2024-02-04

際に立たずに立つ長編小説の文章

久しぶりに小説を読んでいる。嶋津輝さんの「襷がけの二人」。豊かな時間さね。和語が心に染み渡る。読み始めてすぐ、お初さんの家の描写があるのだが、

玄関先の竹筒に紫陽花(あじさい)花が挿してある。花弁はまだ色づいておらず葉のような薄緑で、それが却って目に涼やかで、清潔だった。筋目だって掃かれた路面には、きちんと水が打たれている。格子窓の手すりには、陶器鉢がひとつだけ、ちんと置いてある。

もう、これだけで、ぐっと小説を読む愉しみに浸かれる。作品の紹介文に幸田文、有吉佐和子の流れを汲むと見かけた。

際に立ったテキストがあふれるメディア社会において、あっちにつかず、こっちにつかず、文章はこういうところに立ち上がっている姿こそ凛々しく、美しく、価値があるものだなぁと染み入るのだった。はぁ、長編小説の尊さよ(主語がでかい)。

しゃっ、しゃっと、草履の裏で砂利を掃いて路上を浄めるように、滑らかな足取りで調子よく進んでゆく

自分の目に映る光景を、人の立ち姿や足取り、他者へのふるまいを、どうとらえるか。描写のもとには洞察があり、洞察のもとに現実がある。こんなふうに現実を豊かにとらえることができるんだよと、豊かな描写が教えてくれる。

自分の内側をどう豊かにしていくかは、こういう長編小説のなかにこそ、手がかりや助けがあるものだなぁと思う。

展開がうまくて面白い、読ませる物語だからこそなんだけど、いやぁほんとに、こんな作家さんが自分のちょい上の年齢で同時代に生きて作品を発表してくれているなんて、ありがたく心強いことだなぁと思った。

* 嶋津 輝「襷がけの二人」(文藝春秋)
* 山内マリコ「襷がけの二人」書評 家族からはぐれ女中と築いた絆(好書好日)

2024-01-16

専門性を磨く/専門家を育成する「手順」の落とし穴

専門性を磨く、専門家を育てるニーズっていうのは、個人目線でも組織目線でも高いと思うのだけど、欠かしてはならない前提が、専門性を発揮したり専門家の役割を果たすには「深さ」も必要だが「広さ」も必要になってくるってことだと思うんだな。

で、これを入門する段階で一気に両方身につけるのは無理って考えると、身につける順序、教えたり教わったりするステップの踏み方に一考の余地があるってことになる。

そこで、あぁこういう落とし穴にはまりがちなのかもしれないと思ったのが、次のスライド(クリック or タップすると拡大する)。

20240116

左の図、右の図、ともに縦・横に線をひいて十字にきって、上下の線が「学ぶ領域の広さ・狭さ」、左右の線が「学ぶ領域の深さ・浅さ」と分けている。

左側の図が、こういう落とし穴に落ちがちなんじゃないかと思った3ステップ展開。学び始めに、左上の「浅くとも広い」領域を経験する・させることなく、左下の「浅く狭い」領域、言い換えれば「簡単な作業」から入っちゃう。そこから実務経験を積み始めて、専門家に求められるだろう右上の「広く深い」領域を目指した場合、そこに到達する手前でヘタっちゃうんじゃないかな、と思ったのだ。

実務未経験の新卒社員が入ってきて、その若手を専門家として育てあげて戦力化したい。そのとき、手っ取り早く「実務経験を積ませる」ということでいうと、手元にある実務をふって、部分でも、とにかくこれをやってみろと、左下の浅く狭い仕事(簡単な作業)をふっていく。これの寄せ集めをこなすだけで「実務経験3年以上」の経歴保持者になることも、大いにありうる話だ。

しかし本当の意味で「専門性を身につける」ということは、一朝一夕で済まないのが前提の話。長い期間さまざまな困難を克服して壁を突破できるかというのを念頭におくと、右側の図のように、学び始めに「浅くとも広い」領域を経験する、ここの足場があるかないかが、長旅を続けて右上の「広く深い」領域に到達する可能性に効いてくるんじゃないかなぁと思う。

この4ステップ展開って、意識的に仕組まないことには、なしのまま左側の3ステップ進行するのが常だろうなと思い、対比的に図にしてみた次第。

高いレベルは求めない、組織が「浅く低い」領域を任せられる作業者を量産したい施策なら、左側の3ステップで事足りるのかもしれない。が、本人のキャリア戦略であれ、組織の人材戦略であれ、高い専門性を育みたいなら、右側の4ステップで「浅くとも広い」経験を最初手にどう組み込むか、どう許容するかが、けっこう大事な気がしたのだった。

これは実務貢献度とのトレードオフにもなるから、自分・自社環境で現実的に許容できる按配をはかって設定する必要があるんじゃないかな。というのもあって、すごく抽象的な描き方にとどまるけれども。

