2026-03-09

50歳になった

これまで年齢の十の位が変わる時にも、それほど気負いなく誕生日をまたいできた気がするのだけど、さすがに自分が50歳というのは、ちょっとインパクトがある。が、そういうことになった。

早生まれなので同級生は一足先に50代にあがっているし、ちょい上の兄さん姉さんがたもご活躍なので、その後をついていく心強さはある。

一方で、「自分の道をゆくのは自分だけ」ということもわきまえているお年頃。私は脱サラして相当のんびり自己流で暮らしているので、自分なりの清閑な成熟の道をゆかねばと気の引き締まる思いもある。

昨日までは40代だったわけだが、この十年をかけて、今ここにあるものに感謝すること、もうここにないものを求めないこと、私に遺してくれたものを大事に育むことに精進した気がする。おかげさまで、ずいぶんと自然体で潔く五十路の入り口に立っている気がするが、どうかな。自分の評価というのは当てにならないものだ。

五十路初日、すこし前に読んだ「アイデンティティの心理学」*を再び手に取った。哲学者の森有正さんの、こんな言葉が引いてある。

本当の孤独というのは、経験──他人によって置きかえることのできない経験そのものであって、孤独であるということが、つまり、人間であるということだと、思うのです

「人間を生きる」となれば必然的に「孤独を引き受ける」ことになる、とも解釈できようか。

「経験する」ということは確かに、どんなに同じ時間、同じ場所で、同じような体験をしたとて、他の人とまったく同じということがない。人それぞれに違う「経験」をしていることになる。とすれば「経験する」には「孤独」を切っても切り離せない。それに「生きていくとは、経験することだ」と継げば、「生きていくとは、孤独を引き受けることだ」とも、個人的にはすんなりつながって見える。

これは、他人の経験をいくら聞いたところで、また他人が教えてくれる理論、フレームワーク、概念知識、ノウハウ、事例、教えの数々を要領よく頭に入れたところで、自分の感覚と経験を通して時間をかけて獲得しなければ、大事なことほど自分の何にもならないという話にも通じている。

自分の経験に孤独さ(あるいは独立性)を認めることで、見えてくる自分がある。認めることなくして、自己には出会えない。そういう話でもある。

私の解釈は、独立性、自律性、自立心といったものとグラデーションでつながっているような「孤独」なので、上で説かれているものより、ずっとあまっちょろいものかもしれない。

でも森有正さんの次の一節は、たぶん50歳になった今だからこそ、しみわたるように解せるのだ。

ひとつの生涯、あるいは一個の自己というものが、どれほどの生々しい凄惨な現実をそのうちに蔵していることであろう。それを徹底的に味わい尽くし、感じ尽くさなければ、一応形式的に確立された経験も形骸に過ぎぬものとなり、人生は酔生夢死に等しくなってしまうだろう。

これを心して、五十路を大事に生きねばなと。

ちなみに40代最後の昨日は、毎週末恒例の父との映画館。ついに父と一緒に観た映画が150本に達した。つまり、この習慣を始めて丸3年ということだ。

晩にはふと思い立って、久しぶりに母の写真を取り出して眺めた。そしたら、なんだかぽろぽろ涙がおっこちてきた。自分でも不思議だった。挙げようと思えば理由はいろいろ思い浮かぶ、どれか一つということもない。ただ、彼女は59歳で亡くなったから、自分が50代に足なみそろえる段になってみると、そりゃあ、きつかったよなぁ、という思いがめぐったのは確かだ。大切に生きねばな。

* 鑪幹八郎「アイデンティティの心理学」(講談社現代新書)

2026-02-17

年代による違いを世代論の根拠に使う違和感

前回の話ついでに、もう一つアンケート調査結果を論拠に何かを説く文章を読んでいて違和感をおぼえるところを書き表してみたい(面倒くさいやつ)。アンケート調査の回答結果を年代別で比較して「若年層と中年層では、こんな違いがあるんです。だから〜」と展開する文章は、そこらじゅう出回っているが、「年代」による違いを根拠に「世代」論を展開する文章に、毎度違和感をおぼえている。

正直、「だから〜」以降の自分の仮説を言いたい思いが先走って、間に合わせの調査結果をどこかから持ってきているか、それっぽい調査を簡易的に実施したか、いずれにせよ仮説を裏づける検証としては役割を果たせていない調査結果が添えられていると思うことが少なくない。その表れの代表格が本件だ。

ある世代を特徴づける論拠として、私が腑に落ちるのは「今の40〜50代が、20代だった頃に聞いた結果ではA寄り回答が多かったのに、今20〜30代に同じ質問をするとB寄り回答が多い、A寄りは下火だ」という結果から、「今の若者(20〜30代)はB志向だ」と展開するもの。

一例に、マイナビの「2026年卒大学生就職意識調査」(*1)から「大学生が就職先を選ぶポイント」を挙げてみる。一番左側の02年卒をみると「安定している会社」は2割を下回っているが、右方向に視線をずらしていくと、どんどん上がっていって一番右側の26年卒では5割を占めるまでに上昇(画像をクリックすると拡大表示する)。

Mynavi2026employmentattitudesurvey

こういうデータを論拠にして「X世代(今の若い世代)は、安定志向に傾斜か」という世代論が展開されるぶんには、違和感はないのだ。

一方で、こうした経年変化を追わずに、単に今時点で、全世代対象にアンケートをとってみたところ「40〜50代はA寄りの回答が多く、20〜30代はB寄りの回答が多かった」という調査結果を論拠に、「X世代はA寄りだが、Z世代はB寄りだ」みたいな文章を続けられると、え、それ世代は関係なくない?とヤキモキしてしまう。

もちろん、「年代」の意味を指して「世代」という言葉を用いることもあるのは重々承知の上だ。でも文脈上、そこははっきりさせたほうがいいのでは?というところを、意図的にか無意識にか分別つけずごっちゃに使っている文章が散見される。年代と世代の区別がなく捉えていて、ジャンプしているのにジャンプを自覚していないような飛躍をみることがある。書き手がごっちゃなら、読み手の理解もごっちゃになる。世代論を語りたいなら、書き手はそこをごっちゃに述べちゃいかんだろうと思うのだ。

