2025-03-09

量を減らして、一つのことを自分に丁寧に織りこむ

自分が書くエッセイは、豆腐を作るときに出るおからのようなものだと、吉本ばななさんが言っていた。彼女にとっての豆腐とは、もちろん小説だ。

先日おからのほうの『「違うこと」をしないこと』を読んでいたら、やっぱり豆腐も食べたくなって「花のベッドでひるねして」という小説を読んだ。立て続けに読んでみると、2つの作品はかなり密接につながっていて、「花のベッドでひるねして」には切々と、「違うこと」をしないことが書いてあった。

この小説のほうは、なぜだか家に文庫本があって、実際は再読。ページの最後のほうまで折り目がついていたので、数年前に一度読み切ったはずなのだが、全然記憶に残っていなかった。なので今回、新鮮な気持ちで改めて読んでみたのだ。すると今このタイミングで読むべくして読んだという気がむくむくわいてきた。調子がいいものである。

おそらく、これを最初に読んだ頃と比べて、私は今、そうとう静かなところにいる。身の回りで起きる出来事はそんなに多くなく、騒音混じりの情報を大量に浴びまくって生活することも、ほとんどない。

自分のキャパシティは、そんなに大きくも奥行き深くもないので、手に余りすぎて自分じゃどうにもならないところに浸かりにいくより、量を減らしても自分がきちんと負えるところで、傷すらきちんと負ったほうが糧になると、そんなふうに落ち着いている。

傷ついたら傷を負ってしまった…と、きちんと戸惑い、自分はその出来事の何に傷ついたのだろうかときちんと吟味する。あぁ、自分はこういう人間だから傷をおったのだと考える。そういうことを一つずつ、うやむやにしないで丁寧に向き合っていくのだ。

それが痛みであっても、そこから自分の糧にして発見できることもあるし、成長の機会とできることもある。あるいは、これは自分の生涯だと突破すべき壁には当たらない、関心もないしなぁと手放すこともある。

他方、嬉しいことも、充実感を味わえることも、人や自然に感謝することも、味わいは増している体感だ。量が少ない分、一つから味わい尽くそうという渇望がわきやすいのかもしれない。人と話し込んで感じ入ることも、読書から味わえることも、本と出来事をつなげて学びを得ることも、とても豊かになった。

人と会っては別れ、本を読み終えては次の本へとせわしなくしていると、一つのことが何かに結びついて広がっていったり深まっていったりというのが、なかなか展開しきれず雲散してしまったりもする。そうではなく、自分の身の丈にあわせて慎重にインプットに向き合っていると、一つのことを大事に育める。

なにを本の読み方一つ知らないで、まったくテキトーにものを言うものだなと、外からみると呆れるほかない生き様だと思う。キャパを超えて浴びても無、数を減らして慎重に向き合っても無。ならば私は数を減らして、慎重に向き合う後者の道を選びたい。外野からみれば、ひどく幼いまま、いろんなものを取りこぼして本質を掬いきれずに生涯を終えていく人間だとしても、それをわきまえてもなお、自分の身の丈で自分の人生を充実させていくことができれば本望なのだ。

「花のベッドでひるねして」の中に、こんな言葉がある。おじいちゃんならきっとこう言葉を掛けるだろうという主人公の脳内セリフ。

そのつど考えて、肚(はら)に聞いてみなさい、景色をよく見て、目を遠くまで動かして、深呼吸しなさい。そして、もしもやもやしていなかったらその自分を信じろ。もやもやしたら、もやもやしていても進むかどうか考えてみなさい。そんなもの、どこからでも巻き返せる。

これは、おじいちゃんと幹ちゃんの共作であり、ばななさんが「私にとって世界一の父でした」とあとがきで述べる吉本隆明氏と、ばななさんの共作にも読めた。この機に再読できたのは良き誕生日プレゼントとなった。

*吉本ばなな『「違うこと」をしないこと』(角川文庫)
*よしもとばなな「花のベッドでひるねして」(幻冬舎文庫)

2025-03-02

専門家の志しは、ときに正体の把握を遠のける

小林秀雄のこのくだりは「作家」を志す者に限らず、ビジネス界隈でも「論は饒舌でも、現場仕事ができない」人の増殖を糾弾するようにも読めて興味深い。

文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお蔭で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。当人そんなことには気がつかないから、自分は文学の世界から世間を眺めているからこそ、文学が出来るのだと信じている。事実は全く反対なのだ、文学に何んら患らわされない眼が世間を眺めてこそ、文学というものが出来上るのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。巧いとか拙いとかいっている。何派だとか何主義だとかいっている。いつまでたっても小説というものの正体がわからない。<br><br><br><br><br><br><br><br>
小林秀雄『作家志願者への助言』新潮社『小林秀雄全作品4』より

横線を引いた「文学」のところを、職業家として専門性を極めんとする概念ワードに置き換えてみる。「リーダーシップ」でも「◯◯デザイン」でも「◯◯コンサルティング」でも「◯◯マネジメント」でも「◯◯マーケティング」でも「◯◯カウンセリング」でもいいが、置き換えて読むのだ。

後半に出てくる「小説」のところは、「現場仕事」だか、自分がその職業で作っているアウトプット、その専門性を発揮して現場でこなしている働きなり身のこなしに置き換えてみる。

すると、あら不思議、「読める、読めるぞ!」という興奮がわいてきて、「天空の城ラピュタ」に出てくるムスカみたいな気持ちになる。正体は、そこにはなく、ここにある。

良い本の読書体験って、実に豊かだ。小林秀雄は、これを昭和7年に書いている。

* 小林秀雄「小林秀雄 全作品4」(新潮社)

