2025-12-08

人間は心の脆弱性に対して無防備で

話題の東畑開人さんの新書「カウンセリングとは何か」の中に、カウンセリングが求められる現代の像、社会の変化について言及するところがあった。

近代以前、お互いが名前を知っているような小さな村落で暮らしていた頃は、宗教の役割が大きかったし、治療においては霊的な治療、社会的支援といった「問題を外在化する」治療(というか介入)アプローチが機能しやすかった。

これが近代以降、科学が発展してくると、現代医学の身体的治療、カウンセリングといった「問題を内在化する」治療アプローチが、機能しやすくなってくる。

社会や他者、霊や神の差配といった「外側」に原因の所在や治療・介入策を求めるのではなく、当の本人、個人の皮膚の「内側」の身体や心に治療すべき箇所を見出す。

表に整理すると、下のような感じ。個人主義の現代社会では、カウンセリングを含む「問題を内在化する治療」が、打ち手として機能しやすい。

医療人類学者アラン・ヤングが対比した2つの治療アプローチ(画像をクリックすると拡大表示する)

Externalandinternaltherapy

個人主義がうたわれ、「自分の生活スタイルや人生行路を自分で選んで決めていく」個人の生き方が尊ばれて久しい。となれば、それと引き換えに「自分の答えの出し方、それに納得して生きていく孤独と自立」が個人課題として立ち上がってくるのは当然のなりゆき。

そのわりに、人間は心の脆弱性に対して極めて無防備なまま。最近いろいろ学び直していても、そのことに思いふけることが多い。

この本の最終章に、ふたたび第1章に書かれていた上の話題に帰ってきて、一冊の本を結んでいたのも印象的だった。

神がいなくなり、王も貴族もいなくなる。僕らは自由な個人になった。その分、世界はひどく不確実になり、流動的になった。だからこそ、人は身分でも、宗教でもなく、自分の物語によって自分を証明することになり、人生行路を決めていくことになる。これが個人です。こうして生まれた個人たちの集合体として社会を作っていく。

「これが個人です」という言葉が、「個人主義」の現代社会を背景にして、ずしんと脳内に響いた。

著者は最後の最後、こう締めくくっている。

カウンセリングとは、近代の根源的なさみしさの中で、人が可能な限り、正直に、率直に、ほんとうの話をすることを試み続ける場所である。

私は「カウンセリングとは」を外しても、こういう場所が社会のそこここに、広くも大きくもなくていいから一人ひとり個々人の身近にあることが大事だろう、と読んだ。著者も、想いをともにしているように読めた。

私たち昭和生まれの現役世代の中には、全員とは言わずとも、親世代、祖父母世代、あるいは自分より少し上の先輩たちから、こういう場所を与えてもらった人が少なくないと思う。可能な限り、正直に、率直に、ほんとうの話をすることを試み続けられる場所。

そうした人との関わり方を上世代が与えてくれた営みを大事に受け継いで、次の世代に引き継いでいかなきゃいけないのではないかって、最近よく思う。「若者に対して老害は働きたくないから」といって、あらゆる継承を無責任に自分世代で断ち切ってしまうことなく、自分が先代から与えてもらった(自分が)良い・素敵・楽しい・面白い・美しいと思うものを、ここで改めて振り返って、バトンを渡してみること。

先代より、もっと前から脈々と伝承してきた人の営みとか、場とか、人づきあいといったものを次の世代にも伝えていくことって、難しいからこそメディアにはできないことで、目の前で直接関わる人間にしか、腰をすえて長く関わっていく人間にしかバトンを手渡せないものじゃないかなと。それは、ある世代とある世代にはさまった世代の役目として中年が果たしてきた大事な務めではないかと。老害回避が全盛の世の中を前にして、あまのじゃくに思ってしまうのだった。

まずは伝えてみて、見せてみて、共有してみて。それから、それをどう取捨選択するか、どう応用したり断ち切るかは、若い世代が決めたり試行錯誤することであって、引き継ぎ元の自分たちが決めることではないのではないかなぁと。そんなことを思いながら、いくらか厚苦しく、自分なりに細々若い世代と関わっている。

* 東畑開人「カウンセリングとは何か 変化するということ」(講談社現代新書)

2025-08-20

誰かの何かになるかもしれない、ならないかもしれないことを共有すること

ふと、吉本ばななが足りないと思い浮かぶことがある。そういう合図にはきちんと応じて、後回しにせず読むのがいい。いつからかそう強く思うようになって、今回は新作短編集の「ヨシモトオノ」を手にとった。

岩手県の遠野地方に伝わる逸話や伝承を記した説話集、柳田國男の「遠野物語」から100年ちょい経った現代の、吉本ばななによる「遠野物語」ということ(だが、まだ「遠野物語」を読んでいない…)。

この“不思議”の短編集、中ほどに「光」という作品があって、書き出しが「この話だけは少しトーンが違う。それは、実話だから」と始まる。

私は、これを読んでおいて良かったなぁ、ぎりぎり間に合った、巡り合わせだなぁと読後に思った。

というのは先週、SpeakerDeckというスライド共有サービスに「40代以上に共有したい中年期のキャリア論」と題したスライドを公開したところ、想像をはるかに超える多くの方が見てくださって、驚き、恐縮し、びびってしまったからだ。

あげた初日に200ビューくらいの数字になったので、自分がSNSでシェアした友人、知人以外にも見てくださる方があったのだろうなぁ、ありがたいなぁなどと思っていたら、あれよあれよという間に呑気でいられない数にのぼり、一週間足らずで4万ビュー超えに。

百から千に単位が変わったあたりで、あぁ、これはもう、あとはボコボコに叩かれる覚悟を決めなきゃいけないやつだ。私のような普通の町の民が手ぶらでコメントを読みにいったら、ケガしてメンタルやられて立ち直れなくなる展開だ。と思い、しばらく、また別の小説を読みながらひっそりと暮らすことに。

