2024-11-24

ネガティブ感情とうまいことやるオーソドックスな方法

ネガティブな感情が湧きあがったとき、それとうまいことやる方法というのを、教わった覚えはあるだろうか。気をてらった方法でもなく、有名人の我流でもなく、基本的でオーソドックスな方法。私は、ないと思う。

昭和生まれで義務教育も今よりガサツだった時代に育ち、大手企業がやるような体系だった新人研修も、管理職が受けるアンガーマネジメント研修も受けたことがなく、記憶力もとぼしい私には、こう教わりましたと思い出せるものが、これといってない。

それが先日、とある本*の中で「あぁ、これならやってる、日常使いしてるぞ」と思う感情調整の理屈に遭遇した。普段の生活を送る中で、野良作業しながらスキル獲得していたというやつだろう。本を読みながら、うまいこと自分の感情とやってるもんだなぁと気づくところがあった。

その理屈というのを図示して、おいておきたい。困っている人がいたとき、ぱっとこれを見せながら説明すると話が早そうだ、という自分の説明用にこしらえた一枚なので、足場だけ組んである感じで人には物足りないと思うが。使えそうだと思う方は、困っている人に説明するときなんぞに使えたら使ってください…。

感情調整のプロセス、心の健康との関連性(画像をクリック or タップすると拡大表示する)。

ProcessOfEmotionalRegulation

ざっくり言うなら、同じ状況でも、その状況にはいろんな意味づけができるわけで、多様な解釈スキルを向上させることが感情調整力の肝、心の健康維持にも寄与するという話。

人に伝える場合、実際には、相手に合わせてお手製シチュエーションを具体例挙げて示したり、本人が直面している苦難シチュエーションをネタ提供してもらいながら理解をたどるキャッチボールしてやらないと、知的満足は得られても実用に到達しないと思うので、その伝え方こそが肝になるのだけれど。

以下、理屈メモ。あと、ちょっとしたシチュエーション例も添えておく。

私たちは、いろんな状況で日々、嬉しいとか楽しいとか、腹が立つとかイライラするとか、悲しいとか寂しいとか不安だとか、焦るとか落ち着かないとか退屈だとか、恥ずかしいとか情けないとか、罪悪感がわくとか嫌悪感を覚えるとか、闘争心が芽生えるとかしているわけだが、あれが「感情」である。

で、同じ状況でも、どんな感情を経験するかは人によって違うし、どう処理したり、どう表出するかも人によって違う。個々人の性質(タイプ)によって、何を楽しいと思い、何に退屈さを覚えるかに違いが出るわけだが、それはここで論点としない。

また同じ人であっても、その時々のコンディションや、ちょっとした状況の違いで変わってくる。ふだんなら気に障らないことが気に障ったり、その逆もある。が、それもここでは焦点化しない。つまり「状況同じ、人が違う」「人同じ、状況が違う」いずれによる感情の経験差でもなくて。

ここで焦点化したいのは、その人の「感情調整」の力量、言わば感情を扱うスキルによって、感情の経験の仕方に違いが出るという話題。

感情調整とは何か。

人が、いつ、どのような状況で、どのような感情を経験したり、表出したりするかに影響する一連の過程を捉える概念

「イライラする」「不安だ」という負の感情を抱いても、それを処理する方法は人によって異なり、調整する力量(スキル)次第で、ネガティブな感情に振り回される回数は減らせる。うまく活用できれば、ポジティブなエネルギーにも変えうるという話だ。

上の図は、日々ふつうにやっているプロセスを、くどくど図にしてある感じ。なのだけど、これを意識化して、脳で捕まえて、心で扱えるようになることが大事なので、あえてくどくど図の内容を言葉に起こすならば、

1.感情が4つのプロセス(状況、注意、評価、反応)を経て生起する中で、
2.5つの感情調整(状況選択、状況修正、注意配置、認知的変化、反応調整)が、それぞれ行われうる。
3.世界中に多数ある研究成果をメタ分析すると、5つの感情調整プロセスは「心の健康」と関連するもの、しないものに結果が分かれる。
4.「弱いか中程度の効果」が認められたのは唯一「認知的変化」のプロセスである。
5.「認知的変化」というのは、置かれた状況への評価や捉え方を変えること。

つまり、自分が置かれている状況に対して、それがたとえ自分の力では変え難いと思える状況や環境だったとしても、置かれた状況をどういうふうに解釈するかは、いくらでも発想のめぐらしようがあるということ。少なくとも、解釈が1つで終わる状況などない。そう思うなら、それはスキル不足による思い込みだ。

例えば、ファミレスでパソコン持ち込んで一人仕事をしていたとして、家族連れが隣りの席に座った。子どもらがわいわい騒いで一気にうるさくなり、仕事に集中できなくなった。最初にイライラする感情がわいたとして、「でも、ここ、ファミリーのレストランだしな」とか「静かな空間で仕事に集中したいんだったら、それをサービス料に含んだ場所に行くなり、職場なり自宅なり自由がきく場所に行かなきゃいけないのは自分のほうだ」というように、自分の状況解釈に変更を加えるのが「認知的変化」だ。

こういうプロセスを加えると、最初にわいたイライラ感というのが、少なくともそれ単体で自分の心を占拠している不健康状態から解放されているだろう。

このファミレスのシチュエーションで、他のプロセスを例示するなら、

「状況選択」は、そもそもうるさい環境を予見してファミレスには行かないとか。
「状況修正」は、人気が少ないほうに席を移動させてもらうとか。
「注意配置」は、自分の注意をそらすべくイヤホンをするとか。
「反応」は、深く息を吐くとか、むっとした表情をするとか、睨むとか目を閉じるとか、だろうか。

この辺を解説する本のくだりを読んでいて、確かに「認知的変化」は、心の健康確保に日常使いしているなぁと思ったわけだ。

「自分自身」あるいは「話す相手」が直面している状況に合わせて、認知的変化を加えながらポジティブ感情を引き出すアプローチを考えていければ、日常かなり開放的に心の健康を維持・運用できる。その感情をエネルギーにして、「反応」後の具体的な行動選択、あるいは回避行動、人間関係づくりを展開していくこともできよう。