2025-02-01

「ドキュメント 宇宙飛行士選抜試験」を読んで

これは会社で人事に関わる人、必見!な新書「ドキュメント 宇宙飛行士選抜試験」*。2008年、10年ぶりにJAXAが宇宙飛行士を募集した際の選抜試験の密着取材。めちゃくちゃ面白い上に、業界を選ばずさまざまな企業の採用・育成施策に応用できるネタやら発想の種やら考え方やらがてんこ盛り。

面白いから先を読みたいのに、あちこちで立ち止まっては考えに耽り、最終章「宇宙飛行士はこうして選ばれた」まで来ると、あぁ読み終えたくない!とすら思って、読了までけっこうな時間がかかってしまった。

著者は、選考試験に密着取材した「NHKスペシャル」の番組スタッフ。2009年3月に「宇宙飛行士はこうして生まれた 〜密着・最終選抜試験〜」と題して番組を放送した1年後、新書に姿をかえて出版された。

900名以上の応募があり、ざっくり示すと下の表のような選考プロセスを経て、最終試験前に10名まで絞り込まれた。

2008年「宇宙飛行士選抜試験」の選考プロセス(クリック or タップすると拡大表示)

Astronautselectionexaminationjaxa2008

宇宙飛行士特有の専門能力は、最終試験前に厳選されているため、この本で多くを割いている最終試験は、かなり汎用的な宇宙飛行士としての「資質」に迫る審査だ。

最終試験の前半1週間は、筑波宇宙センターに集まった候補者10人が、同じ閉鎖空間施設(直径4m、長さ11mのカプセル)の中に入って寝泊まりする共同生活を送る。ストレスフルな環境下で、20以上の課題をこなしていく一部始終をカメラがとらえ、マイクが音声を拾い、管制室から審査員が評価する。毎日の睡眠の質から、食事の仕方まで審査対象となる。

こういう選考試験を、宇宙飛行士ではないどこかの企業が行ったら速攻で世間にバッシングされるだろうか。では、なぜ宇宙飛行士だったら、さもありなんって思うのだろうか。各社が入社試験で測るべきストレスの質・量だって千差万別であり、グラデーションの中にあるはずだ。個別的で個性があるからこそ、いろんな人といろんな組織がマッチングする。もちろんそこにはアンマッチもある。だからこそ入社前に選考プロセスが在るわけだ。そのやり方を画一的に縛りつけて、それぞれの組織・個人がやり方を個別化し、存在を個性化する機会を奪っていかないといい。私はそこに、過剰な社会の縛り圧を感じることが最近多い。

閑話休題。宇宙飛行士として、どんな資質を測られるのかといえば、次のようなものだと言う。

  • ストレスに耐える力
  • リーダーシップとフォロワーシップ
  • チームを盛り上げるユーモア
  • 危機を乗り越える力

一気に親近感がわくのではないか。取材した著者は、次のように書いている。

あえて短い言葉で表現するなら……どんなに苦しい局面でも決してあきらめず、他人を思いやり、その言葉と行動で人を動かす力があるかその”人間力”を徹底的に調べ上げる試験だったのである。

宇宙とまったく関わりない我ら、いろんな業種・職種にも応用できるところがふんだんに詰まっている。そんなわけで、読んでいると頭の中で、あちこちへの道草が止まらないのだった。

もちろん4項目いずれにも「極限状態での〜」が頭につく。ゆえに、審査のやり方はキレキレに洗練され、候補者のふるまいをどう捉えるかという測定・評価の仕方も単一的・表層的ではなく、いろんな切り口で、奥行き深く洞察・評価されるのが読みどころになる。

例えばグループワークの1シーンを取り上げても、「ここでAさんはリーダーシップ、Bさんはフォロワーシップを発揮している」というように、リーダーシップ単体でAさん一人を評価するようなことはしない。

審査する側の見方が貧しいと、評価も表層的なものにとどまってしまうわけで、どう審査を作り込んでおいて、候補者のふるまいをどう洞察力豊かに汲み取れるか、審査の裏側にふれて学ぶところは多い。裏側の「一端にふれている」とも「真髄にふれている」とも言えるわけだが。

他方、採用する組織視点でなく、候補者個人の側に視点を移してみても、学びや気づきは大いに詰まっている。

最終試験は2週間に及ぶため、途中で「あぁ、しくじったなぁ」という局面に陥っても、そこで終わらない。候補者の動揺を取り上げて、そこからどう本人が内省し、どう気持ちを切り替え、どんなふうに立て直していったか。さすがは最終候補者!という珠玉の振り返りの弁にふれることができる。みんな、とっても魅力的だし、著者もさすが描写がうまいのだ。

宇宙飛行士を目指しているわけじゃない多くの人は、客観的に、審査する側・される側の双方の立場を味わうことができるので、学生の就職活動、社会人の転職活動、企業内での昇進・昇格試験に類する資質をどう磨き、どうアピールするかを考えたい人・場面にも、いろんな有効活用アイデアが思い浮かぶ。

例えば、次のようなケーススタディを、「JAXAで実際にあった採用面接のやりとりなんですよ」と取り上げれば、就活生向けのキャリアデザインの授業や、社会人向けの転職活動ガイダンス、求人企業が社内で面接官を担当する社員向けに行う研修・勉強会のネタにも使えるだろう。

「これは2008年にJAXA(日本宇宙航空研究開発機構)が10年ぶりに宇宙飛行士を募集したとき、研究職のバックグラウンドをもつ候補者と、面接官との間でなされた面接選考のやりとりです」といって、下のスライドを示す。実にひりひりするやりとりだし、宇宙飛行士だと、みんな興味本位で食いつき良さそうではないか。

採用面接のケーススタディ、志望動機を問うオーソドックスなやりとり(クリック or タップすると拡大表示)

