2020-07-13

村上春樹の「アンダーグラウンド」を読んだ

村上春樹の「アンダーグラウンド」*を読んだ。1997年に出た本で、1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件について、被害にあった62人の当事者たちへのインタビューを行って、実に丁寧にまとめられたノンフィクションだ。

特別、今をねらって読みだしたわけじゃないのだけど、読後に振り返ればカミュの「ペスト」以上に、こりゃ絶妙なタイミングで読んだものだなぁと思った。

本が出た当時の私はちょうど、それまでに出ていた村上春樹の作品をあれこれ読みこんでいた時期にあたると思うのだけど、この本は遠のけて手に取らなかった。村上さんの言葉を借りれば、この事件の「名状しがたい嫌悪感」や「理解を超えた不気味さ」が、当時の私には手に負えないと本能的に判断したんだろうと思う。なにせ20歳かそこらだ。

1995年は、1月に阪神・淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件があった。村上さんは、この2つに共通性を見いだす。不可避な天災と、人為的な犯罪、そうみれば全く別物だけれど、被害を受けた側からすれば両者とも「圧倒的な暴力」であり、「それらの暴力の襲いかかり方の唐突さと理不尽さは、地震においても地下鉄サリン事件においても、不思議なくらい似通っている」「怒りや憎しみの向けようがもうひとつはっきりしない」という、それは被害者の声を読んでみると確かにそのように思う。

私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対して、現実的にあまりにも無力、無防備であった。我々はその到来を予測することもできず、前もって備えることもできなかった。またそこに出現したものに対して、機敏に効果的に対応することもできなかった。そこであきらかにされたのは、私たちの属する「こちら側」のシステムの構造的な敗退であった。

このようなことは、コロナ禍にあって、容赦ない天災も続き、大小さまざまな対立も深まるばかりの25年後、今もまさに私たちが直面しているところだなと思った。

村上さんは事件当時、連日の報道にふれる中で一般マスコミの文脈が、被害者たちを一括りに「傷つけられたイノセントな一般市民」というイメージできっちりと固定してしまいたがっているように感じた。

被害者たちにリアルな顔がない方が、文脈の展開は楽になる。「(顔のない)健全な市民」対「顔のある悪党たち」という古典的な対比によって、絵はずいぶん作りやすくなる。
私はできることなら、その固定された図式を外したいと思った。その朝、地下鉄に乗っていた一人ひとりの乗客にはちゃんと顔があり、生活があり、人生があり、家族があり、喜びがあり、トラブルがあり、ドラマがあり、矛盾やジレンマがあり、それらを総合したかたちでの物語があったはずなのだから。ないわけがないのだ。それはつまりあなたであり、また私でもあるのだから。

これを丹念にインタビュー取材して文章にしたのが「アンダーグラウンド」だ。

事件の前後のことばかりじゃなくて、その人の生まれがどこで、何人兄弟の何番目で、なんて話も描かれている。例えば、牛乳搾取業の牧場に生まれた人の話なんかだと、

牛は一日二回搾ってやらないと、乳がぱんぱんに張ってしまう。だからどこにも行けない。家を離れられない。春夏秋冬、雨が降ろうが槍が降ろうが、ぜったいにやらぬといかぬです。正月もなにも、休みなんか一日もありません。しかし牛乳はほんとうにうまかったね

なんて話が出てくる。またある人は「兄貴は戦争が終わったあと、満州からウクライナのタシケントに送られまして、そこで強制労働をさせられていました」とか。

農家の人、高級車を売る人、呉服卸し業の人、コンピューターソフトを作る人、印刷会社の人、駅員さん、駅の売店の女性…。年齢もさまざま。亡くなった被害者の親御さん、奥さんも出てくる。それぞれの人生もよう、そして村上さんの人物描写を、事件のことと同等、あるいはそれ以上に、ものすごく興味深く読んだ。

こうした一人ひとりの描きこみがあった上で、事件当日が本人にとってどういう一日だったのか(それは本当に、いろんな背景をもった一日だった)、実際どういう目にあって、現場をどう対処して、その後をどのように過ごしてきたのか、その時々でどのようなことを思い、感じ、考えてきたのかが、丁寧にひも解かれていた。

実際には、多くの人が「いつも乗っている時刻に、いつもの電車のいつもの車両のいつも決めている何番目のドアから乗った」わけじゃなかった。その日、たまたまその電車に乗った人がなんと多いことかと思った。家を出るときにこういうことがあって、たまたま一本遅い電車に乗ったというようなことは、決して稀な例外ではない。

それに、たまたま風上にいて軽症で済んだとか、たまたま風下にいて重症になったとか、とにかくよく聴き込んでいくと「たまたま」のオンパレードなのだ。そこから読者の脳裏に自ずと浮かび上がってくるのは、「遭遇者は、誰でもありえたんだ」ということだ。

