2021-02-22

Webサイトをつくってきた人々の写真展「Era Web Architects」会期まぢか

3月9日、Webサイトをつくってきた人々の写真展「Era Web Architects」が始まるそうだ。その週末14日までの6日間。以前ここに書いたけれど、恵比寿のギャラリーに自分の写真が飾られるというのだから、それなりに長く生きていると、おかしなことが起こってくれるものだ。偶然にも会期初日は、自分の誕生日でもある。

会期:3月9日(火)〜14日(日)
時間:11:00~19:00(最終日のみ17時まで)
会場:HIROSHIGE GALLERY(弘重ギャラリー)

いまだになんで自分が混じっているのか理由はわかっていないのだけど、写真展の被写体になるなんて今回かぎりだろうから、とにかくありがたく、またプロの写真家の作品展として、私も会場に足を運んで観賞させてもらうつもり。

なのだけど実際問題、自分の写真がどうなっているのかは皆目見当がつかない。とりわけ、この写真が撮影された昨秋など、私が観る私は「色彩を持たない多崎つくる」の彼そのものだった気がして。

人々はみんな彼のもとにやってきて、やがて去っていく。彼らはつくるの中に何かを求めるのだが、それがうまく見つからず、あるいは見つかっても気に入らず、あきらめて(あるいは失望し、腹を立てて)立ち去っていくようだ。彼らはある日、出し抜けに姿を消してしまう。説明もなく、まともな別れの挨拶さえなく。温かい血の通っている、まだ静かに脈を打っている絆を、鋭い無音の大鉈(おおなた)ですっぱり断ち切るみたいに。

腕利きの写真家が、こんな彼を相手に撮影をしなければならなくなった場合、どう写そうとするのだろうかなと。終始おだやかに対応くださって、撮影は早々に終わったのだけど、実のところひどく困らせていたかもしれない。これをどうせぃというのだと。こういう写真展の場合、被写体を2〜3割増しに見せようというよりは、きっと実態をそのまま写しとろうとするんだろうかなぁという気もするし。

とすると、私の写真だけ壁が写っていたりして…などと妄想。それはそれで没個性を通り越して個性的な作品になれるかもしれない。タイトルは「空っぽ」。

まぁおそらく、足を運べばちゃんと自分の姿を認められるのだろう。ただ私は昔から芸術というものを観る眼がないので「自分が写っているな」としか思えず、その意味で自分の空虚を感じ取って帰途につくだろう現実的な予測はある…。ただ他の皆さんの写真は、人物そのもののオーラがものすごいので、私にも何か受け取れるものがありそうで、そこはちょっと期待してしまう。

あれから数ヶ月経ち、彼は「巡礼の年」を経て、確かさを確かめながら、前を向いて歩いている。

おれは内容のない空しい人間かもしれない、とつくるは思う。しかしこうして中身を欠いていればこそ、たとえ一時的であれ、そこに居場所を見いだしてくれた人々もいたのだ。夜に活動する孤独な鳥が、どこかの無人の屋根裏に、昼間の安全な休息場所を求めるように。鳥たちはおそらくその空っぽの、薄暗く静まりかえった空間を好ましいものとしたのだ。とすれば、つくるは自分が空虚であることをむしろ喜ぶべきなのかもしれない。

そろそろ45歳。これで生きていくしかないのだし、これとうまいことやっていくのだ。足るを知り、自分とともに過ごしてくれた人たちへの感謝と、あたたかい気持ちはずっと絶えない。この気持ちがここにあれば、こんなにあったかく、ここにあり続けてくれるなら、この先も豊かにやっていけるかなと思う。

どこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感の持てる容器に。

村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」、きっと読むべくして読んだんだろうな。

2021-02-13

中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円

昨年は4冊か5冊か村上春樹の作品を読んだ。けっこう前に出たもの、最近のもの織り交ぜて。そのときに書き留めたメモが出てきたのを、ちょっとこちらにも残しておきたい。

「一人称単数」は昨年の夏に出た新作、8作からなる短編小説集だ。そうとは言わないけれど、なんとなく全編、主人公のボクは村上春樹本人なんだろうなと思わせる雰囲気が漂う。「一人称単数」とも言っているし。

その中に「クリーム」というタイトルの物語があって、「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」というのが出てくる。老人がボクに尋ねる。「中心がいくつもあって、ときとして無数にある、しかも外周を持たない円を、きみは思い浮かべられるか?」

これは、難しい問いとして設えられている。そりゃ、そうだ。円とは「中心をひとつだけ持ち、そこから等距離にある点を繋いだ、曲線の外周を持つ図形」なのだから。

だけど数学だか算数おんちの私には、わりと一読した最初から自然に、いけるんじゃない?という感覚があった。原理とか自然法則に対する向きあい方みたいなのが生来テキトーだからだろう。

言い方を変えると、そういう言葉の言い回しをもってして老人が伝えたいことは何なのかを汲み取ることのほうに傾斜した言葉の受け取り方をするというか、数学より国語のほうが(相対的に)得意ですというか。

つまり脳内で作られているメタファー的な円であれば、外周などというのは自分の力でいくらでも融かすことができるということ。と同時に押さえておかなきゃいけないのは、私たちは円を無意識に形づくってしまうし、その外周の枠組みにとらわれてしまいやすい生き物だということだろう。

加えて、一つの中心(つまり自分の視点)からものを見るのを基本としていて、他の視点からものをみるというのは、そのやり方と筋力を鍛えないとうまくできないし、身につけたとしても余裕をなくすとうまくできなくなってしまう、危い生き物でもある。

ただ、私たちには確かに想像力というパワフルな才能があって、他の中心に移動したかのように、いろんな中心からものごとを見られる。これはものすごく尊い能力で、生かさない手はないと折りに触れて思う。

私たちは無意識に円を作ってしまうけれど、円を融かすことだってできるし、今は世の中も融かす時期、私も融かす時期。だからごくごく自然なことに受け取れた。

今日久しぶりに、このメモに目を通しているとき、なんで「円」を持ち出したのだろうなという問いが浮かんだ。円の原理にそぐわないものを円といったら混乱するじゃない?(まぁ混乱させてなんぼなわけだが、それはおいといて)