Caserecruitmentinterview

真っ先に思い浮かぶシンプルな使い方は、求職者向けの就・転職活動ガイダンスで、職業理解、募集ポジションをきちんと理解して応募しないと、面接でこんな窮地に立たされますよーとか。

求人企業の人事が、面接官を担当する社員向けの研修に使うなら、「志望動機を問うことで、候補者の何を確認したいのか」「どういう回答によって、どう本気度を評価するのか」話し合ったり。あるいは、ここで答えに窮する人を必ずしも「不採用」と即決するのでなくて、「募集ポジションの仕事理解が不足していても、こちらから入社メリットを訴求して口説くアプローチだって考えられるよね」というような認識合わせに使うこともできる。「カジュアル面接の段で、こんなやりとりは御法度よ」と注意を促すのに使うやり方もありかもしれない。

あまりにいろんな目的・ゴールに使える素材なので、ここで深追いはしないけれども、自分ごと、自社の現場ごとに落とし込むパーツとして、いろんな用途に応用展開できるケースだなぁと、ひとり道草を楽しんでしまった。

終わりに。我らの仕事にもぞんぶんと応用がきくという実利をそっちのけても、この一冊には宇宙飛行士の選考試験に挑む人たちの魅力がふんだんに詰まっていて、ぐいぐいと読ませる。そして最終章は泣いちゃう。

仕事、職業、キャリアというものの価値を、安易に狭く価値づけして畳んじゃ人生がもったいない。仕事が何を指すか、世の中の見解が統一されることはないだろう。とりわけ、こんな概念のカオス環境では難しい。

でも、仕事にも職業にもキャリアにも、尊い光を当てた解釈は許されるはずだ。一人ひとりの人間がそれぞれに、社会とのつながりの中で自分の人生の時間を使って何の役割を果たしたいかとか。社会基盤を舞台として見立てたときに、どういうふうに壇上の役割を演じる使命感がうごめくかとか。

そういうことを自分の言葉でつむいでいくようなのがキャリア形成であり。そういう時にむにゃむにゃした思考の彷徨いというのは、あんまり形式ばらずに、既存の概念的なフレームワークに押し込まれて結論されることなく、もっと開放的なのがいい。人間なんて、will、can、mustのベン図に整理整頓されて何十年と行儀正しく生きる生き物じゃないのだからさ。はぁ、まとまらないまま終わるさ。

* 大鐘 良一、小原 健右「ドキュメント 宇宙飛行士選抜試験」(光文社新書)

2025-01-26

人生は短いか長いか、セネカの「人生の短さについて」

光文社の古典新訳文庫から出ている、セネカの「人生の短さについて」を読む。古典も古典で、セネカは紀元前1年の生まれ。今から2千年前を生きた古代ローマ帝国の哲学者なのだけれど、書かれていることの現代への通じっぷりが半端なくて、示唆に富んでいる。

人間がいまいち「時間」と上手くつきあえず「人生」を生きて死ぬ悪戦苦闘を、二千年続けてきた感をおぼえる。翻訳者の中澤務さんが、初心者にわかりやすく言葉を編んでくれていることも大きいのだろう。

人生は長いか、短いか。

「人生は長い」と聞くことはないが、「人生は短い」とはよく聞くフレーズだ。これは昔も今も変わらぬようで、セネカは冒頭「ひとの生は十分に長い」と始める。「人生は、使い方を知れば、長い」のだと説く。

われわれは、短い人生を授かったのではない。われわれが、人生を短くしているのだ。われわれは、人生に不足などしていない。われわれが、人生を浪費しているのだ。

どう浪費しているか。「人生」というと大きすぎるが、「時間」に置き換えてみるとわかりやすい。

だれもが、ほかのだれかのために、使いつぶされているのだ。

あの人のこと、この人のことばかり気にかけて、自分のことには気にかけないで時間を過ごしている。

自分の土地や金銭を、安易に人に譲ったりはしない。自分の財産を管理するときには倹約家なのに、自分の時間を使うとなると浪費家に変貌する。時間は目に見えないから、無頓着になる。そうして、いろんな人に自分の時間を明け渡して「多忙な人間」になっている。

私自身は今「多忙な人間」ではないが、そこそこは多忙に過ごした時期を経て今。多忙に過ごした時間も、今の静かな閑暇も好きだし、愛おしく思っている。

今は静かなので、自分の声がよく聞こえる。自分の時間を過ごしている感覚がある。仕事している時間も、自分のための時間を使っている感覚がある。それは私の中で両立する。私はもともとそういう感覚で仕事もしてきたのだが、いよいよシンプルに合一した。

自分の時間を過ごすというのは「怠惰に過ごす」こととは違う。

あなたの人生のうちのかなりの、そして間違いなく良質な部分は、国家に捧げられた。これからは、その時間を少しでも自分のために使いなさい。

わたしは、あなたに、怠惰で退屈な休息を勧めるつもりはない。あなたのうちにある生き生きとした活力を、惰眠や大衆好みの娯楽に浸せと言うつもりはない。(そもそも、そんなものは休息ではない。)そうではなく、あなたは、そこに大切な仕事を見いだすことになるのだ。それは、あなたがこれまで一生懸命に果たしてきたどの仕事よりも、大切な仕事だ。あなたは世間から離れ、心静かに、その仕事に取り組むことになるのだ。

へたな危険、へたな重責を背負わず、大切な仕事に戻ること。心静かに、大切な仕事に取り組んで暮らしていけたらなぁと思う。その仕事が何なのかは巡り合わせ次第で、未来は不確かなもの。そういうものと受け止め、今を大事に重ねていけたらいい。