こうして一人ひとりの話にふれていくと、安易に一括りにするということは、認識を誤り、真実を揺るがすことに通じる、そんな恐れを覚えた。「こちら側」を雑に扱っては「あちら側」も捉え損ねてしまうし、当事者以外の人たちがこの事件に関心を寄せて問題意識を向けることは同時代の私たちですら困難になる。

当時の警察や消防の救助の態勢、要領を得ないふるまいには、少なからぬ批判の声もある。それはそれで見直すべき点が多分にあるのだろうと思う。

一方で、当日現場に居合わせた人たち、大勢の乗客、営団地下鉄(今の東京メトロ)の駅員さん、地下鉄の駅の出口付近で遭遇した人たちの動きをもって考えさせられるのは、警察や消防が機能しない中でも私たち一般市民が当たり前に協力して、助け合える、そこで必要な役割をかって出られることのプリミティブな強さ、社会の健全さというものだ。

当日、乗客はみんなで協力して、タクシーを停めては症状の重い人から順に車に乗せて病院に行かせたり、軽症の人は声をかけあって4人相乗りで病院に向かったりした。

地下鉄の駅の出口付近でやっていた工事現場の人は、具合の悪い人に声をかけ、通りかかる車を片っ端から止めて、次々に被害者を乗せ、病院まで積んで行かせてくれたという。「ワゴンなんかが来ると、そこにどんどん詰め込んでという感じで。小伝馬町の場合は、一般車にずいぶん助けられたと思いますね」という。

警察や救急がないでは安全に社会がまわらないだろう現実はわかっている。だけれども、理想形をイメージするとき、警察や救急の態勢がより万全である社会システムとは別に、警察も救急も法律もルールもなくても市民一人ひとりがそこで必要な役割を演じて立ち上がった問題を回避できる、あるいは最小限にとどめられる方向にも、私の想像はふくらんだ。

もともとそういう志向性はあったのだけど、改めてそういうことを考えさせられたし、その中で自分は果たして、どういう役割を演じられるものか、その場で機動力をもってどれだけ立ち回れるものか、自分の気概のようなものを再点検する機会にもなった。

これらの事実を前にしていると、私たち個人個人が本来的に持っているはずの自然な「正しい力」というものを信じられる気持ちになってくる。またこうした力を顕在化させ、結集することによって、私たちはこれからも、様々な種類の危機的な事態をうまく回避していけるのではないかと思う。そのような自然な信頼感で結ばれたソフトで自発的で包括的なネットワークを、私たちは社会の中に日常的なレベルで築き上げていかなくてはならないだろう。

*村上春樹「アンダーグラウンド」(講談社)

2020-06-15

説明されるべきものではなく、呑み込まれるべきもの

最近は、わりと多くの時間を小説を読むことにあてている。村上春樹は「騎士団長殺し」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を立て続けに読んだのだけど、後者→前者の順で書かれたものらしく、多崎つくるのほうが小説としては荒削りな感じがある。だけど、そのぶんメッセージが直截に語られている感じもあって、両者の行き来が豊かな読書体験をもたらした。

小説や音楽や絵画といったものが、どんなふうに私たちに働きかけているものなのか、私たちはそれにどう向き合うべきなのか、改めて感じ入った。それは、「騎士団長殺し」の中の一節で、騎士団長がはっきり言葉にあらわしてくれている。

なぜならその本質は寓意にあり、比喩にあるからだ。寓意や比喩は言葉で説明されるべきものではない。呑み込まれるべきものだ

騎士団長、かっこいい(し、かわいい!)。この小説の中では、別のところにも「呑み込む」という表現が出てくる。

真実とはすなはち表象のことであり、表象とはすなはち真実のことだ。そこにある表象をそのままぐいと呑み込んでしまうのがいちばんなのだ。そこには理屈も事実も、豚のへそもアリの金玉も、なんにもあらない。人がそれ以外の方法を用いて理解の道を辿ろうとするのは、あたかも水にザルを浮かべんとするようなものだ

自分が生業としている「学習の設計」にも思い馳せるところあり、表象をそのままぐいと呑み込むというのが、結局のところ一番能率的な「理解の道」ではないかなって思ったりもするのだった。

「呑み込む」という表現は、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」にも出てくる。

不思議な話を、不思議な話としてそのまますっぽり呑み込んだのだと思います

これを発展させたのが、騎士団長のセリフなのかなぁとも思ったりして、2つの作品を立て続けに読む味わい深さも堪能した。

色彩を欠いているという無個性の自覚が根をはっている自分には、多崎つくるの思うところに共感するところ多く、そういう中でも他者に嫉妬することなく、穏やかに暮らせている理由も、たぶんに言葉に起こされていて、こっちの小説も、なんというか、自己肯定感が高まるというか、自分の幸いを再認識させられ、改めて今に感謝したりした。