例えば「点」でいいんじゃないか。点がたくさんあって、それが散らばっているだけなら、点はいくつあってもいいし、外周を持たなくて問題ない、言葉とイメージが矛盾なく成立させられるのでは、と。

そうやって考えてみると、私たちは円ならざるをえない個人なんだなということを表しているのかなと思う。私たちは、一個人が点だとすれば、円という360度の広がりをもって環境と関わらずしては生きられない。矛盾が生じる世の中を生きることを避けられない。それを環境(円)として、切り離れずに人(点)は生きていくのだと、そんなことをイメージした。

この物語の最後のほうで、主人公は「原理とか意図とか、そういうのはそこではさして重要な問題ではなかったような気がするんだ」と言う。

それはおそらく具体的な図形としての円ではなく、人の意識の中にのみ存在する円なのだろう。たとえば心から人を愛したり、何かに深い憐れみを感じたり、この世界のあり方についての理想を抱いたり、信仰(あるいは信仰に似たもの)を見いだしたりするとき、ぼくらはとても当たり前にその円のありようを理解し、受け容れることになるのではないかーそれはあくまでぼくの漠然とした推論に過ぎないわけだけれど。

なんとなく、通じているのかなぁと。あくまで私の漠然と受け取ったイメージに過ぎないわけだけれど。

2021-01-19

山口周「ビジネスの未来」が美味だった

ホタテのバター醤油焼きなみに美味だった山口周さんの「ビジネスの未来-エコノミーにヒューマニティを取り戻す」の読書メモ。

山口周さんの本は、事実と分析と主張と挑発と激励が全部入りで、知性と理性と感性と野性と全部詰まって書かれている感じが好きだ。単純なので挑発にのって奮起し、激励によって快い読後感を得る。

導入部の心奪われポイントを走り書いておくと(キャラ全然違うけど)。

ビジネスはその歴史的使命を終えつつあるんだよ。低成長、停滞、衰退だとか、売上・利益が伸びない、株価が上がらない、成長機会が見つからない、新規事業が立ち上がらないとか言うけどさ、「低成長」って言い換えれば「成熟」した状態ってことだろ。「高成長」できる余地があるってのは「未熟」だってことさ。私たちはもう十分に成熟したってことさ。このビジネスゲームは、もう完了しつつあるんだ。

過去200年、いやいや古代から振り返ったって「物質的な貧困を社会からなくす」って使命はもう達成されつつある。古代から2000年に渡ってずっと上昇してきたGDP成長率の推移は1950~1990年にピークを記録した後、下降局面に突入。この先もう一度盛り返す気配もない。私たちは人類史上、初めて経済成長率が上昇から下降に反転する瞬間を生きているんだよ。

そういう自覚がなくって、過去のノスタルジーに引きずられてしまっているのは愚かだよ。私たちは「経済成長」というゲームに不毛な延命・蘇生措置を施すんじゃなくて、このゴール達成を祝祭しつつ、新しい活動、新しいゲームを始めるタイミングにあるんだ。この世界を「安全で便利で快適な(だけの)世界」から「真に豊かで生きるに値する社会」へと変成させていくのが新たな使命なのだよ、と。

ウィリアム・ブリッジズ(米国の臨床心理学者&組織開発コンサルタント)は、「転機をうまく乗り切れずに苦しんでいるケース」には共通して「過去を終わらせていない」という問題が潜んでいると言っているよ。終焉をポジティブに受け容れて、次のゲームに行こうぜ、という話。

これは本の始めのところで話されていて、ただ問題提起するだけでなく、次のゲームってどういうことという話に切り込んでいく。なんか、元気もらったなぁ。

私たちが乗っかっているさまざまな社会システムはやプラットフォームは「成長が当然の前提」となっている1950年代から1960年代にかけて作られたもので、それによって日本の社会ではさまざまな軋轢や齟齬が起きている、現状とシステムの不整合が起きている。

まずは、思考様式・行動様式が「インストルメンタル」から「コンサマトリー」に変わっていく社会を自覚して、頭の中でこねて馴染ませて、自分の思考・行動様式、身近なところの当たり前に見直しをかけていきたい。

インストルメンタル
・中長期的
・手段はコスト
・手段と目的が別
・利得が外在的
・合理的

コンサマトリー
・瞬間的
・手段自体が利得
・手段と目的が融合
・利得が内在的
・直感的

労働と遊びが融合して一体化する見通しをもって、わがごととして考えるべきことは多い。

2020-07-13

村上春樹の「アンダーグラウンド」を読んだ

村上春樹の「アンダーグラウンド」*を読んだ。1997年に出た本で、1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件について、被害にあった62人の当事者たちへのインタビューを行って、実に丁寧にまとめられたノンフィクションだ。

特別、今をねらって読みだしたわけじゃないのだけど、読後に振り返ればカミュの「ペスト」以上に、こりゃ絶妙なタイミングで読んだものだなぁと思った。

本が出た当時の私はちょうど、それまでに出ていた村上春樹の作品をあれこれ読みこんでいた時期にあたると思うのだけど、この本は遠のけて手に取らなかった。村上さんの言葉を借りれば、この事件の「名状しがたい嫌悪感」や「理解を超えた不気味さ」が、当時の私には手に負えないと本能的に判断したんだろうと思う。なにせ20歳かそこらだ。

1995年は、1月に阪神・淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件があった。村上さんは、この2つに共通性を見いだす。不可避な天災と、人為的な犯罪、そうみれば全く別物だけれど、被害を受けた側からすれば両者とも「圧倒的な暴力」であり、「それらの暴力の襲いかかり方の唐突さと理不尽さは、地震においても地下鉄サリン事件においても、不思議なくらい似通っている」「怒りや憎しみの向けようがもうひとつはっきりしない」という、それは被害者の声を読んでみると確かにそのように思う。

私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対して、現実的にあまりにも無力、無防備であった。我々はその到来を予測することもできず、前もって備えることもできなかった。またそこに出現したものに対して、機敏に効果的に対応することもできなかった。そこであきらかにされたのは、私たちの属する「こちら側」のシステムの構造的な敗退であった。