巻末の年譜をみると、セネカが「人生の短さについて」を執筆したのは48歳頃。つまり2千年を超えて今の私と同世代、どうりで話が合うはずだわ。波乱万丈すぎる生涯を生きたセネカに共感をおぼえるのは軽薄な気がするけれど…、今の私の「時間」への向き合い方によく馴染んだ。

*セネカ(著)、中澤務(翻訳)「人生の短さについて 他2篇」(光文社)

2025-01-17

力量差あるメンバーにタスクを割り当てるアプローチ

山口周さんの「外資系コンサルが教えるプロジェクトマネジメント」を読んでいて、ほへぇと思った一つが、メンバーのアサインメントのアプローチについて。

プロジェクトメンバーに「優秀な人」「それほどでもない人」がいるとき、著者はパターンAを「やりがちなミス」だと評し、パターンBを選ぶべし!と勧めている(伝えたいことを分かりやすく示すために、そう書いたのかなと思うけれど)。

ともかく、実際にはパターンAが妥当なこともあろうかなぁと私は思ったので、なんでそう思うのかを考えてみたのが、赤い文字。

力量差あるメンバーにタスクを割り当てるアプローチ(クリック or タップすると拡大表示)

Memberassignmentapproach_projectmanageme

結論、「パターンA一択」ではなく、選択肢をもっておいて都度意識的に選べるのが健全というなら、おっしゃる通りと思うなど。

実際には、メンバーの「優秀」「それほどでもない」は単純に二分できるものじゃない。個々の経験値や力量差も、それをどの程度把握できているかも都度違うし。

必ずしも「PM」が最も優秀で、「優秀なメンバー」はその下に配するわけでもない。

タスクも単純に「難しい」「易しい」では二分できない複雑性をもつ。

「それほどでもないメンバー」の育成、「優秀なメンバー」のモチベーションをどの程度配慮すべきかでも採択すべきアプローチを変えるべきではないかなぁと。そんなことを考えた次第。

2024-12-28

なりたい自分像とか、ありたい自分像とか

小説って、豊かな人物描写があるのが魅力の一つだ。登場人物の人となりを、言葉でスケッチしたような文章がふんだんに詰まっている。そういう中には、自分はこういうふうにありたいと思う人物像との邂逅もある。これが、映像作品のそれとも違うし、日常出会う人とのそれとも違う、小説には独特の斬れ味がある。

作家は言葉を用いて、簡潔明瞭な一節をもって、読者に人物像を提示してみせる。彫刻を彫るように姿を浮かび上がらせて、私の脳内に顕現してくれる、とでも言おうか。これは小説家の筆致力なくして叶わない。

2024年のノーベル文学賞を受賞したハン・ガンさんの「別れを告げない」に、それがあった。主人公が、彼女の友人のことを、こう表していた。

しばらく話すだけでも、混沌、おぼろげなもの、不明瞭さの領域が狭まってくるような気がすることがあった。

そして、こう続く。

私たちの行為のすべてに目的があり、苦労や努力が毎回失敗に終わっても意味だけは残ると信じさせてくれるたくましい落ち着きが、彼女の言葉遣いや身ごなしには染みわたっていた。

私は、この一節に出合いがしら、あぁ本当にこの本を読んでよかったと思った。まだ話の入り口、40ページに書いてあるのだけれど。

私は、なんとかの職業で名を馳せたいという欲もないし、ワークとライフでどっちを重視したい?といった仕事観にも、これといった志向性を持たない。なんなら、そんな既成枠組みに侵されて、且つそのことに無自覚なまま、この手の設問を乱用する世の中に嫌悪感すら覚えている。

とりわけ仕事を経験していない未成年に対して「あなたはワークライフバランスを重視しますか?」などと軽々しくアンケートで回答させて、実際にはない人の心に、少なくとも今は持たない人の心に、自分の志向性なりこだわりなりが、さもあるかのように捏造させる設問に暴力性を感じている。

ワークとライフ(プライベート)は「便宜的に分けて捉えることもできる」だけであって、概念的ワードを「はなから分かれているもの」と見て扱うほどアホなことはない。こういう問いかけ方は、「誰しもがどちらか一方を選好する人間の性質がある」とでも思い込んでいるような、その自分の思い込みを、知らぬ間に若者のうちにも植え付けるような、うげげ感がある。

愚痴が過ぎた、閑話休題。自分の話をしよう。私は、先の一節がとても気に入ったのだ。これは、私がこんなふうにあれたらなって思う人物描写だった。人との接点で、社会との関わりの中で、こんなふうに自分が働けたら至福だと思う自分像を描いた文章だった。

仕事の場はもちろん、公私問わず人とのやりとりを終えて、こういうふうに作用できたかなぁって手ごたえを覚える帰り道は、この上ない幸せが心にわきあがる。ただの自己満足だ。けれど自己で満足する以上に人生で至福を得られることなんて、あるだろうか。そういう物差しこそ、自分の中に見出して尊び、大事に磨くべきなのだ。

ところで、この引用は慎重に読まれなければならない。上の文では別に「行為のすべてに目的がある」か否かは、問われていない。

行為の目的は後づけも可能であり、行為してみた後に目的が見えてくることもあれば、行為前に掲げていた目的とは別のところに真の目的が発見されて置き換わることもある。たとえ目的が見当たらぬまま行為したとしても、あらゆる行為は無駄にならない、そのように後から必ず意味づけが可能だ。

見当たらなければ一緒に考える用意があるという眼差しで、相手を送り出す。その関わりが相手に「たくましい落ち着き」として届き、相手の支えとして働く。「言葉」ではない、「落ち着き」であり「言葉遣いや身ごなし」であることも決して見逃してはならない。