そんな弱気なら最初から共有するなよ!と思うだろうけれども、ただの町の民といったって、そう心中は単純に作られていないのだ。ちっぽけな自分には「できないこと」だらけ。そういう自覚は深くありながらも、そんな私にも「共有したいこと」はあるし、「自分ができることをしたい」という思いもある。普通の人間とは、そういう生き物ではないか。

この事態に遭遇する本当にちょっとだけ手前で、私は「ヨシモトオノ」を読んだわけなのだった。とりわけ「光」は、私の動揺を抑える支えとなってくれた。

できないことはできない、どんなことがあってもできないからできることをするしかないんだ、なぜなら自分はちっぽけで弱い一人の人間に過ぎないのだから。だとしたら不完全で未熟な私にできるのは書くことしかない、書いて少しでも何かに触れて、それを人と共有することだけ。それを知ったことは大きなことだと思う。

不完全で、できないことだらけの自分。だからこそ自分ができることを丁寧に、それに集中してやる。まじめに、熱心に、やってみることだ。できないことを割り切るぶん、自分ができることを精一杯やることができれば健康だ。

そうして作ってみたそれを人と共有したとき、誰かの何かになるかもしれない。ならないかもしれないけれど、共有した先の、その人の力をもって、自分の想定や期待を超えて、何かに役立ててくれるかもしれない。

個人の世界の中では解決できない、もっと大きな因果の中で人は生きている。小説なら弱い私自身よりももう少しだけ大勢を、もう少しだけ励ませるかもしれない。あくまで気づくのはその人で、自分の命の力をよみがえらせるのはその人だけれど、きっかけになれる可能性はなくはない。だから、こつこつ書くしかない。

私には小説など書けないけれども、吉本ばななさんが「小説なら」とするところ、私は「インターネットなら」と読み替えて、そこに可能性をみてしまう。次の文章が「インターネットは広くて愛情深くて、小さな私のスライドを、遠くまで届けてくれる」というように脳内で変換される。

小説は広くて愛情深くて遠くまで行ってくれる。もしかしたらたんぽぽの綿毛のようにふわふわと自由に飛んで、誰かの心の闇に根づくかもしれない。知っている人にうまく届かなかったその種も、もしかしたら偶然の采配で全く知らない誰かに届くかもしれない。その種は私の顔をしていなくて、宇宙からふと飛んできたものであってほしい。

自分ができること、誰かを思いやること。小さくとも確かなそれを、自分の力の及ぶかぎり手元で丹念に形にして届けることをあきらめなければ、ただの町の人の力でも、自分を活かし、周囲の人に活かされ、「もしかしたら偶然の采配で全く知らない誰かに届くかもしれない」。

いろんな人がいるからそれぞれの持ち場で人類は世界を回していく。一番大切なのは自分の持ち場を正確に知ることだ。

私は私の持ち場で、できることを丁寧にやっていきたい。いやぁ、もうさ、吉本ばななさんが同時代に生きていてくれて、私の先を歩んでいてくれて、物語を何十年も作っては世に送り出し続けてくださって、感謝しかない。歳をとるほどに、小説家が自分に何をしてくれているのかがわかるようになってきて、そういうのを感じると、年をとることって本当に悪いことじゃないし、感慨深いものだなぁと思う。

* 吉本ばなな「ヨシモトオノ」(文藝春秋)

2025-07-30

アーチ状に「人間の生涯」を描くとき、頂上の年齢は?

アーチ状に「人間の生涯」を描くとしたら、人生が終わる年齢を何歳に設定するだろうか、アーチ(橋)の真ん中、頂上のところに何歳をもってくるだろうか。

17〜19世紀にかけて、人間の生涯をアーチ状に描いた類似の絵図が、フランスでも日本でも残されているという。遠く離れたフランスと日本の絵を比較してみると、なかなか面白い。

フランスと日本の絵、1点ずつ挙げてみる(いずれも画像をクリック or タップすると拡大表示する)。

一つ目は、1817年頃に制作されたフランスの木版画(仏画)。

Lestempsdelavie

フレデリック・マゲ「人間の生涯」 | Histoire par l'image

次の日本画は、おそらく18世紀に制作された(1760年に修理を行なった銘があるため、それ以前)。熊野信仰を広めるために描かれた絵解き用の宗教絵画で、戦国時代から近世にかけて流行したそう。

Kumanokanjinjikkaimandara

熊野観心十界曼荼羅 | 西大寺

いずれも、人間の「誕生から死まで」を含んで描いてある。仏画は左から右へ、日本画は右から左へ、進む向きは逆なのだが、アーチ状に描かれた人生航路にそって歳を重ねていく構図は一緒。年齢段階ごとに男女を配していって、誕生から死までの人間の生涯、それをとりまく世界観を描写している。

これを教えてくださったやまだようこ先生が著作*で強調するのは、日仏の絵ともに、アーチ状の頂点を「中年期」に据えていること。アーチ状だから必然的に、それより前が上昇方向になり、それより後が下降方向に描かれることになる。

これを現代と比較して著者は、こう指摘する。

高齢化社会といわれる現代のほうが、人生を眺める時間軸が狭く、若さを過度に強調し人生後半を軽視している

仏画のほうは明確に「10歳刻み」、左から昇っていって一番高いところが「50歳」。各年齢に応じた態度、容姿、衣装の男女ペアが登場し、右下へ下っていくと最後は、段を降りたところ臨終間近とおぼしき100歳が、ベッドに横になっている。徹底して男女ペアなのも仏画に特徴的だ。

