2024-05-11

「教える」ことは手段であって

恩田陸の長編小説「蜜蜂と遠雷」を読んでいる。とても面白い。数年前に映画化されているらしいが、そうとは知らず、本屋でジャケ買いした。表紙も素敵なのだ。とある国際ピアノコンクールを舞台に物語が展開されるのだが、エンタメ性も高く、奥が深く、筆致が素晴らしい。

こちとら一般庶民からすると、登場人物の誰も彼もが神童という感じなのだが、なかでも風変わりなのが16歳の少年、風間塵(かざまじん)。彼の演奏は、審査員の評価を二分する。「アンビリーバブル、ファンタスティック、奇跡的だ」と絶賛する派と、「下品だ、いたずらに煽情的だ、サーカスだ」と批判する派。

少年の演奏に、なぜ拒絶感を覚えるのか。これを審査員の三枝子が分析するくだりが時間をおいて二度、三度と出てくるが、その深掘りと変化していく様は実に読み応えがある。

私の脳内では、音楽業界に限定しない、さまざまな産業に拡張しうる話として解釈された。それは私が、クリエイティブ職の人材開発まわりを生業にしているからだが。それを、いくつかつまんでみる。

この、いわば苦労や勉強のあとが全く見えないことも、審査員の拒絶を招いているのではないだろうか。

審査員を「若手を育成するエキスパート・年配者」に置き換えると、さまざまな仕事現場で、なくもない気がしてこないだろうか。たたき上げの玄人からすると、若手に「苦労や勉強のあとが全く見えない」ことには拒絶感をおぼえやすい。

そして、昨今の風潮のくだりに入る。

近年、演奏家は作曲者の思いをいかに正確に伝えるかということが最重要課題になった感があり、いかに譜面を読みこみ作曲当時の時代や個人的背景をイメージするか、ということに重きが置かれるようになっている。演奏家の自由な解釈、自由な演奏はあまり歓迎されない風潮があるのだ。

私の脳内では、演奏家が「実務家」に、作曲者が「研究者・理論家」に置き換えられた。

若手の実務家が、自分の業界で基本とされるセオリーに学び、セオリーに従って実践することを重視するあまり、あるいは自社より市場で評価されるキャリアを積むことに傾注するあまり、「目の前の案件で人の役に立つ」「今ここで自分が何をすべきか、自分で考えて動く」という当たり前の大前提が、二の次になっていく危うさ、そこに底流する世の風潮を覚えなくもない。

そんなふうに勝手解釈をくわえながら読んでいると、次の「音楽教育に携わる者」が「産業界で若手の人材育成に携わる者」的に読めて、ここらを言ったり来たりしてしまった次第。

だが、風間塵の演奏はそんな解釈からは自由なところにある。もしかすると、作曲者の名前すら知らないのではないかと思わせる、真の自由とオリジナリティに溢れているのだ。曲そのものと、一対一で生々しく対峙しているような印象を受ける。それなのに、演奏は完璧─確かにこれは、今の音楽教育に携わる者にとっては受け入れがたいに違いない。

分析を加える三枝子が、少年への評価を変えていく様は、読者にも学びを分け与えてくれているように読めた。

最初のオーディションのときは、三枝子も拒絶感を覚えて、高く評価する他の二人の審査員に抵抗を示していたのだ。その主張は、少年が師事した巨匠の音楽性を真っ向から否定するようなスタイルの演奏は許しがたいというものだった。

まるで、師匠の音楽性を冒涜し、師匠に喧嘩を売っているようなものではないか。それは音楽家の態度としていかがなものか。彼が音楽家として独り立ちして、改めて師匠のスタイルから離れていくというのなら分かる。だが、この段階で師匠の音楽を全く理解していないというのは問題だと思う。

これに対して、少年を高評価する他の二人は、彼女に理解を示しつつも、こう切り返す。

彼に頭抜けたテクニックとインパクトがあることは認めるね?ならば、彼の音楽を許すの許さないのというのは我々が決めるべきことではない。ある一定ラインに達していれば、機会を与える。それがこのオーディションの目的なのであって、候補者の音楽性が気に入るか気に入らないかは、現時点では問題ではない。

自分たちは「許すの許さないの」を決める立場にない。「機会を与える」のが我々の役割だ。我々が提供する場の目的は「機会を与える」ことである。というのは、多くの教え手が一度は吟味しておきたい着眼点で、核心をついているんじゃないかなぁと読んだ。

