2023-01-18

クラフツマンシップの伝承は、いかに成せるか

テキスト:分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂という

昨年の夏頃だったか、「クラフツマンシップ」という言葉を知った。生物学者の福岡伸一さんが著したエッセイ(*1)に出てきたのだが、日本語でいうと職人魂(しょくにんだましい)みたいなもんだろうか。「魂」だけだと精神的なものによった印象なのが「職人」と付くと、なんだか心技体をしたがえた感じ。肌合いが良くて、以来なんとなく脳裏にずっと引っかかっていた。

それから数か月を経て、あぁそうか、私は「クラフツマンシップの伝承」をサポートしたいのかもな、と思い当たった。

私は長くクリエイティブ職向けの研修サービスを仕事にしてきたが、「クリエイティブ職向け」というのが割りと肝で、これを取り去って全業種対応のリーダーシップ開発とか仕事基礎力とか汎用的な研修テーマを扱う仕事には、まるで食指が動かなかった。そちらに軸足を置いたほうが市場は大きいし、人材開発を専門的に指導してもらえる諸先輩がたとの出会いも多くあろうが、そういうのを扱う研修会社に転職したいという気はどうにもわいてこなかった。

より正確に言うと「職種」には何のこだわりもないのだが、「作り手」「作る会社」「作る仕事」を人材開発面から支援する道を大事にしたいという思いが強い(そこが原点なので、その理由は?と問われても困るのだが)。そこに「クラフツマンシップ」というコンセプトをみることができるのかもしれない、そんなことを年末に思ったのだった。

ひとまとまりの「何か作る」という職人的な技能を教えようというときに、まず思いつくアプローチは、作る過程をいくつかの工程に分割して(例えば調査・分析に始まり、企画・設計、制作・開発とたどるような)、工程ごとの具体的な仕事、役割、必要な能力など洗い出し、それを身につけるにはどうしたらいいかを考案して、それを学習プランに展開すると、そういうところかと思う。

が、この職務分析の過程で、できるだけ小さい単位に、網羅的に、その職業を成り立たせる構成要素を解体できればできただけ、その学びは成功確率を高め、学習は能率化されるのか。解体した要素を段階的に、全部身につけ終えたら、その人はいっぱしの専門家になれるのか。その道筋は学習プランとして、職業的な育成プロセスとして、本当に最適で健全で現実解と胸張って言えるのか。

そういうことを考えると、どうも机上の空論のような浅はかさを感じてしまうのだ。なんというかな、「人間なめてんのか?」みたいな気がどうしても、むくむくわいてきてしまう。

これを、まだ全然、明晰な言葉でしゅばっと人に伝えられるレベルに整理できていない。ただ、このむくむくの背後でどっしり構えて、じっと静かにこちらを見据えているのが、河合隼雄さんの遺した、この言葉だ(*2)。

分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂という

ビジネス場面でいう「調査・分析」工程では、できるだけ精緻に網羅的に、それを把握して言語化するということを目指しがち。けれど、そうした解体作業の途中で、うまく言葉にはできない、工程と工程と間をつないでいる不可視のもの、背景にあって像を結び統合しているものを言葉にし損ね、認識し損ねて、取りこぼしてしまうものがあるんじゃないか。そのことに対して、もう少し慎重にあたらなくてはならないんじゃないかと思う。

人材育成のやり方も、ある職務の「能力開発」で枠組みせず、人の人生に通じる「キャリア開発」の文脈も併せ持ってみると、ちょっとアプローチが変わって見えてくるかもしれない。パーツパーツの作業なり専門能力は習得させられても、クラフツマンシップの継承がうまく成せるかは、また別の視点が必要になりそう。

そういう奥行きをもって、何を継承すべきなのか、何は安易に継承しようなどと考えず個々のものとして独立・断絶すべきなのか、継承したいことを伝授するのにそのままパーツパーツを教え込むことが本当に最適解なのかどうか、そういうことに高解像度で取り組んでいく仕事ができたらいいのかもしれないなぁと思うのだが。ともかく、もう少し人に伝わるレベルで頭の中を整理しないといけない。

*1: 福岡伸一「ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで」(文春文庫)
*2: 小川洋子・河合隼雄「生きるとは、自分の物語をつくること」(新潮文庫)

2022-11-22

孤独を引き受ける健全さ

人は孤独なものだろうと言うのを、かわいそうな目で見返されても困ってしまう。そういうリスクがあるから人前で軽々しく口にはしないが、人は孤独を引き受けざるをえないものだろうと思っているので、気を抜くと普通のおしゃべりで話題にあげてしまいそうだ。別に苛まれているわけではないので怖がらないでほしいのだが。とりあえず、ここに書くぶんには問題ないだろう。

「孤独についてどう観るか」という話題は、なかなかに相手やシチュエーションを選ぶ。そんなことを話す機会は、そうごろごろしているものじゃない。なので人がエッセイなんかで「孤独」という言葉を用いていると、この人はどういう感じで孤独についてとらえているのだろうかと興味津々で読んでしまう。