日本画には、これは何歳といった表記はない。男女の描き分けについては、やまだようこ先生の日本画の読み解きに、なるほどと思う。

子ども時代の性は明瞭でないが、青年期から中年期では男女が交互に描かれ、後半は再びモノセックスになり、老年期には孫らしき子の手を引く像がある

仏画の、規格化されたような男女ペアの描きようと比べると、日本画の、この性別のほわっとした扱い(ながら絶妙に意味があって、そうしていそうな感じ)が、私には「でも、なんか、わかる」と思うところあって興味ぶかかった。

この山なり、何が高いことを意味するのかでいうと、「能力の高さ」というより「社会への関与度の高さ」と解釈したほうが良さそうである。中年期が、一生の中で最も社会に高関与。

現代知識をもちこめば、能力の高さは、青年期なり中年期なりを境に下降していくものもあれば、80歳くらいまで一定レベルを維持し続ける知能もあることがわかっている。

そもそも、分かりやすく得点化できる能力の高さだけを指標にして、上だの下だの相対的な位置をつけたり、上昇だの下降だのの角度に心中穏やかざるものを抱え込むのは、あまりに貧相だ。

多様化、多様性社会と騒ぐわりに、ずいぶん偏った指標で人の人生を論評し、解釈し、判定を下すふるまいをみては嘆きたくなることままある昨今だが、高齢化社会といったら、そんな思考枠組みから一刻も早く脱したほうが生涯豊かに暮らせるの一択だ。私なりの庶民の心得である。

絵のほうに話を戻して、じゃあ高いほうが「社会への関与度が高い」ってことなら、低いほうは何なのさって、社会への関与度が低くなる一方で「現実社会と一線を画す、超自然的なもの」が色濃くなる。

仏画の下半分をみてみると、中央にある半円形の中では「最後の審判」が行われている。その前景では「がい骨」が砂時計と鎌をもっている。画面の右側には、死にゆく者の枕元に「天使」が立っている。

日本画でも、上のアーチを右から半周していって左の「鳥居」を出たところで、「閻魔(えんま)大王の審判」が行われている。

一生を生き終えた、その人の心や行いによって死後の世界が決まることを暗示している。人間だけではなく、神仏と結びついて絵の世界が成り立っている、これも日仏共通だ。裏返せば、人間の生涯を描くのに、人間だけ描くのでは成り立たせ得なかったということか。

他方、仏画と比べて日本画の特徴的なのは、四季が豊かに描き出されているところ。仏画のほうは、とにかく人間が存在感をもって主役をはっている感じだが、対する日本画は自然描写が明らかに多い。

右の鳥居から入って道すじをたどっていくと、アーチの外側に梅の木、柳の木、桜の木、松の木、杉の木、頂点を過ぎて下りに入ると紅葉、枯れた老木というように、四季の移ろいと重ね合わせて人間の生涯が描かれている。

吉田松陰も「春種し、夏苗し、秋刈り、 冬蔵す」として、四季と人生を結びつける言葉を遺している。

それぞれの季節に優劣の序列はなく、それぞれの季節に固有の価値を見出せるのが人の豊かさ、尊さだ。年齢段階においても、若きにも老いにもユニークな価値を見出せるのが人間だ。単一にしぼらず、多様で多次元的で複眼的な意味解釈の力を、ここで退化させてはもったいない。最近はそんなことを思っては歴史に学ぶところ、尊く感じている。

歴史・文化的文脈を視野に入れると、現代の私たちが当たり前だと信じている発達観を相対化することができる。

やまだようこ先生の著作集を再読しているのだが、いやぁ本当に、人生でこんな本に出会えてよかったなぁと有難く思う。本は庶民にも優しい。

「老害を働きたくないから」と言って、人類が連綿と続けてきた「継承・伝承」の大きな役割の一切合切を放棄して、尊いものを次世代に引き継がず根絶やしにするのも極端すぎるだろう。そこの分別をきかせて若い世代に関われる構えを大切にして働きたい。

* やまだようこ「人生心理学ー生涯発達のモデル」(新曜社)

2025-06-25

トルストイ「アンナ・カレーニナ」の読み応え

ついに、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読了した。上中下巻あわせて2千ページに及ぶ大作で、のんたら読み進めていたら3ヶ月近く経ってしまった。ひと月に1冊ペースだ。しかし、なんだか豊かではないか。

解説によれば、この物語には150人にも及ぶ登場人物があるという。「社会的集団や階層の言語の特殊性に細かい注意が払われている」とあるが、まさしくだ。

伯爵婦人から百姓まで、老いも若きも幼きも、いろんな人がいろんな立場で、いろんな境遇を背負って出てくる。その一人ひとりが自分の言葉で自分の思考を語り、かつトルストイがそれぞれの置かれた境遇を見事に描写し、何を本人がうまく自己制御できていないかも書き暴いている。同情に寄るでもなく、突き放すでもなく、それぞれ個性ある人間の「性」をえぐるようにして書き尽くす筆致は、すこぶる鋭い。当時の貴族社会や暮らしぶり、農事経営、思想、政治と、あらゆる側面を取り込んで描きだす手腕もふるっている。

私はこれを要約する術も、評論する腕ももたないので、ここで解説にあったチェーホフの一節をはさむ。

「アンナ・カレーニナ」が今後とも全世界の人びとに永く愛読されていくであろう秘密を、チェーホフは次のように語っているという。

『アンナ・カレーニナ』には問題は一つとして解決されていませんが、すべての問題がそのなかに正確に述べられているために、読者を完全に満足させるのです。問題を正確に呈示するのが裁判官の役目であって、その解答は陪審員たちが、自分自身の光に照らして取出さなければならないのです

これまで「全世界の人びとに永く愛読されてきた」秘密は、まさしくこの通りなんだろう。時代を経ても、それぞれの時代を生きる読者一人ひとりが陪審員として、この本に向き合ってこそ成り立ってきた価値だ。