一つ前の話でも取り上げた金間大介さんの「無敵化する若者たち」(*2)から例を引くと。この本の中には著者が行った「5年後の幸福度調査」の結果が多く掲載されており、下のように、年代別で示した「総合的に見て、これからの日本社会は良くなると思うか」とか「今いる状況に対して、『このままでいいだろうか』と漠然とした不安を覚えることがあるか」とかの回答結果を論拠に、若者たちについて話を展開していく。これが、どうも腑に落ちない。

Surveyhappinessofyoungpeople5yearslater

「年齢によって、AかBかって違うよねぇ」とか「若くなるほどA寄りだね」とか「若い頃はA寄りだけど、歳を重ねていくとB寄りに変化していくってことかな。そりゃ今の若い人がどうなるかはわからないけどさ」みたいな年代差の話にとどまっていれば、もやもやはしない。

上のグラフなら「20代が、これからの日本社会が良くなると思えていない傾向が顕著だ」とか「年齢が若くなるほど、悲観的だ」とか。下のグラフなら「20代で、漠然とした不安を覚えることがある傾向が顕著だ」とか「年齢が若くなるほど、不安を覚えている人が多い」とか。それは、私もそう読むのだ。

しかし、これが「Z世代の特徴」なのか、Z世代とか関係ない「若者全般の特徴」なのかは、この調査では測れていない、よな?

若い頃というのはそういうもので、X世代だって若い頃は悲壮感や不安感が高かったし、Z世代も歳を重ねていけば、今の40〜50代に近しい回答率に近づいていくやもしれない、もちろんそうじゃないかもしれない。そういうことは、この調査では測っていないから、わからない。この調査単体で言えるのは、そういうことだと私は思っているわけなのだが。

あるいは著者も、そう分別して書いているのかもしれない(たぶんそうなんだろうとは思う)のだが、このグラフの後、下のように文章をまとめて次の節に移られてしまうと、

結果は、やはり学生を含む20代の日本社会に対する悲壮感や不安感が際立つ

なんだろう、この「無敵化する若者たち」という書籍に通底する文脈上、世代論を語っているように受け取れてしまって、腑に落ちないのか。それは一読者の私が勝手に、ここに至るまで暗黙的に「世代論」の本でしょと思いこんで読み進めてきてしまったがゆえの、こちら側の落ち度なのかもしれないが。

しかし、この本に限らず、いまいち特定世代の特徴を語りたいのか、特定年齢層の特徴を語りたいのか、焦点が定まらないままデータをもって足場が組まれ、そこに発信者の持論(提案やら問題提起やら、取り組むべき課題やら)が展開されるケースによく遭遇する。

それがなぜ問題かって、使っているデータがどっち足場かによって、向かうべき課題って方角が全然変わってくるじゃない?って思うからだ。

「Z世代は、昔の世代と違ってこう変わったんです」という話なら、古い世代は変わったことを受け入れて、下手にZ世代のやり方を変えようとしたりちょっかい出して老害を働くなよという論も納得がいく。

しかし、これが「若者はいつの時代も、悲壮感や不安感を覚えがち。それを年配者の導きや支援的関わりもあって、歳を重ねるごとに少しずつ悲壮感や不安感が軽減されていく。それはどうやらZ世代でも同じようだ」という話なら、年配者が若者との接触をできるだけ避けよう、自由にやらせてやろうと関わりを絶っていくのは問題になる。全然、今の若者の救いにならない。

だから私は、この2つ、年代で違うのか、世代で違うのかは、意識的に分けて、取り扱うべきだと思うんだよな。伝える側も、受け取る側も。

単純に、西暦で経年変化を追っているデータからは世代論を読み取り、一時点の年代別の違いを比較しているデータからは年齢段階論を読み取るように、読み手リテラシーを身につけなさいよという話なのかもしれない。つらつら考え書いているうち、私の腑の落ちなさは、とんでもなくこちら側に難があるような気もしてきたが、これも一つの散歩道である。

*1: 2026年卒大学生就職意識調査┃マイナビ
*2: 金間大介「無敵化する若者たち」(東洋経済新報社)

2026-02-10

母の命日、今年は職業人として思い出す

今日は母の命日、他界して15年になる。改めて、おぎゃーと生まれた赤ん坊を成人させるって偉業だよなぁと、こうべを垂れる。母は3人の子育てに加えて、生涯仕事もよくしていたなぁと今年は振り返った。

何かの専門職というわけじゃない。職場の事業内容も、彼女の仕事内容も、40年近い職業生活では時期ごとに様々だった。家の中で工業用ミシンをゴォゴォ鳴らしていた時期もあったが、たいていはマイカー通勤できる職場に出かけていた。新聞にはさまっている求人広告をよく見ていて、そこから平日日中の事務の仕事など、働きやすそうで通いやすそうなのを見つけているようだった。

家庭に入って専業主婦するのが性に合わないことを、はなから分かっていたんだろう。彼女は常に、自分個人としての職場コミュニティをもち、家庭外にも役割を作っていた。末期がんが見つかって亡くなるまで2ヶ月足らずだったから、この世を去る2ヶ月前までは普通に出勤していた。

お葬式には彼女の職場の人たちもたくさん来てくれて、おいおい泣いていた。私もおいおい泣き通しだったので、お礼も挨拶もそうしっかりできたわけではないけれど、親戚や近所の人ばかりでなく、私の知らないいろんな人がやってきて、若い人も年配の人もみんなして泣いている光景を目撃した。彼女は彼女の人生を生きていた、その証を最期に見せつけられたようだった。実にチャーミングだ。

女性が出産・育児期間をもつのを「キャリアの断絶」とか「ブランク期間」とかって呼ばない社会になるといいなぁと思う。親をする個人の側の意識もそうだし、雇用する企業の側も、私のように人のキャリアを支援する立場の人間はもちろん。育児期間をキャリアの「断絶」とも「ブランク」とも思わない、呼ばない、そういう言葉が口をついて出てこない社会が広がっていくといいなぁと。