結局やっぱり、ちょっとお堅い文章になってしまったが、日々いろんな状況に直面する中で、いらっとすること、しょんぼりすること、ネガティブ感情を抱えることはままあることであり、むやみに周囲に変更を迫ったり、我慢して心を疲弊させたりせず、自分の「状況の評価の仕方、捉え方」を、うまいことチューニングして再解釈を与える。このオーソドックスな方法は、もっと日常使いされていいのではないかと素朴に思ったのだった。

いや、私以上にうまいこと使えている人もわんさかいるだろうことは承知の上だが。このスキルのたゆまぬ鍛錬は、感情の味わい方を豊かにするばかりでなく、人生の味わい方を豊かにするんじゃないかなぁって思うのだ。

*小塩真司 編著「非認知能力: 概念・測定と教育の可能性」(北大路書房)

2024-11-16

長編小説「ザリガニの鳴くところ」が与えてくれるもの

先月半ば、本屋で平積みされていた分厚い文庫本を2冊買って帰った。いずれも600ページある長編小説で、ひと月近くかけて1,200ページを読破したのだけど、終えてみると、なんだか2つの旅を終えて帰ってきたような心持ちに。長編小説を読むというのは、ひとり旅をする体験に近いなぁと思った。

どちらもハヤカワの文庫本で、「未必のマクベス」「ザリガニの鳴くところ」も、同じような夕焼け色の表紙をしている。その静けさに惹かれて手に取ったのだけれど、中身を開けばまったく違う世界が広がる。かたや2000年頃からの香港の大都会を舞台に、かたや1950〜60年代のノースカロライナ州の湿地を舞台に、1ページ目から全然違うところに連れて行かれる。見た感じ、ほとんど同じ物体なのに(というと装丁家に失礼だけど、買ったのは装丁のおかげだ)。

私が大型書店で目にとめてひょいと気分で買って帰る小説というのは、つまり、すでにめちゃめちゃ売れていて、読んだ人が世の中にわんさかいる作品ということだ。「ザリガニの鳴くところ」は、2019年、2020年にアメリカでいちばん売れた本とのふれこみで、映画化もされているのだとか(知らなかった)。

そういう長編小説を読んでいる最中よく思うのは、「私の前に、こうして同じようにページをめくり、一人でこの小説を読み耽って時間を過ごした人が、この世界にはたくさんいるのだ」ということ。この読書時間を尊く思い、この物語に心をおいて過ごした人たちが、この世の中にわんさかいるという心強さ。その人たちは今この時も、私がまだ知らない別の物語を、ひとり読み耽っているかもしれない。そうして、この不穏で不透明な世の中への信頼を回復しながら、小説の続きを読む。

「ザリガニの鳴くところ」は、動物学者が69歳にして初めて書いた小説だそう。人間そのものの野生や、人間をとりまく自然界の底知れなさを全景にした物語には、彼女の人生経験を総動員して作り上げた作品の力が宿っている。

社会を騒がすトラブルが浮上するたび、人間のクリーンでない側面、倫理的に許しがたい素行を、その場しのぎで覆い隠して、個人を消して罰して、底浅く善悪判定をつけて片づけようとしている世の中を糾弾しているようにも感じられた。

人間の野生や、自然界がもつ野蛮さをさらしてみせ。人間のもろさ、不完全で、いびつで、偏ったものの見方・考え方から決して逃れられない性質を突きつけてみせ。その一方、人の、個人のもつ並はずれた環境適応のポテンシャルにも光を当ててみせる。

誰にも覚えがあるだろう「人から拒絶される」体験、誰とも分かち合えず抱え込んでしまう孤独感を、とことん掘り下げていく。

もし、もっと人間社会が成熟した先に、誰も「人から拒絶される」という体験を覚えることなく、孤独感に苛まれることなく、理不尽も不条理も経験することなく生きていけるようになったら、こうした小説の読書体験価値は衰えてゆくのかもしれない。けれど今の10代が経験した苦悩話を聞くかぎり、私にはまだ当面そうなる見通しをもてないし、それこそが人間の追求すべき未来展望かと問われて、安易に首肯もできない。

何十年と生きていけば、たいていの人が、むごたらしい現実に直面させられる。たとえ助け合ったり慰め合ったりできる仲間がいても、それだけでは根本解決ならず、本人が個として対峙しなきゃならない難局というのが、特別な人にだけではなく、たいていの人にやってくるものじゃないかと、私はそのように人の生を見立てている。

もちろん、おかれる境遇は千差万別で、人と比べて自分の境遇が軽く見えたり重く見えたりもする。けれど共通するのは、それぞれに自分のそれを抱え込むということ。だから、ノースカロライナの湿地に生まれて親にも兄弟にも置き去りにされ、たった一人で生きてきた少女の極限の嘆きにふれて、彼女と境遇は大いに異なるのに、読者はその痛みに共鳴する。だから、これほど読まれているのではないか。そこに私は、心強さと励ましを得ているように思う。

自分だけじゃない、他の多くの人たちも、人は代々、自分と同じかそれ以上の難局を個人で体験してきていて、それを歯を食いしばったり、やり過ごしたり、時間かけて乗り越えたり、それと共生する覚悟を決めたりして、どうにかこうにか生きているんだと発想が及ぶ。それを支えに、自分も自力で立ち上がって、自家発電で自走を再開する脳内展開力が働く。

人ひとりが普通に人生を全うするのは、なかなか難儀なもので、こうしたものを備えていかないと、なかなかどうして、やりきれないんじゃないかと。古い人間と言われればそれまでの話、20世紀人間の杞憂かもしれない。あとはもう、それぞれの世代が、それぞれの時代を生きてみて、その次の世代が振り返ってみるほかないけれど。