そんなことを考えさせてくれたのは、観世銕之亟「ようこそ能の世界へ―観世銕之亟 能がたり」*だったりするのが、人の世の趣きあることだなぁと味わっている。

能役者は、子どものとき稽古するのに、だいたい神さまの能から始めるのです。それからしだいに人間のドラマへと入っていく、そうしないと戯曲がだんだん細ってしまうのです。つまり、神の偉大さということを体現していないと、どうしても演技に膨らみがでてこないのです。

平易に言えば、まず仕事の醍醐味から味わう、その活動の大義に触れること、魅力に接触すること、というのかな。それなしに、ぐいっと跳躍が必要なスケールの成長の軌跡って、なかなか見込めないんじゃないかな、などと思ったりするのだった。

*観世銕之亟「ようこそ能の世界へ―観世銕之亟 能がたり」(暮しの手帖社)

2023-12-31

伝えようとする人の意を汲もうとすること

鶴見俊輔さんの「文章心得帖」の中に、

自分の言いたいと思うことが、完全に伝わることはない。表現というのは、何か言おうとしたならば、かならずうまく伝わらなかったという感じがあって、出発点に戻る

という一節がある。そうして「無限の循環をする」のが表現というものなんだと、冒頭で腹をくくる。

文章というのは、書いたものが人に読まれたときに初めて意味をもつわけではなくて、自分の内面で何か思いついたときから意味をもちだしている、とも。

実は自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるものが文章であって、文章が自分の考え方を作る。自分の考えを可能にする。だから、自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を書くとすれば、それがいい文章です

自分の文章であれ、人の書いた文章であれ、何かを思いつかせてくれたり、何か自分にはずみをつけてくれたとき、そのことを大事に認識したい。文章に限らず、人が表現したものに対して。

何かを完璧に伝えられたなんて表現はない。そういう前提に立てば、自分の表現にも、人の表現にも寛容さが生まれる。

そういう中でも表現を試み続けている人のそれを、両手を差し伸べるようにして受け取る心もちになる。その姿勢がとても大事だし、それによって実際に自分が受け取れるものもぐっと豊かになっていくだろう実感がある。

鍛錬すべき能力というと、とかく批判的にものを見たり文章を読んだりするスキルが語られがちだけれど、それ以上に大事なのが(大事なのに当たり前すぎてなかなかメッセージ化されて情報流通していないのが)、なにかの出来事に触れたり、話や文章を通じて人の考えや気持ちに接したときに、そこにポジティブな意味を見出そうと努めること、相手の意を汲んで読み取ろうとすること、それを発見して前に展開させる力だと思う。

うまく表現しきれていないけれど、相手が表現しようとしていることに己の想像力をめぐらせて汲み取ることができる。汲み取ろうと努めることができるし、鍛錬によって汲み取るスキルを高めていくことができる。これって、とても尊い人の性質だと思う。

大事なことってだいたい両極をもっているし多義的だ。何か一つのことに傾注しているとき、他にもいろんな大事なことがあるって前提を見失ってしまうと足元をすくわれてしまう。シーソーの中心に立っている自分の足の感覚をいつでも大事にもっていたいし、その足腰を支える基礎を養い続けることを一番に大事にしたい。

鶴見俊輔「文章心得帖」(筑摩書房)

2023-11-18

スタートアップに限らない「スタートアップのための人事制度の作り方」を読んで

金田宏之さんの著作「スタートアップのための人事制度の作り方」が大変ためになったのだけど、この本に掲載されている「従来の日本企業とスタートアップの人事制度の特徴」という表に改めて目を通してみて思ったことメモ(クリックかタップすると拡大表示する)。

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上の表は本の始めのほうにあって、従来企業と対比的にとらえた「スタートアップの人事制度の特徴」を示したもの。「スタートアップのための」本なので、表の右側のスタンスで行くよという本作の方針を指し示しているわけだが、これって「スタートアップ企業のための」に限らないよなって思ったのだ。

現在の人材市場を前提にすれば、これまで左側の「従来の日本企業」型をとってきた企業も、「スタートアップ」型の人事制度に移行・改訂せざるをえない情勢にあるんじゃないかなと。

少なくとも一旦検討プロセスを踏んだ上で、あえて差別化するために移行しないという意思決定をするならいいが、なんとなくそのままというのでは、この先の人材マネジメントがうまくいかなくなるんじゃないかと危惧する。

上の項目一つとっても、外の会社が「実力と成果と経験をベースとした昇格管理」をしている世の中で、「年齢と勤務年数をベースとした昇格管理」を続けているには、それなりの採択理由と説明責任が問われる。そこで納得いく理屈が説明できないと、有能な若手の離職リスクが高まる。

「従来こうだったから」「うちはこうだから」だけで従来方針を固持するのは早晩無理が出てくるというか、すでに無理が出てきているというか、けっこう今がぎりぎりの局面なのかも。検討の上「それでも、あえて」という会社があっても、それはそれで差別化とも言えるし、労使関係が双方で納得しているならありじゃないかと思うけれども。