読者に多くの考えごとを、さまざまな観点で呼び起こす力をもつ小説、やっぱりすごいなぁ。

2020-05-07

AirPods Proという「静寂」を買った

ゴールデンウィーク中に思い切って「AirPods Pro」を買ってみた。つけてみて、びっくりたまげた。噂には聞いていたが、本当に静寂。イヤホンではなく、静寂を手に入れたのだった。ノイズキャンセリング機能というやつである。21世紀は、こんな小型サイズで静寂が売られている世界なのかと、しみじみ感動した。

これまで使っていたイヤホンは、音の本体とはBluetooth接続できるものの、右と左のイヤホンは有線でつながっているタイプだったので、マフラーだったり帽子だったり襟だったり髪の毛だったりに絡まって、微妙なところで使い勝手が悪かった。しかも、どこかでイヤーピースを片方落としてしまって、あぁあーと思いながら片方だけで使っていたりした。

そこからのジャンプアップである。ひさびさに贅沢すぎる買い物をしてしまった。

まさに、時を忘れてしまう空間。今日も仕事のときに試しに使ってみたのだけど、ものすごい集中できちゃって自分じゃないみたいだった。私がこんなに長いあいだ集中できるなんて、何かの間違いじゃないかと。

静寂って、概念なんだなって思った。私のような人間1.0は、静寂っていうと誰もいない広い空間なんかのイメージが先にたっちゃうのだけど、そうやって場所をとるものって決まりはない。「これ」って指し示せるモノではなく、静寂は、やはり言葉どおりコンセプトなのだった。何らかの意味づけをして、人間が価値を認められるコンセプトなのだ。

このあいだ読んだ本(*)に、こんな節があった。

存在するというと、いつも空間的なものを考えてしまうのです。これは僕らの悟性の機能の習慣に過ぎない。存在するものが空間を占めなくたって、ちっともかまわないわけでしょう。空間的には規定できない存在も考えうるのです。むしろ、空間的に存在するものは、潜在的な存在が顕現するのを制限している機構だというに過ぎない。

むずカッコいい斬り方が印象的だったのだけど、この話が「AirPods Pro」を体験したときに呼び起こされた。

いま私たちが日常生活で使っている技術は、すでに概念の本質を多様に展開できる力をもって、いろんな有形・無形に体現されて、それを享受して私たちは暮らしているんだなぁと、しみじみ感動する機会となった。

「悟性の機能の習慣」からちょっと距離をとったところの目線は、こういう実体験を通してしか育んでいけなさそう。大事だなぁ。そういう意味でも、たいそう尊い買い物をした。音楽を聴くより、静寂を得るのに使いこんでしまいそう。

*小林秀雄「学生との対話」(国民文化研究会、新潮社)

2020-05-06

ともあれ英文読解の習慣をもつ

4月半ばに腰をぐきっと痛めてしまい、今年のゴールデンウィーク改めステイホーム週間は「腰痛を治す」ことだけに努めて地味に暮れていった。といっても過言ではないのだけど、完全にそれだけなのもやりきれないというので、こもるの必至な長期休暇、ずっと読み途中になっていた英文法のベストセラー本を手にとった。Amazonによれば購入したのは3年近く前のこと…。

NHKでラジオ英会話の番組もやっている大西泰斗さん、ポール・マクベイさんの「一億人の英文法 ーすべての日本人に贈る『話すため』の英文法」というの。凶器になるレベルの650ページを超える厚ぼったい本。

これを1から読み直す気にはとてもなれず、もちろんだけど読み途中だったところから最後を目指した。なので昔読んだ最初のほうに何が書いてあったか、説明しろと言われても無理なんだいという感じだけれども、まぁそんなことはひとまず気にしないことが大事なんである。

で、ともかく、この分厚い本を、ほぼほぼ最後まで読み進められた。ぜいぜい。正直、これを読了といっていいかは、だいぶ怪しいのだけど。

よく使う動詞、副詞、前置詞を一つひとつ取り上げては、これはこういうふうに使われ、こういうふうに使うのは違くて、ネイティブの人はこういう感触で使っていて、こう使うんじゃないんだな…みたいなのを事細かに書いてあるあたりは、むぎゅむぎゅ情報が詰まっていて、「読み終えた」どころか「読んだ」と表するのも躊躇われる。頭に残っている気が全然しない。

けれど、まぁ、ともあれだ、純粋に「英文法の理解」に焦点をしぼるなら、そうだそうだ、こういう感じだった、そうだったと思い出す機会としては有効に働き、自分なりに読んだ収穫があった感触はある。自分的には、これでいいのだ!という感じである。目標は低く狭く、現実的に…。

どういうBefore/Afterの変化があったかというと、英文法の理屈が理解できて(知識習得)、日常的に英語の文章を読もうという気になって(態度形成)、実際何らかの記事を最後までざっくり読めきれるようになった(スキル習得)ということである。