それでいくと、若松英輔さんの「悲しみの秘儀」*に書かれている孤独というのは、実に健全で、肯定的で、私の「孤独」観と親和性が高かった。孤独感ではなく、孤独観である。

タイトルからして弱々しくしみったれていて(失礼)自分にはそぐわぬという向きもあろうが、私は実に強靭で健康的な本だと思った。おわりに「悲しみを経て見出された希望こそが、他者と分かち合うに足る強度をもっている」とあるが、そうなのだ、「経て、取り込んで、融和した後に、見出された」強度が、大人になると欠かせなくなってくるのだ。

悲しみとか孤独といったものを、見て見ぬふりしてはねつけて、自分のうちに認めぬまま別のほうへ視線をずらし続けてしまうほうが危うい。自分の足場をどんどん見失っていってしまう。

まずはどまんなかで、自分の中にわきたつ感情、苛まれる思いをしかと認めて、何年がかりでも向き合ってみる。それを少しずつでも、行きつ戻りつでも、かみ砕いて咀嚼し、うちに取り込んでいくと、それとうまくつきあえる関係を構築することができる。そうやって心は強度を増していく。

それは、まず自分に作用する。

人生には、孤独を生きてみなければどうしても知り得ないことがある。孤独を感じるとき、もっとも近くに自己を感じる。

そして、真に人とつながるために作用する。

真に他者とつながるために人は、一たび独りであることをわが身に引き受けなくてはならないのだろう。独りだと感じたとき、他者は、はじめてかけがえのない存在になる。

人をこの上なく大事に思えるのは、ここに至ってからという気すら覚える。私にはこの孤独観が、健全に生きていく上で欠かせぬものと感じられるのだ。こうした孤独観は、きゃぴきゃぴした自分とも併存できるものだ。じゃあ君、最近いつきゃぴきゃぴしたんだ、言ってみろ!と言われても、答えに窮してしまうけれど。私はこの孤独観を、自分が健全であるために、大事な人たちを大事にできるように、大切にしている。

*若松英輔「悲しみの秘儀」(文春文庫)

2022-11-06

ロジックだけでは、物語は成らず

大江健三郎の「人生の親戚」を読んで一番うなったところは、僕(作家のKさん)のところに、「まり恵さんの生涯を映画にしたい、ついてはKさんにシナリオの土台になる作品を書いてもらいたい」と相談が持ち込まれるシーンだ。これを受け止める僕の思いがつづられる文章にふれては、文学とは、作家とは、「自分を再建する」手立てを企てて提案してくれる仕事をなしているのだなと思い耽る作品だった。

若者3人組は、子ども二人を自殺で失ったまり恵さんの悲惨な体験を把握し、映画にすべくシナリオのプロットにまとめる。しかし、彼女の身に起こった出来事の筋書きだけは辿れても、彼らはそこで行きづまってしまう。

つまり、あの人が内面でどんな破壊をこうむっているか、それがよくわかっていないわけです。もっとわかりにくいのは、あんなにひどいことを経験した後で、どのように生活を再建できるものか、ということですね。生活というより、もっと基本的に、自分を再建する、ということができるか……

スクリーンでいえば、その先がずっと白いまま。「すこし年をとったまり恵さんが、穏やかに暮すというラスト・シーンは考えていますけど、そこへつなぐことができない」と、若者らはKさんに話す。

そこから、自分を再建する道筋を、どう見出すのか。

それにはどうしても、正確な事実の把握、ロジカルな筋立てだけでは突破できない物語の力が求められる。「正しく、筋が通っている」だけでは素材が足りない。物語に突破力をもたらすには、アイデアや着想のような構成要素が必要だ。それをして、きちんと物語の節に乗せて不協和を感じさせない手腕も必要で、そういうことをして物語を構成し、練り上げて成り立たせ、読者に「自分を再建する」手立てを提示しているのが文学であって、作家の仕事というやつなのかもと一人合点して、私はふむーと、うなった。

悲しみに暮れる、行き先が見出せない、宙ぶらりんのままの心に、別の視点を持ち込み、新たな着想やアイデアを提示し、了解し得ないと思い込んでいたものをなんとか了解して立ち上がらせる手立てとなるもの。

「僕」(Kさん)は、こう記している。

フィルムの編集段階から直接参加して、そこに物語を作り出し・言葉をあたえるのが僕の役目である

私たちは日々、いろんな物事に出くわし、気にかけたり気にかけなかったり、ある面を注視して、ある面を無視したり軽視したり、何かを気に病んで引きずり続けたりしているけれども、無数ともいえる多面体の物事やら出来事の何に光をあてて、それをどのように了解して自分の中に正面から迎え入れて、自分を再建していくことができるか。そこの手立てを豊かにしてくれる文学は、作家は、私にとってずっと心強い存在だ。

*大江健三郎「人生の親戚」(新潮社)

2022-09-18

パンチにパンチを返すのはよせ

「サンセット・パーク」に続けて「ブルックリン・フォリーズ」を読んだ。ポール・オースターならでは、知性なくしては成しえない人のおおらかさ、人の温かみが沁みわたった滋養の書。