この表のうち私が、これは「従来の日本企業」型でも「スタートアップ」型でも、各社でどちら型で行くか方針決めたらいいと思ったのは4項目に過ぎなかった(青色の背景色をしいてある項目)。この4項目は、各社ごとに色が違っていいだろうなぁと普通に読んだ。

1.「職種共通」の等級要件か、「職種別」の等級要件か
どれくらい「職種」ごとの分化して等級要件を定義するかは、事業ステージや各社の方針次第では?と思うので

2.「1次評価者・2次評価者」体制か、「メイン評価者・サブ評価者」体制か
後者は、直属上司をメイン評価者にして評価裁量を与えたほうが納得感高くないか?という話で、それはもっともだと思う。ただまぁ、どちらも評価者2名体制。制度上どちらにしても、結局どちらがメイン裁量権をもつかはその2人次第になりそう(運用圧が強そう)なので、一旦その会社の人たちが受け入れやすいほうを採用するのが現実的かも?ケースバイケース。こだわる人がいるなら、ここは譲りどころ

3.報酬の上下移動を「安定的」にするか、「刺激的」にするか
これは各社のポリシー次第、きちんと方針を決めて社員に共有すべきところ

4.報酬に「賞与、豊富な諸手当」を設けるか、「ストックオプション、最低限の諸手当」とするか
ここも各社の事業ステージとポリシー次第、きちんと制度化して全社共有すれば良いかと

逆に、この4項目以外は、スタートアップ企業かどうかを問わず、移行・改訂(少なくとも、その検討)に迫られている気がしたが、どうなんだろう。私は、従業員が万単位とか十万単位とかの企業とつきあいがないし、業種・業態的にもクライアントが偏っているので、もっと視野を広げたら見解を異にするのかもしれない。あまり決め込まずに、今後も目と心を開いて事にあたっていこう。

とにもかくにも、この本は「スタートアップ企業のための」じゃなくて「スタートアップ企業に限らず、今の時代のあらゆる企業に」有用なエッセンスが詰まっている良書だなぁと、ありがたく拝読した。

金田宏之「スタートアップのための人事制度の作り方」(翔泳社)

2023-11-06

底と先知れぬ「VRモチーフのアナログ小説」

「友人」と呼んでは相手に失礼だが、「知人」と呼んではちょっとさびしくなってしまう間柄の池谷さんが、小説で新人賞を受賞した。私は文学界にまったく明るくないが、選考委員に江國香織の名前をみとめて目が飛び出た。ほか滝口悠生、豊﨑由美、山下澄人、佐々木敦の各氏が選考委員を務めたという「第5回ことばと新人賞」、これに選ばれたという。

受賞作「フルトラッキング・プリンセサイザ」は、今月初めに文芸誌「ことばと vol.7」に掲載され、2024年春頃には単行本が刊行されることになっているそう。自分と同世代にして、大学の事業部執行役員を務めながらの快挙。どんな時間の使い方をして暮らし、どんな人生観をもって生きているのか、皆目見当がつかない人だ。

「バーチャルリアリティ技術やメタバースに関するモチーフが多く使われている」「デジタルネイティブ世代のテクノロジーカルチャーを描写しているという側面もある」とは、ご本人の弁。人によっては「フルトラッキング・プリンセサイザ」という題名から、そのことに察しがつく方もあるだろうということなのだが、私はまったくもって関連づく前提知識をもっていない。

そうでありながら、物語世界をぐいぐい展開していく説明のなさが潔くて、これをして成り立たせるだけの丁寧な筆力を、存分に味わいながら読んだ。

「携帯電話」という命名が、ふと思い出された。携帯電話が世に出てきた当時、誰もが知っている「電話」を足場にしながら「携帯」という新しい言葉を乗っけて、受け取る側が過剰に怯えたり無視したりしない程度の実態性と、向く先の方角と高い将来性に見当がつく程度の可能性を言葉で示してみせた、あの感じ。過剰な説明なしに新しいコンセプトを世に定着させ、それの底知れなさを漸次的に世の中に展開してみせた、あの感じ。

バーチャルリアリティ全開の世界どっぷりで物語を展開されては、私なんぞすぐに放り出されてしまうのだけど、夏の手すりに感じる熱さ、黒Tシャツに映し出される汗の色、日曜の朝の駅の風景、アイフォンの手触り、そうしたものの丁寧な描写によって、今こことあちらをつなぎ、アナログ世界とデジタル世界を分ける線を曖昧にぼかし、一つの物語世界に居着く足場が私の頭の中で確かになっていく感覚をおぼえた。

私たちの認識する世界は、拡張しているのか、それとも狭窄しているのかわからなくなる空恐ろしさみたいなものが読後に残った感覚の一番だ。逆にいえば、先にふれた丹念な日常描写なしに、この空恐ろしさを抱えながらの読書は持ち堪えられなかったのかもな、とも思った。