それは静かな働きで、ほとんど相手に意識されない。むしろ、こちらの働きが意識されて相手の気を散らしてはならない。労働市場で数値化され評価されることも難しい、特別の高度な専門性も認めがたい。そういう類のものに尊さを見出して、そこに力を注ぐか否かは結局、自己判断だ。

微力で端っこで働くことをわきまえて按配を見極められるからこそ、その人が自分で歩く主体性を奪わないで済む。相手を飲み込んだり、覆い被さって潰してしまうようなことがない。その人が、あわてたり、うろたえるところから解放する力を静かに注ぎ込みながら、相手が自分の力で立ち、歩き、自分の握力で大事なものを握り続けていけるための関わりを大事につとめる。そんなの、自己満足するほかない、自分の物差しでしか測れないし、自分の物差しを持ち替えながら試したり、それを洗練させ続けるほかない。

情報をあびまくるこの世界で、なりたい自分像、ありたい自分像がここにこそあると、そのありかに気づいて言葉でとらまえるのは、難儀だ。川上からどんぶらこんぶら情報は流れてくるけれども、川岸とは別のところに、例えば背にしていた山のほうに、自分のなりたい像、ありたい像が埋まっていて、土を掘り起こすように小説の中にひそんでいるのを発見する作業なのかもしれない。

とても、分かりづらい。けれど邂逅したときには、たぶん自分で、あっ!て気づく。自分でゼロから表現することはできなくても、行き当たりばったり遭遇すれば、あ、自分のはこれだなと、たぶん気づくのではないか。

なんとかの職業で5本の指に入るとか、なんとか業界に入るとか、どこそこ企業で働くとか、どこのポジションに就くとかじゃなくて、世間に出回っている一般名詞や固有名詞に、一つふたつの形容詞をまぶした言葉ではなくて、なかなか言い表せないところに、実は自分がしっくりいく自分像が描かれるのかもしれない。少なくともそういう余地を残しておけば、そうそう簡単に、何者かになれなくて絶望の淵に追いやられることはない。

実際には、何かの職業に就くことにこだわりはない、有名になることも、社会で評価や名声を得ることも、できるだけ多くの人から称賛をされることも、特別ぴんとこない人はけっこう多くいるのではないかと思う。そこら辺の人の志向パターンにフィットする人物描写というのが、そんなにどんぶらこ、どんぶらこと流れてこない世の中に思うのだが、あるいは小説の一節に埋め込まれているかもしれない。そんなことを思うのだった。いやぁ、長くなった。

ハン・ガン著、斎藤真理子訳「別れを告げない」(白水社)

2024-12-08

長篇でなければ実現不可能だった

先月半ばに分厚い長編小説を2冊読み終え、次はいくらか小ぶりな中編小説に手をのばすのかなぁと見立てて本屋を訪れたのだが、文庫コーナーの前に立つと、あいも変わらず600ページ級の長編小説になびく自分がいた。遅読のわりに果敢だなぁと感心しつつ、なびく理由はわからぬまま、自分のそれに従ってレイモンド・チャンドラー「長い別れ」*1を買って帰ってきた。

初めてのレイモンド・チャンドラー作品だ。この作品から入るの?と言われそうだけど、タイトルに惹かれて。原書「The Long Good-bye」は、1958年に清水俊二訳「長いお別れ」、2007年に村上春樹訳「ロング・グッドバイ」が出ているが、今回私が手にとったのは2022年に出た田口俊樹の新訳「長い別れ」。

とても好かった。他の訳者と比べた評は何も言えないけれど、すごく自然に脳内描写を誘う文章で読みやすかった。「訳者あとがき」からも、真摯な翻訳への向き合い方が伝わってきて職人魂を感じる。「解説」の591ページに、同じ箇所を3者がどう訳したか読み比べられるところがあるので、比較してみたい人は書店でそっと開いてみるとよいかも。とりわけ村上訳は個性的に感じた。

肝心の中身は、というと、読んでいる最中しばしば「小説を読むのに理由なんていらないんだわ、私はおもしろいから読んでいるんだな」と実感させられるおもしろさだった。それと相反するようだが「私が小説を読んで成し遂げたいことは、長篇でなければ実現不可能」なのだとも、読後に思い耽った。

というのは、「解説」で書評家の杉江松恋さんが書いていた、これの裏返しなのだけど。

彼が小説を書いて成し遂げたいことは、長篇でなければ実現不可能だった

まぁ、書き手のそれと、読み手のそれじゃあ、全然違う。読み手としての私は、長篇でなくとも様々に小説から恩恵を受けられているのが実際なのだが。それでも600ページ級の長編小説をこそ、いま自分が渇望していることに間違いはない。

そのことについて、最近いろいろと考えていた。うまく言葉にできなくて、自分の文章表現力にやきもきもしていた。同じところをぐるぐる思考巡らしているようで途方に暮れていた。

まだその只中にいるのだけど、とりあえず、最近のSNSにぐったりしてしまったことが一因にあっただろう。人を、出来事を、一面的、表層的に捉えて、何かを早々と結論づけてしまう。いったん結論つけたら、その結論ありきで単純なロジックを組み立てて、見立てを柔軟に変容させていくことをやめてしまう。どう見立てたら、より明るい光を先に見出せるかを思案し続けることをやめてしまう。その不健全で怠惰な流れが、きつかった。これは一方で人間の性でもあって、この先どんどんひどくなって、自分も知らぬ間にそれに飲み込まれていってしまうんじゃないか。いや今すでに、無自覚にその流れの中に浸かっているのじゃないかという恐れがあった。

端的に言えば、大江健三郎さんの本*2の中にあったチェコスロヴァキアの作家ミラン・クンデラが遺した言葉(「笑いと忘却の本」King Penguin版、1979)そのままなのかもしれない。

