのだから、私なりの孔子と老子の結合した現れなのだと。

まぁ私の中だけで納得していて、全然うまく言語化できていないのだけど、それでも時々ぽろりと、部分的に人にしゃべっちゃったりしている今日この頃。

そんなわけで、最近はだいぶ快活に、よく人と話して、いろんな人の考えや気持ちに直接触れて受けとめて、自分もよくしゃべって、たくさんのものを持ち帰って、いろいろ考えてあれこれ作って納めて、フィードバックを受けて直してと、忙しく仕事している。

そうすると、それに呼応するように新しいところからも相談や依頼が舞い込んできて、仕事の幅がけっこう広がっている。あっちゃこっちゃのいろんなジャンルの仕事を総合格闘技的にやっている節操の無さを、とりあえず今は楽しんでいる感じだ。

経験の幅が広がるし、これまでと違った視点でものを捉え直して言葉に表してみる訓練にもなっているし、少なくともこの人のこの部分の役には立てたようだとも思えて、健康に良い。

時代に逆行するのかもしれないけど、今は実質「総合職」くらいのざっくりしたくくりで、とにかく来たボールを、いかに芯をとらえて丁寧に打ち返せるかに力を注いでいる。

それがきちんと芯を捉えていると、まず打ち返した後に喜んでもらえるのが嬉しいし、こういう系を任せられるのかという信頼関係ができて、その人から再び依頼が来たり、他の部署の人からも依頼が来たりする。

私はやはり、社外にせよ社内にせよ、やった仕事を評価されてリピートと紹介で仕事が増える&広がるという営業(しない)スタイルが肌に合う。これで成り立つなら、ずっとずっとこのスタイルでいきたいのだけど…。

これまでの自分はずっと、社外のお客さんに目を向けて、社会に対して何ができるのかが頭の中を占めていて、社内のことにはだいぶ無頓着できていたのだけど、社内に目を向けてみると「上層部ー現場」「営業ー開発」「ビジネスサイドーエンジニア」「社内の経営管理ーホールディングス」といった間で、情報を編集してうまくつなげる媒介者の必要を発見することが非常に多い。

向こうから呼ばれて依頼を受けて発見することもあるけれど、打ち合わせに参加していたり、メールのやりとりを見ている中で、いっちょかみしたくなるような場面に出くわすことも多くあり、そこで邪魔しないようにどう媒介者として機能するかを考える。

自分が情報編集とかコミュニケーションとかいうところで何をしたら役に立つのか、誰に何を共有して、どういう配役・シナリオで舞台を展開させたら、双方がうまく連係して仕事が前に進んでいくか、そういうアプローチを検討するのは、個人的にはけっこう創造的な仕事だ。まぁそれが仕事と認められるかどうかは、また別の話だけど。

事業部、経営、ホールディングス、市場、社会の目線をあれこれ乗り換えながら、それぞれが何をどういう経緯で欲しがり、どういうボールがとんできたのに対して、どういう球を打ち返せれば芯をとらえたことになるのか、自分なりに調べて考えこんでアウトプットして、依頼主に見せてみて検証できる仕事環境も、なかなか面白い。

まぁ身近な人に褒められて満足を得られたからといって、世の中基準で質の高い仕事ができているとは決して言えないし、結局それは自己評価の枠を出ていないということだから、そこはもっとシビアな外の目を学んで、より本質を突く自己評価基準に引き上げていかないといけないんだけど。

人によっては、表に出て、もっと評価が厳しい環境に身をさらして、一定の専門領域にフォーカスを絞って働いたほうがいいと、私の今の状態をぬるま湯に評価するとは思うのだけど、とりあえず今しばらくは、今・ここで役立てること、自分にできること、自分の実にもなることを、領域を絞らずせっせとやろう。

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