これが今後とも「全世界の人びとに永く愛読されていく」秘密として、あり続けるといいなと思う。こうした名作の読書文化が衰退せずに、私のような一般庶民が本屋で文庫本を手にとって、手軽に味わえる世の中が継承されていくといいなと。

「人が生きる」ということを考えるとき、また「自分が生きる」ということを考えるのに、整然と秩序化されたノウハウだけではやっていけないし、合理化だけでは納得できないし、満足だけでは続かないし、退屈ではやっていられないし。

そういうものからこぼれ落ちてしまうもの、人が生きていく上での糧みたいなものが、文学作品の中には詰まっているのだよな。そういうことを、こういう最高峰の名作を読むと実感させられる。

なんだい、その本には「人はなぜ生きるのか」の答えでも書かれているのかね?と問われれば、私はこんな返答をするかもしれない。なぜ人は生きるのかという理由も目的も使命もなくても、人は生きていけるという当たり前のことが書かれていると。まぁ、でも、それも、一読者の、読み終えた直後の、ぽっと出た解釈の一つにすぎない。どんなことを述べても、作品価値を矮小化してしまうようで、自分の内で育むにとどまってしまう。だからこそ、一般庶民にも読み継がれていく文化を尊く思う。

文学作品は、たくさんの彩り豊かな解釈の仕方を、自分のなかに編み込んでくれるようだ。落ち着いて見渡せば「無秩序すぎる世の中」と「何にも不完全な人間」と「矛盾を内包した自分」は、いつの時代も変わらない。それを受容し、解釈し、折り合いをつけながら健やかに生きていく力と意思を育むことは、ここに生まれ落ちてしまったからには一人ひとりにとって、とても大切な術だと思う。少なくとも、この先しばらく、人間が人間ではなくなる時までは。

人は、そもそも愚かで、不完全で、機械的な「ものさし」を当ててみれば狂っているとも言えるような性質を前提に生きている。世の中もまた、無秩序で、不条理やら理不尽やら人間が思うところ多分に含んで運行されている。少なくとも私は、人とも自分とも世の中とも、そういう前提でつきあっていかないと、どうにもならないと思っている。だからこそ人間は、皆で協力して暮らしているんじゃないのさとも思っている。

けれども最近は、それって一般社会で合意形成された常識でもないのだろうかなぁと思うこと、しばしばである。さも、秩序があるかのように、完全を目指せるかのように、矛盾を解消できるかのように見誤る、驕りやら愚かさやらは、むしろ現代のほうがひどくなっているのかもしれない。それもまた、世の中であり人なのだ。

* トルストイ「アンナ・カレーニナ」(新潮文庫)

2025-06-15

「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」の個人的読書メモ

あまのじゃくな性向が災いしてか、たいていのことの初動が遅いのが災いしてか、この中途半端な時期に重たい腰を上げて「生成AI」の入門書を一冊、手に取った。という話は一つ前の話で書いたが、

これが本当に分かりやすくて楽しく読み終えられたので、内容についても個人的なメモを残しておく。

※強調するが、この本に書かれていること(そのまま)ではなく、私の解釈で自分の脳内用に作り替えたメモ

まず「生成AIツールの主な用途」として、私が列挙したのは


  • サマリーやレポートをまとめてもらう
  • アイデアを列挙してもらう
  • コンテンツのたたき台を作ってもらう
  • 調べ物をしてもらう
  • レビューをしてもらう
  • 実行計画を立ててもらう(実行してもらう)

著者の深津さん曰く「文章を作らせるよりも、レビューをさせるほうがいい仕事をする」印象をもっているとのこと(2024年8月時点)。

こうした依頼をかけるときのポイントとして、「〜を考えて」とか「〜を作って」とか、一言で雑な質問をするな!という話である。

じゃあ、どうしたらいいのかという問いかけの基本文型や文例が、書籍では体系立てて解説してあるわけなのだが。

その体系をちょっと崩して、ざっくり私の脳内に接続する言葉に言い換えると、こんな感じである。

ChatGPTに問いかけるときの構成要素。


まず基本として、

1)AIに役どころ(何をやってほしいの?)を示し、
2)文脈(誰向けの、何に使うもの?)を示し、
3)元資料なり参照資料を与え(or 検索範囲を指定)、
4)回答時の形式(目次構成、文字数や段落数、箇条書きや個数など)を指定する

オプションとして、

5)回答までに踏ませるステップを指定する
6)回答サンプルを与える


そうすると、精度高く、少ないラリーで、欲しいものが手に入りやすくなるという話。

1、2を与えれば、目的に適った回答を得やすくなる。
3を与えれば、どこからもってきたかわからない情報だとか誤情報などが混じりにくくなる。
4を与えれば、用途に適った形式で出力されやすくなるというわけだ。

これまでに私も、先行して生成AIツールをビジネス利用している人の話を聞く中で、全然「要件定義」せず依頼していて、それだったら自分で一から作ったほうが断然能率がいいんじゃないか?と思うことが少なくなかったので、ほんと使いようだよなぁと改めて、もぐもぐ味わった次第。

さらにオプションである。5を与えれば、どういう経路をたどってAIがその答えに辿り着いたのかわけわからん、ということがなくなる。「調査分析してから企画立案して」とか、「一般論」を回答させた上で「それに従った個別事案を考えて」とか「その一般論からはずれた個別事案を作って」とか、「複数のアプローチで複数案を出してくれ」とか、そういった回答までの段取りをマネジメントできる。