それと、この小説の読書体験は、今この世に生きる、たかだか数十歳差の世代間で、受け取るものや脳内にイメージする世界に大いなる違いが出るだろうという想像がめぐった。同世代であっても、今すでにVR世界に馴染んでいる友人と、馴染んでいない私の間では大いに差が出るだろう。読者一人ひとりイメージするものは違う、それが小説というものだと言ってしまえば、その通りなのだが、それにしたって。

言葉では表しきれないコンセプトを、言葉による丁寧な造形描写によって積み重ねていった先に、人の頭のなかに新しい世界の像を立ち上げる言葉の底力みたいなものを感じる。文学ってすごいなぁ、こんなものを作る人の創作行為ってすごいなぁと、雑すぎる余韻。私は作り手のサポーターをするばかりだが、作り手と人の創作行為への真なる敬意を新たに、サポーターを生涯つとめあげたいなぁと改めて深く思った。

それにしても「自分は何者なのか」という人の認識は、どんどん捉えどころがなくなり、一般化しては何も物言えなくなってくるのかもしれない。どんなに引いて引いてみても「多様である」としか言えない枠組みの崩壊みたいなものが起こったとして、人間一人ひとりは、その自由さにどれくらい持ち堪えられるのだろうか。それへの適応を、人類の進化の一過程として振り返る時代がくるのかな。

*文学ムック ことばと vol.7(書肆侃侃房)

2023-10-30

俵万智が読み解く紫式部を味わう

古典文学の名作を前にして身構えず、ちょっとちゃかすくらいの気軽さで歩み寄ってみようという意味では、8月に書いた「『罪と罰』を読まない」に負けず劣らず、俵万智の「愛する源氏物語」*も楽しい。俵万智が頼もしい。

私は最近「能」づいていたこともあって、お能の題材とされる紫式部の「源氏物語」周辺に触れることが多かったのだが、どうも「源氏物語」そのものには読む気が高まらなかった。

長すぎる!というのもあるのだけど、紫式部の人となりや「源氏物語」のあらすじを読むにつけ、書き手も題材も女おんなしすぎているというか、俗っぽすぎるというか、女子っぽすぎるのが元来性に合わないのに加えて、歳とって恋愛ものに食指が動かなくなって久しいので、どうもなぁと。

それで「源氏物語」周辺をうろちょろしていたのだけれど、これが俵万智の手にかかると別の味わいを生み出すのだった。「愛する源氏物語」で彼女が読み解く「源氏物語」も、紫式部その人も、実に痛快でおもしろい。

和歌のうまさで名を残した人はいろいろといるけれども、紫式部のすごいのは、自分の作品としての和歌ではなく、自分が作った物語の作中人物が詠んだ和歌として、そのすべてを一人で創作している手腕だ。

「源氏物語」には半端ない数の登場人物があって、老いも若きも男も女もたくさん出てきて和歌を詠むのだが、それぞれのキャラクター、シーンごとの状況や心境、キャラごとの和歌の才能に応じて、実に795首もの和歌を盛り込んでいる。

作中人物にはティーンの男子もあれば、六十近い姐さんも出てくる。恋愛経験豊富な人もあれば、ひよっこもある。性格だって挑発的なの、奥手なの様々。光源氏というモテ男を一人配置することで、たくさんの女性がかわるがわる登場するにふさわしい物語の舞台を設えて、多彩な女性キャラを一人ひとり描き分けたところに、その人がこそ詠む和歌を入れ込んで物語を彩っているのだ。

とんでもなく和歌が上手い六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の詠む歌も、️とんでもなく和歌が下手っぴの末摘花(すえつむはな)が詠む歌も、紫式部が作っているわけだ。

末摘花の作った和歌は、学び始めてまもない人がよくやる掛詞や縁語の多用(乱用)、前回使ったテクニックを今回の歌でもまた使っちゃってる歌になっていて、伝えたいことそっちのけで基本作法を守るのに精一杯の歌が詠まれている。自在に巧拙を操る紫式部の手腕が冴え渡っている。

なんだか時代を越えて紫式部の高笑いが聞こえてきそうでもあって、ちょっと怖い。ちなみに私の脳内で再生される紫式部の顔のイメージは、作家の林真理子だ。

また和歌には返歌がつきもので、そのかけあいを通じて心を通わせたり、心がすれ違ったり、丁々発止のやりとりが繰り広げられたりするのだが、そのすべてを紫式部が作って、深みある物語を展開させている。

ときに相手の和歌の真意をわざと取り違えた返歌をおくり、ときにわざとでなく図らずも読み方に幅が出てしまったかっこうで相手の心を揺さぶるのだ。

和歌の一首31文字に含まれる「は」の解釈ひとつで、「半端な気持ちでは受けつけませんよ」から「真剣なら受けつけるということですか」という余地を生みだす。

そんな源氏物語の読み解き、私には到底無理なわけだが、俵万智によって一見の読者にも紫式部の筆力を垣間見ることが叶って、圧巻の一冊だ。俵万智も、紫式部も、心の機微のつかみ方や描き方が半端なく秀逸だ。