理屈の理解はしたが、記憶はできていない。読もうという気になるのは、関心あるネタにかぎって1日に数記事がせいぜい。Weblio英和辞典で単語を調べ調べ、Google翻訳に文脈を尋ね尋ね。のんびりゆったりしたもんである。

けれど、これまでは、それすら億劫だったし、読み解くあてとなる知識にも欠けて、お手上げだった。これが、なんとかできるようになり、英文に親しむスタート地点に立ったという感じだ。ここで、あれ、英文科じゃなかったっけ?とか野暮なツッコミはいいんである。

あとは、読む気になるこの心的状態を持続させて、日常的に読んでは、ふむふむと英語で書かれた文章から情報を得て実利を得ている状態にすること。この習慣づけ、生活づくりまでが当面の目標。習慣さえ身につけば、あとは10年も続けたら語彙力も今よりついているだろう(目標低い)。その土台づくりとして、自分にしてはよくやったゴールデンなウィークだったんである。ぱちぱち。

この本は、また読み直そう。いい本だった。持ち歩こうとすると腰の負担がものすごいという以外は、実にいい本。

2020-05-03

アンケートの選択肢の設け方

このあいだ仕事で、人が作ったアンケートのたたき台に、このままでは出せない!と前のめりになって全面的な加筆修正版を作って提案を返したのだけど(無事に通ったが、納得したためか私の過剰な熱っぽさによってかは不安が残る…)、アンケートの設問の構成・文面はもとより、選択肢をどう用意するかってのも、一言一句ものすごく繊細かつ大事なところで、回答者に対する誠意をもって臨まなきゃいけない仕事だと思っている。

アンケートで設問を送り、それに答えてもらうというのは、広義にとれば「人間同士の会話」とも括れるものだ(ということにして)。

批評家の小林秀雄さんは、「人間同士の会話とは意味と同時に言葉を植えつけることだ」と言っている。「学生との対話」*の中にある、こんな氏の言葉が頭の中に立ちのぼってくる。

問題を出すということが一番大事だ、問題をうまく出せばすなわちそれが答だ、いま物を考えている人がうまく問題を出そうとしない、答ばかり出そうと焦っている

憲法記念日の今日は、憲法改正に関する全国世論調査の結果が各メディアで報じられていて、改正賛否を問う回答選択肢(と回答率)に目がとまった。

▼読売新聞社
改正する方がよい(49%)
改正しない方がよい(48%)
答えない(3%)

▼NHK
改正する必要があると思う(32%)
改正する必要はないと思う(24%)
どちらともいえない(41%)

ちなみに、朝日新聞社も賛否を二分する訊き方で「その他・答えない(11%)」とあり、共同通信社は「どちらかといえば」どっちという選択肢を入れているよう、毎日新聞社は「わからない」を設けているようでNHKに近い。

2つ見比べてみて、読売新聞社は「どちらともいえない」という選択肢を設けなかったのだなぁというのと、人は「どちらともいえない」が与えられていない設問を提示されると、賛否のどちらかを選んでしまうものなのだなあというのを、感じた。

その結果、出てきた数字がコピーライティングされて、意味と同時に言葉を人々に植えつけ、人々の認識をぬりかえていく力をもつ。

自分が答える側の立場としては、与えられた選択肢から選ぶというだけでなく、与えられた選択肢をきっかけに自分でその問いに向き合い、自分の答えを検討する姿勢を大事にしたいって改めて思った。

自分が問う側の立場としては、相手の声を正しく聴こうとすること、引き出そうと努めること、問いかけるときに何を聴いて、どう訊かないか、言葉を丁寧に選ぶことを、改めて大切にしようって思った。

*小林秀雄「学生との対話」(国民文化研究会、新潮社)

2020-04-27

8分で泣きやむ

金曜日、ベッドで横になっていたら、なんだかぽろぽろ涙がこぼれてきて、止まらなくなってしまった。

打たれ弱いが、立ち直りが早い。すごくはないけど、そこそこタフ。頭は良くないが、ものの感受性はまずまず。心は揺れても、ことは淡々とやる、安定感はわりとあるほう。涙流れるなら流してしまえ、たいてい8分くらいで蹴りはつく。10分で泣きやんで、ひとりで態勢を立て直そう。

だいたいこういう自分観であれこれ凌いでやってきたのだけど(昔なにかで人が涙を流せるのはせいぜい8分という話を聞いて以来ずっとそれを頼りにしている…)、いやぁ、今回も地味にふさいで、地味に立ち直った。

理由は明確で、腰を先週火曜の朝に玄関先でゴキッとやってしまったからだ。それまでは毎日、早朝と夕方にジョギングしていたので、こんな時世で家にこもっていても、まずまず心身の健康を淡々と維持できていた。