とにかく世界じゅうの人びとが、いまや理解するよりは判定することを好み、問うことより答えることを大切だとするように感じられます。そこで、人間の様ざまな確信の愚かしい騒がしさのなかで、小説の声はなかなか聞きとられがたいのです。

これは1970年代の言葉だけれど、今にも通じている。当時より増しているのか減じているのか、私にはよくわからない。けれど私個人として「小説の声が聞きとられがたい」時代を背景に、切実に、この流れに抗いたがっている。「小説の声を聞きとりたがっている」自分の渇望に応えて、長編小説に手を伸ばしている感じがする。

自分の終わる日まで、たおやかに育んでいきたいものがある。それが何なのかは、書き出すといつまでも止まらないで、だらだらとしたものになってしまって仕方ない。自分の中ではこれと分かるのに、なかなか言葉にまとまらない。でも、これと自分では分かるから、それを大事に育て続けようと思う。伸ばし続け、発揮し続け、縁ある人に役立てて、今の社会に還元して、終われれば良い。いよいよ砂嵐の中に立っているような風景に呆然としてしまうことが増える一方だけど、それもきっと一面的な見方にすぎないのだろう。

*1:レイモンド・チャンドラー著、田口俊樹訳「長い別れ」(東京創元社)
*2:大江健三郎「新しい文学のために」(岩波新書)

2024-11-24

ネガティブ感情とうまいことやるオーソドックスな方法

ネガティブな感情が湧きあがったとき、それとうまいことやる方法というのを、教わった覚えはあるだろうか。気をてらった方法でもなく、有名人の我流でもなく、基本的でオーソドックスな方法。私は、ないと思う。

昭和生まれで義務教育も今よりガサツだった時代に育ち、大手企業がやるような体系だった新人研修も、管理職が受けるアンガーマネジメント研修も受けたことがなく、記憶力もとぼしい私には、こう教わりましたと思い出せるものが、これといってない。

それが先日、とある本*の中で「あぁ、これならやってる、日常使いしてるぞ」と思う感情調整の理屈に遭遇した。普段の生活を送る中で、野良作業しながらスキル獲得していたというやつだろう。本を読みながら、うまいこと自分の感情とやってるもんだなぁと気づくところがあった。

その理屈というのを図示して、おいておきたい。困っている人がいたとき、ぱっとこれを見せながら説明すると話が早そうだ、という自分の説明用にこしらえた一枚なので、足場だけ組んである感じで人には物足りないと思うが。使えそうだと思う方は、困っている人に説明するときなんぞに使えたら使ってください…。

感情調整のプロセス、心の健康との関連性(画像をクリック or タップすると拡大表示する)。

ProcessOfEmotionalRegulation

ざっくり言うなら、同じ状況でも、その状況にはいろんな意味づけができるわけで、多様な解釈スキルを向上させることが感情調整力の肝、心の健康維持にも寄与するという話。

人に伝える場合、実際には、相手に合わせてお手製シチュエーションを具体例挙げて示したり、本人が直面している苦難シチュエーションをネタ提供してもらいながら理解をたどるキャッチボールしてやらないと、知的満足は得られても実用に到達しないと思うので、その伝え方こそが肝になるのだけれど。

以下、理屈メモ。あと、ちょっとしたシチュエーション例も添えておく。

私たちは、いろんな状況で日々、嬉しいとか楽しいとか、腹が立つとかイライラするとか、悲しいとか寂しいとか不安だとか、焦るとか落ち着かないとか退屈だとか、恥ずかしいとか情けないとか、罪悪感がわくとか嫌悪感を覚えるとか、闘争心が芽生えるとかしているわけだが、あれが「感情」である。

で、同じ状況でも、どんな感情を経験するかは人によって違うし、どう処理したり、どう表出するかも人によって違う。個々人の性質(タイプ)によって、何を楽しいと思い、何に退屈さを覚えるかに違いが出るわけだが、それはここで論点としない。

また同じ人であっても、その時々のコンディションや、ちょっとした状況の違いで変わってくる。ふだんなら気に障らないことが気に障ったり、その逆もある。が、それもここでは焦点化しない。つまり「状況同じ、人が違う」「人同じ、状況が違う」いずれによる感情の経験差でもなくて。

ここで焦点化したいのは、その人の「感情調整」の力量、言わば感情を扱うスキルによって、感情の経験の仕方に違いが出るという話題。

感情調整とは何か。

人が、いつ、どのような状況で、どのような感情を経験したり、表出したりするかに影響する一連の過程を捉える概念

「イライラする」「不安だ」という負の感情を抱いても、それを処理する方法は人によって異なり、調整する力量(スキル)次第で、ネガティブな感情に振り回される回数は減らせる。うまく活用できれば、ポジティブなエネルギーにも変えうるという話だ。

上の図は、日々ふつうにやっているプロセスを、くどくど図にしてある感じ。なのだけど、これを意識化して、脳で捕まえて、心で扱えるようになることが大事なので、あえてくどくど図の内容を言葉に起こすならば、

1.感情が4つのプロセス(状況、注意、評価、反応)を経て生起する中で、
2.5つの感情調整(状況選択、状況修正、注意配置、認知的変化、反応調整)が、それぞれ行われうる。
3.世界中に多数ある研究成果をメタ分析すると、5つの感情調整プロセスは「心の健康」と関連するもの、しないものに結果が分かれる。
4.「弱いか中程度の効果」が認められたのは唯一「認知的変化」のプロセスである。
5.「認知的変化」というのは、置かれた状況への評価や捉え方を変えること。