はたして、この「は」一文字から解釈を作り出す能力を、人間は退化させていいものだろうかとの問いが浮かぶ。

私たちは今、何を退化させて良しとし、何を大事に育み続けようとし、何を新たに育んでいく必要があるのかを見定める岐路に立たされているように感じる、これが最近の考えごと。

誰も正解を持っているわけではなく、さまざまなポジショントークも入ってくる中で、自分は自分なりに考えて、望ましい答えを探索している。答えがないのだから、これというゴールはないのだけど、それでも探索行動に意味を見出すことはできる。

応用がきく基礎を学ぶ。では、そこでいう基礎とは何なのか、リテラシーとは何なのかを問うている。「現代にアップデートした基礎学習が大事だ」なんて抽象論は偉い人が一人言えばいい。各現場に必要なのは、その現場で基礎が何かをこれと仮に特定して、それを身につけるにはどういう順序、やり方がいいのか仮説立てて、実行計画を立てて賭けに出る活動と活動主体なんだよな。

*俵万智「愛する源氏物語」(文藝春秋)

2023-10-06

アレオレと言わなくてもいい心持ち

江戸時代に活躍した彫刻職人に左甚五郎(ひだりじんごろう)という人物がいて、「左甚五郎作」と伝えられる彫刻作品が全国各地に100近くある。その制作年代を調べてみたら安土桃山時代から江戸時代後期まで300年に及び、出身地も様々。そのすべてを「個人としての左甚五郎」がつくることは不可能だと言われている話を、興味深く読んだ。

江戸時代初期に活躍した伝説的な職人の名が、各地で腕をふるった工匠たちの代名詞として使われたのだろうとのこと。今でいう「栃木県の大谷翔平」みたいな言い回しに近いだろうか、遠いか…。

お能の世界でいうと「世阿弥作」と伝わる作品の中にも、明治時代に入って成立年代や作者性を評価してみたところ、世阿弥(ぜあみ)が作ったのでは辻褄が合わない作品があるのだとか。

逆に言うと、明治以前の日本人にとっては、それらを「左甚五郎作」「世阿弥作」としても問題が生じなかったということ。著作権がらみの裁判も起きず、アレオレ詐欺が横行することもなかった時代、「個人としての」という観念がなかったか薄かったか、そのような時代背景が浮かび上がってくる。

能楽師の安田登さんが著した「あわいの力 『心の時代』の次を生きる」*に、この辺のことが詳しく書かれていて面白く読んだ。

世阿弥が書いたとされる「風姿花伝」も、父の観阿弥の言葉を世阿弥が書き写したもので、どこまでが観阿弥の思想で、どこからが世阿弥の思想かは判別がつかないし、はっきり区別する必要もなかった

これをもって、今の時代と比べて「個人としての心が貧しかった」と言えるだろうか。今のほうが「個人としての心が豊かになった」と言えるだろうか。そう問い立ててみると「否」という感じがするんだな、なんとなく。

身分の差なんかで「個の意識」に違いはあったかもしれないが、一般の町民想定で妄想してみるに、個人として歴史に名を残すという意識より、綿々と続く歴史の中に組み込まれた自分というものを、無意識であれ自然と受け入れて生きていたイメージがわき立つ。

indivisualを「個人」と日本語訳したのは明治初期のこと、江戸時代までに日本の中でどれだけ「個人」という意識があったか思い巡らすと、なにか牧場の羊のような気持ちになる。牧場の羊になったことはないけれど。

「他者と自分の境界線」というのがうっすらとしていって、家族の中の自分とか、住む町の集合体に組み込まれた自分、綿々と続く時代の中に生きて死にゆく自分というものが、無意識であれ、生き物の自然な心の構えとして備わる(育まれる)土の匂いに、もっと包まれた空間だったかもしれない。

それでいうと今は複雑に頭で考えすぎて、意識で方向づけすぎて、不自然に心の構えを縛りつけて息苦しくなっているところがあるんじゃないかなと、そんなふうに思って、心をほどいていく気持ちになる。

今も伝統芸能の世界で見られる「襲名」という慣わしも、個人としての尊重とは、わりと対極の構えなのかも。歌舞伎役者とか落語家とか、個人の名を歴史に刻んで残したければ都度ユニークな名前をつけたほうが独立性高まるように思うけれど、「何代目の何某」を継ぐという襲名制を今も大事に続けている。

そこには、その名を引き受けることを尊しとする価値観が感じられる。綿々と続いてきた長い歴史のなかに自身を組み込み、これまでを引き継いで、次に受け継いでいく役割に尊い意味を見出している、そんな心の構えを感じるのだ。