空は青く、陽は春めいて、葉は日に日に緑豊かになっていって、そんな風景にふれながら、こんな日々でも自然に支えられて暮らしていたのだ。

が、火曜から運動がまったくできなくなって、よろよろの状態で1日、2日、3日と重ねていくにつれ、地味につらくなっていった。

毎日体を動かすことで、心身の健康を淡々と維持していたことを痛感。運動できなくなってしまったら、大事な人たちともまったく会えずに日々を重ねていることにも悲しみが募って、気持ちがふさぎ出した。

おっかさん、こりゃあ、まいったよ。さきざき人に会える見通しも立たないし、志村けんも岡江久美子も亡くなってしまったよ。

私にとっては岡江さんも、子どもの頃を思い出す尊い人だ。「はなまるマーケット」の人じゃなくて、夏休みに妹と一緒にくつろいで見ていた「天までとどけ」のお母さん役だ。

遠く子どもの頃の記憶まで引き戻されて、そこから来し方行く末に思いが巡りめぐって、悲しい気持ちに満たされてしまった。

まぁでも、世の中がどうあれ、自分がどういう人生を生きてきたにしても、孤独さを引き受けて生きなきゃいけないところからは逃れられないし、最後はひとりで死ななきゃいけないし、だから受けて立つしかないんだけどさ。でも、だからこそ、人に会えるのは生きている間だけで、今がかけがえなく大切なのにね。なかなかね、生きていると、世の中は時に、どうにも厳しい試練を与えてくるものだよね。

そんなんで8分ほどじっくり悲しみにひたったら、あとはまた1日、2日と時を静かに重ねていって、無理をせずに浮上を続けた。

昨日あたりから、多少はましになったような気もする腰をさすりさすり、よろよろと2キロほど外を歩くようにして、YouTubeで腰痛に効くストレッチを探してやってみるようにして、段階的に気持ちを立て直した。

しばらく辛抱だけど、無理せずウォーキングをのそのそ続けて、あと少しして整骨院が開いたら、そこで体を立て直して、またジョギングできるように体を戻したいところ。そこまで持っていけたら気丈に立ち続けられると思うんだよな。はやく早朝に青空の下を走りたいなぁ。

2020-04-12

研修講師するなら、うなずいて聴いてくれる人に満足してはいけない

セミナーイベントなどで講演する人向けのアドバイスとして、壇上に上がって話しだしたら、うなずいたり目線を合わせて聴いてくれる人を会場内に見つけて、その人に向けて話すようにするといいといったものがある。

ただ、それはあくまで講演者が過度な緊張にのまれることなく落ち着いて話しきるための方法にすぎない。受講者が分かりやすくなる方法とか、理解の進む方法ではないことに注意が必要だ。

出演意図やイベント目的によっては、それで問題ない舞台もあると思うけれど、勤め先で研修講師を頼まれたということになると、そうは問屋が卸さない。

実務エキスパートで後進育成のため研修講師を務めることになったという人に見られるのに、この壁がある。受講者のうち、うんうんとうなずいて目線を合わせて聴いてくれる人に満足してしまう。

その一人なり二人なりのそぶりを見て、あぁ伝わっているなと受講者総体を捉えてしまう。あるいは、全員にいちどきに分からせるなんてそもそも無理な専門的な話だからと最初からさじを投げてしまっていて、わからない人が出ることに対して自分のケアの対象外という認識をもっている。

それは、多くの研修では役割認識がずれている。研修というのは多くの場合、ボトム層を一定レベルに引き上げるためのボトムアップ施策だ。トップ層は勝手に勉強するし、勉強の仕方もわきまえていることが多い。

すでにそれを大方分かっているような人に再確認を促す場ではなく、それを初めて知った人なり、それについて理解が曖昧な人に、深い理解を促すために、せめてそれを学ぶ重要性を認識させたり興味をもたせるために、やっているのだ。

多くの場合、リアクションが大きく、話を聴きながらうなずいたり講師と目線を合わせてくる受講者は、最初からそれをけっこう知っている人が多い。質問されても怖くない。何か訊かれても答えられる自信があるからこそ、講師と目線を合わせていたりする。なんなら「質問してくれよ、見事な解を披露してやるぜ」と思っている。

研修講師のメインターゲットは、そこじゃない。うなずけずに戸惑っている人だ。講師と目線を合わせず、下を向いている人である。その研修テーマに関心を持っていなさそうな人に、自分の話しかけでハッと視線を上げさせることができるかどうか、「あ、なんかちょっとおもしろそうかも」「あ、そういうことか」と関心や理解を促せられるかどうか、そこが主戦場だ(という研修目的のものが圧倒的に多いと思う)。