そうだ、そうだよ、人は、こういう可能性をもった生き物なのだ。「パンチにパンチを返す」世界に、うずもれてしまってはいけない。そんなつまらないところに、自分をとどめておいてはもったいない。

彼女に「あたしどうしたらいい、ネイサン?」と問われた主人公は、まずこう返す。

「何も知らないふりして、放っておけばいい。じゃなけりゃ二人を祝福してやるか。二人の関係を好きになる義務はないけど、選択肢となるとその二つだけじゃないかな」

彼女は「二人を家から叩き出すことだってできるでしょ?」と返す。そこでネイサンは一息にこう返すのだ(イメージは映画「恋愛小説家」のジャック・ニコルソン)。

「うん、まぁできるだろうね。でもそうしたら、君は生涯ずっと、毎日後悔することになると思うね。やめておけよ、ジョイス。パンチにパンチを返すのはよせ。あごをしっかり引けよ。気楽に行けって。選挙は毎回民主党に入れろよ。公園で自転車に乗れよ。私の完璧な、黄金の肉体を夢に見ろよ。ビタミン剤を飲めよ。一日コップ八杯水を飲めよ。メッツを応援しろよ。映画をたっぷり観ろよ。仕事、無理するなよ。私と二人でパリに旅行しよう。レイチェルの子供が生まれたら病院に行って私の孫を抱いてやってくれ。毎食後かならず歯を磨けよ。赤信号の道を渡るなよ。弱い者に味方しろよ。自分の権利を守れよ。自分がどれだけ美しいかを忘れるなよ。私がどれだけ君を愛してるかを忘れるなよ。毎日スコッチをオンザロックで一杯飲めよ。大きく息を吸えよ。目を開いていろよ。脂っこい食べ物は避けろよ。正しき者の眠りを眠れよ。私がどれだけ君を愛してるかを忘れるなよ」

なんだ、このカトチャンの「歯みがけよ。風呂はいれよ。宿題やれよ。風邪ひくなよ。また来週」みたいな長ゼリフは。この愛情にじみ出る、ジョイスのためだけに紡がれた唯一無二のメッセージは。

これだけの言葉を繰り出せることが他に、いつ誰にあるだろうか。ネイサンは、この時この場面でのジョイスへのメッセージでしか生涯このセリフを吐かないし、人類の歴史を振り返っても、この先の地球の未来においても、この全部を、この順で、この言い回しで誰かに伝える人など誰ひとりとして現れないだろう。今ここでしか現出しない、ぐちゃぐちゃの、ごった煮の、ネイサンがジョイスその人にしか、その人のためにしか吐かない唯一のメッセージだ。

この一節を読んだとき私の脳内には、汎用的で中身からっぽの容れ物を、さもありがたい叡智のように取り扱ってやりとりしている薄っぺらな世の中の一面が対比的にせりだしてきて、このメッセージの固有性に胸を熱くした。今ここでしか通用しない、けれど今ここで何よりも意味をもって温もりをもって伝わってくるネイサンのメッセージ。それはそのまま、オースターが読者に届けるメッセージ、そう受け取った。細部は、中身は、いつだって自分がその都度作ってその人に届けるのだ。

次の引用は、このジョイスとのやりとりとはまったく別場面、主人公ネイサンが娘レイチェルに向けて言葉を尽くした後の述懐だが、ジョイス、レイチェルともに注がれるネイサンの知的でおおらかな温もりが感じられる。

何を言っているのか、自分でもさっぱりわからなかった。言葉が私のなかから狂おしくほとばしり出てきたのだ。ナンセンスと、煮えすぎの感情のとめどない洪水。馬鹿馬鹿しい演説の終わりにたどり着くと、レイチェルが笑みを浮かべているのが見えた。レストランに入ってきて以来初めて見せた笑顔である。たぶん私としても、ここまでやれれば上出来なのだろう。私が彼女の味方であって、彼女という人間を信じていて、おそらく状況は彼女が思うほど暗くはないと納得させること。少なくともその笑顔は、彼女が落着きを取り戻してきたしるしである。べらべら喋りつづけながら、私は徐々に、眼前の話題から彼女の気をそらしていった。私にはわかっていた。最良の薬はテレンスのことをしばらく忘れさせること、何週間も前から取り憑かれてきた問題について考えるのをやめさせることなのだ。このあいだ会って以来私の身に起きた出来事を、一章一章私はレイチェルに物語った。

理路整然と正しいことを明晰な言葉で端的に言えば、それが最も望ましいか、それで伝わるかというと、人のコミュニケーションてそんな薄っぺらなものじゃない。

何かためこんでいる相手には、傾聴するのがいいんですねと、自分の話をせず相手の話を聴いてあげればそれで正解って、人間そんな単純な生き物じゃない。そんなんで傾聴する自分に酔いしれている人間など、傾聴されている側からすれば薄気味悪く見えるだけだ。