べつに職場を離れた先で自分の好き勝手に遊びほうけているわけじゃない、むしろ職場以上に責任逃れできない環境で、自分だけでなく他人の生命存在を預かって、命懸けで親の役割を遂行している。それを今は、多くの人が職場の仕事と両立して果たしていたりするわけで、キャリア発達をさせないほうが難しいんじゃないかと思うくらいだ。

なんだけど、なんとなくビジネスと家庭で発揮する能力が縁遠いという思い込みだけで短絡的に解釈して「断絶」だの「ブランク」だの言っているだけなんじゃないか。少なからず、そこには解釈の余地があり、個人差があり、職場差があり、場合によっちゃ、ちょっと言葉をかませるだけで、けっこう簡単に接続できるのではないか、そうも思ってしまう。

岡本祐子さんの「中年からのアイデンティティ心理学」という本にある一節は、我が意を得たりの名文だった。

育児体験によって培われた他者への気配り、人ひとり(あるいは数人を)成人させるという体験によって養われた、あらゆる局面の物事に対する力は、子育てが終わった後、新たな役割を獲得する上で、重要な役割を果たすのではないだろうか。

子育てほど、人類が連綿と引き継いできた尊い営みもないだろうと思う。だから、出産・育児期間を本人が卑下したり負い目を感じてしまうことがない社会通念みたいなものが健全に育まれていくといい。

もうすこし気負いや不安なく、子育てを一段落した女性が職場に重心をおき直したり再就職を検討しやすくなるといい。これから子どもを産み育てたいと思っている人たちも、先々の職場復帰や仕事の両立にまで不安をおぼえずに、意気揚々とそれを選択できるようになったらなと思う。

下の表は、先ほどの本の中で紹介されていたもので、子育てを通じて親の側に成長・発達がみられる6因子だ。

まだ粗削りだけど、一応キャリアの棚卸しシートっぽくしてみた。項目(主なもの)をみながら、過去自分比で「自分は育児経験を通じて、こう変わったなぁ」と思うものに丸をつけて、関連する思い出をメモっていくと、ちょっとした「育児経験によるキャリアの棚卸し」に使えるかもしれない。

親となることによる成長・発達に関する6因子(画像をクリックすると拡大表示する)

6factorsrelatedtogrowthasparent

これって、組織側の視点にまわってみると、中年期・ミドル層の社員らに発揮してほしい能力特性のド真ん中を突いている気もするのだ。となると、これは「育児経験で培われるポータブルスキル」の一覧とも言えようか。

ここには危機管理系の能力が明示はされていないけれど、その辺りもそんじょそこらの職業経験者には負けない研鑽を積んでいる猛者が、育児一段落した転職組にけっこう潜んでいるのではないかとも思う。

ともあれ、短絡的に「断絶」とか「ブランク」といったラベルを貼りつけずに、個人でも採用担当者でも行ける人から、新鮮な目をもって「育児経験を通して培った経験・スキル」を再解釈し、中年層のキャリアの道筋を開拓していけるといい。

ご近所での、「あの人はいい人、温厚な人、包容力がある、情深い、人間ができている」にとどめておかず、その評価を別の言葉で掘り下げ、ビジネスシーンに接続させ、往来して道を踏みならし、発揮どころを広げていく。その余地は大いに残されている気がする。

 と、まぁ、こういうことをあーだこーだ考えているから話がとっ散らかるのだ。ともかく日常話に紛れこませて、しれっとごちゃっと、ここにまずは置いておく。

* 「親となることによる成長・発達に関する6因子」(柏木、1995)は、幼児をもつ親との面接および自由記述から具体化して作成した質問紙調査によって導き出したもの
* 岡本祐子「中年からのアイデンティティ心理学」(ナカニシヤ出版)

2025-12-31

役に立つことに、意味がある

今年の夏に公開したスライドが、Speaker Deckの「2025年最も視聴されたスピーカーデッキ・プレゼンテーション」に選ばれていた。わたしは自分が作ったスライドをネットで共有したいとき、ここ数年はSpeaker Deckというスライド共有サービスを使っている。そこが年末に公開したブログに、自分のスライドが紹介されていて驚いた。

Speaker Deckは英語を母語としたサービスだけど、上の一覧で取り上げられた他のスライドを見てもfreeeとかメルカリとかLINEヤフーとか日本語のものばかりなので、国別とか分野別とか、実はいい感じに出し分けていて各国に大勢の「最も」さんがいるのかも?とか、そもそも日本語が母語のユーザーが圧倒的に多いサービスなのかも?とか、何個のうちの「最も視聴」なのかもよくわからないのだが。

隠居生活に片足つっこんだような個人事業主のスライドを、こんなところで年末に取り上げてもらえるとは、お情けでもご褒美でもありがたい気持ちだ。

これをきっかけにX(旧Twitter)で話題にしてくださる方もあって、夏には届かなかった人たちが今、「40代以上に共有したい中年期のキャリア論」を見にきてくれている。ここ2日くらいでビュー数が1万以上も増えて、全部で6万ビューを超えた。インターネットすごい。

盆暮れ正月、すこし長い目で自分のキャリアを考えてみるのに、ちょうどいいかもしれない。何かに役立ててもらえたら、それこそが最も嬉しいことだ。

振り返ってみると、今年はキャリアカウンセラー的な研鑽を積む機会が多めだった。背景事情を明かせば、今年がMBTI認定ユーザーの、来年が国家資格キャリアコンサルタントの5年おき資格更新時期で、それぞれに何十時間と講習を受講して課題を修めねば資格剥奪というタイミング。どちらも何度目かの更新なので、1年くらい前から受講スケジュールを組んで取りかからないと、後がつらいことを承知していた。

こういうのは研鑽の契機ととらえて前向きに臨むが吉である。資格更新講習の他にも、興味を覚えたあれこれを本読んだり勉強しているうち、5年前とはまた異なる自分の関心事に気づいたり、自己洞察を深める機会にもなった。上のスライドに込めた生涯発達心理学も、そのうちの一つ。ミドルシニア層のキャリア支援というテーマに関心を深めたのは、ここ数年のことだ。