つまり、自分が置かれている状況に対して、それがたとえ自分の力では変え難いと思える状況や環境だったとしても、置かれた状況をどういうふうに解釈するかは、いくらでも発想のめぐらしようがあるということ。少なくとも、解釈が1つで終わる状況などない。そう思うなら、それはスキル不足による思い込みだ。

例えば、ファミレスでパソコン持ち込んで一人仕事をしていたとして、家族連れが隣りの席に座った。子どもらがわいわい騒いで一気にうるさくなり、仕事に集中できなくなった。最初にイライラする感情がわいたとして、「でも、ここ、ファミリーのレストランだしな」とか「静かな空間で仕事に集中したいんだったら、それをサービス料に含んだ場所に行くなり、職場なり自宅なり自由がきく場所に行かなきゃいけないのは自分のほうだ」というように、自分の状況解釈に変更を加えるのが「認知的変化」だ。

こういうプロセスを加えると、最初にわいたイライラ感というのが、少なくともそれ単体で自分の心を占拠している不健康状態から解放されているだろう。

このファミレスのシチュエーションで、他のプロセスを例示するなら、

「状況選択」は、そもそもうるさい環境を予見してファミレスには行かないとか。
「状況修正」は、人気が少ないほうに席を移動させてもらうとか。
「注意配置」は、自分の注意をそらすべくイヤホンをするとか。
「反応」は、深く息を吐くとか、むっとした表情をするとか、睨むとか目を閉じるとか、だろうか。

この辺を解説する本のくだりを読んでいて、確かに「認知的変化」は、心の健康確保に日常使いしているなぁと思ったわけだ。

「自分自身」あるいは「話す相手」が直面している状況に合わせて、認知的変化を加えながらポジティブ感情を引き出すアプローチを考えていければ、日常かなり開放的に心の健康を維持・運用できる。その感情をエネルギーにして、「反応」後の具体的な行動選択、あるいは回避行動、人間関係づくりを展開していくこともできよう。

結局やっぱり、ちょっとお堅い文章になってしまったが、日々いろんな状況に直面する中で、いらっとすること、しょんぼりすること、ネガティブ感情を抱えることはままあることであり、むやみに周囲に変更を迫ったり、我慢して心を疲弊させたりせず、自分の「状況の評価の仕方、捉え方」を、うまいことチューニングして再解釈を与える。このオーソドックスな方法は、もっと日常使いされていいのではないかと素朴に思ったのだった。

いや、私以上にうまいこと使えている人もわんさかいるだろうことは承知の上だが。このスキルのたゆまぬ鍛錬は、感情の味わい方を豊かにするばかりでなく、人生の味わい方を豊かにするんじゃないかなぁって思うのだ。

*小塩真司 編著「非認知能力: 概念・測定と教育の可能性」(北大路書房)

2024-11-16

長編小説「ザリガニの鳴くところ」が与えてくれるもの

先月半ば、本屋で平積みされていた分厚い文庫本を2冊買って帰った。いずれも600ページある長編小説で、ひと月近くかけて1,200ページを読破したのだけど、終えてみると、なんだか2つの旅を終えて帰ってきたような心持ちに。長編小説を読むというのは、ひとり旅をする体験に近いなぁと思った。

どちらもハヤカワの文庫本で、「未必のマクベス」「ザリガニの鳴くところ」も、同じような夕焼け色の表紙をしている。その静けさに惹かれて手に取ったのだけれど、中身を開けばまったく違う世界が広がる。かたや2000年頃からの香港の大都会を舞台に、かたや1950〜60年代のノースカロライナ州の湿地を舞台に、1ページ目から全然違うところに連れて行かれる。見た感じ、ほとんど同じ物体なのに(というと装丁家に失礼だけど、買ったのは装丁のおかげだ)。

私が大型書店で目にとめてひょいと気分で買って帰る小説というのは、つまり、すでにめちゃめちゃ売れていて、読んだ人が世の中にわんさかいる作品ということだ。「ザリガニの鳴くところ」は、2019年、2020年にアメリカでいちばん売れた本とのふれこみで、映画化もされているのだとか(知らなかった)。

そういう長編小説を読んでいる最中よく思うのは、「私の前に、こうして同じようにページをめくり、一人でこの小説を読み耽って時間を過ごした人が、この世界にはたくさんいるのだ」ということ。この読書時間を尊く思い、この物語に心をおいて過ごした人たちが、この世の中にわんさかいるという心強さ。その人たちは今この時も、私がまだ知らない別の物語を、ひとり読み耽っているかもしれない。そうして、この不穏で不透明な世の中への信頼を回復しながら、小説の続きを読む。

「ザリガニの鳴くところ」は、動物学者が69歳にして初めて書いた小説だそう。人間そのものの野生や、人間をとりまく自然界の底知れなさを全景にした物語には、彼女の人生経験を総動員して作り上げた作品の力が宿っている。

社会を騒がすトラブルが浮上するたび、人間のクリーンでない側面、倫理的に許しがたい素行を、その場しのぎで覆い隠して、個人を消して罰して、底浅く善悪判定をつけて片づけようとしている世の中を糾弾しているようにも感じられた。

人間の野生や、自然界がもつ野蛮さをさらしてみせ。人間のもろさ、不完全で、いびつで、偏ったものの見方・考え方から決して逃れられない性質を突きつけてみせ。その一方、人の、個人のもつ並はずれた環境適応のポテンシャルにも光を当ててみせる。

誰にも覚えがあるだろう「人から拒絶される」体験、誰とも分かち合えず抱え込んでしまう孤独感を、とことん掘り下げていく。

もし、もっと人間社会が成熟した先に、誰も「人から拒絶される」という体験を覚えることなく、孤独感に苛まれることなく、理不尽も不条理も経験することなく生きていけるようになったら、こうした小説の読書体験価値は衰えてゆくのかもしれない。けれど今の10代が経験した苦悩話を聞くかぎり、私にはまだ当面そうなる見通しをもてないし、それこそが人間の追求すべき未来展望かと問われて、安易に首肯もできない。