相手本人を前にして、SNSごしでもなくスマホカメラごしでもなく、その人の目の前で言葉を尽くして尽くして、重ねて重ねて、どうにかどうにかと、もがいた末に届く思いというのがあって、それが言葉としてはぐちゃぐちゃなんだけど、伝わる、届くということがある。それこそ人間の営みだよなと、そういうことを思った。

私はさいごまで、この人間像で生きていきたいなぁ。大方、何を力んで何か言いたがってるんだと意味不明な文章だろうけれども、そういうことを思った読書の記録。

*ポール・オースター「ブルックリン・フォリーズ」(新潮社)

2022-09-06

単純化できないものを単純化する愚行

日々自分の中になだれこんでくる情報が、あきらかに偏狭で暴力的で浅はかでおかしくなっていることを自覚し、処方箋を考えた。文学だ、例えばポール・オースターではないかと思い立った。

積ん読になっていた「サンセット・パーク」を手にとり、読み終えた今は「ブルックリン・フォリーズ」を読んでいる。この後は「インヴィジブル」を読もう。そういえば十数年前に「幽霊たち」やら「ムーン・パレス」やら十冊くらい立て続けに読んだ後、長らく彼の作品を手にしていなかった。

ポール・オースターを読む喜びとは、何なんだろう。読みながらも、そんなことを考えた。「ニューヨークを舞台にした物語がお洒落」とか「ポール・オースター作品を読む私って素敵」論を通り抜けた先に、真正の価値を見出している体感はあるのだが、それを言葉に表すことはままならない。私の中のポール・オースターが「言えないうちは、言葉にするな」と諭す。

それでもポール・オースターの作品は、文学の意味なり価値なりを、読みながら読者に考えさせるようなところがある。それ自体が、彼の作品の魅力なのかもしれない。読者を思索に誘うような風情がある。

物語がハッピーに終わろうと終わらなかろうと、さしたる問題ではない。結末の問題ではなく、プロセスの問題。否、なんなら昔読んだ本など、話の筋も主人公のキャラクターすら私は覚えていない。けれど、読んだときの充実感、作品の面白さ、文学の可能性に感応した経験は、長く余韻を残している。

あーとも、こーとも捉えられる世の中の一つひとつの解釈の幅と深みを、物理的な体感をもって残してくれる。それはずっと、何十年と、私を育みつづける。私が直面する世界の現実に、示唆を与え続けてくれている。だといいなぁ…という期待も、いくらか混じっているような気はするけれど。

なぜ彼の作品を、いま処方箋として私は直観したのか。彼の文章を読んでいると、思い当たるところが次々出てくる。

「サンセット・パーク」では、戦争を生き抜いて老年期を迎えた世代が口をつぐみ、当時のことを黙して語らないのと対比的に、こんな若者像を描写する。

ちょっとでも水を向ければ自分のことを喋りまくり、あらゆる事柄について意見を持ち、朝から晩まで言葉を垂れ流す

「まだ話すことなんかろくにない彼女自身の世代が、えんえん喋るのをやめない男たちを生み出した」ことを、壮大な矛盾として突く。

「ブルックリン・フォリーズ」は、まだ読み始めなのだが、

とにかく陳腐な決まり文句を連発する。現代的叡智という名のゴミ捨て場を埋め尽くしている、言い古されたフレーズやら出来合いの理念やらを年じゅう口にしているのだ

そうして二十九歳の一人娘を痛烈に批判し、気の毒に思う主人公の姿がある。

ただの一度も独創的な言葉を口にしたことがない。これだけは絶対に間違いなく自分自身のものだという思いを、一回たりとも生み出したことがないのだ。

私が最近の、自分の中になだれこんでくる何に拒否反応を示しているのかが、読書中あちこちで浮き彫りにされていく感じがした。

「サンセット・パーク」に戻って、これに遭遇する。

単純化すべきでないことを単純化すること

「言葉にする」ことを急いてしまうと、自分の吐く言葉はいくらでも浅薄になり、それで満足して次にいけてしまう薄っぺらい人間をせっせと構築していってしまう。

大事なことは、そんなに簡単に言葉に表せない、単純化して済ませてしまうなよ、と。これはつまり「外から入ってくる情報」に対してではなく、私は「私自身」に対して痛烈に批判を与えたくて、注意を喚起したくて、何かそういう思いが十数年越しにポール・オースター作品を手にとらせたということか。そんな気がした。

品を失うな、品を手放すな、と。自分が思考すること、言葉にすることしないこと、それをどういう言葉に表すのか、何は言葉で表して何は行動で表すのか。そういう一つひとつのことに対して、自分の意志をもって品を保ちなさい、と。私にとってポール・オースターの本は、そういう戒めの働きをする。

ノウハウやらナレッジやらを扱う仕事がら、「現代的叡智という名のゴミ捨て場」とは背中合わせ、すぐそこにある気がする。そこに堕してしまわないためには常に細心の注意が必要で、そこに不気味さを感じて拒絶できるかどうかは、結局のところ自分の体の反応に頼るほかない気がしている。直観の働きを感知できるかどうか、それに従って行動をとれるかどうか、時に処方箋を求められるかどうか。