そのためには講師する側に、けっこうなタフさが必要だ。特に1→多で大人数を前にセミナー講演の経験を積んできた人などは、イベント的な枠組みでの自分のパフォーマンス評価軸に慣れていることもあるだろう。けれど、研修の講師をするときには、受講者が主役であるということを肝に銘じなければならない。

事前の受講者分析を踏まえ、その研修の目的に照らして、その研修がメインターゲットに設定している受講者(こういうことは知っているし、できるけれども、こういうことは知らない、あるいはできない、あるいは関心がない層)こそが、きちんと知識を得て、できるようになる道標を得て、継続的にそれを習熟していこうと関心を高めて研修を終えるために、自分に何ができるか。

言うは易しで、これには事前の作り込みも必要なら、当日関心なさげな受講者に直面しながらもこちらから働きかけ続けるタフさも必要だけれど、でも焦点はそこだって認識はすごく大事だと思う。

2020-04-11

大きな災禍は単調なもの

カミュの「ペスト」を読んで最も印象的だったのは、「大きな災禍は単調なもの」というくだりだ。

みずからペストの日々を生きた人々の思い出のなかでは、そのすさまじい日々は、炎々と燃え盛る残忍な猛火のようなものとしてではなく、むしろその通り過ぎる道のすべてのものを踏みつぶして行く、はてしない足踏みのようなものとして描かれるのである。

「燃え盛る残忍な猛火」ではなく「はてしない足踏み」のようなもの。というのは、外出自粛して事の成り行きを見守りつつ、一日も早くこれが行き過ぎるのをじっと待つ一市民としては、納得するところ大だった。

話は続く。市民の間では、段階的に想像、記憶、そして感情の豊かさが失われていく。

われわれの町では、もう誰一人、大げさな感情というものを感じなくなった。そのかわり、誰も彼もが、単調な感情を味わっていた。

人の状況を慮って想像をめぐらしたり、先の好転をイメージして希望を抱くことができなくなる。亡き人を思い出して懐かしがることもなくなる。初めの頃のがむしゃらな衝動、熱っぽさや痛切な感情は長続きしない。いずれ消沈状態が訪れる。

眼前の不幸や苦痛を受け入れて暮らすしかなければ、人はおのずとそれを受け入れて生きられるように、感覚を鈍化させていく。刻々の瞬間をやり過ごすようになっていく。

彼らはまだ当然のことながら、不幸と苦痛との態度をとっていたが、しかしその痛みはもう感じていなかった。(中略)まさにそれが不幸というものであり、そして絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである。

自分というものを豊かに働かせていては、とてもこの難局をやりきれない。一喜一憂していては参ってしまう。なので、考え巡らすこと、イメージすること、何かを大事に記憶にとどめたり、感情豊かに内外に関わっていくことを手放して、おのずと今の環境に適応していく。

それは自衛手段に他ならない。だけど、これは人を無個性化するプロセスでもある。「個人的なものを断念」し、「他人が興味をもつことにしか興味をもたず、一般的な考えしかもたなくなり」と、その様が語られる。

ペストは各種の価値判断を封じてしまった。そしてこのことは、誰も自分の買う衣服あるいは食糧品の質を意に介さなくなったという、そんなやり方にも明らかに見えていた。人々はすべてを十把ひとからげに受けいれていたのである。

そんな無個性が、日ごと週ごと自分の身のこなしとして馴染み定着していって、無意識のうちに習慣づいているとしたら怖いなと、ずいぶんその節のあたりで読みとどまってしまった。

そうして考えが滅入っていったときに、小説が描く時代から飛躍的に進歩した技術に下支えされた世界に、自分たちは生きていることに気づかされ、救われた。

小説の世界では、あちこち徒歩で行き来し、遠方に離れた大事な人とは手紙や電報でやりとりしていたが、今は日々SNSでつながっている人たちの近況も伺えれば、メッセージのやりとりも家の中から手軽に行える。つなぎよう次第で、音声通話すれば声も聞けるし、動画でつなげば表情もうかがえる。父に電話すれば、20分ほどのマシンガントークを、いつもどおり聴かせてもらえた。自分の感情が、穏やかに、健やかに揺れているのを感じられる。

また私は、相変わらずのらりくらりした文章を書いてはネット上にあげている。それは無教養な代物であれ、とりあえず自分が生きていく活動の一端であり続けている。現代はあらゆる人の手元に、個性の表現手段がある。

インターネットを通じて最新の情報も遮断されることなく多方面から得られるし、物流も止まらなければ、生活必需品の店舗も開いている。

ジョギングや散歩もでき、道行くと春は問題なく訪れていて、桜が舞い散り、大木は通るたび青々と変化し、花壇にはチューリップがぴんと姿勢よく並んで、鳥はさえずりながら頭上を飛んでいる。