ともかく今を生きる私は「これを読んでいる人が、世界中にたくさんいるのかー。これを読んで、素晴らしいと評する人たちがたくさんいる世の中というのは心強いなぁ」と感嘆しながら、長編小説に力をもらって、のらりくらりやっていくのだ。

2024-10-11

「企業文化をデザインする」仕組み化と余白確保の按配

冨田憲二さんの「企業文化をデザインする」を読んだ。人を採用するときにはスキルマッチだけでなくカルチャーフィットの具合をみるのも必須だとか。メンバーをマネージャーに昇格させる時には、持ち場の職能レベルの高さだけでなく、組織のカルチャー体現者でないとチームが回らなくなるとか。企業文化や組織カルチャーの重要性を説く発信に触れることは多い。

が、実際どこまでどう仕組みを作ってデザインし、どこは余白として遊ばせておいたほうがいいか。ダイバーシティも説かれる昨今、これとの両立にも整理をつけてかからないと、二枚舌の矛盾だらけで納得感のない組織運営になってしまう。

先の本は、実務家による実務家のための良書、基本が読みやすく分かりやすくまとめられている印象。が、テーマがテーマなだけに、この基本の上に立ってどうデザインしていくかは極めて個別的な話。著者も説くように、よそから良さげなものを持ってくるのではなく、自社の内省を起点にデザインすることが極めて重要となる。

AmazonやNetflixのをトレースして、うまくいく企業は早々ない。組織を形成している人間が違う。市場環境も違えば、事業フェーズも創業期なのか急成長期なのか安定期なのか変革期なのかで、取り組む課題設定も変わる。もちろん目指すビジョンもミッション定義も、各社オリジナルなわけだから全然違う。そこの個別デザインに、組織運営の創造的活動が立ち上がるとも言える。

本の中では、人の採用と評価が極めて重要として、「カルチャーフィットの観点から見たときに少しでも疑問符がつくならば、絶対に採用しない」という固い信念を説くけれども(p147)、人を選べる強者の企業でないと、なかなか…とか。

選考シーンだと、応募者が入社後に変わる余地をどう見極めるか、とか。その人が入社して感銘を受け、柔軟に変化してコアバリューの体現者になっていく可能性はゼロじゃない。選考シーンで、その可能性が70%なのか30%なのか判断するのは簡単じゃない。

また、今自社が掲げているコアバリューがどれほど絶対的なものか、明晰に言葉に言い表せているのか、ここも絶対がない。「この応募者の、自社とのカルチャーフィットはいかほどか」を測る指標は、どれほど洗練されて装備できているのか。本当に排除すべき異分子なのか、多様性を高めるポテンシャル人材ではないと言い切れるのか。

採用機会を逃して本当にいいのかは実際、判断の難しい局面も多い中で、「ビジョン、ミッション、コアバリュー」という抽象的記述から、企業文化として経営戦略、事業戦略、人事戦略・人事ポリシー、人事制度として具体的な仕組みに落とし込んでいくか、どこまで仕組みに落とし込んでいくか、このデザインの按配は極めて難しいと感じる。少なくとも、難しいという感覚を働かせ続けることが、膠着化や形骸化をさせないために大事な気がする。

さらに、自分が身近にして最も難しいと感じているのが、現場マネージャーらがどこまで若手に、仕事観や働き方、日々の行動・判断のあり方を指導・伝承し、どこから先は踏みとどまるべきか。

厳化する社会通念やコンプライアンス、ダイバーシティやらとの調和を取りながら、現場で部下にコアバリューに基づく行動選択を導いていくミドルマネージャー層の板挟み状態に思いを馳せることは多い。部下のワークライフバランスやメンタルケアの守備にまわりがちな現場の苦悩を見聞きする今日この頃。自分ができる現場のサポートに、こまやかな洞察をもって取り組んでいきたい。

*冨田憲二「企業文化をデザインする」(日本実業出版社)

2024-09-24

「日本のビジネスパーソンは学ぶ習慣をもたない」を問題とするかどうか

国際的には勤勉なイメージをもたれている日本人だが、実際に国際比較すると「社会人になったとたん学ばない国民と化す日本人」と指摘するのは小林祐児氏(パーソル総合研究所)。著書「リスキリングは経営課題」では、まえがきから

日本のビジネスパーソンは、世界的に見ても圧倒的に学びの習慣がありません。

と記し、第2章ではこの点を掘り下げて、日本人の「中動態的」キャリア論を展開する。

昨今の「ジョブ型人事」「リスキリング」を取り上げたメディア記事に触れるたびに、論の底浅さを覚える自分自身を訝しむようになり、最近は努めて、こうして自分の眉間に皺がよる理由は何なのだ?と内省するようにしていたのだけど、上述のことが背景の一つにあるのかもなと再読して思い当たった。

18カ国・地域の主要都市で働く20~69歳の就業者(男女)を対象に、パーソル総合研究所が行った「グローバル就業実態・成長意識調査(2022年)」で、職場以外での具体的な学習や自己啓発活動について聴取したところ、日本は圧倒的に「何もやっていない」回答率が高かった。世界平均18.0%のところ、日本は52.6%、ダントツ1位である。

日本人の就業者の学ばなさ

(クリック or タップすると拡大表示する)

この問いは、別に「何かやっていますか?」「とくに、これといってやっていません」みたいなやりとりで導き出した割合ではなく、具体的な学習行動を選択肢として並べ、選択肢11項目の最後に「とくに何も行っていない」を含めたところ、それに回答をつけた人が、ずば抜けて多かったという結果だ。

具体的な選択肢は、次の通り。()内は、18カ国・地域中の日本の順位を入れた。

読書(17位)
研修・セミナー、勉強会等への参加(18位)
資格取得のための学習(14位)
通信教育、eラーニング(18位)
語学学習(18位)
副業・兼業(18位)
NPOやボランティア等の社会活動への参加(18位)
勉強会等の主催・運営(18位)
大学・大学院・専門学校(18位)
その他(18位)
とくに何も行っていない(1位)