言い表せないなら、言い表せるまで待つ。そんな態度は、たぶん今の時代には流行らないのだろうが、流行らない生き方をする自由は各々にある。何を愚とし、何を品とするかも、結局は各々の美意識だ。それぞれに自分の美意識に従うのが、自分の健康を保つ上では賢明なんだろう。なんというか、いろいろと、やれやれなのだが。

ポール・オースター「サンセット・パーク」(新潮社)
ポール・オースター「ブルックリン・フォリーズ」(新潮社)

2022-08-22

「先々不透明な時代」に覚える恥ずかしさ

「羊は安らかに草を食み」(*1)を読んだ。バッハのそれではなく、宇佐美まことさんの文学作品。満洲で終戦を迎え、一年がかりで満洲から引き揚げてくる11歳の少女の壮絶な体験記を埋め込んだ、今は86歳の認知症を患ったまあさんの人生を辿り、仲良し3人組の老女が旅する小説だ。

残り2〜3割というあたりから急にミステリー小説らしく物語が畳まれていく感があって、なんでやねん、なんでやねん、みたいな展開もあったりなかったりするのだけど。逆にいうと、そこまでに織り込まれる満洲引き揚げの凄惨さがあまりに見事な筆致でえがかれているがために、ミステリーを食ってしまったと言えるのかも。別にミステリーにしなくてよかったのにって思ってしまうくらい自分にとっては、少女が満州から引き揚げてくるまでの「戦後の地獄」が強烈に印象づけられた。

満洲引き揚げのエピソードは、多く事実に基づくという。(*2)

執筆にあたって旧満州からの引き揚げ者の手記に目を通した。集団自決や幼子の置き去りなどのエピソードはほとんどが事実に基づいたもの。

「集団自決や幼子の置き去り」があったと言ってしまえば、あっけにとられるほど短い一言で、起きた出来事を言い表せてしまう。知ってる、わかってる、そうやって正しい事実を記述し、それを引き継いでいっても、それが次の時代に有効に作用するわけではない。

長嶋有さんが、正しさだけではダメだと言っていた一節が脳裏に浮かぶ。(*3)

どんなに正しい言葉でも、正しいだけでは駄目だ。誰かの心に刻みつけるには、あわよくば有効に作用させたければ、言葉そのものに、それをつかみ取るための形が与えられなければならない。

他の人がそれをつかみ取るために、形を与える。それが、もの語りの力だ。「こういうことがありました」という事実の記述と受け渡しだけでは、私たちはそれを心に刻みつけ、うまくつかみ取って活かせないことばかり。

少女期の身のすくむような体験というのは、私もないわけではなく。この小説を読んでいたとき、記憶の底に仕舞い込んでいたそれが、ぐわっと襲いかかるように身体的に思い出されて肝を冷やした。この読者の心底をえぐる採掘力こそ、作家の手腕だろうと恐れ入った。有効に作用させるために、形を与える仕事を成功させたということだ。

この読後、私が読み深めたいのは、満洲開拓団引き揚げの実話ではなかろうかと思い、この小説の参考文献が8冊並ぶ中(うち2冊は認知症関連で、6冊が満洲引き揚げの関連書)、稲毛幸子さんの満洲開拓団一家引き揚げ記(*4)を読み継いだ。これが実話、なのが戦争なのだと途方にくれる。

自分が過去、今を「先々不透明な時代」と一度ならず口にしたことへの恥ずかしさが募った。今が「先々不透明」じゃないとは思わない。けれど、文字どおり「明日をもしれない」日々を生き抜いてきた人たちのことに少しでも意識が向けば、今を切り取って「先々不透明な時代」を生きていると口にする気にはなれない。

ブチャの虐殺があったのは、たかだか5ヶ月前のこと。「先々不透明な世の中」を生きていくことは、いつの時代も人の常で、いつ、どう、地べたが転覆するかわからない。余裕がゼロの環境に陥れば、人はいつだって、獣の性を剥き出しにして生きることを強いられうる。

そう(とりあえず頭でだけでも)理解するとき、明日をもしれない世の中を生き抜いた数十年ほど先輩の体験記と肝っ玉には、学ぶところ多く、叱咤激励される思いで、敬意を抱かざるをえない。「歴史」として遠く客観視するには生々しく、心に刻みつけるもの語りの力は、この上なく。

戦争を直接体験した人たちが、深い深い傷跡に爪をたてて引っ掻くようにして、その傷跡を生々しく語り継いでくださることに、思いを馳せる。

戦争を直接体験していない人間に、直接体験した人のような事実の記述はできない。けれど、自分たちがそれをきちんと心に刻みつけて、つかみ取って、次の世代に引き継いでいくための形を与えることはできる。少なくとも、きちんと刻みつけて自分の心のうちに受け止め、その機会には間違った形を与えず両手で引き渡していくことを肝に銘じたい。