教えることが目的化してしまうと、許す・許さないもうっかり顔を出してきかねないんだけれど、あくまで教えることを手段としてとらまえておくと、うまく「教える」という行為とつきあっていける気もする。

教える者の役割も、教える場の目的も、機会を与えることにあるんじゃないか。学ぶ機会を与えること、活かす機会を与えること、伸びる機会を与えること。役割を果たす機会を与えて、それによる充実感を覚えたり、それが社会の豊かさにつながる支援をすること。そうやって若手に、社会的役割を継承していくこと。

「教える」というのは、そういうことの手段の一つ、みたいにとらえると、より健全につきあいやすくなるかもなぁなどと思い巡らせながら読んでいる。文学は、心の柔らかいところをすくい上げて読者の意識にのぼるよう独特の働きをしてくれて尊い。

*恩田陸「蜜蜂と遠雷」(幻冬舎)

2024-04-20

作品が描く年、作者が著した年、読者が読む年

今読んでいる小説に、こんな一節がある。ある読者には補足説明的に読まれただろうそれが、時を経て手にした読者に、重層的な意味合いをもたらす。そのことに作家は、著した当時どれくらい意識があったのだろうかと思いめぐらせる。

主人公は、事務所兼自宅の建物から一度表に出てきて、少し気持ちを回復させた後に、また玄関に戻る。しかし建物の中に「入るのは、出るより面倒だ」とあって始まる一節だ。なぜ、面倒なのか。

玄関のドアの脇の壁面にある鍵穴に部屋の鍵を入れて回さなければならない。すると、ドアのロックが二十秒ほど切れるのである。その間に入るという仕掛けだった。ついでにいえば、部屋に誰かいる時は鍵なしでもいい。インターフォンと並んでプッシュボタンがあり、部屋のナンバーを押すと、その部屋に声が届いた。誰であるかを名乗ると部屋の中で玄関のロックを切ることが出来る。それもやはり二十秒ぐらいで、その間にドアを押してロビーへ入るのである。

私は途中から、んん?と眉間に皺を寄せて慎重に読む。区切りのよいところまで読み終えると「玄関のドアの脇の」の辺りまで戻って、再び読み返した。

これって、オートロックのことだよな。オートロックのことを単に説明しているってことでOKかな?なにか「オートロック未満」であるとか「オートロックプラスアルファの機能を搭載している」とかじゃなくて、いわゆるオートロックの説明ってことでOKだろうか。

それを検品するのに時間を要したのだ。改めて、この作品の初出を調べもした。1987年だった。

つまり1987年当時はオートロックが今ほど普及していなかったから、オートロックについてこれだけの紙幅(全角211文字)を割いて説明する必要があったということでOKだよな、きっとOKだろう、というのに、2024年読者の私は立ち止まったのだ。

発刊早々に読んだ1987年の読者にとって、この一節は「ははぁ、都会にはそういう仕組みがあるのだな」という読まれ方をしたのかもしれないし、2024年読者の中でも「1987年の作品であることを念頭において読んでいる読者」には、時代背景を織り込み済みで立ち止まるところない一節として読んだ読者がいくらでもいるだろう。

が、私のようにいくらか訝しむようにして「これは、いわゆるオートロックでOKか?」と二度三度読み直してしまう人もあれば(そんな不器用はいないかもしれないが)、オートロックに説明が必要な時代もあったなぁと郷愁をおぼえつつ読む人もあろうなと思いを馳せる。

著者は当時、ここにどれくらいの意識を注いで書いたのだろう。全体からすると、かなりさりげない一節ではあるのだけれど。今、書き直すとしたら、ここはオートロックの一言に書き改められるのか、実際どのように書き直すのだろうな。そんなことで、けっこうな時間を過ごしてしまうから一層、私が一冊を読み終える時間は長くなる。

先日、今更ながらジョージ・オーウェル「一九八四年」を初読している旨Xにポストしたら、この作品を初めて読んだのが1984年より前だったという御仁の声に触れることができた。当時それは未来にあったわけで、それは今遠い過去になっている。作品世界を未来として味わい、今として味わい、過去としても味わえる人生というのは、なんとも豊かだ。