順位でみてみると、1つ目の「読書」は僅差でスウェーデンを上回って17位、3つ目の「資格取得のための学習」は下から5番目の14位なのだが、あと全部が最下位。こうやって見ていると、圧巻というか、あっぱれという感じがしてくる。

ここまでの特異性をもっているって前提に立つと、これを問題として取り扱うべきなのかなって気がわいてくるのだ。問題として解決しようとするのってなんか無理筋というか悪手というかセンスがないというか。

この特異性を別の見方をもって活かせないものだろうかと。これは「解決すべき問題」として扱うより、「変えられない環境条件」と位置づけた上で戦略を練ったほうが奏功するんじゃないかと。

そんなことを思う背景にはもう少しいろいろあって、先の「中動態キャリア論」的な文脈も敷いて丁寧に言及すべきことではあるし。また、もちろん、そのままでいいと全面肯定する話でもなく、「これは問題だ」として「策を講じる」素直な流れもあって当然とも思っている。

のだけど、その辺いったんすっ飛ばして、そんなこんなを背景にして私は、昨今の「社員のキャリア自律を促進してですな」とか「キャリア研修を充実させてですな」的なのを、表層的で、実効性なさそうで、あんまり筋良くなさそうだなぁという思いもたげていたのかなぁと思った次第。

ここまでの圧倒的な特異性をひっくり返すのって、そう簡単ではない気がするし。少なくとも、この特異性も踏まえて問題の特定、課題の設定をして策を練るべきだし。できることなら、この特性をうまく別の解釈もちこんで、活かす方向に戦略を練れたら良さそうだなぁと。具体的な案件で現場で何か活かせる機会が到来したあかつきには、この辺も織り込みながら底深く練れるように引き続き揉みほぐしを続けたいところである。だいぶ雑な文章になってしまったが、詳しくは下の調査レポートや新書などで…。

*パーソル総合研究所「グローバル就業実態・成長意識調査(2022年)」

*小林祐児「リスキリングは経営課題~日本企業の「学びとキャリア」考」(光文社)

2024-08-27

専門家キャリア道半ばの「罠」のようなもの

なんらかの職種や肩書をもった専門家になりたいと思い、専門知識・技能を磨き、それを現場で発揮していくうち、周囲の人に評価されたり、自分自身も手応えを覚えるようなことが出てくる。これは喜ばしいことだ。

一方、そうした場面でも自分に「ちょっと待った!」をかけて、現場の見極め、あるいは自分のパフォーマンスのモニタリングを冷静に続行できるかどうか。それが、ここから先へ進んで真正な専門家になるか、ここに滞留したままになるかの分岐点になるようにも思う。

精神科医の中井久夫さんの著書「こんなとき私はどうしてきたか」の中に、こんな一節があった。

患者が進んで病的な内容を医者に語るとき、医者の一つの面が刺激されます。それは「よい医者である」「熱心な医者である」という本人や周囲の評価によって、また患者自身の感謝によってすら強化されます。つまり、それを止めるものはないのです。繰り返しますが、患者が医者に多くを与えた場合、その患者の予後はよくない。

患者が、医師に心を開いたように、いろんな話をたくさん聴かせてくれる。医師は、熱心に話を聴く。そのやりとりは、医師自身にとっても、周囲の患者家族や看護師からみても、一見すると望ましいことのように見える。事は順調、眉間に皺をよせて止めるべきことは何もないように思われる。

けれど「その患者の予後はよくない」。

これは精神科医の話だけれど、キャリアカウンセラーやコーチといった対人支援ワーカー、部下をもつマネージャー、もっと広くは何らかの専門家としてクライアントと直接関わる人にも、他人ごとではないように私には読めた。まるで、こうした立場に就いた者の駆け出し期に埋め込まれた罠だか試練のように。

上の文章の、「患者」のところを自分のクライアントや部下に置き換え、「病的な内容」を相談内容や悩みに置き換え、「医者」を専門家や上司としての自分自身に置き換えてみると、戒めとして響く。

著者は、自身の体験をもって、その狭小にはまる恐ろしさと、はまらないようにすることの難しさを説く。

すごく精密に病状を教えてくれると私はどうしてもそれをノートにしてしまうし、膝を乗り出して聴くのでしょう。患者のほうもそれに応えてくれる。しかしそういうことを中心にしてしまうと、患者の人生はだんだん病気中心になってしまいます。病的体験中心の人生になる。
医者も、患者すらそれを正しいことだと思ってしまうし、家族だってそう思うのですね。だからこれを修正するのはとてもむずかしいことです。むずかしいですけれども、ぜひとも直さなければいけません。

この文章は、精神的な病いの回復期にみられる揺り戻しのことを話しているのだけれども。

著者は、自分の患者さんが回復期の揺り戻しにあって、帰らぬ人になってしまった自身の体験を通して、切実に訴える。

このように回復期には揺り戻しがあるからこそ、「健康な生活面に注目する」ことが重要なのです。

患者が驚くべき病的体験を話したとしても、尚、

その彼が友達と映画を観に行ったり、ベースボールをしたり、喫茶店に行ったりしたことを、私は驚くべき病的体験の話よりも膝を乗り出して興味をもって聴けるか。

ぜひとも「聴けるようにならないといけない」と著者は続ける。しかし、これがとても難しいのだと。

医者には二手あって、「病理現象」に興味をもって医者になる人、「病人」に呼ばれて医者になる人とある。そして前者のほうが多く、後者のほうが少ない。前者には、ここにはまらないことがとても難しいし、後者にとっても、ちょっと危ないところがあるのだと。

これは医者に限らずではないかなと思うのだ。専門家としての野心や探究心、自己満足や自己肯定感を得たい一人の人間としての思い。こうしたものが、自身を視野狭窄にし、相手をも自分の専門分野の深みにいざなって視野狭窄に巻き込みかねない危うさを覚える。

「専門家としての己」にとらわれずに、その先を見据えて、臨床で、現場での働きを追求できるかどうか。意味ある仕事、役に立つという働きに照準を合わせて、自分を制御し、相手の人生全体、クライアントの事業全体に向き合い続けられるかどうか。そこに、真正な専門家としての己を築いていく道が拓けるようにも思われる。