私たちは単調さを回避する術を、これほどまで豊かにもっているのかと思い直す。これを活かさない手はない。あぁ、ありがたいと思う。

苦しいときは閉じていい。感情を抑制し、無表情を受け入れ、豊かな想像・記憶力を強いることなく、しばらくゆったり、ある意味淡々と過ごすのもいい。

一方、有り余るエネルギーを自宅に閉じ込めて、それによって苦しんでいるなら、小説の時代当時には使えなかったが今なら使える技術・環境をフル活用して、単調さから自分で脱却すればいい。このありがたさを、きちんと意識しておかないと、宝の持ち腐れだなぁと思った。

「はてしない足踏み」の中で、ある種の単調さ、ある種の感情抑制をそれはそれとして受け入れつつも、完全な眠りにつかずに自分としての個性を覚醒し続けることが、ちょっと知恵を絞る必要がありそうだけど大事なんじゃないかってなことを思った次第。

2020-04-09

水中をあきらめて陸上で運動

私は毎朝泳ぐのを習慣としてきたのだけど、新型コロナウイルスの影響で、通っているプールが3月の頭から断続的な休みに入り、4月からは当面の間休館するというので、できるだけ広々した通りを歩いたりジョギングしたりして、日々の運動を代替している。

最初は、1日おきくらいで3キロ程度のジョギングを始めた。家を出て、あの辺をぐるっと周って戻ってきたらちょうどいいかなというコースを走ると、身につけているiPhoneの「ヘルスケア」アプリが3.3キロを示した。

しかし何度か走ってみると、日によって3.3キロ、3.0キロ、2.7キロと、だいぶ違いが出た。信号で足踏みする所もなく、ほぼまったく同じ地面を踏んで戻ってきているのに、なぜこれほどまでに変わるのか。

ざっくりみれば、日ごとに走っている時間がいくらか短くなっている気がするのと、距離が短く出るときのほうが若干ハイペースに走ったかなという感じはする。走り慣れていくにしたがって、ペースが上がり、歩幅が広がって、歩数が少なくなって、移動距離が短くなったとか?

それにしたって同じ距離を走っているのに、300メートルはまだしも600メートルは違いすぎないか。どっちのほうが正解(実際の距離)に近いのだろうなぁと思いながら、しばらく「まぁざっくり3キロくらいだろう」と、根拠なく真ん中を想定して走っていた。

で、今朝のこと。試しに同じコースを歩いてみようと思い、ほぼ同じ地面を踏んでぐるりと歩いてきた。戻ってきてアプリを確認すると、2.7キロ。

ということは、最も短い値で出ていた2.7キロが実際の距離に近いってことか。わー、最初に想定したよりだいぶ短いなぁ。もっと実際は短いのかもしれないけれど。

なんとなくイメージ的には、ジョギングを始めた最初の最初は、私がかなりドタバタ走っていて、そんな走りでまともに測定できるわけがなかろうという向こう側の言い分があるのではないかと想像するが。

最近は、だいたい7キロコースも作った。水泳のときは50分泳ぐのを基本としていたので、ジョギングに代えても同じくらい運動時間は確保したい、走るスピードは遅くても構わないから、とりあえず50分近く運動し続けることが大事だ、という勝手な思いこみで、じゃあもう少し距離を延ばしてみようと思ったのだ。

といっても基本ざっくりなので、とりあえずゆっくり最初から最後まで同じペースで走る前提だったら、25分間家から離れるようにして走り続けたらいいんじゃないの?と考えた。25分走ったところで折り返して戻ってきたら、50分コースの出来上がりだ。

ということで、いつもの3キロコースを途中からはずれて、家から離れる方向へ走り続けることにした。どっちの道に行こうかなぁと走りながら思案したところ、一つの道を思いついた。

そうだ、以前から「あの道を行くと、どこにたどり着くのだろうか」と思っていた道があったじゃないか。あの道を、今こそひたすらまっすぐ走っていってみよう。

まっすぐに延びる、大木が立ち並んで緑豊かな通りである。少しワクワクしながら走り抜けていくと、下り坂が出てきた。ずっと平坦な道を走ってきたので、下り坂に遭遇するとは想定外で、なんて器の小さな想定外だ!と、なんか自分で自分に驚いた。ということは、この後に必ず上り坂が出現するはずだ。ちょっとした冒険気分である。

知らぬ道をそのまま行くと、途中で立派な大木の切り株が出てきて、うわー切り株だ!とテンションが上がる。疲れているときに切り株を見つけると、人はこんなにも自然と腰かけたくなるものか!と感嘆する。しかも、最初に出てきた切り株は、後のいくつかに比べて見事に座り心地が良さそうな高さだった。なんてことを考えながらせっせと走るのは、なかなか乙なものである。