興味に任せてあちこち行き来していると、頭の中であれとこれがつながって、ぐんぐん理解が進むような、どんどんとっ散らかっていっていくような。今年は脳内でよく迷い道したなぁと振り返る。

インプット活動って、自分の身の丈やキャパシティにあわせてインプット量も内容も調節しないと、全然ものにできない。

自分なりに咀嚼する、自分なりの理解や考えを整理する、自分の持ち場でどう役立てられるのかを考える。考えたことを人に伝えてみる。考えたことをやってみる、自分のうちに編み込む作業がないと、何ともならないのだった。そんな当たり前のことを改めて身に染みて再確認したのも今年の収穫か。身の丈、身の丈。

終わりに、今年読んでよかった本の筆頭格、東畑開人さんの新書「カウンセリングとは何か」から一節を。

これは「ラポールについて」というミニコラムの中の文章。「ラポール」というのは、カウンセラーと相談者の間で結ばれる信頼関係のことで、カウンセリングに携わる人なら最初に教わる基本的な概念だ。

二人の信頼関係を築くことなしにカウンセリングは深まりようがない。まずは信頼関係を築くこと、それを基盤にしてカウンセリングは次の段階に進められるのだというふうに教わる。

最近だとビジネス文脈でも、上司の部下への関わり方、1on1のノウハウなどで「まずはラポール形成が大事」なんて文句を見聞きした方もあるかもしれない。

じゃあ、入り口でどうやって信頼関係を築くのだ?というくだりで、私はこの文章に大いに賛同した。

通常それはカウンセラーが受容的で、共感的な態度をとることで成立すると書かれているのですが、僕は違うと思っています。「役に立つ」「このカウンセラーは使える」、この感覚があってはじめて、ラポールは生まれてきます。そのためには実際に役に立つアセスメントをし、介入をする必要がある。信頼というのは、人柄とか、人徳とかから生まれるわけではないのが大事です。的確なアセスメントと具体的な対応から生まれる。

役に立つこと。最初からきちんと「役に立つ」、使い終えたら潔く「過去の人になる」。公私を問わず、私はそういう潔さでやっていきたい。今年は今年、来年は来年の。そして今年ご縁があった方に、心からの感謝を胸にして年を越します。良いお年をお迎えください。

* 東畑開人「カウンセリングとは何か 変化するということ」(講談社現代新書)

2025-12-08

人間は心の脆弱性に対して無防備で

話題の東畑開人さんの新書「カウンセリングとは何か」の中に、カウンセリングが求められる現代の像、社会の変化について言及するところがあった。

近代以前、お互いが名前を知っているような小さな村落で暮らしていた頃は、宗教の役割が大きかったし、治療においては霊的な治療、社会的支援といった「問題を外在化する」治療(というか介入)アプローチが機能しやすかった。

これが近代以降、科学が発展してくると、現代医学の身体的治療、カウンセリングといった「問題を内在化する」治療アプローチが、機能しやすくなってくる。

社会や他者、霊や神の差配といった「外側」に原因の所在や治療・介入策を求めるのではなく、当の本人、個人の皮膚の「内側」の身体や心に治療すべき箇所を見出す。

表に整理すると、下のような感じ。個人主義の現代社会では、カウンセリングを含む「問題を内在化する治療」が、打ち手として機能しやすい。

医療人類学者アラン・ヤングが対比した2つの治療アプローチ(画像をクリックすると拡大表示する)

Externalandinternaltherapy

個人主義がうたわれ、「自分の生活スタイルや人生行路を自分で選んで決めていく」個人の生き方が尊ばれて久しい。となれば、それと引き換えに「自分の答えの出し方、それに納得して生きていく孤独と自立」が個人課題として立ち上がってくるのは当然のなりゆき。

そのわりに、人間は心の脆弱性に対して極めて無防備なまま。最近いろいろ学び直していても、そのことに思いふけることが多い。

この本の最終章に、ふたたび第1章に書かれていた上の話題に帰ってきて、一冊の本を結んでいたのも印象的だった。

神がいなくなり、王も貴族もいなくなる。僕らは自由な個人になった。その分、世界はひどく不確実になり、流動的になった。だからこそ、人は身分でも、宗教でもなく、自分の物語によって自分を証明することになり、人生行路を決めていくことになる。これが個人です。こうして生まれた個人たちの集合体として社会を作っていく。

「これが個人です」という言葉が、「個人主義」の現代社会を背景にして、ずしんと脳内に響いた。

著者は最後の最後、こう締めくくっている。

カウンセリングとは、近代の根源的なさみしさの中で、人が可能な限り、正直に、率直に、ほんとうの話をすることを試み続ける場所である。

私は「カウンセリングとは」を外しても、こういう場所が社会のそこここに、広くも大きくもなくていいから一人ひとり個々人の身近にあることが大事だろう、と読んだ。著者も、想いをともにしているように読めた。

私たち昭和生まれの現役世代の中には、全員とは言わずとも、親世代、祖父母世代、あるいは自分より少し上の先輩たちから、こういう場所を与えてもらった人が少なくないと思う。可能な限り、正直に、率直に、ほんとうの話をすることを試み続けられる場所。

そうした人との関わり方を上世代が与えてくれた営みを大事に受け継いで、次の世代に引き継いでいかなきゃいけないのではないかって、最近よく思う。「若者に対して老害は働きたくないから」といって、あらゆる継承を無責任に自分世代で断ち切ってしまうことなく、自分が先代から与えてもらった(自分が)良い・素敵・楽しい・面白い・美しいと思うものを、ここで改めて振り返って、バトンを渡してみること。

先代より、もっと前から脈々と伝承してきた人の営みとか、場とか、人づきあいといったものを次の世代にも伝えていくことって、難しいからこそメディアにはできないことで、目の前で直接関わる人間にしか、腰をすえて長く関わっていく人間にしかバトンを手渡せないものじゃないかなと。それは、ある世代とある世代にはさまった世代の役目として中年が果たしてきた大事な務めではないかと。老害回避が全盛の世の中を前にして、あまのじゃくに思ってしまうのだった。