「個人として尊重されるべき」はまったくその通りだと同意する。その一方で、もっと大きな流れの中に個人を位置づけて、それに自分を委ねてみるという見方も、そんな軽視せず、手放さずに、快しと感じられる心をもっておいたらいいんじゃないかなと思う。両視点を大事に育てて懐に持っておいて、時と場合でうまく使い分けられたほうが勝手が良く、心豊かに生きていける気がする。

「一度きりの人生」「自己実現」「どう生きるか」を眼前に突きつけられ、個人として何か背負っているのがつらい時期には、背景に長い歴史巻物を敷いて、その上にぽんと自分を置いてみるようにしたり、何かずっと大きなものに寄りかかって自分を見る選択肢ももっておいたほうが、充電したり立ち上がったりを柔軟に切り替えながら、健康的にやっていけるのじゃないかなと。

どうも世の中というのは、現在地(ここ)ではない対極地点(あっち)に向かうことに課題設定して移動に傾注するあまり、もともとあったものの見方を過剰に敵視して、手放しがちだなと思うのだ。

「画一的な見方を打破しよう」とスローガンを掲げているわりに、AからBの見方へと大移動を図ろうとする。それじゃ「Aの画一的な見方」から「Bの画一的な見方」に移動するだけじゃないか。「Aに加えて、Bも手にする」ことで初めて、画一性を打破して多様性に一歩踏みだせる、2つもてれば3、4に応用展開するのは、ずいぶんと楽になる。そんなふうに按配が考えられるといいなぁと思う。心は選択肢があるほど、自由に立ち回れるものだ。

*安田登「あわいの力 『心の時代』の次を生きる」(ミシマ社)

2023-09-09

隠しごとを本人に持たせてしまう

最近、遠藤周作「深い河」の一章「磯辺の場合」を読んでいて再認識したのが、家族に末期がんが発覚したとき、余命宣告を本人に伝えるかどうかは家族によって分かれるんだよな、ということ。磯辺の場合、本人に伝えずに幕を閉じるので、あぁ、うちにはうちの家族の法があったなと思い返すこととなった。

うちの母が十数年前に余命宣告を受けたときは、まず父(と兄か妹)が医師から最初に宣告され、そのあと父(と兄か妹)が立ち合いのもとで、医師から母本人に余命宣告がなされた。入院先の病室でのことだ。

そのとき私たち家族に、母がそれを知らされないまま亡くなるという選択肢は、頭に浮かばなかったと言っていいのではないか。医師から、本人に伝えるか問われて判断する父に、いくらかの逡巡はあったのだろうか。逡巡の有無について父本人に尋ねたことはないが、当時の父の様子に、その気配はなかった。辛くて、辛くて、声を震わせていたのは記憶に深く刻まれているが、言う言わないで迷ったという様子は一切汲み取れなかった。私にとっても、本人に伝えないというのは、ありえない選択だった。

母本人が、自分の死期を知らされないで人生を終えるなんて、家族の判断でその情報を遮断されて知る権利が奪われるなんて、そんなことは考えられなかった。今振り返ると、そんなことがあっていいはずがないという暗黙の共通認識が、父にも私にもあったように思うし、おそらくは兄妹にもあったのではないかと。そして、もちろん母にも共通の意思を感じていたからこそ、私はそのように思っていたんだと再認識するのだ。

あるいは父と母の間で、そういうことはすでに話し合われていて、私はその空気に包まれていただけなのかもしれないが。

いずれにせよ、私からみるかぎり、母が「隠しておいてほしい」と望むとは到底思えないし、父が「言わずにおく」判断をするとも思えない。母は「私のことは私が承知しておきたい、私の人生なんだから」と考える人であり、父は「本人のことは本人が知るべきだ」と考える人であり、私はその二人の子である。

こういうものの一切は、私の思い込みに過ぎないのかもしれない。だけど、医師から父へ、医師から母へ、その日のうちに一通りの通達が手早く完了したのは確かな事実だ。本人には隠しておく、2〜3日検討してみるという選択肢は、私たち家族の間で発想されなかったように記憶している。

よその家族には、よその家族の法がある。あくまでこれは、うちの家族の法である。という前提で私の考えるところをつらつら書き記してみるのだが。

彼女がことの次第を知った上で、緩和治療を選ぶのか、数ヶ月であれ延命の可能性があれば延命治療を選ぶのか、それは可能なかぎり本人が選択すべきことだし、本人にしか最適解の出しようがない問いである。

家族のなすべきことは、その宣告をそばで一緒に聞き、支え、本人の意思を聞き、それを尊重し、最期までその思いを守りきること。これに尽きるという信念がある。私が父と母から受け継いだものの一つは、そういう価値観である。

そして、この遠藤周作の「深い河」を読みながら十数年越しに思ったのだ。母が、余命もって数ヶ月と自身で知って、だからこそ交わせた母と家族との会話があったなと。もし本人が知らずじまいだったら、交わせなかった会話、過ごせなかった時間があったなと。