このようなことは、コロナ禍にあって、容赦ない天災も続き、大小さまざまな対立も深まるばかりの25年後、今もまさに私たちが直面しているところだなと思った。

村上さんは事件当時、連日の報道にふれる中で一般マスコミの文脈が、被害者たちを一括りに「傷つけられたイノセントな一般市民」というイメージできっちりと固定してしまいたがっているように感じた。

被害者たちにリアルな顔がない方が、文脈の展開は楽になる。「(顔のない)健全な市民」対「顔のある悪党たち」という古典的な対比によって、絵はずいぶん作りやすくなる。
私はできることなら、その固定された図式を外したいと思った。その朝、地下鉄に乗っていた一人ひとりの乗客にはちゃんと顔があり、生活があり、人生があり、家族があり、喜びがあり、トラブルがあり、ドラマがあり、矛盾やジレンマがあり、それらを総合したかたちでの物語があったはずなのだから。ないわけがないのだ。それはつまりあなたであり、また私でもあるのだから。

これを丹念にインタビュー取材して文章にしたのが「アンダーグラウンド」だ。

事件の前後のことばかりじゃなくて、その人の生まれがどこで、何人兄弟の何番目で、なんて話も描かれている。例えば、牛乳搾取業の牧場に生まれた人の話なんかだと、

牛は一日二回搾ってやらないと、乳がぱんぱんに張ってしまう。だからどこにも行けない。家を離れられない。春夏秋冬、雨が降ろうが槍が降ろうが、ぜったいにやらぬといかぬです。正月もなにも、休みなんか一日もありません。しかし牛乳はほんとうにうまかったね

なんて話が出てくる。またある人は「兄貴は戦争が終わったあと、満州からウクライナのタシケントに送られまして、そこで強制労働をさせられていました」とか。

農家の人、高級車を売る人、呉服卸し業の人、コンピューターソフトを作る人、印刷会社の人、駅員さん、駅の売店の女性…。年齢もさまざま。亡くなった被害者の親御さん、奥さんも出てくる。それぞれの人生もよう、そして村上さんの人物描写を、事件のことと同等、あるいはそれ以上に、ものすごく興味深く読んだ。

こうした一人ひとりの描きこみがあった上で、事件当日が本人にとってどういう一日だったのか(それは本当に、いろんな背景をもった一日だった)、実際どういう目にあって、現場をどう対処して、その後をどのように過ごしてきたのか、その時々でどのようなことを思い、感じ、考えてきたのかが、丁寧にひも解かれていた。

実際には、多くの人が「いつも乗っている時刻に、いつもの電車のいつもの車両のいつも決めている何番目のドアから乗った」わけじゃなかった。その日、たまたまその電車に乗った人がなんと多いことかと思った。家を出るときにこういうことがあって、たまたま一本遅い電車に乗ったというようなことは、決して稀な例外ではない。

それに、たまたま風上にいて軽症で済んだとか、たまたま風下にいて重症になったとか、とにかくよく聴き込んでいくと「たまたま」のオンパレードなのだ。そこから読者の脳裏に自ずと浮かび上がってくるのは、「遭遇者は、誰でもありえたんだ」ということだ。

こうして一人ひとりの話にふれていくと、安易に一括りにするということは、認識を誤り、真実を揺るがすことに通じる、そんな恐れを覚えた。「こちら側」を雑に扱っては「あちら側」も捉え損ねてしまうし、当事者以外の人たちがこの事件に関心を寄せて問題意識を向けることは同時代の私たちですら困難になる。

当時の警察や消防の救助の態勢、要領を得ないふるまいには、少なからぬ批判の声もある。それはそれで見直すべき点が多分にあるのだろうと思う。

一方で、当日現場に居合わせた人たち、大勢の乗客、営団地下鉄(今の東京メトロ)の駅員さん、地下鉄の駅の出口付近で遭遇した人たちの動きをもって考えさせられるのは、警察や消防が機能しない中でも私たち一般市民が当たり前に協力して、助け合える、そこで必要な役割をかって出られることのプリミティブな強さ、社会の健全さというものだ。

当日、乗客はみんなで協力して、タクシーを停めては症状の重い人から順に車に乗せて病院に行かせたり、軽症の人は声をかけあって4人相乗りで病院に向かったりした。

地下鉄の駅の出口付近でやっていた工事現場の人は、具合の悪い人に声をかけ、通りかかる車を片っ端から止めて、次々に被害者を乗せ、病院まで積んで行かせてくれたという。「ワゴンなんかが来ると、そこにどんどん詰め込んでという感じで。小伝馬町の場合は、一般車にずいぶん助けられたと思いますね」という。

警察や救急がないでは安全に社会がまわらないだろう現実はわかっている。だけれども、理想形をイメージするとき、警察や救急の態勢がより万全である社会システムとは別に、警察も救急も法律もルールもなくても市民一人ひとりがそこで必要な役割を演じて立ち上がった問題を回避できる、あるいは最小限にとどめられる方向にも、私の想像はふくらんだ。

もともとそういう志向性はあったのだけど、改めてそういうことを考えさせられたし、その中で自分は果たして、どういう役割を演じられるものか、その場で機動力をもってどれだけ立ち回れるものか、自分の気概のようなものを再点検する機会にもなった。

これらの事実を前にしていると、私たち個人個人が本来的に持っているはずの自然な「正しい力」というものを信じられる気持ちになってくる。またこうした力を顕在化させ、結集することによって、私たちはこれからも、様々な種類の危機的な事態をうまく回避していけるのではないかと思う。そのような自然な信頼感で結ばれたソフトで自発的で包括的なネットワークを、私たちは社会の中に日常的なレベルで築き上げていかなくてはならないだろう。

*村上春樹「アンダーグラウンド」(講談社)

2019-11-04

[読書メモ]インタフェースデザインのお約束

先日ここでも取り上げた「インタフェースデザインの心理学」と同シリーズの新刊「インタフェースデザインのお約束 -優れたUXを実現するための101のルール」を、縁あって頂戴することに。

これまた良書だった。副題にあるとおり「優れたUXを実現するための101のルール」が詰まっている本なのだけど、UXデザインといって「ユーザーに驚きや感動を与えようとする前に、ユーザーのストレスを一掃せよ。話はそれからだ!」というような。んなこと書いてないけど…。