まずは伝えてみて、見せてみて、共有してみて。それから、それをどう取捨選択するか、どう応用したり断ち切るかは、若い世代が決めたり試行錯誤することであって、引き継ぎ元の自分たちが決めることではないのではないかなぁと。そんなことを思いながら、いくらか厚苦しく、自分なりに細々若い世代と関わっている。

* 東畑開人「カウンセリングとは何か 変化するということ」(講談社現代新書)

2025-08-20

誰かの何かになるかもしれない、ならないかもしれないことを共有すること

ふと、吉本ばななが足りないと思い浮かぶことがある。そういう合図にはきちんと応じて、後回しにせず読むのがいい。いつからかそう強く思うようになって、今回は新作短編集の「ヨシモトオノ」を手にとった。

岩手県の遠野地方に伝わる逸話や伝承を記した説話集、柳田國男の「遠野物語」から100年ちょい経った現代の、吉本ばななによる「遠野物語」ということ(だが、まだ「遠野物語」を読んでいない…)。

この“不思議”の短編集、中ほどに「光」という作品があって、書き出しが「この話だけは少しトーンが違う。それは、実話だから」と始まる。

私は、これを読んでおいて良かったなぁ、ぎりぎり間に合った、巡り合わせだなぁと読後に思った。

というのは先週、SpeakerDeckというスライド共有サービスに「40代以上に共有したい中年期のキャリア論」と題したスライドを公開したところ、想像をはるかに超える多くの方が見てくださって、驚き、恐縮し、びびってしまったからだ。

あげた初日に200ビューくらいの数字になったので、自分がSNSでシェアした友人、知人以外にも見てくださる方があったのだろうなぁ、ありがたいなぁなどと思っていたら、あれよあれよという間に呑気でいられない数にのぼり、一週間足らずで4万ビュー超えに。

百から千に単位が変わったあたりで、あぁ、これはもう、あとはボコボコに叩かれる覚悟を決めなきゃいけないやつだ。私のような普通の町の民が手ぶらでコメントを読みにいったら、ケガしてメンタルやられて立ち直れなくなる展開だ。と思い、しばらく、また別の小説を読みながらひっそりと暮らすことに。

そんな弱気なら最初から共有するなよ!と思うだろうけれども、ただの町の民といったって、そう心中は単純に作られていないのだ。ちっぽけな自分には「できないこと」だらけ。そういう自覚は深くありながらも、そんな私にも「共有したいこと」はあるし、「自分ができることをしたい」という思いもある。普通の人間とは、そういう生き物ではないか。

この事態に遭遇する本当にちょっとだけ手前で、私は「ヨシモトオノ」を読んだわけなのだった。とりわけ「光」は、私の動揺を抑える支えとなってくれた。

できないことはできない、どんなことがあってもできないからできることをするしかないんだ、なぜなら自分はちっぽけで弱い一人の人間に過ぎないのだから。だとしたら不完全で未熟な私にできるのは書くことしかない、書いて少しでも何かに触れて、それを人と共有することだけ。それを知ったことは大きなことだと思う。

不完全で、できないことだらけの自分。だからこそ自分ができることを丁寧に、それに集中してやる。まじめに、熱心に、やってみることだ。できないことを割り切るぶん、自分ができることを精一杯やることができれば健康だ。

そうして作ってみたそれを人と共有したとき、誰かの何かになるかもしれない。ならないかもしれないけれど、共有した先の、その人の力をもって、自分の想定や期待を超えて、何かに役立ててくれるかもしれない。

個人の世界の中では解決できない、もっと大きな因果の中で人は生きている。小説なら弱い私自身よりももう少しだけ大勢を、もう少しだけ励ませるかもしれない。あくまで気づくのはその人で、自分の命の力をよみがえらせるのはその人だけれど、きっかけになれる可能性はなくはない。だから、こつこつ書くしかない。

私には小説など書けないけれども、吉本ばななさんが「小説なら」とするところ、私は「インターネットなら」と読み替えて、そこに可能性をみてしまう。次の文章が「インターネットは広くて愛情深くて、小さな私のスライドを、遠くまで届けてくれる」というように脳内で変換される。

小説は広くて愛情深くて遠くまで行ってくれる。もしかしたらたんぽぽの綿毛のようにふわふわと自由に飛んで、誰かの心の闇に根づくかもしれない。知っている人にうまく届かなかったその種も、もしかしたら偶然の采配で全く知らない誰かに届くかもしれない。その種は私の顔をしていなくて、宇宙からふと飛んできたものであってほしい。

自分ができること、誰かを思いやること。小さくとも確かなそれを、自分の力の及ぶかぎり手元で丹念に形にして届けることをあきらめなければ、ただの町の人の力でも、自分を活かし、周囲の人に活かされ、「もしかしたら偶然の采配で全く知らない誰かに届くかもしれない」。

いろんな人がいるからそれぞれの持ち場で人類は世界を回していく。一番大切なのは自分の持ち場を正確に知ることだ。

私は私の持ち場で、できることを丁寧にやっていきたい。いやぁ、もうさ、吉本ばななさんが同時代に生きていてくれて、私の先を歩んでいてくれて、物語を何十年も作っては世に送り出し続けてくださって、感謝しかない。歳をとるほどに、小説家が自分に何をしてくれているのかがわかるようになってきて、そういうのを感じると、年をとることって本当に悪いことじゃないし、感慨深いものだなぁと思う。

* 吉本ばなな「ヨシモトオノ」(文藝春秋)

2025-07-30

アーチ状に「人間の生涯」を描くとき、頂上の年齢は?