たとえ隠しても、母は察知しただろう。しかし家族が隠していたら、母は自分がそれを察知していることを家族に言わずじまいだったかもしれない。その隠しごとを一人で抱えたまま、この世を去らねばならなかったかもしれない。私は、そういう思いをさせずに一緒に過ごせて良かったと思う。いずれをとっても乗り越えねばならない辛い局面は本人にも家族にもあるわけだが、一人にしなくて良かったなと、十数年ごしに改めて思った。

読書っていうのは、本当にいろんな味わいを時空を超越して与えてくれるものだなと感じる。もう何年も文庫本とKindleを行ったり来たりどっちつかずで来たのだけど、「深い河」を読んで、これから当面「文庫で出ている文学本は紙で読もう」という暫定的な結論に至った。なんだか、やっぱり、物語を味わうには紙のほうがいいみたいだ。これが私のぜいたくだ。

2023-08-14

読んだことがない者だけが楽しめる遊びフォーマット

最近お気楽(になりたい時)に読んでいるのが、「『罪と罰』を読まない」だ。電車で移動中とか、仕事の合間とか、寝る前とか。

世界的名作として知られるドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいない4人が、読まずしてその内容を推しはかる会話録みたいな本なのだが、とにかく三浦しをんの物語展開力がエンタメ感たっぷりに楽しませてくれ、江戸っ子4人の軽妙なやりとりも楽しい。

とある宴席の片隅で、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことがあるか?という話になり、みんな「ない」と、居合わせた4人が4人とも首を横に振ったことに端を発して作られた本らしい。最初は同人誌で作ろうとしていたが、文藝春秋が刊行役を買って出た。

この「遊びのフォーマット」がおもしろく、他の作品に差し替えたり、自分たちでメンバーを集めてやっても楽しめそう。小説にかぎらず、実は観ていない映画の名作とか、長編マンガとかでも良いかもしれない。

「どの作品でやるか」は、まず誰もがいくらかの聞きかじり情報をもつ有名作だと話に花が咲く。長編の名作だといろんな人の妄想を飲み込めるだけの懐の深さがあって良い。

そして、実は読んでみたかった、観てみたいとずっと思ってはきたのだが、長くて難解そうで、今日まで結局手に取らずじまいで来てしまったという名作が良さそうだ。この会を開いたら、重たい腰あげて読み始められそう、観る気になりそうだという作品だと一挙両得な気がしている。自分たちの推理と答え合わせしたい欲が、ぐいっと自分の重たい腰を押し上げてくれそうだ。

そして「どんなメンバーでやるか」が、この遊びを面白くするかどうかの成否を分けそうなのだが、こればかりはなかなか難しい。話にのる人同士でやってみるしかないかもしれない。

そうやって考えると、偶発的とはいえ『罪と罰』という作品選びは実に見事だし、三浦しをんを筆頭に、この本の構成メンバーはさすが、外野から観戦しているだけでおもしろい。

三浦しをん的存在が集まれば集まっただけいいという話でもなく(たぶんカオスになる)、作家、翻訳家、装丁家が入り混じり三者三様に会話に彩りを与えているのが好ましい。いずれも小説にたずさわる仕事をしてきた文学に造詣深い面々で、文藝春秋が乗り出してくるわけだなという盤石の基礎を築いている。

簡単な遊びの手順・ルールとしては、まず皆で一所に集まって、最初の1ページと最後の1ページだけ読んでみる。これすらないと、さすがに話が進まない。『罪と罰』は上下巻トータルで千ページ近く6部構成の長編小説なのだが、そのうちの最初と最後2ページだけを読んで、まずは「どんな物語なのか、話の筋を推測して、作者の意図や登場人物の思いを探り当てる」会話を始める。

これって連載だったらしいよという情報が投げ込まれれば、連載中は『革命戦士ラスコの冒険』みたいなタイトルだったかもしれないよね、みたいな話に転がり。確かなの不確かなの、いろんな聞きかじり情報が投げ込まれては、わいわいやる。

「しをんさんが、これくらいの長編小説で二人殺される話を書くとしたら、いきなり第一部で殺りますか?」と、書き手としての三浦しをんを呼び出して「いや、殺りませんね」「どのくらいで殺る?」「ドストエフスキーの霊を降ろして考えるとーそうだなぁ」と頭をひねったりとか。

自分が書き手だったらという作家視点、自分がドストエフスキーだったらというドスト視点、それもドストがこの作品で何を描こうとしているか、主人公ラスコーリニコフをどう描くか、ドストエフスキーが作品を書いた時代背景も読みながら縦横無尽にいろんな視点を取り入れて展開する。それを読まずしてやっているので会話の小気味良さがある。

「彼は敵。いけないわ」――第二部はこのようにハーレクイン的に攻めて、第三部で神の残酷さを本格的に問う宗教論争になだれこむ。

みたいにして、各部をどういうふうに位置づけて物語を展開していこうとするか、小説作品の玄人がわいわい話しているのをみるのは、何か一つの舞台を鑑賞しているようなおもしろさがある。