山田太一さんは昨年逝去されたが、先に引いた一節の「異人たちとの夏」は、今ここにも読まれている。それを原作とする「異人たち」が、このほどイギリスで映画化され、今週末に日本で公開される。ある人が完成させた作品が、変化する世の中に投じられて、時代を超え、変化に反応して、いろんな人のもとで咀嚼されて広がる波紋の行方に、心を揺さぶられている。

*山田太一「異人たちとの夏」(新潮社)

2024-03-28

防潮堤がないから、とにかく逃げる

いとうせいこうさんの「東北モノローグ」*が良かった。東日本大震災の被災三県(宮城、岩手、福島)を中心に聞き書きを続けた17の記録(文藝、河北新報で連載をしていたもの)をまとめた単行本。話を聞いたのは2021年〜2023年だから、震災から10年を経た、ごく最近だ。

岩手県洋野(ひろの)町の防災アドバイザーの語りに、

この洋野では人的な被害が一件も出なかった。被災三県の福島、宮城、岩手の沿岸自治体で、人的な被害が出なかったのはここだけです。

という話が出てくる。なぜそんな防災が可能だったか、とにかくここの町民は「逃げる意識が高い」という。八木地区は明治と昭和の三陸大津波で、居住人口の半分くらいが亡くなっている。それを知っているご老人がけっこういるし、震度3とか2の地震でも逃げるのだと。

この地区には防潮堤がありません。だから、とにかく逃げる。即逃げる。八木地区は「地震が起きたら即逃げる集落」なんです。

防潮堤がない八木地区こそが人的被害を一切出さずに済んだというのは、ちょっと見逃せない現実だ。何が有効な施策なのか、何は有効そうに見えて実際には機能しない対策なのか、むしろ脚を引っ張りかねないのか。

もちろん八木地区の事例をもって防潮堤に意味がないと断じて、あらゆる地域に適用しようと考えるのも雑すぎるのであって、あれもこれも「単一の答え」でまとめようとしない丁寧さが、複雑な世の中を前提にして施策を機能させるには重要なことなのだ、ということを教えてくれる。

防潮堤というと「ないよりは、あったほうがいい。あとは、その地区にどれだけの予算を投じられるか。そこに優先順位がつく」という「防潮堤は良きもの」前提に思考してしまいそうになるが、それも単一の答えに立脚した見方だなと自戒する。

その地区ごと、地形によっても、人の営みごとにも違いがあって、海とともに生きている町に、高い高い防潮堤が築かれることが、町民にとって最適解か、そう雑には考えたくない。

そこに人の営みあってこそ、自然現象は自然災害と認識される。そこに生きる人たちの生き方の理解なしに解は見出せない。

ここにバランスがものをいう、デザインの仕事が求められるんだろう。全部・全体に、ばらばらの最適解を個別具体で作るのは現実的でない。一方で、個別具体を一切無視して全部・全体を一つの結論で決着させられるほど雑でもいけない。そこにこそ人の創造力を生かしたい。

全体を通して、市井の人たちの民話的な語りが人を動かし、人を救うことを切々と訴えてくる本だった。

仙台で出版社をやっている土方正志さんの語りが、いとうせいこうさんの、この仕事の意味を表しているように感じた。

結局、データとか客観情報とかというのは、それこそネットでもなんでも、まあ百年後、二百年後にネット空間がどうなってるかわからないけど、とにかく客観データはどこかに残る。でも、残らないのは感情だろうという気がしていて。形あるものとして伝えられないのは、その場にいた、その経験をした、その時代にいた人間の生の感情、気持ち、記憶。これを残すのが一番難しいのかなという気がするんです。
で、それはどうやって残すんだろうと考えると、それこそ今回がそうだったように「あ、昔の人がこう言ってる。やっぱり今と同じなんだね」っていう、その積み重ねでしか残す手段はないんじゃないか。

それから、これはまだうまく言葉で表せないのだけれど、民俗学の視点で、漁師さんの職業観を語りきかせてくれる川島秀一さんのお話は圧巻だった。

経済的な観点で問題を設定して、それに有効な解決策を示すというシナリオだけで洗練化されがちな洞察のあり方を突いて、その思考の貧しさにじっくり向き合わせてくれるというか。人のキャリアを支援することを生業とする私にとっては、とりわけ胸に響いて豊かさを育んでくれる語りだった。読み終えては、また開き、反芻している。読めて良かった、ほんとに。

*いとうせいこう「東北モノローグ」(河出書房新社)