6を与えれば、与えたサンプルに倣って「言葉選びや表現」を作ってくれる。小学生向けの教材か、法人営業のマニュアルか、個人カスタマー向けのFAQかで、適切な言葉遣いは異なる。サンプルを与えれば、その辺のニュアンスを汲んで新たに作るものも生成してくれる。言い回しや単語の用い方、文章の長さにとどまらず、テイストだ、トーンだ、出力形式も何も、細かいニュアンスを汲んで寄せてきてくれるというわけだ。

この辺を、具体的にどう問いかけたらいいかという文例がふんだんに詰まっていて、わりとさくっと短時間で読めるのもいい。部分的に、使いたいように、自分の日常に取り込めるライトさも良い。

著者2人の掛け合いの読みやすさ、読者を惹きつける構成の妙、具体例の作りの巧さは、前の話でふれた通り。一通り読み終えて、なお「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」*は、ビジネスパーソンの入門書に最適だなと思う。私同様、そろそろ一冊読んでみようかなぁという方は、ぜひ。

* 深津貴之、岩元直久「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」(日経BP)

2025-06-07

教えるとき「基礎を取り出す」構成の妙(ソロ タキソノミーのメモ)

これは本当に分かりやすい!思った「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」。重たい腰をあげて生成AI、LLM、ChatGPTの基礎知識を、と手に取ったが、ビジネスパーソンの入門書に最適だった。著者2人の掛け合いでテンポよく解説する小気味よさ、シチュエーションや活用例の巧さも然ることながら、本の構成が見事だなと感服。

「ビジネスシナリオでのChatGPT」を一章にまとめず、
第3章 ビジネスシナリオでのChatGPT(基礎)
第5章 ビジネスシナリオでのChatGPT
と、2つに分けられている構成の妙に、うなった。

第3章は「サマリーを作って」「FAQを作って」「検索して」の3本立て。「汎用的で(誰でも)、ライトで(すぐ)、ビジネスで役立つ(使える)」基礎をコンセプト立て、具体例を示しながら紹介している。これによって、第1章から第3章までの前半部で読者を小気味よく虜にして、後半に送り出す手さばきが見事なのだ。

すでに学習内容を熟知している著者の立場(先生として物事を教えるとき)って、無意識でいると、この分割になかなか頭がまわらない。無意識に教えるべきことを構成だてていくと、(ごく概念的な知識は別としても)「ビジネスシナリオでの〜」みたいな実践の件(くだり)で基礎部分だけを取り出して一章を立てることに、なかなか思い至らない。

思い至っても、その基礎部分を、この範囲とスコープ立て、これとコンセプト立て、一章として独立的に機能する構成内容を作っていくことが、かなり創造的な、ひと仕事となる。それに価値を見出さないと、やっていられない。これをしっかりやってのけているところに、巧いなぁ!とうなったのだ。

ここに意識が及ばないと、「第3章」に全部入りになっちゃうか「第5章」に全部入りになっちゃうかで、一章に束ねられる。こうなると「目次」として眺める分には、きれいですっきりしているんだけど、学習の実効性としては落ちる。しかし熟知している著者側は、それに気づかぬことも、ままあるだろう。

これは本にかぎらず、講義、授業、セミナー講演などで人に教える場の構成・時間割でも、言えることだ。

「初学者にとっての学びやすさ」という構成指針を取り入れると、どういうふうに学習範囲を絞り、構成要素を分割し、順序立てると良いかの答えが変わってくる。

演習課題を取り入れよう、ワークショップ形式にしようだとかの趣向を凝らすより前に、もっと基本的な骨格づくりの甘さをどうにかするほうが先決では?という現場は少なくない気がする。「実務者による、実務者のための、実践的な講座にすべく、ワークショップ形式」という話し運びだけで基本構成を固めてしまうのは、ちょっと安直である。

人の理解は「浅い理解から、深い理解へ」と段々に進むし、人の思考は「単純な思考から、複雑な思考へ」と段階を踏んで学習していく。

「人の学習段階」を5つにレベル分けして示したソロ・タキソノミー(SOLO taxonomy)は、概念的だが、良い道標になる。

「浅い理解」ステップを踏まずして「深い理解」には至れない。「単純な思考」を踏まずして「複雑な思考」へはなかなか至れないのが、アナログな人間の学習プロセス。

実践的だというだけで、ハイコンテキストな事例そのままに演習課題を与えて「複雑な思考」を求めても、初学者には考える足場がなく学習なしえないのだ(興味をもつことには貢献する場合もあるが)。

一足飛びに「深い理解」「複雑な思考」を求める育成イベントをしかけて、学習効果ゼロに終わることがないように歩みを企てよ!という示唆を、ソロタキソノミーは与えてくれる。

ソロタキソノミー(SOLO taxonomy):参考までに私のメモ的スライド(クリックすると拡大表示)

Solotaxonomy

それにとどまらず、その段階の踏み方を、どう組んだらいいかを考える道標としても使える分類表である。

一方、あくまで道標でしかないという認識も極めて重要だ。実際には「どこまでがレベル1なのか、どこからがレベル2になるか」は各現場で考えなくては仕方ない。実際には、その学習テーマ、その学習者次第ということになるから、仮説立てて、やってみて、検証してみて、手直ししてってサイクルを自分の手元でまわすしかない。

どちらかといえば「どこまでをレベル1と見立て、どこからをレベル2と見立てるか」という表現のほうが、実際的だ。決めの問題なのだ。違ったら直せばいい。

「急いては事を仕損じる」というのは学習においても言えること、急いては学習を仕損じる。最近、人間のアナログ性について、よく思いふけっている。

*深津貴之、岩元直久「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」(日経BP)