アーチ状に「人間の生涯」を描くとしたら、人生が終わる年齢を何歳に設定するだろうか、アーチ(橋)の真ん中、頂上のところに何歳をもってくるだろうか。

17〜19世紀にかけて、人間の生涯をアーチ状に描いた類似の絵図が、フランスでも日本でも残されているという。遠く離れたフランスと日本の絵を比較してみると、なかなか面白い。

フランスと日本の絵、1点ずつ挙げてみる(いずれも画像をクリック or タップすると拡大表示する)。

一つ目は、1817年頃に制作されたフランスの木版画(仏画)。

Lestempsdelavie

フレデリック・マゲ「人間の生涯」 | Histoire par l'image

次の日本画は、おそらく18世紀に制作された(1760年に修理を行なった銘があるため、それ以前)。熊野信仰を広めるために描かれた絵解き用の宗教絵画で、戦国時代から近世にかけて流行したそう。

Kumanokanjinjikkaimandara

熊野観心十界曼荼羅 | 西大寺

いずれも、人間の「誕生から死まで」を含んで描いてある。仏画は左から右へ、日本画は右から左へ、進む向きは逆なのだが、アーチ状に描かれた人生航路にそって歳を重ねていく構図は一緒。年齢段階ごとに男女を配していって、誕生から死までの人間の生涯、それをとりまく世界観を描写している。

これを教えてくださったやまだようこ先生が著作*で強調するのは、日仏の絵ともに、アーチ状の頂点を「中年期」に据えていること。アーチ状だから必然的に、それより前が上昇方向になり、それより後が下降方向に描かれることになる。

これを現代と比較して著者は、こう指摘する。

高齢化社会といわれる現代のほうが、人生を眺める時間軸が狭く、若さを過度に強調し人生後半を軽視している

仏画のほうは明確に「10歳刻み」、左から昇っていって一番高いところが「50歳」。各年齢に応じた態度、容姿、衣装の男女ペアが登場し、右下へ下っていくと最後は、段を降りたところ臨終間近とおぼしき100歳が、ベッドに横になっている。徹底して男女ペアなのも仏画に特徴的だ。

日本画には、これは何歳といった表記はない。男女の描き分けについては、やまだようこ先生の日本画の読み解きに、なるほどと思う。

子ども時代の性は明瞭でないが、青年期から中年期では男女が交互に描かれ、後半は再びモノセックスになり、老年期には孫らしき子の手を引く像がある

仏画の、規格化されたような男女ペアの描きようと比べると、日本画の、この性別のほわっとした扱い(ながら絶妙に意味があって、そうしていそうな感じ)が、私には「でも、なんか、わかる」と思うところあって興味ぶかかった。

この山なり、何が高いことを意味するのかでいうと、「能力の高さ」というより「社会への関与度の高さ」と解釈したほうが良さそうである。中年期が、一生の中で最も社会に高関与。

現代知識をもちこめば、能力の高さは、青年期なり中年期なりを境に下降していくものもあれば、80歳くらいまで一定レベルを維持し続ける知能もあることがわかっている。

そもそも、分かりやすく得点化できる能力の高さだけを指標にして、上だの下だの相対的な位置をつけたり、上昇だの下降だのの角度に心中穏やかざるものを抱え込むのは、あまりに貧相だ。

多様化、多様性社会と騒ぐわりに、ずいぶん偏った指標で人の人生を論評し、解釈し、判定を下すふるまいをみては嘆きたくなることままある昨今だが、高齢化社会といったら、そんな思考枠組みから一刻も早く脱したほうが生涯豊かに暮らせるの一択だ。私なりの庶民の心得である。

絵のほうに話を戻して、じゃあ高いほうが「社会への関与度が高い」ってことなら、低いほうは何なのさって、社会への関与度が低くなる一方で「現実社会と一線を画す、超自然的なもの」が色濃くなる。

仏画の下半分をみてみると、中央にある半円形の中では「最後の審判」が行われている。その前景では「がい骨」が砂時計と鎌をもっている。画面の右側には、死にゆく者の枕元に「天使」が立っている。

日本画でも、上のアーチを右から半周していって左の「鳥居」を出たところで、「閻魔(えんま)大王の審判」が行われている。

一生を生き終えた、その人の心や行いによって死後の世界が決まることを暗示している。人間だけではなく、神仏と結びついて絵の世界が成り立っている、これも日仏共通だ。裏返せば、人間の生涯を描くのに、人間だけ描くのでは成り立たせ得なかったということか。

他方、仏画と比べて日本画の特徴的なのは、四季が豊かに描き出されているところ。仏画のほうは、とにかく人間が存在感をもって主役をはっている感じだが、対する日本画は自然描写が明らかに多い。

右の鳥居から入って道すじをたどっていくと、アーチの外側に梅の木、柳の木、桜の木、松の木、杉の木、頂点を過ぎて下りに入ると紅葉、枯れた老木というように、四季の移ろいと重ね合わせて人間の生涯が描かれている。

吉田松陰も「春種し、夏苗し、秋刈り、 冬蔵す」として、四季と人生を結びつける言葉を遺している。

それぞれの季節に優劣の序列はなく、それぞれの季節に固有の価値を見出せるのが人の豊かさ、尊さだ。年齢段階においても、若きにも老いにもユニークな価値を見出せるのが人間だ。単一にしぼらず、多様で多次元的で複眼的な意味解釈の力を、ここで退化させてはもったいない。最近はそんなことを思っては歴史に学ぶところ、尊く感じている。

歴史・文化的文脈を視野に入れると、現代の私たちが当たり前だと信じている発達観を相対化することができる。

やまだようこ先生の著作集を再読しているのだが、いやぁ本当に、人生でこんな本に出会えてよかったなぁと有難く思う。本は庶民にも優しい。

「老害を働きたくないから」と言って、人類が連綿と続けてきた「継承・伝承」の大きな役割の一切合切を放棄して、尊いものを次世代に引き継がず根絶やしにするのも極端すぎるだろう。そこの分別をきかせて若い世代に関われる構えを大切にして働きたい。

* やまだようこ「人生心理学ー生涯発達のモデル」(新曜社)

2025-06-25

トルストイ「アンナ・カレーニナ」の読み応え

ついに、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読了した。上中下巻あわせて2千ページに及ぶ大作で、のんたら読み進めていたら3ヶ月近く経ってしまった。ひと月に1冊ペースだ。しかし、なんだか豊かではないか。

解説によれば、この物語には150人にも及ぶ登場人物があるという。「社会的集団や階層の言語の特殊性に細かい注意が払われている」とあるが、まさしくだ。

伯爵婦人から百姓まで、老いも若きも幼きも、いろんな人がいろんな立場で、いろんな境遇を背負って出てくる。その一人ひとりが自分の言葉で自分の思考を語り、かつトルストイがそれぞれの置かれた境遇を見事に描写し、何を本人がうまく自己制御できていないかも書き暴いている。同情に寄るでもなく、突き放すでもなく、それぞれ個性ある人間の「性」をえぐるようにして書き尽くす筆致は、すこぶる鋭い。当時の貴族社会や暮らしぶり、農事経営、思想、政治と、あらゆる側面を取り込んで描きだす手腕もふるっている。