2024-03-24

理論に順序あり、順序あると予測や計画に役立つ

この間ここに書いた「ブルームの教育目標のタキソノミー(改訂版)」の話を受けて、改めてマルザーノらの新提案*を読み直した。ブルームの分類体系の弱点を突いたもので、読み応えのある一冊。

マルザーノがブルームを突くところの一つが、ブルームのは「枠組み」やん、おいらのは「理論」やねん。自分は「人間の思考に対するモデル、あるいは理論」を提示しているという。

理論とかモデルというのは「現象を予測することができるもの」。一方で、枠組みっていうのは「現象を説明する原理をおおざっぱに整理したもの」と説く。

言い換えると、マルザーノが提唱しているのには順序がある。だから「こっちが先で、そっちはその後」という順番がつく。なので「これの後には、あれがやってくるぞ」という予測が立ったり、「それの前に、これをやらないと意味がないぞ」と計画立てるときに役立つ。そこに「枠組み」ではなく「理論」の価値を訴えているわけだ。

それでマルザーノが何の順序を説いているかというと、新しい課題に直面したときに人がどう思考して、やりだすか、やり遂げるかということについて。「3つのシステムとナレッジの相互作用で決まる」と説いているのが図にするとこんな感じ(クリック or タップすると拡大)。

新しい課題に直面したときに稼働する心的システム3ステップ

「新しい課題に直面したとき」というのを、「新しいことを学ぶシーン」と言い換えて想像してみよう。

まずステップ1は、取り組むかどうかを決める。それを学ぶこと(覚えることとか、できるようになること)が「重要だ!」とか「自分にもできそうだ!」とか「できるようになりたい、やってみよう」という積極的な気持ちが持てないかぎり、取り組もうとは思わない。

取り組むと決めたらステップ2、目標と方法を決める。せっかくステップ1で興味や危機感をもって取り組む気になっても、具体的に目指すゴールと、それを達成するための方法がイメージできないと、何かをやり始めることはできない。

目標と方法が定まったらステップ3、具体的な行動に取りかかって、ようやく眼に見える学習活動へ。が、ここでも「やってみたが、うまくできない」「一向に効率も効果も上がらないよ」「できないのをできるようにするための克服課題がわからない」と足踏み状態をメタ認知すると、やる気はそがれていって新しい課題をやり遂げずじまいになってしまう。

自分の学習をセルフマネジメントする上でも、誰かに何かを教えたり、誰かの学びをサポートする役回りにおいても、どこで立ち止まっているのかを捉えて介入策を手立てするのは有効だ。

やる気にはなっているのに(ステップ1突破)、目標と方法が立たなくて(ステップ2の壁)足踏みしてるなって思ったら、とっかかり簡単めの目標と達成方法をアドバイスしてあげると、その人は学習を断念しないでチャレンジし続けられるかもしれない。

また、どのステップでも、その人がそのとき持っているナレッジ(知識、スキル、運動能力とよばれるようなもの)が影響を及ぼす。もっている知識が乏しければ、「これは重要だ、自分に深く関わってくる」と思える範囲はひどく狭くなるし、いろんな知識があれば、あれもこれも自分との関連づけが起きやすい。これは想像に難くないだろう。

そう考えてみると、何か一つ二つ知識を授けてあげるだけで、部下や後輩が次のステップに踏み出すことを後押しできるかもしれない。

って、2016年にもほぼ同じことをここに書いてスライドも起こしているのだけど、こうやって図を作りながら咀嚼し直す中で深く浸透していくところがあるのだ、私の頭は…。

この辺って、どうなるんだろう、どうするんだろうなぁ、今後の教育界は。世の中いろんなことが楽に作れるようになっていっているが、こうやって「作る過程」の試行錯誤やら手間暇かけた時間・経験のなかで、人間はナレッジを体になじませ体得してきたんだと思うんだな。

これが「作るのはポンとできるんです」って合理化されたとき、人間は「作る過程」が排除されたのと一緒に「体得過程」をなくしてOKなのか?というのが疑問なのだが。

作られた高度な道具を有効に使いこなす力を、ポンと体得できるわけじゃないのでしょう?別の経路をたどって、応用的に使ったり、部分的に使う選択をしたり、故障したのを作り替えたり、できるようになるのか。私のような頭だと、そこへの疑問がぬぐえないが、新人類はまた別のアプローチをつくっていくのかもしれない。少なくとも私の場合は、この地道なプロセスをたどって生涯を生きていくほかなさそうなのではあるが。この辺は決め込まず心を開いて関わっていきたいところ。