結局、そこから程よいところで家に戻ろうとすると50分にはちょっと足りないコースになっちゃうのだけど。

とにかく、今はジョギングと散歩を適当に組み合わせながら、日々の運動をしている。

両方を一日の中に組み込んでみると、なかなかうまい具合に循環が働きだす。というのは、長く歩いていると、移動にも時間がかかるし(人間て乗り物を使わないと、こんなに移動遅いのか…と実感する)、歩くよりもう少し身体に負荷をかけて運動したい欲求も高まってくるのだ。その勢いでジョギングすると、身体がそうそうこれこれと呼応しているような感覚を覚える。

でもまぁ、そんなに長く走り続けられるわけでもないし、やわな身体なので、無理して風邪引いたり故障しては元も子もない。ということで、毎日ほどよい散歩&ジョギング時間をもつのがちょうどいいっぽい。

陸上で運動するようになって、自然の風景がよく目に入るようになった。満開の桜が舞い散って緑に変わっていく様子が目にとまったり、鳥のさえずりが聞こえてきたり、大木の一つひとつが頼もしげに見えたり、立派な切り株との出会いがなんとも愛おしく感じられたり。

身体の声も、よく聞こえてくるようになった。おなかすいたー、もう少し負荷をかけて運動したい!というレベルのことだけど。

水中運動をこよなく愛するのに変わりはないけれど、今は仕方ない。プール開きまで、ジョギングと散歩で自然に触れつつ、日々のささやかな発見を味わいつつ、体力を微増させつつ、持ちこたえたい。

2020-04-06

買い物は慎重に、冷静に…

東京は、すでに医療崩壊の段にあるという話が、あちこちから聞かれるようになった。けっこうな重症になって救急車を呼んでも、引き受けられる病院がないという。いよいよ緊急事態宣言が出るか、とも言われる。

私は一市民として、1.三密を避ける、2.買いだめしない、3.健康維持と体力微増、を生活の基本方針にして地味に暮らしている。これといって役に立てるわけじゃないが、せめて迷惑はかけないようにしたい。

1はまぁ当然として、2はラジオ番組で聴いた物流の専門家の話に、大いに学びがあった。サプライチェーンの観点でいうと、近年は倉庫に多くの在庫を抱えないスリム化を推し進めてきたので、買いだめが発生して通常より2〜3割ほど購買が増すだけで、物流はうまくまわらなくなる。一人ひとりが、いつもどおりの量・タイミングで買い物を続けていくことが大事だ、という(ような感じの)話をしていた。これに従って、私は食料や日用品の買い物には、いつもどおり都度出かけている。極力、店が空いていそうな時間帯を選んでいる。

さて、昨日は午前中に近所のスーパーを訪れたところ、久しぶりにトイレットペーパーを目にした。とはいえ次々に売れていくので、あと1〜2分したらなくなるな、という状況。まだ家には2ロールほどあるけれども、ここは買っておいたほうがいいかと思い、残り物に手を出してしまった。これが、いけなかった。

近づいて手をのばしたあたりから、すでに危険なかおりは感じていたのだけど、そこはまだ他のものもたくさんあって開けた空間だったから、これのせいかどうか特定するのが難しかった。

が、ずっと、その危険なかおりはついてきた。レジを済ませて、お店を出て、通りを歩いていても、手元のあたりから漂ってくる危険なかおり。もしかして、もしかして、と思いながら家路を急ぐ。

家に帰ってきて室内に入ると、間違いない…と思うほかなかった。私は普段、トイレットペーパーに限らず、なんでも無香料タイプを好んで使っているのだけど、このトイレットペーパーは薔薇のかおり付きなのだった。

この匂い、もとい臭いが、きついのなんの。どこに置いても部屋中を汚染してくる。なぜ、これが付加価値になるのか不思議でたまらない、これを好んで買う客が本当にいるのか、もしかして売れなかったから倉庫にしまっておいたのを今なら売れると思って取り出してきたんじゃあるまいな…と疑うレベルできつく、鼻がおかしくなりそうだ。香水がきつい人のそれを香害と呼んだりするらしいが、まさしくその域である。

仕方がないので、換気扇がまわっているお風呂場に置いておいたのだけど、それはそれで毎日使う場所なので、ほどなく台所に移動。これでも部屋のほうに忍び寄ってくる勢いなので、今は扉向こうの玄関に置いて、生活空間と遮断している。

これには、家に帰ってきたときに、この臭いを感じないとしたら、それは臭覚が機能していないということだと気づけるメリットがある。この効用を見出して、どうにか納得して家の中に置いている。本当はベランダに出したいところだけど、紙だし、水に溶けるしなぁ。

無香料タイプのトイレットペーパーが売られていたら、もうひとつ買ってしまいそう。こればかりは致し方ないと、許されるだろうか。本当に、きつい。信じがたいほど、きついのだよ。やっぱり、買い物は冷静にしないといけない。一呼吸して、本当に、いま必要か?と自問自答を3秒。肝に銘じたい。

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