*1:宇佐美まこと「羊は安らかに草を食み」(祥伝社)
*2:老いと死 重厚ミステリー 宇佐美まことさん(松山)新作「羊は安らかに草を食み」|愛媛新聞ONLINE
*3:長嶋有「いろんな気持ちが本当の気持ち」(筑摩書房)
*4:稲毛幸子「かみかぜよ、何処に 私の遺言 満洲開拓団一家引き揚げ記」(ハート出版)

2022-08-13

タイの鍾乳洞からの救出劇「13人の命」を観て

8月9日にTBSラジオ「たまむすび」で、映画評論家の町山智浩さんが紹介していた「13人の命」。これは観たいなぁ!ということで、早々に観てみた鑑賞録。Facebookに書いたこと、ほぼそのままの簡単なメモなのだけど、いつかの自分が掘り起こせるように、こちらにも残しておく。

2018年6月、世界中でニュースにもなったタイの鍾乳洞の奥地に閉じ込められた少年サッカーチームの男の子12人とコーチ1人の救出劇。この実話をもとにした作品で、監督は「アポロ13」とか「バックドラフト」とか手がけたロン・ハワード、出演者もセットもハリウッド映画なみとのこと。Amazonプライム独占配信。

少年たちがいるのは、洞窟の入り口から4km近く先。豪雨と長雨によって中は水没、救出経路の途中も何箇所も崩落しているため、幅60cmしかないところも。そういうところはスキューバ用タンクがあっては通れず、素潜りするしかない。水は濁っているし、光もささない。

でも中には食料もないし、本格的な雨季が迫っているから、雨水が引くのを待ってはいられない。絶体絶命とは、まさにこのこと。

タイの海軍では太刀打ちできず、洞窟専門のダイバーがイギリスから呼ばれる。水が引いてきた9日目にして、ついに突入、プロでも片道で6時間、水の中を這って進む。

少年たちを発見し、パニックにならず瞑想して生命維持していたのを確認するも、洞窟の外に脱出するのが、これまた至難の業。一人ずつ、人数ぶん片道6時間かけて往復していくしかない。具体的なアプローチを公表しては洞窟の外の世界中がパニックになるため、ニュースでは報道規制をしていたとか。

って町山さんの紹介を聴いて、これは観たいーと思って早々観てみた。評判どおり、すごい映画だった。観て良かった。

町山さんも、実際は作品のそれよりずっと水は濁っていたはずと言っていたけれど、ほんと暗闇の中を触覚とかを頼りに進んでいく途方の無さだったと思うと恐怖が増す。

また観る側は13人が助かったことを知った上で観ているけれど、それを成した人たちには、そんな確たる未来はなく、いくらかの可能性にかけて大リスクを冒した状態なわけで、実話っていうのが本当にものすごいなと観終わった後に改めて感服。

それに今時点からみると、コロナ前夜とも言える2018年の出来事というのも、2022年の自分に訴えかけるところが多分にあった。世界中から人が集まって、体ごとひとところに結集して、13人の命の救出に集中して骨を折る。否が応でも今の自分、今の世界情勢と対比して見えて、たった4年前なのにものすごく断絶感を覚えた。一方で、そこに一筋の光を見出すこともできる作品だなと思った。あのときと同じ地平に立って、連綿と続く時間の流れの中に生きているのだから。

2022-08-09

言葉の檻

町田そのこさんの「宙ごはん」を読んでいるときに、ふと脳裏に浮かんだのは、長嶋有さんの「いろんな気持ちが本当の気持ち」だった。

「宙ごはん」は章を進むごとに主人公が成長していくが、とくに主人公が小さい頃の章は、子ども自身がこんな雄弁に、自分の心境や自分が直面している状況を語れるものだろうかという違和感を覚えながら読んだ。こんなふうに言葉に言い表せないからこそ苦悩するのではないかと。

いや、本を多く読む子などは私よりずっと早熟で、子どもの頃からこれくらいの表現力を持ち合わせて自分の内外を語れるものなのかもしれない。そうとも思いつつ、私のような子ども時代を過ごした者からすると、たじろぐほどの明晰さで小学生が自分の家庭環境など語る描写に面喰ってしまう。

私は子どもの頃(に限らず、今もだけど)自分が受け止めるものに対して自分の言葉が圧倒的に足りなくて、何にも展開されない思念を、たぶんに抱えこんで生きてきた。

読み進めるうち、これは、そのままこの本の魅力かもしれないと思い至る。これほど雄弁に言葉にすることは叶わない、一方で表現はできないものの「これくらいのこと」を人は子どものうちから感じとっている。受け取っているものは、これほどまでに深く複雑なんだけど、それが言葉にまで昇華ならない。そうした苦悩を言葉にして、子どもたちの心の代弁をしている、言葉にすることで解きほぐそうとしている作家の仕事をみることもできる。

そして、これは子どもに限らない。人間て(主語がでかいか)、そういうもんだよなと思うのだった。自分が意識できているもの、言葉にできるものよりも、自分が無意識含めて感じ取っているもののほうが圧倒的に多くて、深く複雑で、多面的なもの。