専門家といってもいろいろあるだろうし、そこで自分に求められる役割は職場によって案件によって千差万別だろうけれども、実践現場で、実践家として、その専門を究めようとするキャリアの道半ばで、職種も肩書も関係なく一人の人間としての自分、人格や器、人生観や倫理観が問われてくる。そういうことを、いろいろと読んだり考えたり取り組んだりしている今日この頃。

*中井久夫「こんなとき私はどうしてきたか」(医学書院)

2024-08-19

組織の分業化、個人の専業化が招くリスク

宇田川元一さんの『企業変革のジレンマ 「構造的無能化」はなぜ起きるのか』にある図は見応えがあり、文字を追いながら自分でも書いてみた。

企業の環境適応と無能化のメカニズム(クリック or タップすると拡大表示)。

企業の環境適応と無能化のメカニズム

自社の事業が当たって軌道にのってくると、その組織活動を効率化して環境適応していく中で、悪循環に陥る図。

1)組織は分業化・ルーティン化していく
2)そうすると組織は断片化する
3)するとルーティンの慣性力が働いて膠着化する
4)部門間・階層間にも隔たりができ機能不全に陥る
5)組織の考える能力と実行力も低下していって
6)問題解決しようとしても表層的にしか問題が捉えられなくなる
7)「どこそこ部署が悪い、誰それの能力が低い」と問題設定が的を射ず
8)組織は構造的に無能化し、脱出が困難になる

三角の中央に「狭い認知枠組み」と置かれていて、組織のみんなしてこの病にかかる様子が描かれている。

組織理論研究者のカール・E・ワイク氏いわく「適応が適応可能性を排除する」というのは、言い得て妙である。今への適応は、先への適応を遠ざける。

先の本には、これにはまった企業の「現場あるある」描写がふんだんに詰まっていて、「おまえのことやで!」「おまえの、そういうとこやぞ!」とつきつけては読者を当事者と認識させる力がある。

企業改革が頓挫するのを「あなたは誰かのせいと思っているかもしれないが、それは思い違いじゃないか?」「あなたはやっているつもりかもしれないが、周縁をぐるぐるまわっているだけじゃないか?」という問いかけが詰まっている。そうして読者の心の中に介入し、問題の本質、解決の道筋を丁寧にほどいていく。

何が問題かがよくわからない状態の組織は、流行のソリューションを次々と取り入れようとしがち

とか。問題を表層的に捉えては、外部からそれらしいソリューションをあてがって、アリバイ作りのような施策展開に終始している。その既視感たるや。

あるいは「戦略」といって示されているものの多くが、実際には戦略になっておらず、「自社が行おうとしていることの概要とその数値目標の提示」にとどまっているなど。

戦略とは、経営戦略論の大家リチャード・ルメルト「戦略の要諦」によれば次のように定義されるらしいが。

戦略とは困難な課題を解決するために設計された方針や行動の組み合わせであり、戦略の策定とは、克服可能な最重要ポイントを見きわめ、それを解決する方法を見つける、または考案することにある

これを念頭におくと、「戦略」という見出しはつけて発表しているものの、「え、今、方法について何も言ってなかったよね?」という戦略は、けっこう巷にあるあるではないか。目的が曖昧、課題設定がない、方法がない、この3つの連関がない。

自分たちの優先順位は何で、自分たちが活用できるリソースは何で、何は一旦捨てて、何に集中するのかが示されていない。現場で考えようとしても、上の3つの連関が見えないと、掘り下げようにも難しい。

先の書籍は、後半に至ると解決の道筋。これは地道なところに行き着く感があるけれど、めちゃくちゃ頭のいい人にしか解せない方法論や、そんじょそこらにいない人格者にしか実行できない突飛な方法を示されるより、ずっと良い。

安易に単純化したり、わかったつもりで突破しようとせず、外にある型・ソリューションをあてがって対処したことにして済ませようとせず、上のせいにせず、下のせいにせず、自分が自分の立場でできることを自分の果たすべき役割として、腹を決めて、腰据えて、取り組めるかどうか。

中の人らで対話して、個別化して、自社ごととしてユニークな解を考えられるかどうか。うちの問題を、うちの課題を、うちの状況・条件下で、うちの打開策を掘り下げていって、その合理的な手順を企てて、行きつ戻りつ、手を打っていけるかどうか。そこに外部の人をサポーターやコンサルタントとして取り入れるのは有効な手立てであり続けるとは思うけれど、中にキーマンがいなければどうにもならない。

あと、企業改革という枠組みから、ちょっと外に文脈をはずしてみて思ったこと2つ。

界隈でよく見かける「仕組み化」「ガイドライン化」「マニュアル化」して安定運用を志向する組織活動の功罪。良きものとして絶対視するのは危ういし、ではやらないのがいいかというと、そういう曲解も愚か。どこまで、どういう按配で仕組み化して、運用フェーズ後にどうテコ入れしてまわしていくと健全に保てるかの按配デザイン&マネジメントに手腕が要るというか。

運用フェーズに乗せるまでを自分の役割とする「ゼロ→イチ」の立ち上げ屋はだいたい、安定運用に乗るや、そこを立ち去ってしまうものだが、それを引き継いで運用・改善をまわす現場で、何が起こりうるかに目配りしないと、上記のような組織の無能化を引き起こしかねない。

中長期的な組織活動で捉え直すと、分業化(専門化)やルーティン化(安定運用化)を推し進めるのとあわせて、複眼的に逆風をふかしていく目線も必要で。選択と集中も必要なら、そこで捨てたほうに何があって、いつまでにはそっちにも手をつけないと取り返しがつかないことになるかもみながら活動していく必要があるんだろうなぁと。だいぶ抽象的なことを書いているけれども。何事も一辺倒では、済まされない。