「フォーム」の章に40ページ近くの紙面を割いていたりして、サイトやアプリを使い勝手よく提供するのに欠かせない視点、実装願いたいものの具体的な指摘が勢ぞろい(実装方法がこと細かに書いてある本ではない)なので、ぜひご興味ある方はお手にとってみてください。

「インタフェースデザインの心理学」とは著者は違うのだけど、体裁は共通していて、101のルールが1〜3ページごと紙面を割いて、簡潔明瞭に解説されるテンポの良い一冊。

事例も多く含まれ、「見せて納得を得る」ことに心を砕いているし、最後にポイントが3〜4コ、箇条書きされているのもシリーズ共通のよう。

101各項のポイントが、本当によくポイントをついた箇条書きになっているので、時間のない玄人層はポイントだけ読んでいって、ん?と思うものだけ本文に目を移す読み方でも良さそう。

あと、「〜の心理学」著者のSusan Weinschenk氏以上に、今回の「〜お約束」著者、デザインにかけては純粋主義者(ピュリスト)を自認するWill Grant 氏は、単純明快で単刀直入な物言いをする印象。

まえがきで、

「これには賛成できない」と思えるルールもあるかもしれないが、それはそれでかまわない。なにしろこれは私が自説を披露する本なのだ。

と断りを入れたうえで、中身はばっさり、ぐっさり、小気味よく展開していく。「は、やめろ」「は、やめておけ」「なんて禁物だ」「なんて言語道断だ」「など作るな」「など使うな」が、あちらこちらに。べらんめえ口調?だが、頼れる兄貴的なテンションで読むと、気持ちよく読める。

ご指摘は実にまっとうなベスト・プラクティスのオンパレード感がある。1ユーザーとしては、指摘されるアンチパターンのどれも納得感がある。

作る側として読む立場にあっては、私のように頷いて読んでいるだけではなく、一通りを自分の作るプロダクト・サービスに埋め込んでいかなきゃいけないので大変だろうけど、101のうち、できていることはささっと読んで、できていないことをピックアップして自分の品質チェックリストに取り込んでいくように読めば、ぐっとアウトプットの精度をあげられるのではないか。

知れば簡単に実装できるものも、知ったところで実装するには一手間二手間かかりそうなものも含まれているけれども、知らないでは済まされない観点という意味では、一通りなめておきたい知識だ。

エピローグの章に、「ブランド」になど振り回されるな、という項がある。10億人規模の顧客を擁するグローバル企業のメガブランドと違って、多くのUXデザイナーが手がける「ブランド」なんて、誰も気にも留めないものだと言いはなった後、

ユーザーが着目するのは、あなたの製品あるいはサービスを利用すると何がやれるのか、あなたの製品が暮らしをどう改善し、生産性をどう上げるのか、といった点だ。つまり、あなたの製品(サービス)を利用する際のUXそのものがブランドとなる。そんなUXのデザインを担当するのは、だからマーケティング担当チームなどではなくUXのプロでなければならない。

と、落とすかにみえて、UXデザイナーを鼓舞している一節が印象に残った。

翻訳も安定のクオリティ。図版まで丁寧に翻訳してくれている。「金科玉条」(きんかぎょくじょう)とか、「苦心惨憺」(くしんさんたん)とか出てきて、手練の業を感じた…。感想や誤植もご報告してお役目も果たせた感。今回は、シリーズにして初だと思うけれど、大型本ではなく単行本サイズ。この週末、気楽に持ち歩いて読めました。

2019-10-20

「内容より、まずデザインをどうにかしましょうよ」と推したいときの説得材料

自社のウェブサイトをテコ入れしたいとき、「コンテンツが先か、デザインが先か」という問題が浮上したとする。一気に両方をどうにかすることはできない。優先順位をつけて、「今期はこっちをやって、そっちは来期予算でやりましょう」と、時期を分けて取り組まなきゃいけない、としよう。

そのとき、コンテンツを見直したい勢と、デザインを見直したい勢が出てくる。話し合いは平行線、互いに引かず、根性比べの様相。

とまでややこしい状況じゃなくても、一人の頭の中で、どっち先行で手をつけるべきかを根拠づけなきゃいけないシーンはあるかもしれない。ないかもしれない。よくわからない…。が、もしあったとしたら、次の研究結果は、話し合いを建設的に進める役に立つかもしれない。

エリザベス・シレンスの研究チームが、高血圧症の患者を被験者に、高血圧に関する情報をウェブで探してもらったところ、こんな研究成果が得られた。(*1)

人はまず、信用できないサイトを「デザイン」でみて排除してから、残ったサイトについて信用に値するかどうかを「内容」をみて判断するという。

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確かに、自分のウェブ検索行動を振り返ってみても、何か調べものをするときは、Google検索で上位にあがってくるページの数々をざざざーっとタブで開いていった後、まずは「信用できない」第一印象を受けるところを削って、絞り込み作業をしていたりする。フォントやレイアウトや色といったデザインから受ける漠とした印象から、まともそうで読む気がするところを厳選してから、内容を読み込んでいくステップを踏んでいる気がする。

とすれば、「デザインのテコ入れが先行」ということになる。

コンテンツの充実を先行したところで、デザインに問題があれば、まず見てもらえず意味がない。デザイン上の問題を先行して解決するのが賢明でしょう、という話。

とはいえ、「デザインの問題」が致命的なものでないかぎり、そう話は単純じゃないんだろう。デザインもそこそこ、コンテンツもそこそこというときに、この話がどれくらい使えるものかという現実問題は頭に浮かぶけれど、まぁ何かに使えることもあろうかなと、ちょっとスライドにしてみた次第。

これを踏み台にして、定量調査として「アクセス解析すると、〜から来訪したうち○%の人が1ページ目で離脱しているんですよ。見た目の第一印象で「信用できない」と判断されていることが懸念されます」というのとか。

定性調査として「同様の調査を、当社の事業領域をテーマにユーザーテスト形式でやってみたところ、○%の人が当社のサイトを「信用できない」と判断して1ページ目で離脱してしまったのです」とかいうのを入れて、肉づけていく感じなのか。