私はこれを要約する術も、評論する腕ももたないので、ここで解説にあったチェーホフの一節をはさむ。

「アンナ・カレーニナ」が今後とも全世界の人びとに永く愛読されていくであろう秘密を、チェーホフは次のように語っているという。

『アンナ・カレーニナ』には問題は一つとして解決されていませんが、すべての問題がそのなかに正確に述べられているために、読者を完全に満足させるのです。問題を正確に呈示するのが裁判官の役目であって、その解答は陪審員たちが、自分自身の光に照らして取出さなければならないのです

これまで「全世界の人びとに永く愛読されてきた」秘密は、まさしくこの通りなんだろう。時代を経ても、それぞれの時代を生きる読者一人ひとりが陪審員として、この本に向き合ってこそ成り立ってきた価値だ。

これが今後とも「全世界の人びとに永く愛読されていく」秘密として、あり続けるといいなと思う。こうした名作の読書文化が衰退せずに、私のような一般庶民が本屋で文庫本を手にとって、手軽に味わえる世の中が継承されていくといいなと。

「人が生きる」ということを考えるとき、また「自分が生きる」ということを考えるのに、整然と秩序化されたノウハウだけではやっていけないし、合理化だけでは納得できないし、満足だけでは続かないし、退屈ではやっていられないし。

そういうものからこぼれ落ちてしまうもの、人が生きていく上での糧みたいなものが、文学作品の中には詰まっているのだよな。そういうことを、こういう最高峰の名作を読むと実感させられる。

なんだい、その本には「人はなぜ生きるのか」の答えでも書かれているのかね?と問われれば、私はこんな返答をするかもしれない。なぜ人は生きるのかという理由も目的も使命もなくても、人は生きていけるという当たり前のことが書かれていると。まぁ、でも、それも、一読者の、読み終えた直後の、ぽっと出た解釈の一つにすぎない。どんなことを述べても、作品価値を矮小化してしまうようで、自分の内で育むにとどまってしまう。だからこそ、一般庶民にも読み継がれていく文化を尊く思う。

文学作品は、たくさんの彩り豊かな解釈の仕方を、自分のなかに編み込んでくれるようだ。落ち着いて見渡せば「無秩序すぎる世の中」と「何にも不完全な人間」と「矛盾を内包した自分」は、いつの時代も変わらない。それを受容し、解釈し、折り合いをつけながら健やかに生きていく力と意思を育むことは、ここに生まれ落ちてしまったからには一人ひとりにとって、とても大切な術だと思う。少なくとも、この先しばらく、人間が人間ではなくなる時までは。

人は、そもそも愚かで、不完全で、機械的な「ものさし」を当ててみれば狂っているとも言えるような性質を前提に生きている。世の中もまた、無秩序で、不条理やら理不尽やら人間が思うところ多分に含んで運行されている。少なくとも私は、人とも自分とも世の中とも、そういう前提でつきあっていかないと、どうにもならないと思っている。だからこそ人間は、皆で協力して暮らしているんじゃないのさとも思っている。

けれども最近は、それって一般社会で合意形成された常識でもないのだろうかなぁと思うこと、しばしばである。さも、秩序があるかのように、完全を目指せるかのように、矛盾を解消できるかのように見誤る、驕りやら愚かさやらは、むしろ現代のほうがひどくなっているのかもしれない。それもまた、世の中であり人なのだ。

* トルストイ「アンナ・カレーニナ」(新潮文庫)

2025-06-15

「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」の個人的読書メモ

あまのじゃくな性向が災いしてか、たいていのことの初動が遅いのが災いしてか、この中途半端な時期に重たい腰を上げて「生成AI」の入門書を一冊、手に取った。という話は一つ前の話で書いたが、

これが本当に分かりやすくて楽しく読み終えられたので、内容についても個人的なメモを残しておく。

※強調するが、この本に書かれていること(そのまま)ではなく、私の解釈で自分の脳内用に作り替えたメモ

まず「生成AIツールの主な用途」として、私が列挙したのは


  • サマリーやレポートをまとめてもらう
  • アイデアを列挙してもらう
  • コンテンツのたたき台を作ってもらう
  • 調べ物をしてもらう
  • レビューをしてもらう
  • 実行計画を立ててもらう(実行してもらう)

著者の深津さん曰く「文章を作らせるよりも、レビューをさせるほうがいい仕事をする」印象をもっているとのこと(2024年8月時点)。

こうした依頼をかけるときのポイントとして、「〜を考えて」とか「〜を作って」とか、一言で雑な質問をするな!という話である。

じゃあ、どうしたらいいのかという問いかけの基本文型や文例が、書籍では体系立てて解説してあるわけなのだが。

その体系をちょっと崩して、ざっくり私の脳内に接続する言葉に言い換えると、こんな感じである。

ChatGPTに問いかけるときの構成要素。


まず基本として、

1)AIに役どころ(何をやってほしいの?)を示し、
2)文脈(誰向けの、何に使うもの?)を示し、
3)元資料なり参照資料を与え(or 検索範囲を指定)、
4)回答時の形式(目次構成、文字数や段落数、箇条書きや個数など)を指定する

オプションとして、

5)回答までに踏ませるステップを指定する
6)回答サンプルを与える


そうすると、精度高く、少ないラリーで、欲しいものが手に入りやすくなるという話。

1、2を与えれば、目的に適った回答を得やすくなる。
3を与えれば、どこからもってきたかわからない情報だとか誤情報などが混じりにくくなる。
4を与えれば、用途に適った形式で出力されやすくなるというわけだ。

これまでに私も、先行して生成AIツールをビジネス利用している人の話を聞く中で、全然「要件定義」せず依頼していて、それだったら自分で一から作ったほうが断然能率がいいんじゃないか?と思うことが少なくなかったので、ほんと使いようだよなぁと改めて、もぐもぐ味わった次第。