2025-03-09

量を減らして、一つのことを自分に丁寧に織りこむ

自分が書くエッセイは、豆腐を作るときに出るおからのようなものだと、吉本ばななさんが言っていた。彼女にとっての豆腐とは、もちろん小説だ。

先日おからのほうの『「違うこと」をしないこと』を読んでいたら、やっぱり豆腐も食べたくなって「花のベッドでひるねして」という小説を読んだ。立て続けに読んでみると、2つの作品はかなり密接につながっていて、「花のベッドでひるねして」には切々と、「違うこと」をしないことが書いてあった。

この小説のほうは、なぜだか家に文庫本があって、実際は再読。ページの最後のほうまで折り目がついていたので、数年前に一度読み切ったはずなのだが、全然記憶に残っていなかった。なので今回、新鮮な気持ちで改めて読んでみたのだ。すると今このタイミングで読むべくして読んだという気がむくむくわいてきた。調子がいいものである。

おそらく、これを最初に読んだ頃と比べて、私は今、そうとう静かなところにいる。身の回りで起きる出来事はそんなに多くなく、騒音混じりの情報を大量に浴びまくって生活することも、ほとんどない。

自分のキャパシティは、そんなに大きくも奥行き深くもないので、手に余りすぎて自分じゃどうにもならないところに浸かりにいくより、量を減らしても自分がきちんと負えるところで、傷すらきちんと負ったほうが糧になると、そんなふうに落ち着いている。

傷ついたら傷を負ってしまった…と、きちんと戸惑い、自分はその出来事の何に傷ついたのだろうかときちんと吟味する。あぁ、自分はこういう人間だから傷をおったのだと考える。そういうことを一つずつ、うやむやにしないで丁寧に向き合っていくのだ。

それが痛みであっても、そこから自分の糧にして発見できることもあるし、成長の機会とできることもある。あるいは、これは自分の生涯だと突破すべき壁には当たらない、関心もないしなぁと手放すこともある。

他方、嬉しいことも、充実感を味わえることも、人や自然に感謝することも、味わいは増している体感だ。量が少ない分、一つから味わい尽くそうという渇望がわきやすいのかもしれない。人と話し込んで感じ入ることも、読書から味わえることも、本と出来事をつなげて学びを得ることも、とても豊かになった。

人と会っては別れ、本を読み終えては次の本へとせわしなくしていると、一つのことが何かに結びついて広がっていったり深まっていったりというのが、なかなか展開しきれず雲散してしまったりもする。そうではなく、自分の身の丈にあわせて慎重にインプットに向き合っていると、一つのことを大事に育める。

なにを本の読み方一つ知らないで、まったくテキトーにものを言うものだなと、外からみると呆れるほかない生き様だと思う。キャパを超えて浴びても無、数を減らして慎重に向き合っても無。ならば私は数を減らして、慎重に向き合う後者の道を選びたい。外野からみれば、ひどく幼いまま、いろんなものを取りこぼして本質を掬いきれずに生涯を終えていく人間だとしても、それをわきまえてもなお、自分の身の丈で自分の人生を充実させていくことができれば本望なのだ。

「花のベッドでひるねして」の中に、こんな言葉がある。おじいちゃんならきっとこう言葉を掛けるだろうという主人公の脳内セリフ。

そのつど考えて、肚(はら)に聞いてみなさい、景色をよく見て、目を遠くまで動かして、深呼吸しなさい。そして、もしもやもやしていなかったらその自分を信じろ。もやもやしたら、もやもやしていても進むかどうか考えてみなさい。そんなもの、どこからでも巻き返せる。

これは、おじいちゃんと幹ちゃんの共作であり、ばななさんが「私にとって世界一の父でした」とあとがきで述べる吉本隆明氏と、ばななさんの共作にも読めた。この機に再読できたのは良き誕生日プレゼントとなった。

*吉本ばなな『「違うこと」をしないこと』(角川文庫)
*よしもとばなな「花のベッドでひるねして」(幻冬舎文庫)

2025-03-02

専門家の志しは、ときに正体の把握を遠のける

小林秀雄のこのくだりは「作家」を志す者に限らず、ビジネス界隈でも「論は饒舌でも、現場仕事ができない」人の増殖を糾弾するようにも読めて興味深い。

文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお蔭で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。当人そんなことには気がつかないから、自分は文学の世界から世間を眺めているからこそ、文学が出来るのだと信じている。事実は全く反対なのだ、文学に何んら患らわされない眼が世間を眺めてこそ、文学というものが出来上るのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。巧いとか拙いとかいっている。何派だとか何主義だとかいっている。いつまでたっても小説というものの正体がわからない。<br><br><br><br><br><br><br><br>
小林秀雄『作家志願者への助言』新潮社『小林秀雄全作品4』より

横線を引いた「文学」のところを、職業家として専門性を極めんとする概念ワードに置き換えてみる。「リーダーシップ」でも「◯◯デザイン」でも「◯◯コンサルティング」でも「◯◯マネジメント」でも「◯◯マーケティング」でも「◯◯カウンセリング」でもいいが、置き換えて読むのだ。

後半に出てくる「小説」のところは、「現場仕事」だか、自分がその職業で作っているアウトプット、その専門性を発揮して現場でこなしている働きなり身のこなしに置き換えてみる。

すると、あら不思議、「読める、読めるぞ!」という興奮がわいてきて、「天空の城ラピュタ」に出てくるムスカみたいな気持ちになる。正体は、そこにはなく、ここにある。

良い本の読書体験って、実に豊かだ。小林秀雄は、これを昭和7年に書いている。

* 小林秀雄「小林秀雄 全作品4」(新潮社)

2025-02-01

「ドキュメント 宇宙飛行士選抜試験」を読んで

これは会社で人事に関わる人、必見!な新書「ドキュメント 宇宙飛行士選抜試験」*。2008年、10年ぶりにJAXAが宇宙飛行士を募集した際の選抜試験の密着取材。めちゃくちゃ面白い上に、業界を選ばずさまざまな企業の採用・育成施策に応用できるネタやら発想の種やら考え方やらがてんこ盛り。