あと、もう一つ。先の図を眺めていると、個人のキャリアにも重なるところを覚えた。組織が分業化し、ジョブ型なんて推し進めるのと並行して、働く個人も専門家を志向し、職務の専門特化・専業化を望み、(今の自分が目する範囲の)成長につながる仕事しかやりたくない!という欲求を強くして、その先鋭化が過ぎると、その人の「仕事力」は断片化、不全化、表層化して、どんどん「つぶしが効かない」キャリアになっていく、そんなリスクも覚えた。

その仕事、特定の専門性が廃れたらジ・エンドなキャリアを積むのは超リスキーと思うのだが、けっこうそこに、はまりやすい時世のように思う。抽象的に言っていてもどうともならないので、自分の現場現場で、できる働きを具体化してやっていけたらと思う。

2024-06-20

人の気持ちは揺れ続けているし、鋲で留めなくていい

武者小路実篤の「真理先生」を読んで思ったことはわんさかとあるのだけど、そのうちの一つが、人の気持ちは揺れ続けているもので、その気持ちを鋲で留めなくていいってことだ。

「余計なこと言ったと気が滅入ったよ。すぐなおったけど」

昨今は、どこか頑なに「一度言ったことを変えるのは無責任」みたいな気負いが、発する側にも受け止める側にも働いているように思うことがあって。そういう今の世の窮屈さを、「真理先生」を読んでいて意識させられたというのかしら。

一度言ったら、それを徹底して通さなきゃいけない、なんてことはない。むしろ人の気持ちは揺れ続けていて、固定的でないほうが自然だ。ちょっと腹が立っても、すぐなおったりする。悲しいと思っても、少ししたら気分が持ちなおす。自制が効いたりする。

僕は悪かったと思ったが、一寸(ちょっと)腹も立った。何か一寸皮肉を言いたかったが、馬鹿一の真剣な顔を見ると何も言う気にならなかった。黙って少し後ろにさがった。

考えることも柔軟で、ああしたほうがいいかなと思ったそばから、いややっぱりこうしたほうがいいかと考え直したり。そうした構えのほうが自然で、揺れを許容しながら目配せを続けて現場判断していったほうが健全に立ち回れることも多いのではないかなと。

もちろん初志貫徹、二言はないというほうが良い事柄やシチュエーションというのもあろうけれど、そういう場合ばかりじゃないだろう。もっとその辺、時と場合で使い分けていいんじゃないか。変わりゆくほうが人間の自然だろうくらいに、鷹揚にかまえていたほうが無理がないんじゃないか。

気分がなおったら、もう腹を立てたそぶりを続けなくていい。許したり詫びたり、泣いたり笑ったり、したらいい。嫌な気持ちなんて、人間そんなに長持ちしないようにできているんだから。そういう生態だと思えば、自分の心変わりも、当たり前のこととして受け入れやすい。人と話していて考え方が変わったときも、そっちのほうがいいねって、力みなく人の意見を取り入れやすい。別に、そこで意固地になる必要はない。

口にしてしまったことを、あぁやっぱり言わなければ良かったと思い返すなんてことも、人間あるあるだ。やってしまって後悔することもある。そしたら反省したら、いいのだ。だんまりを決めこまず、気持ちを整えて、謝りに行ったらいいのだ。自分のしでかしたことを正面で受け止めて、次は踏みとどまろうと思えたら、失敗は糧になる。

僕は自分のしたことを赤面しないわけにはゆかなかった。実に僕は余計なことをしたものだと思った。そして馬鹿一に今更に感心した。

受け止める側も、いたずらに相手に頑なな態度を求めずに、前言撤回も受け流したらいいのだ。考えや気持ちが変わることを、人の当たり前と思ってさらっと見届けるような、見逃すような心遣いができれば、さわやかだ。

受け止める側にそういう度量があることが肌感でわかると、発する側もそれを感知して、素直に前言撤回したり、考えを改めやすくなるものだし。その先に、もっと懐の深いつきあい、より良い考えが広がっていったりする。

こういう当たり前の人間づきあいを、今一度当たり前のこととしてやるように心がけていったら素敵なんじゃないかなぁと。ここんところが、かなり普遍的な、人間の良いとこ成分な気がするのだ。

「先生の考えは実に平凡だ」と言われて、真理先生は、こう返す。

「僕はあたりまえのこときり言いたくない。今の人はあたりまえのことを知らなすぎる。何でも一つひねくらないと承知しない。糸巻から糸を出すように喋るのでは我慢が出来ない。わざと糸をこんがらかして、その糸をほどく競争をしているようなものだ。あたりまえでないことを尤(もっと)もらしく言うと、わけがわからないので感心する。こういう人間が今は多すぎる。僕はそんな面倒なことをする興味は持っていない」

感じ入って読めてしまう今の世の中に、とてもフィットする武者小路実篤の「真理先生」。お気に入りの一冊になった。

*武者小路実篤「真理先生」(新潮社)

2024-06-09

有吉佐和子「青い壺」、古い時代とみるか異なる時代とみるか

有吉佐和子の「青い壺」を読んだ。第13話までを通して、袖振り合う人から人へと渡っては、それぞれの人生の、あるシーンの目撃者になる青い壺。願わくば、こういう小説が永く好ましく読み継がれる、寛容な社会が続くといいなぁと思った。

この作品は初出誌が昭和51年で、私が生まれたときに文藝春秋で連載されていた小説だ。50年近く前の話だけど、時代背景は「背景」として汲みつつ、当時も今も変わらない作品の「前景」をこそ受け取りたい。私はそういう読者なのだと痛切に感じながら読んだ。

最近は、昔の男女の固定的な性役割だったり女性差別的な日常描写に過敏なところがあって、強烈な違和感なり嫌悪感を覚えて作品を受けつけなかったり、イライラなりムカムカなりが湧き出て正視に耐えない人もいるようで。それにハラハラしたりヒヤヒヤする自分がいる。

それは私が鈍感で、お気楽なせいなのか。世の中の一部で過剰反応が起きているのか。あるいは大変なトラウマを抱えて生き抜いてきた方が、それを背景として軽く流すなど無理な話で、そういう人が実際のところ少なくないからなのか。おそらくは全部が関係しているのだろうけれども。