長嶋有さんが書いていた「いろんな気持ちが本当の気持ち」って、ほんとそうだなって改めて思った。

長く生きて(恋愛だの仕事だの旅だの日常だのに揉まれて)いると「いろんな気持ちが本当の気持ちだ」と、これはつくづく思うようになる。気持ちは多様なのに態度は一種類しか選べなかったりする。マーブル模様のように多様に入り混じる気持ちをすべて一時に表せるなんて、そんな器用な人間はいない。主人公が「苛々した」とだけいっていても「本当は苛々していない」残りの模様がなんとなくみえる。角田さんはそういう書き方をする。読者の心の多様さを、多様さを解する力を信頼しているのだと思う。

これは、長嶋有さんが角田光代さんの「みどりの月」の解説に寄せた文章だ。

「気持ちは多様なのに態度は一種類しか選べなかったりする」、言葉も、表情も、ふるまいも。

これは、人の誤解も生むし、自分に対する誤解も生む。「私は怒っています」と言えば、人は、あぁこの人は怒っているんだと認識するし、自分自身に向けても「自分は怒っている」といったん思ってしまうと、自分は怒っているという一様な認識の檻に自分を閉じ込めてしまうことがある。言葉は、そういう力をもつ。

だけど、いろんな気持ちが本当の気持ち。ほんとに、そうだなって思うんだ。言葉は、言える範囲に人をくくりつけ、言えたことに人をくくりつけてしまう。でも、本当の気持ちは、もっといろんな気持ちを含んでいて、それまた時間経過で変容していくものでもある。ほんとに、そうだなって思うんだよな。人にも、自分にも、そういう目配りと想像力が大事。

そういうことを文学は、時間をかけて教えてくれる。言葉を尽くして教えてくれる。「宙ごはん」も、それを言葉を尽くして教えてくれたんだなぁって思う。

*1:町田そのこ「宙ごはん」 (小学館)
*2:長嶋有さんの「いろんな気持ちが本当の気持ち」(筑摩書房)

2022-07-15

小説が引きずりだしたポニーテールの記憶

毎日あったこと、毎日やっていたこと、とりわけ毎日やってもらっていたこと…というのは、毎日繰り返されていたにも関わらず、意識の中では軽んじられて、記憶の奥のほうにしまわれてしまいがちだ。

でも、自分の頭の中にある押し入れの奥の奥のほうにしまわれている記憶を、小説は、作家は、時おり、ずずずぃーっと引きずり出してくれる。

町田その子さんの「宙ごはん」(そらごはん)を読んでいたら、小学生のころ毎朝、母にポニーテールを結ってもらっていたことを鮮明に思い出した。「ママに髪を結ってもらう」シーンが出てきたからだ。

髪を結うという作業を、当たり前に自分一人でやるようになると、こうやって親の世話になっていたことをすっかり忘れてしまう。

だけど本当に毎朝、毎朝、私は歯みがきと洗顔を終えて、髪をいくらかとかして整えると、母のもとにブラシと髪ゴムをもっていって、ポニーテールにしてもらっていた。

小学6年生ともなると、髪を結うなんて同級生でも一人でこなしている人が多かったのではないかと思うが、私は小学校を卒業するまで、ずっとやってもらっていた。自分には当時から、ひどく手先が不器用な自覚があって、母はたいそう器用な人だとわかっていた。

今よりずっと長いロングヘアだったので、髪を一つに束ねて上のほうにぐいっと持ち上げてきれいにゴムを三重にするというのが、握力的にもけっこう難儀だった。という感じも、なんだか感覚的に覚えている。自分でしばると、夕方までもたずに、ずるずる下のほうへ落ちてきてしまうのだ。

そんなことまで実は記憶していたのか、どこに置いてあったんだろうと、我ながら不思議に思う。

母は自分が何の支度の途中だろうと、それをいったん中断して、私の髪結いをやってくれていたように思う。それを毎朝、毎朝やってくれていたことを、うわっと一気に思い出して、あぁ…と、目線を本の文字からはずし、しばし空(くう)を仰いでしまった。

中学にあがると、さすがに自分でやったほうがいいと思ったのと、入学早々「ポニーテールをやっていると先輩から目をつけられる」という噂が流れたので、あっさり下のほうに一つ結びするようになり、以降は自分でやるようになった。「ポニーテールなんて、一年のくせに生意気」って、どういう理屈やねん…と思うけれども実際に当時そういうお姉さんがいたのだ。

それにしたって、ここまでのことをわっと思い出させてくれる小説、その作り手である作家というのは、ものすごい仕事をしている人だなと思う。読者である私は、そう言われりゃ思い出せるレベルの「再認」で記憶しているわけだけど、これを書く作家はみずから「再生」できるレベルで記憶していることが盛りだくさんあって、それを物語世界の創作に都度活かしているのだと思うと、それだけでもすごいことだと感心してしまう。