世の中そんな単純に話は運ばないのかもしれないけど、何かの検討の一助になればということで。

*1: Susan Weinschenk(著)、武舎広幸+武舎るみ+阿部和也(訳)「インタフェースデザインの心理学 ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針」(オライリー・ジャパン)

2019-10-09

[読書メモ]インタフェースデザインの心理学

スーザン・ワインチェンク著「インタフェースデザインの心理学 ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針」(*1)を読んでいる。翻訳本が出たのが7年前になるのだけど、今でも増刷を重ねている名著として知られる(のに今はじめて読んでいる)。けど、これは本当に名著だ!(遅)

おもしろく、わかりやすく、しっかりした根拠をもって、インタフェースデザイン実務に役立つ100の指針を丁寧に解説しているところが素晴らしい。

一言で言えば、そういうことなのだけど、この本のすごいところを個人的にもう少しくどくど書き連ねるなら、書いてあることを、この本づくりの中で体現して、手本として成立させているのがすごい。

この本の読書体験をもって、読者はその実践例を目の当たりにし、その指針を取り入れることの効果を十二分に体感できる仕立てになっている。つまり、この本のインタフェースが素晴らしい。

副題に「ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針」とある通り、この本は心理学の知見を「ウェブやアプリ」を作るのに役立つエッセンスに落とし込んだものなので、全部が全部、「本」という体裁に持ち込めるわけじゃない。けれども、本にも共通するエッセンスを多く含んでいて、それが余すところなく、この紙面で体現されている。

あらゆる標題や見出しが洗練された言葉で付けられているし、各項目のポイントは4つ以内に整理されて簡潔明瞭に示されているし、具体的な言葉や絵を見せてわかりやすく&記憶に残りやすく例示する工夫も随所にあるし…。

読者である私は、書かれている指針そのものに理解を深められるのはもちろんのこと、この紙面でもそれが実践されているからこそ、私の中に今この深い理解が成立しているのだという重層性に思いを馳せ、インタフェースデザインの心理学に基づく指針に倣うことの価値を実感させられる作りになっている。

10章100項目にわたる指針は、1項目2〜3ページくらいで小気味よく語られていくのだけど、私がこれまで読んだ中で最も心打たれた項目が、「人は物語を使って情報をうまく処理する」である。この項目は、こんな書き出しで始まる。

何年か前のある日、筆者はユーザーインタフェース関連のデザイナーが集まるセミナーの講師を務めました。部屋は満杯でしたが、参加したくもないのに上司の指示で参加している人がほとんどでした。

こんなふうに、「いきなり理屈」ではなく「著者の物語り」から、新たな項目が書き起こされている。

物語は、この項目の中で示されている通りに、「場面設定、登場人物、状況や(主人公が立ち向かう)障害を聞き手に説明」していく流れをたどっている。読者の私は、これを読んで「筆者はこの後、やる気もない参加者にどう立ち向かっていくのか」と、物語の次の展開が気になる。

それで自然と、その先を読み進めていく。すると、筆者が「物語」の力を使って、参加者の注意を引きつけ、このセミナーを成功におさめる着地をみる。その様子を、私たち読者に物語った後、こう続ける。

さて、ここまでの話も立派な「物語」であることに気がつきましたか?物語には説得力があります。相手の注意を引き、その後も気をそらさせません。しかし、それ以上の力もあります。物語は、人が情報を処理するのを助け、物事の関係を伝えてもくれるのです。

ここまで読み終えたとき、私は今しがた筆者の物語を読んだ体験をもって、物語には説得力があること、相手の注意を引き、その後も気をそらさせない力があること、人が情報を処理するのを助け、物事の関係を伝える力ももつことに、疑いの余地なく腹落ちした状態になっている。

しかも、こうした物語の挿入は、この「物語」の項目のところだけにとどまらない。100の指針のいろんなところで、著者の物語は書き起こされ、挿入されている。そんな書き出しに出会うたび、厚ぼったい本だけど、読み物を楽しむようにページをめくっていける物語の力を、読者として体感する。

自身の読書体験を通じて、「あぁほんとだ、筆者がいうとおりだ」と思う。「物語は人が情報を処理するのに適した自然な形式」であり、「物語を使えばわかりやすく、興味深く、記憶しやすいものになる」という物語の効果を、ひしひしと感じるのだった。

いちいちそれぞれの指針に自分の物語をこしらえるなんて、実に大変な仕事である。この重層的で、丁寧な本づくりに感服する。

そんなわけで、この本は私にとって、一冊で三重においしい本だった。まず、自分がサポートする対象の人たちが学ぶべきサイトやアプリのインタフェースデザインについて学べる(支援対象の学習テーマ)。

次に、私こそが学ぶべきインストラクショナルデザイン(私自身の学習テーマ)とも領域がかなりかぶるので、そこの指針としてもおさらいや知識補完ができる。

さらに先に述べた通り、この本自体の読者に対するインストラクションが見事で、事例として素晴らしい。何を具体例に示して納得を得るか素材選びもドンピシャだし、説明にどんな言葉を用いるかもシャープで、教え方や伝え方の手際も良く、素晴らしい学習体験だった。

ちなみに、まだ少し先が残っているけれど、今のところ(ラジオリスナー的に)この本の中で一番テンションが上がったのは、「人はどう見るのか」という章の中にあった一節。

あるものを実際に知覚しているときよりも、それを想像しているときのほうが視覚野の活性度は高くなります[Solso 2005]。活性化する領域は同じなのですが、想像しているときのほうが活性度が高いのです。ロバート・ソルソの説によると、刺激となる物体が実在しないため、その分、視覚野が奮闘しなければならないとのことです。

「実際にものを見ているときより、目の前にものがない状態で想像しているときのほうが、脳の視覚野は活性化している」というのだ。全ラジオリスナーにシェアしたい!と思った。

Susan Weinschenk(著)、武舎広幸+武舎るみ+阿部和也(訳)「インタフェースデザインの心理学 ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針」(オライリー・ジャパン)

2019-09-08

元どおりになるものなんてないのよ

新宿にある、ビル丸ごとが本屋さんの紀伊国屋書店は、文庫本コーナーだけでも大家族がゆったり暮らせる広さを有する。そんな中にあって、POP広告が目を引き、お薦め本として平積みされていた新刊の1冊を、ほとんどジャケ買いでレジに持っていった。