何十年と生きていけば、たいていの人が、むごたらしい現実に直面させられる。たとえ助け合ったり慰め合ったりできる仲間がいても、それだけでは根本解決ならず、本人が個として対峙しなきゃならない難局というのが、特別な人にだけではなく、たいていの人にやってくるものじゃないかと、私はそのように人の生を見立てている。

もちろん、おかれる境遇は千差万別で、人と比べて自分の境遇が軽く見えたり重く見えたりもする。けれど共通するのは、それぞれに自分のそれを抱え込むということ。だから、ノースカロライナの湿地に生まれて親にも兄弟にも置き去りにされ、たった一人で生きてきた少女の極限の嘆きにふれて、彼女と境遇は大いに異なるのに、読者はその痛みに共鳴する。だから、これほど読まれているのではないか。そこに私は、心強さと励ましを得ているように思う。

自分だけじゃない、他の多くの人たちも、人は代々、自分と同じかそれ以上の難局を個人で体験してきていて、それを歯を食いしばったり、やり過ごしたり、時間かけて乗り越えたり、それと共生する覚悟を決めたりして、どうにかこうにか生きているんだと発想が及ぶ。それを支えに、自分も自力で立ち上がって、自家発電で自走を再開する脳内展開力が働く。

人ひとりが普通に人生を全うするのは、なかなか難儀なもので、こうしたものを備えていかないと、なかなかどうして、やりきれないんじゃないかと。古い人間と言われればそれまでの話、20世紀人間の杞憂かもしれない。あとはもう、それぞれの世代が、それぞれの時代を生きてみて、その次の世代が振り返ってみるほかないけれど。

ともかく今を生きる私は「これを読んでいる人が、世界中にたくさんいるのかー。これを読んで、素晴らしいと評する人たちがたくさんいる世の中というのは心強いなぁ」と感嘆しながら、長編小説に力をもらって、のらりくらりやっていくのだ。

2024-10-11

「企業文化をデザインする」仕組み化と余白確保の按配

冨田憲二さんの「企業文化をデザインする」を読んだ。人を採用するときにはスキルマッチだけでなくカルチャーフィットの具合をみるのも必須だとか。メンバーをマネージャーに昇格させる時には、持ち場の職能レベルの高さだけでなく、組織のカルチャー体現者でないとチームが回らなくなるとか。企業文化や組織カルチャーの重要性を説く発信に触れることは多い。

が、実際どこまでどう仕組みを作ってデザインし、どこは余白として遊ばせておいたほうがいいか。ダイバーシティも説かれる昨今、これとの両立にも整理をつけてかからないと、二枚舌の矛盾だらけで納得感のない組織運営になってしまう。

先の本は、実務家による実務家のための良書、基本が読みやすく分かりやすくまとめられている印象。が、テーマがテーマなだけに、この基本の上に立ってどうデザインしていくかは極めて個別的な話。著者も説くように、よそから良さげなものを持ってくるのではなく、自社の内省を起点にデザインすることが極めて重要となる。

AmazonやNetflixのをトレースして、うまくいく企業は早々ない。組織を形成している人間が違う。市場環境も違えば、事業フェーズも創業期なのか急成長期なのか安定期なのか変革期なのかで、取り組む課題設定も変わる。もちろん目指すビジョンもミッション定義も、各社オリジナルなわけだから全然違う。そこの個別デザインに、組織運営の創造的活動が立ち上がるとも言える。

本の中では、人の採用と評価が極めて重要として、「カルチャーフィットの観点から見たときに少しでも疑問符がつくならば、絶対に採用しない」という固い信念を説くけれども(p147)、人を選べる強者の企業でないと、なかなか…とか。

選考シーンだと、応募者が入社後に変わる余地をどう見極めるか、とか。その人が入社して感銘を受け、柔軟に変化してコアバリューの体現者になっていく可能性はゼロじゃない。選考シーンで、その可能性が70%なのか30%なのか判断するのは簡単じゃない。

また、今自社が掲げているコアバリューがどれほど絶対的なものか、明晰に言葉に言い表せているのか、ここも絶対がない。「この応募者の、自社とのカルチャーフィットはいかほどか」を測る指標は、どれほど洗練されて装備できているのか。本当に排除すべき異分子なのか、多様性を高めるポテンシャル人材ではないと言い切れるのか。

採用機会を逃して本当にいいのかは実際、判断の難しい局面も多い中で、「ビジョン、ミッション、コアバリュー」という抽象的記述から、企業文化として経営戦略、事業戦略、人事戦略・人事ポリシー、人事制度として具体的な仕組みに落とし込んでいくか、どこまで仕組みに落とし込んでいくか、このデザインの按配は極めて難しいと感じる。少なくとも、難しいという感覚を働かせ続けることが、膠着化や形骸化をさせないために大事な気がする。

さらに、自分が身近にして最も難しいと感じているのが、現場マネージャーらがどこまで若手に、仕事観や働き方、日々の行動・判断のあり方を指導・伝承し、どこから先は踏みとどまるべきか。

厳化する社会通念やコンプライアンス、ダイバーシティやらとの調和を取りながら、現場で部下にコアバリューに基づく行動選択を導いていくミドルマネージャー層の板挟み状態に思いを馳せることは多い。部下のワークライフバランスやメンタルケアの守備にまわりがちな現場の苦悩を見聞きする今日この頃。自分ができる現場のサポートに、こまやかな洞察をもって取り組んでいきたい。

*冨田憲二「企業文化をデザインする」(日本実業出版社)

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