*Robert J. Marzano, John S. Kendall (原著), 黒上 晴夫, 泰山 裕 (翻訳) 「教育目標をデザインする: 授業設計のための新しい分類体系」(北大路書房)

2024-02-28

「記憶した」だけの学習成果を「理解した」と誤認していないか

セミナーや研修・勉強会で人に教えてもらった、本で読んだ、検索したら書いてあったというので「新たに知ったこと」を何も見ずに言えるようになったら、それは確かに「一つの学習プロセス」だが、「一つ目の学習プロセス」に過ぎないとも言える。

それで何かできるようになったかというと、何もできるようになったことはないということが多いのではないだろうか。聞かれたら答えられるとか、「あぁ、聞いたことはあります」とは答えられても、それで人の役に立つことは難しい。概ね、仕事では役に立たない。キャリア上の戦力アップとも言いがたい。

アンミカさんのいう「白って、200色あんねんで」以上に、ブルームさんの「理解するって、7プロセスあんねんで」は、もっと理解されたい。図にしてみると、左から2番目のステップである(画像をクリック or タップすると拡大表示する)。

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ブルームの教育目標のタキソノミー(改訂版)*はいろんな示唆を与えてくれるが、今回は上図の通り「認知プロセス次元」の2つ目「理解する」まわりに焦点を絞りこんで書いてみる。

これに関連した私の気がかりを挙げると、企業の人材育成施策で、多くの学習はせいぜい「記憶した」どまりになっているのを「理解した」と誤認されているのではないかということ。学んだことを「応用する」まで持っていけていないことを問題視する声はよく聞かれるが、そもそも「理解する」に至っていない事案が多いように思うのだ。

ブルームの分類体系に照らせば、研修や勉強会で学んだことをそのまま「思い出して言える」だとか、テストをやったら「選択肢から正解を選べた」だとかは、複雑さが一番低い「記憶する」どまりである。

じゃあ「記憶した」にとどまらず「理解した」状態に達したとはどういうことを言うのかというと、図に並べた「理解する」列の7項目ができるかどうかで検証できる。

解釈すること
例示すること
分類すること
要約すること
推測すること
比較すること
説明すること

といっても、こんな概念的な言葉の羅列では、まだまだ分かりづらく誤認を呼んでしまうこと請け合いなのだが、これを詳細に「理解する」となると、どうにも専門書をきちんと読む工程なしに難しいところがあるので、それは下の書籍紹介にとどめるとして。ここでは「理解する」1語を7項目で言い換えることで、いくらか詳細度をあげて「理解する」ことまでを目標としたい。かように「理解する」への到達は複雑なのだ。

「理解した」状態というのは、それを「自分の言葉で言い換えられる」とか「具体的な例を挙げられる」とか「その上位概念にあげて正しいカテゴリーに当てはめられる」とか「要約ができる」とか「それが該当するパターンを推測できる」とか「それの因果関係を説明できる」とかをもって、はじめて到達したことを検証できる。

はたして、こうした検証作業をもって「私は理解した」と言える学習者、「私は理解するレベルまで教えた」という指導者、「私は理解するレベルまでの育成施策を講じた」と言えるマネージャーや人事担当者は、なかなかいないのではないか。

私も1学習者の立場で、自分の学習の出来栄えを振り返ると、理解するまで到達できている学習プロセスなど、なかなか踏むのが難しいものだとため息が出る。

しかし企業が、一定の時間的・金銭的投資をして人材育成施策を講じるという場合、この辺の目標設定と到達度の検証、到達するための仕組みづくりをもう少ししっかり仕込む必要があると思うのだ。

「目標設定が重要だ」とはビジネスの現場でよく言われる。「SMARTの法則」(以前ここでも書いた)なんかもビジネス・リテラシー的によく知られているが、企業が社員研修するだとか人材育成施策を講じるだとかっていうときに、どこを到達点にするかという目標設定はひどく曖昧なまま実施されていることが多い気がする。

効果検証も、受講した人の満足度レベルの確認にとどまっていたり、記憶度を測っているのか理解度を測っているのか定まっていなかったり、現場でどれだけ応用できているかまで追わず、あとは本人次第になっていたり。