本を差し出したとき、レジの店員さんが少しばかり顔をほころばせたような気がしたのは、気のせいだったのかどうなのか。ふと、もしかして、この人があのPOP広告を書いた人では?と思ったりした。

POP広告の端っこに、作った人の苗字だけでもカッコ書きで添えておいてもらったら、客もレジで書店員さんの名札を見て、にやりとできるのに。その人の薦めるものにヒットが多ければ、POP広告を目当てに本屋を訪れる習慣をもつかもしれないし、書店員への情なりファン心理が育てば、Amazonではなく、その本屋で買って帰る愛着も醸成されるのでは…などと、ぶつぶつ考えながら本屋を後にした。

というわけで、少し前から「戦場のコックたち」という長編小説を読んでいる。文章を読むのが遅いのに短編小説が苦手という、都合の悪い性質…。500ページ強あるのを、のそのそ読み進めている。

いちおうミステリー小説という位置づけのようだけど、舞台は1944年、主人公はアメリカ合衆国のコック兵、海外文学と思いきや作家名は深緑野分(ふかみどり のわき)、ペンネームだろうが1983年の神奈川県生まれとある。

主人公のティムは、ノルマンディー降下作戦で戦地に立ち、戦闘に参加しながら炊事をこなす。戦場暮らしの中で遭遇する"日常の謎"を解き明かしていく推理小説であり、戦争小説でもあり、人間ドラマもあり、人種差別の問題にも丁寧に踏み込んでいる。

次の一節は、主人公の子供時代の回想シーンだが、ここを読めただけで、この本を読んでよかったと思う。

やっと掃除を終えた僕は、泣きながら祖母に「全部元どおりになったよ」と訴えた。けれど祖母はしゃがみ、僕の目線に高さを合わせると、「元どおりになるものなんてないのよ」と言った。

元どおりになるものなんてない。なんて、一言で“本当のこと”を言い得たセリフだろうか。小説にはこうした、この一言を伝えるがために、この物語が背景として存在するのではないかと思うような言葉のひとかたまりが、さりげなく話のド真ん中に埋め込まれている。

物語の中に出てくる「おばあさん」というのは、たいてい名ゼリフをはく。ずいぶん前に読んだ伊坂幸太郎の「モダンタイムス」で、

あなたはまだ実感ないだろうけど、人に会えるのはね、生きている間だけだよ

というセリフを決めたのも、わりとお年を召した女性だった気がする。わりと物語のド真ん中にあった気もする。

不可逆な時間軸にそって生きるほかない私たちにとって、すっかり元どおりになるものなんてないのだけど、ここにつながるのは決して絶望ではない。元どおりに戻せない前提は、それはそれとして腹くくって受け入れて、それを糧なり肥やしにして、新しいもの・こと・関係を作り出していく未来的な広がりを暗に指し示す。そうやって伝わるように、物語が下支えをしている。

ポール・オースターの「幻影の書」の中に、

危機的な瞬間は人間のなかにいつにない活力を生み出す。あるいは、もっと簡潔に訳すなら-人は追いつめられて初めて本当に生きはじめる。

というくだりがある。人って何かの前提条件を正面から受けとめて、それに向き合ったときに豊かな発想力を発揮する。元どおりにはならない現実を受け入れることで、元どおりに戻そうとするのではなく新しいものを作り出せばいいと、過去を割り切り、未来に目線を移して、より豊かに、より楽しく面白くなるように思考を巡らせることができる。

考えることは、今地点からあらゆる方向に解釈を広げ、可能性を広げる潜在能力をもつ。そうやって生きていくのが、人の営みの魅力の一つだ。

中村文則「何もかも憂鬱な夜に」には、

考えることで、人間はどのようにでもなることができる。……世界に何の意味もなかったとしても、人間はその意味を、自分でつくりだすことができる

とある。「考える」ということの尊さに思い巡らす中、ポール・オースター「幻影の書」の一節に。

結局のところ世界とは、我々の周りにあるのと同程度に、我々のなかにもあるのだ。

この一節を読んだことはすっかり忘れていたのだけど、何冊かの本を通じてこの感覚に触れた憶えはあり、私はもう何年も、宇宙と同じ広がりをもって、人間一人ひとりも内側に小宇宙をもっているという感覚をもって生きてきた。

読んだ本の中身は恐ろしいほど短期間に忘れちゃうんだけど…、自分の中にこういう一節一節の意味するところはしっかり刻み込まれていて、私の価値観を豊かにしてくれている気がする。気がするだけかもしれないけど。やっぱりなぁ、小説はちょこちょこ読まないともったいないなって思った。

2019-08-30

[読書メモ]伝わるデザインの基本 増補改訂版 よい資料を作るためのレイアウトのルール

新刊ではないのだけど、高橋佑磨氏と片山なつ氏の共著「伝わるデザインの基本 増補改訂版 よい資料を作るためのレイアウトのルール」(*1)が素晴らしく良書だったので、ちょいメモ。

非デザイナーなんだけど、スライドとか企画書とか、チラシとかポスターとか自分で作らなきゃいけないビジネスパーソンや学生向けに、デザインの基本ルールを教える本。

こうしたビジュアルデザインの入門書というのは、ここ数年のうちに出たものでも私が知るだけで、いくつかある。謳い文句は、だいたい「あなたはセンスがないからできないんじゃない。デザインのルールを知らないからできないだけ。デザインにはルールがある。その基本ルールを使えば、見違えるほどうまく作れるようになる!」というアプローチ。これは実際、間違っていない。デザインセンスのカケラもない私が責任もって保証する。

じゃあ、そんな類書の中で、この本に特徴的なところは何かというと、「著者がデザイナーじゃない」ことかと思う。お二人とも理学博士で、大学院で助教をされていたり、進化生態学とか植物とかがご専門の研究者。

「デザイナーではない人が、デザイナーではない人たち向けに、デザインを教える本」というと眉唾もの?と懐疑心をもってしまうかもしれないが、これがまぁ見事にうまいこと仕上がっている。マイナスにふれるどころか、確実にプラスに働いていると私は感じた。