ただ私はやっぱり、文学作品というものに、こう親しみたいと思うところがある。お気楽と言われればそれまでなのだけど。

異なる時代には、異なる時代の、当時の人たちが、当時の過去から引き継いで導いた合理性というのがあって。それを下敷きにした、当時の価値観や慣わしや日常があったはずで。そこでの豊かな人間関係や営み、それぞれに果たそうとした役割や使命感もあれば、分別もあって、充実も可笑しみも苦悩も、懸命に生きた軌跡もあっただろうと、一人ひとりの人生に。

それを、未来からブルドーザーで踏み込んでいって無分別に論評したり、気ままに嘆いたり、断じたり、ある人を加害者扱いして嫌悪したり、ある人を被害者扱いして可哀想がったりするのは、失礼な気がしてしまう。

その時代ごとに、下敷きになっている背景は背景として鑑みながら、当時を生きた人たちの個人に焦点を定めて、おかしみには顔をほころばせ、背負った苦悩には心を寄せて泣き、登場人物の生きざまに学ぶやり方で文学を味わうのが、自分のやり方だなぁと。そんなことを思いながら読んだ、そう強く思わせてくれる作品だったのだ。

往時の陶工が決して作品に自分の名など掘らなかったように、自分もこれからは作品に刻印するのはやめておこう、と。

人の価値観も、今も昔もいろいろあっていいじゃないか。こういう人もあっていいし、名を馳せたい、歴史に名を残したい人もあっていい。何か一つの志しの持ち方を、唯一秀でたものとして推奨し、それ以外を否定したり排除したり疎んじたりしていては、一向に選択肢は増えないまま。正しい一つが何かが中身を入れ替えるばかりで、画一的な社会というフレームは一向に進化を遂げない。

新しいものに全面移行せず、選択肢として残していいものなら、そのまま旧いのも並べておいたらいい。そうしておいたほうが、若い人もいろいろな型を参照して、自分に合うものを見つけやすく、自分のそれも認めやすくなると思う。そこから自分なりのものも育てていきやすいだろう。それがスローガン掲げる「多様性社会」の具体じゃないのかなぁ。

*有吉佐和子「青い壺」(文藝春秋)

2024-06-05

楽観的な人の頭はお花畑でなく「わりと堅実」

楽観的な人というのは、お気楽だのおめでたいだのと揶揄されることがあるやもしれぬが、そんなとき心の支えとなる理屈を読んだのでメモしておく(ここでいう楽観性は「ポジティブな結果(成功)を期待する傾向」)。

ものの本によると(*)、楽観性が高いことが幸せをもたらすことを示す研究成果は、ざくざくあるようなのだけど(より適応的で、健康状態が良く、免疫機能が高い、手術後の回復が早い傾向、ストレスフルな出来事を経験した後の抑うつを低減させる作用があるなど)、なかでも興味をひいたのが、これだった(画像をクリック or タップすると拡大表示する)。

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上の図は、楽観性の程度を「悲観者」「中程度の楽観者」「高度の楽観者」の3タイプに分けてみたとき、それぞれが「ポジティブな言葉」と「ネガティブな言葉」にどの程度の注意を払っていたかを調査してグラフ化したもの。上に行くほど、注意を払っていた度合いが高い。

楽観的な人って「頭の中がお花畑」で、ネガティブな言葉をスルーして現実離れした見方をしがちなんじゃないの?という疑惑について、よっしゃ、調べてみたろやないかい!というのが研究意図と思われる。

まず左側の「悲観者」を見てみると、青いほうのネガティブな言葉には、むちゃんこ注意を払っている。一方で、赤いほうのポジティブな言葉に対しては、むちゃんこ注意を払っていない。極端な落差だ。

「楽観者」は、どうだろう。真ん中が「中程度の楽観者」で、右側が「高度の楽観者」。2つとも、赤いほうのポジティブな言葉に注意を払っているのは、さもありなん。だが、青いほうのネガティブな言葉に対しても、バランスを欠くことなく注意を払っているところは注目に値する。

右側の「高度な楽観者」は多少の開きがあるけれど、一番左の「悲観者」がポジティブな言葉をスルーする極端さに比べると、かなり同等にネガティブ情報にも注意を払っていることがうかがえる。

つまり、ちゃうやないかい、悲観的な人のほうが、ポジティブな言葉に注意を払わず、ネガティブなことに固執しすぎて、現実離れな見方をしてるんやないのかい!と、そういう研究結果である。これは味わい深かった。

以下、あくまで「傾向がある」という話にすぎないが、楽観性が高い人は、次のような観点での研究成果が示されている。

1)ポジティブな言葉ばかりでなく、ネガティブな情報にも注意を向けて状況を認知し、受け容れる傾向あり(ポジティブ情報に偏らない)

2)その状況が「統制がきく状況にない」と認めた場合には、無駄な努力をせずに、柔軟に目標を調節し、目標達成につながりやすい傾向あり(達成困難な目標に固執しない)

3)自身にとって有用な情報や関与度が高い情報に、選択的に注意を向ける傾向あり(与えられたすべての情報に注意を向けるのではなく)

4)自身にとって優先順位が高いと考える目標に対しては、積極的に関与し、時間と労力を集中させる傾向あり(状況に応じて目標への関与度を使い分ける)

逆に「楽観性が低い」ことで懸念されるのは、ポジティブな言葉や情報を無視して受け容れない。それによって状況判断を見誤る。それによって最初に立てた目標に固執し続ける、頑張ったところでどうにもならないところで努力し続ける。それによって目標達成を遠のける。

批判的な思考力は、それはそれで大事だし、楽観性だけで何かが達成できるわけじゃない。下の本でも「楽観性の高さはすなわち悲観性の低さを意味する」と一次元的に捉えず、「楽観性と悲観性とでは独自の役割を担っている」と二次元的に捉えたほうが有用であるという指摘をしているから、あまり単純化して話せるテーマではない。そう思いつつ...