面白いから先を読みたいのに、あちこちで立ち止まっては考えに耽り、最終章「宇宙飛行士はこうして選ばれた」まで来ると、あぁ読み終えたくない!とすら思って、読了までけっこうな時間がかかってしまった。

著者は、選考試験に密着取材した「NHKスペシャル」の番組スタッフ。2009年3月に「宇宙飛行士はこうして生まれた 〜密着・最終選抜試験〜」と題して番組を放送した1年後、新書に姿をかえて出版された。

900名以上の応募があり、ざっくり示すと下の表のような選考プロセスを経て、最終試験前に10名まで絞り込まれた。

2008年「宇宙飛行士選抜試験」の選考プロセス(クリック or タップすると拡大表示)

Astronautselectionexaminationjaxa2008

宇宙飛行士特有の専門能力は、最終試験前に厳選されているため、この本で多くを割いている最終試験は、かなり汎用的な宇宙飛行士としての「資質」に迫る審査だ。

最終試験の前半1週間は、筑波宇宙センターに集まった候補者10人が、同じ閉鎖空間施設(直径4m、長さ11mのカプセル)の中に入って寝泊まりする共同生活を送る。ストレスフルな環境下で、20以上の課題をこなしていく一部始終をカメラがとらえ、マイクが音声を拾い、管制室から審査員が評価する。毎日の睡眠の質から、食事の仕方まで審査対象となる。

こういう選考試験を、宇宙飛行士ではないどこかの企業が行ったら速攻で世間にバッシングされるだろうか。では、なぜ宇宙飛行士だったら、さもありなんって思うのだろうか。各社が入社試験で測るべきストレスの質・量だって千差万別であり、グラデーションの中にあるはずだ。個別的で個性があるからこそ、いろんな人といろんな組織がマッチングする。もちろんそこにはアンマッチもある。だからこそ入社前に選考プロセスが在るわけだ。そのやり方を画一的に縛りつけて、それぞれの組織・個人がやり方を個別化し、存在を個性化する機会を奪っていかないといい。私はそこに、過剰な社会の縛り圧を感じることが最近多い。

閑話休題。宇宙飛行士として、どんな資質を測られるのかといえば、次のようなものだと言う。

  • ストレスに耐える力
  • リーダーシップとフォロワーシップ
  • チームを盛り上げるユーモア
  • 危機を乗り越える力

一気に親近感がわくのではないか。取材した著者は、次のように書いている。

あえて短い言葉で表現するなら……どんなに苦しい局面でも決してあきらめず、他人を思いやり、その言葉と行動で人を動かす力があるかその”人間力”を徹底的に調べ上げる試験だったのである。

宇宙とまったく関わりない我ら、いろんな業種・職種にも応用できるところがふんだんに詰まっている。そんなわけで、読んでいると頭の中で、あちこちへの道草が止まらないのだった。

もちろん4項目いずれにも「極限状態での〜」が頭につく。ゆえに、審査のやり方はキレキレに洗練され、候補者のふるまいをどう捉えるかという測定・評価の仕方も単一的・表層的ではなく、いろんな切り口で、奥行き深く洞察・評価されるのが読みどころになる。

例えばグループワークの1シーンを取り上げても、「ここでAさんはリーダーシップ、Bさんはフォロワーシップを発揮している」というように、リーダーシップ単体でAさん一人を評価するようなことはしない。

審査する側の見方が貧しいと、評価も表層的なものにとどまってしまうわけで、どう審査を作り込んでおいて、候補者のふるまいをどう洞察力豊かに汲み取れるか、審査の裏側にふれて学ぶところは多い。裏側の「一端にふれている」とも「真髄にふれている」とも言えるわけだが。

他方、採用する組織視点でなく、候補者個人の側に視点を移してみても、学びや気づきは大いに詰まっている。

最終試験は2週間に及ぶため、途中で「あぁ、しくじったなぁ」という局面に陥っても、そこで終わらない。候補者の動揺を取り上げて、そこからどう本人が内省し、どう気持ちを切り替え、どんなふうに立て直していったか。さすがは最終候補者!という珠玉の振り返りの弁にふれることができる。みんな、とっても魅力的だし、著者もさすが描写がうまいのだ。

宇宙飛行士を目指しているわけじゃない多くの人は、客観的に、審査する側・される側の双方の立場を味わうことができるので、学生の就職活動、社会人の転職活動、企業内での昇進・昇格試験に類する資質をどう磨き、どうアピールするかを考えたい人・場面にも、いろんな有効活用アイデアが思い浮かぶ。

例えば、次のようなケーススタディを、「JAXAで実際にあった採用面接のやりとりなんですよ」と取り上げれば、就活生向けのキャリアデザインの授業や、社会人向けの転職活動ガイダンス、求人企業が社内で面接官を担当する社員向けに行う研修・勉強会のネタにも使えるだろう。

「これは2008年にJAXA(日本宇宙航空研究開発機構)が10年ぶりに宇宙飛行士を募集したとき、研究職のバックグラウンドをもつ候補者と、面接官との間でなされた面接選考のやりとりです」といって、下のスライドを示す。実にひりひりするやりとりだし、宇宙飛行士だと、みんな興味本位で食いつき良さそうではないか。

採用面接のケーススタディ、志望動機を問うオーソドックスなやりとり(クリック or タップすると拡大表示)

Caserecruitmentinterview

真っ先に思い浮かぶシンプルな使い方は、求職者向けの就・転職活動ガイダンスで、職業理解、募集ポジションをきちんと理解して応募しないと、面接でこんな窮地に立たされますよーとか。