デザイナーじゃないからこその、いい塩梅で、非デザイナー向けにちょうどいい範囲、内容量、語り口で解説をしている。

ビジネスシーンや学会発表などの場で、非デザイナーにどういう失敗が多いか。それがなぜわかりにくく恰好悪いか。わかりにくいとか恰好悪いって、実際問題どういう不都合があるのか。読みやすい可読性と、目立ちやすい視認性、読み間違えしづらい判読性をどう確保するか。どう改善して、例えば具体的にどう表現すると、どれくらい良くなるか。一言でスパっと根拠を示しながら、絶妙な加減で具体的な解決方法を記して、例えばこんな感じと作例で実証していく様がこぎみ良い。

例えば、デザイナー著作の本なら必ず出てきそうな「黄金比」という言葉は、この本の中に一度も出てこない。でも、「グリッド」について、「段組」については十分な説明がある。10ポイントくらいの文字サイズで長文を書く場合、ページ幅いっぱいにレイアウトすると、一行がすごく長くなる。すごく長くなると、読者が次の行に読み進めるときの視線移動が大変になる。つまり可読性が落ちるので、2段組み、3段組みでこうやって見せるのが良いとか。すごく実用的。

研究者だけあって、言葉の選び方がいちいち的確だし、根拠がいちいち簡潔明瞭だし、説明内容がいちいちちょうどいい塩梅。やり過ぎ感もなく、不足感もない。言葉による表現力に長けていて、さすが鍛錬されているなぁと感じた。

ビフォア/アフター、悪い例/良い例もふんだんに掲載されていて、並べて見比べてみると一目瞭然でポイントがわかるように、作例も丁寧に作られている。

デザイナーじゃないから、作例の仕上がりは「そこそこ」なんでしょう、「洗練されている」には遠く及ばずのクオリティ?いやいや、そんなことない。といって、センスの塊すぎて、自分には到底真似できないというのでもない。

デザイナーさんの著作だと、作例を見ていて、確かに書いてあるポイントも素敵さを実現している1要素なんだけど、説明していないあれこれのセンスやらノウハウやらも総動員されて全体が仕上がっている感のする作例もあったりする。これ1つやったからって、このすごいのができるわけじゃないんだよなっていう。だけど、この本の作例は「書いてあることをそのままやったら、このクオリティにできる」感があって、その点易しい。

使っているツールも、たいていはPowerPointとWordで、たまにIllustratorでどうやるか補足が入るくらい。なので、MS Officeさえパソコンに入っていれば、「具体的にどうやるの?」をすぐに一つファイルを作って試してみられる。「すぐおいしい、すごくおいしい」感がすごい。

プロのデザイナーに発注するレベルじゃない(=非デザイナーが自分でやらなきゃな)作り物であれば、これはもう十分なクオリティでは。と言っている私はデザインセンスがゼロなので、そこの評価は他所に委ねるが。

あと、デザイナーが教えるスタイルの本だと、「デザイン制作の流れ」を理解してもらおうという章立てになるのが一般的かなと思う。いきなり作り出さないで、まずは読み手が誰で、何の目的でこれを作るのかを明確にして、そのためにどういう情報が必要で、それをどうレイアウトして、配色はどうするか、文字・書体選びは?図解はどのようにというふうに、「全体から入って各パーツ」のデザイン作法に展開していく、本の構成。

正しい。正しいんだけど、それだとどうしても頭でっかちになるので、ちょっと試してみて、おぉこれは確かに!っていう体験を得るまで道のりが長くなってしまう。その途中で読み止まってしまうことも。

その点、この本は「各パーツから入って全体」へ、逆の流れで構成立てている。「書体と文字」「文章と箇条書き」「図とグラフ・表」といった要素を章立てて説明した後に、これらをどう「レイアウトと配色」してまとめあげるかを説く流れ。

門外漢だと、とにかくパーツレベルでちょっと気を付けると見違えるように良くなる一手から学んでいけたほうが、敷居が低く、手を出しやすかったりする。

ヘタに個性的なポップ体とか選ぶと読みづらいのかとか、和文をイタリックにしちゃダメなのかとか、じゃあ文字はシンプルなフォントを選んでとか、行間、字間、段落間隔をきちんと設定したり、全体を左に揃えるだけで、ずいぶんと洗練された雰囲気に変わるものだなとか。

ここを変えるだけでも、確かに良くなった!って体験が初っ端からあちこちでできると、その先も読んで試してみようというふうに動機づけられる。読んでは試す、読んでは試すと、頭でっかちにならずに読み進めて試せる構成が、非デザイナー向けとして、すごくうまい具合だと思った。

あと、アドバイスや指針が具体的。洗練されたフォントを使おうとか、格好悪いものはやめようとか言われても、それが何なのかわからないセンスない私たちには適用のしようがない問題というのがあって…。

そこんとこ、このフォントは洗練されているけど、これは美しくないとか。このフォントと、このフォントは相性が悪いとか。このくらいの線の太さは不恰好だとか、ここは余白を一文字分あけるといいとか、中に入る文字数が少ない場合は一文字分も余白をあけると不恰好だからこれくらいねとか、そういうのを視覚的に例示しながら丁寧に書いてあるのも良い。

あと、誤脱字レベルの校正ポイントを見つけたので、出版社に報告しておいたのだけど、数えたら17個。この手の本では、私の感覚だと少ないほう&ちょっとした間違いばかりだった。これらは次の改訂時とかに直してくれるっぽい。

まとめると、基本的なデザイン作法を身につけたい非デザイナーにすごくいい本。デザイナー入門書だと、デザイナーさんが書いた入門書のほうがいいかなとも思うんだけど、ビジネスパーソンという立ち位置の人であれば、これがまさしくフィットするんじゃないかしらと思う。

デザイナーさんとかだと、非デザイナーさんにお薦め書籍とか質問されることがあるかもしれないけど、私がこれを読んだ感覚だと、「デザイナー入門者」が読むべきデザイン入門書と、「非デザイナー」が読むべきデザイン入門書は、最適なものって違うよなぁという感覚。後者には、これ、いいと思います。という個人の感想メモでした。

*1: 高橋佑磨・片山なつ「伝わるデザインの基本 増補改訂版 よい資料を作るためのレイアウトのルール」(技術評論社)