一読者として小説を読んでいると、とりわけ子どもの頃に母がしてくれていたことがふいに思い出されることが多くある。当時は受け取り手の視点しかもっていなかったものが、今の時点から振り返って見直せば、彼女が意識的に私に授けていたものなのだろうと思い当たることもしばしば。与える側の母の目線にも、今なら想像力がはたらく。そういうあれこれに思い当たっては何十年ごしに、それを彼女の置きみやげとして味わい直す機会に恵まれる。

今まっただ中で子育てしている友人たちは、小説を読む余裕などなかなかないかもしれないが、子どもの髪を結いながら、子どもの膨大なる世話をしながら、自分の親御さんのあれこれが「あぁ」と思い出されることがふんだんにあるのだろう。

そしてまた何十年か先に、子どもたちにこんなふうに「あぁ」って思われる日もやって来るかもしれない。それは何ものにも代えがたい置きみやげだ。これほど尊いものもない。遠くに過ぎ去ったものであるようでいて、これほど親密な励ましはない。今、毎日のようにやっていることが、いつか手を離れてやらなくなっていくことが、また遠い先に別の意味をもって帰ってくる日が、きっとやってくるのだ。

2022-06-08

長いものに巻かれて、小刻みの線を消し消し

なにかと落ち着かない時勢によるものか、仕事のほうもあれやこれやというので、余暇となるとどうも、長いものに巻かれたい感がむくむく。

仕事場では、あれこれ枠組みしたり、し直したり、言葉を与えたり、与え直したりしながら、結局は何かを規定して形づくる働きをすることになる。しかし頭にそればかりさせていると、「ある条件のもとに規定したものは、ある条件のもとでしか成り立たない規定にすぎない」というのに、その枠組みに頭がとらわれすぎてしまう危うさを覚える。だから引いた線を消し消ししてニュートラルに戻すように余暇時間を使い、細かく刻みこまれた世界から距離をおくのかもしれない。

実際のところはよくわからないが、とにかく感覚の言うとおりにして最近は、読むものは自分の倍くらい長く生きている著者のものを好んで手に取り、あるいは宇宙を舞台にしたSF長編小説だとか、短いものでもおとぎ話だとか昔話だとか、かける音楽は18世紀くらいに作られたものを選ぶだとか、長尺のもの、壮大なもの、歴史あるものに行っている。

そんな中で手にした本の一つに、瀬戸内寂聴の「いのち」があった。これまで一度も彼女の本を読んだことがなく、著名なのは知っていたが、人物の前知識をほとんど持たずに読みだして、いやいや、びっくり、びっくりした。

92~95歳にかけて書かれたものだというので、静謐な悟りの境地でも書かれているのかと読み始めたら、めちゃくちゃ娑婆(しゃば)の話だった。「女」全開、男の気分で読んで面食らってしまった。男と女、情念に執念、恋に執筆に大忙し、私は読むのが早すぎたのか、はたまた遅すぎたのか。

この文章、著者が30歳と言われても、いや60歳でもえげつないなぁと思う気がするんだけど、90歳を越して書いているとなると、どうもそこに含蓄を読みとらないといけない気がしてくる、凡人読者(私だ)の心もようも、おかしい。

人の業のようなものは、こうして娑婆の話をむきだしにして書かないと、その片鱗すら表しがたいものなのよ!とでも言われているような。書きたいことは書いたことそのものではない、書きたいことの本質を片鱗でも浮き上がらせるには娑婆の話を書き尽くさないわけにはいかないのだとでも言われているような。作家の覚悟なり性(さが)とはこういうものだということなのか、も、しれないなどと思いつつ読み進める。

しかし、あの、こういう話は黙して語らず墓場まで持っていくのが筋なんじゃないんですかね…という話がてんこもりで、大丈夫かいなと思うことしばしばなのだけど、彼女には彼女の法というものがあり、品格の追究するところがあるということだろう。私には私なりの法があり、品のもち方がある。

墓場に入る直前も直前まで来ると、そして登場人物がもはや存命ではない状況となると、法も品もがらっと様相を変えるものなのかもしれない、そんなことも思った。そう言われれば、ははぁと思うほかない。

あの世から生れ変わっても、私はまた小説家でありたい。それも女の。

彼女はこう記して筆をおいているが、私はもし生まれ変わることがあるとしたら、今度は男に戻って出てくるだろうなぁという気もして、まぁそんなことはないにせよ、性別というものに対してどう向き合ってきたか、どう向き合ってこざるをえない時代を生き抜いてきたかが、全然違うんだろうとは思う。そこら辺が、なんというか、決定的に彼女と違うのかもしれない。

いずれにしても、彼女の登場人物の描写はすさまじいところがあり、人ひとりの心の闇もさして知らない若造が「人間は」「人は」などと知ったような顔で軽々しくもの言うんじゃないと、自分の吐く言葉をはたかれたような後味も残る。いや、そんなこと汲み取ってほしくて書いたわけじゃないんでしょうけれど。まぁ何を読むかは、その時々の読者の自由ということで、肝に銘じます。何度か読むごとに印象を変える本なのかも。寂聴さんの心もようも、率直かつ複雑さを包んでいて好かった。

* 瀬戸内寂聴「いのち」(講談社)

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