さらにオプションである。5を与えれば、どういう経路をたどってAIがその答えに辿り着いたのかわけわからん、ということがなくなる。「調査分析してから企画立案して」とか、「一般論」を回答させた上で「それに従った個別事案を考えて」とか「その一般論からはずれた個別事案を作って」とか、「複数のアプローチで複数案を出してくれ」とか、そういった回答までの段取りをマネジメントできる。

6を与えれば、与えたサンプルに倣って「言葉選びや表現」を作ってくれる。小学生向けの教材か、法人営業のマニュアルか、個人カスタマー向けのFAQかで、適切な言葉遣いは異なる。サンプルを与えれば、その辺のニュアンスを汲んで新たに作るものも生成してくれる。言い回しや単語の用い方、文章の長さにとどまらず、テイストだ、トーンだ、出力形式も何も、細かいニュアンスを汲んで寄せてきてくれるというわけだ。

この辺を、具体的にどう問いかけたらいいかという文例がふんだんに詰まっていて、わりとさくっと短時間で読めるのもいい。部分的に、使いたいように、自分の日常に取り込めるライトさも良い。

著者2人の掛け合いの読みやすさ、読者を惹きつける構成の妙、具体例の作りの巧さは、前の話でふれた通り。一通り読み終えて、なお「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」*は、ビジネスパーソンの入門書に最適だなと思う。私同様、そろそろ一冊読んでみようかなぁという方は、ぜひ。

* 深津貴之、岩元直久「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」(日経BP)

2025-06-07

教えるとき「基礎を取り出す」構成の妙(ソロ タキソノミーのメモ)

これは本当に分かりやすい!思った「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」。重たい腰をあげて生成AI、LLM、ChatGPTの基礎知識を、と手に取ったが、ビジネスパーソンの入門書に最適だった。著者2人の掛け合いでテンポよく解説する小気味よさ、シチュエーションや活用例の巧さも然ることながら、本の構成が見事だなと感服。

「ビジネスシナリオでのChatGPT」を一章にまとめず、
第3章 ビジネスシナリオでのChatGPT(基礎)
第5章 ビジネスシナリオでのChatGPT
と、2つに分けられている構成の妙に、うなった。

第3章は「サマリーを作って」「FAQを作って」「検索して」の3本立て。「汎用的で(誰でも)、ライトで(すぐ)、ビジネスで役立つ(使える)」基礎をコンセプト立て、具体例を示しながら紹介している。これによって、第1章から第3章までの前半部で読者を小気味よく虜にして、後半に送り出す手さばきが見事なのだ。

すでに学習内容を熟知している著者の立場(先生として物事を教えるとき)って、無意識でいると、この分割になかなか頭がまわらない。無意識に教えるべきことを構成だてていくと、(ごく概念的な知識は別としても)「ビジネスシナリオでの〜」みたいな実践の件(くだり)で基礎部分だけを取り出して一章を立てることに、なかなか思い至らない。

思い至っても、その基礎部分を、この範囲とスコープ立て、これとコンセプト立て、一章として独立的に機能する構成内容を作っていくことが、かなり創造的な、ひと仕事となる。それに価値を見出さないと、やっていられない。これをしっかりやってのけているところに、巧いなぁ!とうなったのだ。

ここに意識が及ばないと、「第3章」に全部入りになっちゃうか「第5章」に全部入りになっちゃうかで、一章に束ねられる。こうなると「目次」として眺める分には、きれいですっきりしているんだけど、学習の実効性としては落ちる。しかし熟知している著者側は、それに気づかぬことも、ままあるだろう。

これは本にかぎらず、講義、授業、セミナー講演などで人に教える場の構成・時間割でも、言えることだ。

「初学者にとっての学びやすさ」という構成指針を取り入れると、どういうふうに学習範囲を絞り、構成要素を分割し、順序立てると良いかの答えが変わってくる。

演習課題を取り入れよう、ワークショップ形式にしようだとかの趣向を凝らすより前に、もっと基本的な骨格づくりの甘さをどうにかするほうが先決では?という現場は少なくない気がする。「実務者による、実務者のための、実践的な講座にすべく、ワークショップ形式」という話し運びだけで基本構成を固めてしまうのは、ちょっと安直である。

人の理解は「浅い理解から、深い理解へ」と段々に進むし、人の思考は「単純な思考から、複雑な思考へ」と段階を踏んで学習していく。

「人の学習段階」を5つにレベル分けして示したソロ・タキソノミー(SOLO taxonomy)は、概念的だが、良い道標になる。

「浅い理解」ステップを踏まずして「深い理解」には至れない。「単純な思考」を踏まずして「複雑な思考」へはなかなか至れないのが、アナログな人間の学習プロセス。

実践的だというだけで、ハイコンテキストな事例そのままに演習課題を与えて「複雑な思考」を求めても、初学者には考える足場がなく学習なしえないのだ(興味をもつことには貢献する場合もあるが)。

一足飛びに「深い理解」「複雑な思考」を求める育成イベントをしかけて、学習効果ゼロに終わることがないように歩みを企てよ!という示唆を、ソロタキソノミーは与えてくれる。

ソロタキソノミー(SOLO taxonomy):参考までに私のメモ的スライド(クリックすると拡大表示)

Solotaxonomy

それにとどまらず、その段階の踏み方を、どう組んだらいいかを考える道標としても使える分類表である。

一方、あくまで道標でしかないという認識も極めて重要だ。実際には「どこまでがレベル1なのか、どこからがレベル2になるか」は各現場で考えなくては仕方ない。実際には、その学習テーマ、その学習者次第ということになるから、仮説立てて、やってみて、検証してみて、手直ししてってサイクルを自分の手元でまわすしかない。

どちらかといえば「どこまでをレベル1と見立て、どこからをレベル2と見立てるか」という表現のほうが、実際的だ。決めの問題なのだ。違ったら直せばいい。

「急いては事を仕損じる」というのは学習においても言えること、急いては学習を仕損じる。最近、人間のアナログ性について、よく思いふけっている。

*深津貴之、岩元直久「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」(日経BP)

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