2019-08-25

古い世代が向けるべき、若く優秀な人への眼差し

日経ビジネスの「期待の星」ほど早い決断 辞める理由の大誤解という記事が話題になっていたので読んでみた。

「一般論やステレオタイプから想像される退職理由」といえば、「愛社精神がなく、こらえ性もなく、給与や労働時間に不満で、若気の至りで会社を辞める」と扱われがちだが、「有望株が語る離職理由」は、さにあらず。

ゆえに、優秀な人に残ってもらうための施策として、給与を上げる、残業時間を削る、厳しいノルマやパワハラ的指導をなくす対策だけ講じても、優秀な人ほど、ほんとわかってないんだなと白けて離れていってしまう事案。

じゃあ、有望株は何にウンザリして辞めていくのかというので、記事で挙がっているのは、こんなところだ。

  • 改革せずには沈むこと確実なのに、上の人が改革に非協力的
  • 仕事ができないのに上ばかりみて仕事する人間が評価されて出世頭
  • 会社が本来社会に提供すべき価値とずれた、利益欲しさの経営方針
  • 自分が納得できないもの(相手が求めていない商品)を売らされる、自分なりの正義を感じられない仕事
  • 自分が唯一関心がある業務に異動できるのが20年後と言われた
  • 組織都合の配置転換で、まったく違う部署に異動。一向に専門性獲得できず、社内価値は上がれど、欲しいのは社外価値

まとめとしては、これがまさしく「優秀な若手を組織に定着させるための基本的な考え方」として必要なんだろうなと(青山学院大学経営学部教授の山本寛氏)。

この会社で働き続けても、他の企業で必要とされる能力は十分に身に付く」と社員が思えるようにすることです。仕事を通じて得られる汎用的な能力や専門スキルを押し出し、社員が自分のキャリアを長期的に考えられるようにする。つまり社員の「エンプロイアビリティ」(雇用される能力)を企業が積極的に保証するということが重要なのです。

で、この記事を読みながら思い出したのが、先ごろ読了した小松左京の「日本沈没」の一節だった。

この本、1973年の本だけど、「古い世代が向けるべき、若く優秀な人への眼差し」というのは、戦後と呼ばれた時期からずっと、今も昔もさほど変わっていないのかもなぁと思った。「教養ある原始人」というやつだ。

古い世代の幸長(ゆきなが)は、若い世代の小野寺に対して、ゆたかな時代の「新しいタイプ」の青年というふうに、こんな眼差しを向ける。

(▼は、私が勝手に入れた見出し)

▼一つの職場での実績や、安定したポスト、金銭や地位に執着しない

決して投げやりな仕事ぶりではないにもかかわらず、一つの職場での実績や、安定したポストをいともあっさり投げすて、何の未練もないように次の仕事へうつっていく。金銭や地位についても、また、認められたとか認められないということについても、まるでがつがつしない……。物質や地位に対する執着を持たずにいられるというのは、まさに、「ゆたかな時代」に成長してきたためにちがいない……。

▼「国」「民族」「国家」に宿命的な絆を感じていない(「国」を「組織」と読み替えてみて)

日本人として生まれながら、「国」だの「民族」だの「国家」だのに、暗い、どろどろした、宿命的な絆などまるで感じていない。それでいて、国に対する「貸し借り勘定」はちゃんと意識しており、決して「恩義」を感じていないわけではない。だが、その「恩義」の感情は、民族や国に対して無限責任を感じたり「運命共同体」の逃れられない紐帯を意識したりする形で出てくるものではなく、きわめてドライでクールで、「借り」を返しさえすれば、いつでも自由な関係にはいれるものとしてとらえられているのだ。

ここで注目したいのが、幸長がこの「新しいタイプ」をどう受け止めたのか、つまり肯定的に受け止めたのか、否定的に受け止めたのかという点だ。続きを引用すると…

「強制」や「義務」や「恩義の押しつけ」「忠誠と犠牲の強要」「血縁」など、あのさまざまな紐帯でがんじがらめになっていた戦前までの日本からは、想像もできないような「日本人」が、眼の前にいることをさとって、幸長はちょっとした戸まどいといっしょに、さわやかなものを見たうれしさと、くすぐったい笑いがこみ上げてくるのを感じた。「戦後日本」は、何のかのといわれながら、その民主主義とゆたかさの中から、こういう新しいタイプの青年を生み出してきたのだ。このドライで、クールで、しかも人当たりのいい、人好きのする、おとなの悪魔的な意地悪によってつけられたねじくれた「傷」を負っていない、べたついたところがなく、物質や権力に対する執着もなく、生活に対する欲望も淡白で、さらりとした感じの青年たちは、いわば戦後日本の生み出した傑作といえるだろう。

この新しいタイプを、「さわやかなもの」として「くすぐったい笑い」をこみ上げながら受け止める。「戦後日本の生み出した傑作」とまで評してみせる。私には、これが小松左京が読者に共有せんとする、新しく異質なものを受け止めるときの、あるべき眼差しのように感じられて唸った。

彼らは自分たちを「日本人」であると感ずるより、まず「人間」であると感じており、日本人として生まれたことは、皮膚の色や顔形のちがい、背の高さ、といったような、人間一人一人が持つ、しごく当然な「個体差・群差」としてしか意識していない。彼らは、自分たちを、「日本の中でしか生きていけない」と考えてはいない。地球上、どこへ行っても自分は生きていける、と思っている。生きていくことが、特定社会内における「立身出世」への妄執とつながっていないから、どこでどんな暮らしをしようと、自分の人生を「失敗」したとか、「だめなやつ」だとか考えてみじめな思いをすることもない。──それは、新しいタイプの、いわば「教養のある原始人」ともいうべき人間かもしれない。だが、彼らの闊達さ、寛闊さ、さわやかさを、古い世代の誰が非難できよう。

新しくて異質なものって、まずは抵抗を示し、否定的に見がちなのが人間の性(さが)かもしれない。けれど、一呼吸おいて、意識的に、肯定的な解釈を与えてみようとする試みもまた、私たち人間がもちうる教養・知性というものだよなぁと味わった。小松左京、すごい…。