最初と最後の1ページを読んだ後、ひとしきり話したなというところで、6部構成のうち、各部3回まで、ページを指定して、1ページ分だけ文春の人に朗読してもらえるというルールを作る。追いページで味変するのだ。遊び道具ほとんどなしに遊ぶのも、やりながら遊びのルールを自分たちで作っていくのも、実に人間の原初的な営みが感じられて素敵だ。

そうして、とある1ページを読んでもらうと、知らぬ名前が出てきて新たな登場人物が加わり、こいつは「重要人物なのか、捨てキャラか」という位置づけも模索していくことになる。「ラズミーヒンて、誰?響きからして馬?」とか、人名もなじみがない上、同じ人でも全然別の呼び名で出てきたりするから、この名とこの名とは同一人物か?というところも危うく、文脈からの手探りだ。この文脈の手探りが楽しい、これぞ遊びなのだ。もちろん私も『罪と罰』を読まずして、これを読んでいる。

*岸本 佐知子、三浦 しをん、吉田 篤弘、吉田 浩美「『罪と罰』を読まない」(文藝春秋)

2023-08-10

選択の自由を与えた側が、手放しているもの

芦田宏直先生の「シラバス論」を読んで、企業の人材開発に携わってきた立場からも実務的に役だつポイントは多分にあったし、メインで語られているところの大学教育にも多少関わりをもっているので、そこでも早速紹介させてもらったのだが、それはそれとして。こうした直接的な枠組みをはずしても尚、読みごたえ、噛みごたえある本だった。それを昨日、X(Twitter)に一言で書いてみた読書感想文が、これだった。

多様性に傾倒すると、標準性を軽んじる。弾力性にばかり気を取られると、構造性を失う。多様性と標準性、弾力性と構造性、文脈に応じて両方をうまく調和させられるのが、デザインの仕事だよなって思った。

大学教育を例に挙げるならば、昔は大学進学率って15%に満たず、大学はエリートが進む道だった。それが15%を超えるマス段階を経て、50%超のユニバーサル・アクセス段階へと変遷した(米国の社会学者、教育政策学者マーチン・トロウ)。

そうなると入学を受け入れる大学生も多様化し、それに応じた大学カリキュラムも移り変わる。分かりやすいところでいえば、選択科目の数が増えてバラエティ豊かになり、必修科目を減らして選択科目で取れる単位数が増えるとか。

けれど、その弾力性(融通がきく)と引き換えに手放しているものにも目配せが必要だ。それがカリキュラムの構造性であり、その大学が確保する教育の標準性と言えるのかなと。

4年間で124単位以上を履修することとされ、1科目に2単位とかが割り当てられる中、必修科目で40科目、80単位(必修割当比率64.5%)枠を押さえてあるカリキュラム構造であれば、この大学では確実にここの基礎固めをした人材を社会に輩出したいんだなという意向もつかめる。

が、多様性とか自由とか、各人の自立性を育むといったスローガンを掲げて、各々自由に学びたいものを学んだらよろしいという選択科目に偏ったカリキュラムとなると、弾力性は認めるが、構造性を欠き、多様性は認めるが、標準性を確保できない仕組みに堕する。

著者は、「標準性」について「最低限の共通性」と表している。

必修科目で何を教えるか、何は必修科目としないのか。ここには大いに、大学側の方針が現れるもの、現れるべきものだなと思う。

構造というのは、体系性とか網羅性とか順次性とか、そういうものを内包している。この辺りを学ぶにおいては、あれとこれとそれを学ぶ必要があるという要素を網羅的に挙げて、それをどこまで学べば必要十分か、それをどの順で学んでいったら基礎、応用、高度なレベルへと歩を進められるのか、そういう構造を立てられるのは、教える側がもつ能力であって、学び手にはそれが叶わない。だからこそ、弾力性を欠いても不自由な構造をしいて教えることが価値をもつのだ。

それを言及主義(知るべきことは話したから、あとは本人次第)に陥らず、それをどうしたら本人が会得できるのかも、会得している側しか組み立てられない、創意工夫の施しようがない知恵の領域が多分にあって、それら一切を学ぶ側の自律的なセルフマネジメントにゆだねるのは、ちょっと無理難題じゃないかなぁと思う。

「シラバス論」で書かれているのは、もっと骨太で肉厚な内容なのだが、そこを噛み砕いてここに記せる力量もない。個人的メモとして、ここに残すのは、多様化だ自由だ自律性だと説かれる時代に、反対側に何を対置させてバランスをとることが、デザインの仕事だろうかと考えるに際し、大局的にとらえるためのキーワードを与えてもらえたなと思う。ものごとを捉えていく上で、多様性と標準性、弾力性と構造性を示してくれたこの本のありがたみは大きい。

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