求人企業の人事が、面接官を担当する社員向けの研修に使うなら、「志望動機を問うことで、候補者の何を確認したいのか」「どういう回答によって、どう本気度を評価するのか」話し合ったり。あるいは、ここで答えに窮する人を必ずしも「不採用」と即決するのでなくて、「募集ポジションの仕事理解が不足していても、こちらから入社メリットを訴求して口説くアプローチだって考えられるよね」というような認識合わせに使うこともできる。「カジュアル面接の段で、こんなやりとりは御法度よ」と注意を促すのに使うやり方もありかもしれない。

あまりにいろんな目的・ゴールに使える素材なので、ここで深追いはしないけれども、自分ごと、自社の現場ごとに落とし込むパーツとして、いろんな用途に応用展開できるケースだなぁと、ひとり道草を楽しんでしまった。

終わりに。我らの仕事にもぞんぶんと応用がきくという実利をそっちのけても、この一冊には宇宙飛行士の選考試験に挑む人たちの魅力がふんだんに詰まっていて、ぐいぐいと読ませる。そして最終章は泣いちゃう。

仕事、職業、キャリアというものの価値を、安易に狭く価値づけして畳んじゃ人生がもったいない。仕事が何を指すか、世の中の見解が統一されることはないだろう。とりわけ、こんな概念のカオス環境では難しい。

でも、仕事にも職業にもキャリアにも、尊い光を当てた解釈は許されるはずだ。一人ひとりの人間がそれぞれに、社会とのつながりの中で自分の人生の時間を使って何の役割を果たしたいかとか。社会基盤を舞台として見立てたときに、どういうふうに壇上の役割を演じる使命感がうごめくかとか。

そういうことを自分の言葉でつむいでいくようなのがキャリア形成であり。そういう時にむにゃむにゃした思考の彷徨いというのは、あんまり形式ばらずに、既存の概念的なフレームワークに押し込まれて結論されることなく、もっと開放的なのがいい。人間なんて、will、can、mustのベン図に整理整頓されて何十年と行儀正しく生きる生き物じゃないのだからさ。はぁ、まとまらないまま終わるさ。

* 大鐘 良一、小原 健右「ドキュメント 宇宙飛行士選抜試験」(光文社新書)

2025-01-26

人生は短いか長いか、セネカの「人生の短さについて」

光文社の古典新訳文庫から出ている、セネカの「人生の短さについて」を読む。古典も古典で、セネカは紀元前1年の生まれ。今から2千年前を生きた古代ローマ帝国の哲学者なのだけれど、書かれていることの現代への通じっぷりが半端なくて、示唆に富んでいる。

人間がいまいち「時間」と上手くつきあえず「人生」を生きて死ぬ悪戦苦闘を、二千年続けてきた感をおぼえる。翻訳者の中澤務さんが、初心者にわかりやすく言葉を編んでくれていることも大きいのだろう。

人生は長いか、短いか。

「人生は長い」と聞くことはないが、「人生は短い」とはよく聞くフレーズだ。これは昔も今も変わらぬようで、セネカは冒頭「ひとの生は十分に長い」と始める。「人生は、使い方を知れば、長い」のだと説く。

われわれは、短い人生を授かったのではない。われわれが、人生を短くしているのだ。われわれは、人生に不足などしていない。われわれが、人生を浪費しているのだ。

どう浪費しているか。「人生」というと大きすぎるが、「時間」に置き換えてみるとわかりやすい。

だれもが、ほかのだれかのために、使いつぶされているのだ。

あの人のこと、この人のことばかり気にかけて、自分のことには気にかけないで時間を過ごしている。

自分の土地や金銭を、安易に人に譲ったりはしない。自分の財産を管理するときには倹約家なのに、自分の時間を使うとなると浪費家に変貌する。時間は目に見えないから、無頓着になる。そうして、いろんな人に自分の時間を明け渡して「多忙な人間」になっている。

私自身は今「多忙な人間」ではないが、そこそこは多忙に過ごした時期を経て今。多忙に過ごした時間も、今の静かな閑暇も好きだし、愛おしく思っている。

今は静かなので、自分の声がよく聞こえる。自分の時間を過ごしている感覚がある。仕事している時間も、自分のための時間を使っている感覚がある。それは私の中で両立する。私はもともとそういう感覚で仕事もしてきたのだが、いよいよシンプルに合一した。

自分の時間を過ごすというのは「怠惰に過ごす」こととは違う。

あなたの人生のうちのかなりの、そして間違いなく良質な部分は、国家に捧げられた。これからは、その時間を少しでも自分のために使いなさい。

わたしは、あなたに、怠惰で退屈な休息を勧めるつもりはない。あなたのうちにある生き生きとした活力を、惰眠や大衆好みの娯楽に浸せと言うつもりはない。(そもそも、そんなものは休息ではない。)そうではなく、あなたは、そこに大切な仕事を見いだすことになるのだ。それは、あなたがこれまで一生懸命に果たしてきたどの仕事よりも、大切な仕事だ。あなたは世間から離れ、心静かに、その仕事に取り組むことになるのだ。

へたな危険、へたな重責を背負わず、大切な仕事に戻ること。心静かに、大切な仕事に取り組んで暮らしていけたらなぁと思う。その仕事が何なのかは巡り合わせ次第で、未来は不確かなもの。そういうものと受け止め、今を大事に重ねていけたらいい。

巻末の年譜をみると、セネカが「人生の短さについて」を執筆したのは48歳頃。つまり2千年を超えて今の私と同世代、どうりで話が合うはずだわ。波乱万丈すぎる生涯を生きたセネカに共感をおぼえるのは軽薄な気がするけれど…、今の私の「時間」への向き合い方によく馴染んだ。

*セネカ(著)、中澤務(翻訳)「人生の短さについて 他2篇」(光文社)

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