批判的精神がつんのめって、悲観的な物言いが垂れ流されがちな今日この頃では、楽観性をもって事に向き合う構えこそ、自分で意識的に育んで備えて発揮したいものだなとも思うのだった。

*小塩真司(編著)「非認知能力 概念・測定と教育の可能性」(北大路書房)

2024-06-03

朝井リョウ「正欲」の愛情に満ちた糾弾

マジョリティとマイノリティ論者のいずれをも壇上に引きずり上げて、どちらにも平等に、対等に刃を向けて言葉でめった斬りにする小説というのか、朝井リョウの長編小説「正欲」は、そういう意味で大変すがすがしい読後感を覚えた。

論者といっても、別に「あなたのように影響力ある人が」と、なにか言えば逆側から叩かれる著名人に限らない。私自身を含めて世の中の全員に向けて、抜け漏れなく八方を塞いで、おまえら全員に言ってんだ!耳をかっぽじって聞け!という感じで突きつけてくる周到さが、すがすがしいのだ。

誰もが「たった一人の人間」として生きる脆弱を抱え、偏狭さ、浅薄さ、卑屈さ、傲慢さ、責任逃れに陥る身の上であることをもって全方位に糾弾してくる。

第1ラウンド。マジョリティこそが正常であり、マイノリティは異常であると信じて疑わないマジョリティ120%な人の偏狭さは、こう攻撃を受ける。

まとも。普通。一般的。常識的。自分はそちら側にいると思っている人はどうして、対岸にいると判断した人の生きる道を狭めようとするのだろうか。多数の人間がいる岸にいるということ自体が、その人にとっての最大の、そして唯一のアイデンティティだからだろうか。

マジョリティであるということが「その人にとっての最大の、そして唯一のアイデンティティだからだ」というのは、皮肉として巧いというより、急所を狙って刺してきた感を覚えた。

第2ラウンド。自分はマジョリティ側の安全圏に生息しつつ、マイノリティの良き理解者気取りで「多様性だ、ダイバーシティだ」とスローガンを掲げて気持ちよくなっている輩の浅はかさは、「私は理解者ですみたいな顔で近づいてくる奴が一番ムカつく」と言って、こうえぐってくる。

「多様性って言いながら一つの方向に俺らを導こうとするなよ。自分は偏った考え方の人とは違って色んな立場の人をバランスよく理解してますみたいな顔してるけど、お前はあくまで”色々理解してます”に偏ったたった一人の人間なんだよ。目に見えるゴミ捨てて綺麗な花飾ってわーい時代のアップデートだって喜んでる極端な一人なんだよ」

よく研いだ刃で、すくすく育ててきたプライドを、ビニールハウスごとズタズタに切りさいて野ざらしにする勢いで。自己認識が「何様」になってしまった人の「様」を片手で剥ぐ。

第3ラウンド。マイノリティ当事者に対しても、糾弾の手を緩めない。今の時代ここに刃を向ける発言は極めて難しい。とりわけ公共の電波にのせる発信者は、ここにアンタッチャブルで、腫れ物にさわるようにして当事者に対しての問題提起は一切しない論者も多い。

だけど、それが今を生きるマイノリティ当事者個々人の幸いを導くかという意味では、良しもあれば悪しもある。誰にとっても、理解者や協力者や救済者が必要なときもあれば、厳しいこと耳が痛いことを言ってくれる人の存在が何かを導いてくれることもある。時と場合で両方が必要なのは、何の問題のマジョリティであれマイノリティであれ変わらない。

「自分で引き受けなきゃいけないことがある」のも、「同じ法律のもとで、悪いことすれば裁かれる」のも、マジョリティとマイノリティで違いはない。その人が悪いことをしていたとしても、マイノリティ・弱者にはそうするほかない特有の事情があったのであり、マジョリティ・強者の側がそれに対して糾弾すべきではないというのは過度の慮りだ。ではマジョリティの一人ひとりは、悩みを抱えていないのかというと、そんなことはない。誰だって個人個人の特有の事情を抱えて、もがきながら生きているのだから。

この小説には、そういう平等で対等な、マジョリティとマイノリティの分け隔てなく個人に向けて切実に訴えかけることを諦めない作家の愛情を感じるのだ。そのために、マイノリティその人がはまりがちな卑屈さも、まな板の上に引きずり出して同等にえぐってみせているように感じた。

世間にマイノリティとすら認知されずラベルづけもされていない、マイノリティの中のマイノリティ120%を引きずり出して、こう言葉を浴びせる。

「全部生まれ持ったもののせいにして、自分が一番不幸って言ってればいいよ」
「そっちだってわかんないでしょ?選択肢はあるのにうまくできない人間の辛さ、わかんないでしょ?」
「不幸だからって何してもいいわけじゃないよ。(略)別にあんたたちだけが特別不自由なわけじゃない」
「マジョリティだって誰だってみんな歯ぁ食い縛って、色んな欲望を満たせない自分とどうにか折り合いつけて生きてんの!」
「はじめから選択肢奪われる辛さも、選択肢はあるのに選べない辛さも、どっちも別々の辛さだよ」

苦しみにはいろんな種類があって、みんなそれぞれに自分の抱える苦しみに飲み込まれないように生きようとしているんだと、泣きながら説得してくる気迫を受け取る。

こういう時代だからこそ、という前置きはどこか薄ら寒い心地をおぼえるのだけれど。私たち巷の人間は、自分が直接に接点をもった人たち個々人と、また自分自身の固有性と、どう向き合っていけるかが、とても大事なんじゃないかと思うのだ。

大きな網をはって括られた、誰かにラベリングされたのっぺらぼうの属性分類にのまれることなく、巷で生きる私は、自分について、自分の身のまわりについて、主体的な責任をもって、自分の力の及ぶかぎりは奮闘してみるというスタンスが大事で、それを支えたり導いてくれるのが文学作品だなぁと思う今日この頃なのだった。

*朝井リョウ「正欲」(新潮文庫)

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