下記の書籍は私の大好物で、これを読みながら改めて、私はここんところの専門性をこそ発揮して人材開発の施策精度を上げるとか、現場貢献をしたいとかいう思いが強いんだなと染み入った。むちゃんこ分かりづらい専門性で、なかなか売り物としてメジャーにはならないけれども、活かせるところせっせと自分で発掘して、あらゆるところでこの知見は活かしていきたいと思った。これは人事評価制度の設計や運用においても、人材育成施策の設計や運用にも、水面下でむちゃんこ使えるノウハウである。

*ロリン・W・アンダーソン、デイビット・R・クラスウォール編著、中西穂高、中西千春、安藤香織訳「学習する、教える、評定するためのタキソノミー ブルームの『教育目標のタキソノミー』の改訂版」(東信堂)

2024-02-23

病床で「吸血鬼ドラキュラ」に励ましてもらった

実は、父娘の熱海旅行から帰って間もなくコロナに罹患してしまって肝を冷やした。自分の症状はともかく、高齢の父がかかってしまったら、もうこれは後悔してもしきれないと気が気でなかった。が、1週間しても父に症状が出ないのを確認し、ようやっとほっとした次第である。

私も週末2日間は高熱にうなされたものの、月曜から回復基調にのって今はほぼほぼ落ち着いた。クリニックの医師によると今は隔離期間が5日間のようで、それも開けた。

高熱がおさまってくると、ベッドの中で読みかけの怪奇小説「吸血鬼ドラキュラ」を開いて過ごしたが、思いのほか、この物語が私を励ましてくれた。

1897年に発表された、アイルランドの作家ブラム・ストーカーの長編小説で、ホラー映画はまったく観られない私だが、どう映像化するかが私自身にゆだねられている小説形式なら怪奇ものも読めないことはない、というのは発見だった。私の脳内監督は、一貫してピンボケ映像化に努めていた…。

このお話、メインキャラクターによる日記(あと手紙とか新聞記事とか)をつないで展開される「書簡体小説」という形式をとっていて、これが複数の主要人物による文章でつながっていくことで、立体的に状況が見えてくる物語になっている。

そこのおもしろさも多分にありつつ、私にとっては「知性とまごころの物語」と読めて、それが大いに励ましと示唆を与えてくれた。

長編小説には、本当に人を「大事にする」とはどういうことかが汲み取れる作品が多いと感じる。私が、それをこそ読み取ろうとする性向にあるというだけのことかもしれないが。

「大事だと言う」のは簡単だし一瞬だが、「大事にする」ということは難しく時間を要する。それがどういうものかを伝えること、二者の違いを伝承することも、また容易ではないし紙幅を要する。きちんとした物語世界を構築しないと、なかなか人から人へ伝えるということが叶わない。

単純な結論の導き方をすれば、例えば「高齢の父を旅行に連れ出し、コロナ罹患のリスクを負った」ところから「今後、安易に旅行に連れ出すべきではない」という結論も導けるわけだが、知性を働かせて、まごころを尽くして、人を思い、人を大事にするということの中で結論を導かんとすると、そこにはまた違った結論が起こしうる。むしろ、さきの結論の導き方は単純すぎて、軽薄で、浅はかで、無知性ともなる。そこにはいろんな結論の導き方があり、その選び方・作り方に個性も出てくる。

私は私で、自分なりの結論を、一つひとつのことに対して大事に導いていきたい。思慮深く、知性をもって、まごころを尽くして、私はどうするか、どうしないかを作っていきたい。それを豊かにするのに、こうした長編小説は大いに示唆を与え、励ましてくれる存在だ。まさかドラキュラを読んで、そんな励ましを得られるとは思わなかったのだが。

人は言葉に酔い、言葉に溺れやすい。自分を振り返って、「大事にする」行為より「大事だと言う」発信活動によっていると察したら要注意だ。しっかり立ち止まって、例えば長編小説を開き、居住まいを正す必要がある。そう思うのもまた、私の個性なんだろう。

*ブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」(創元推理文庫)

2024-02-04

際に立たずに立つ長編小説の文章

久しぶりに小説を読んでいる。嶋津輝さんの「襷がけの二人」。豊かな時間さね。和語が心に染み渡る。読み始めてすぐ、お初さんの家の描写があるのだが、

玄関先の竹筒に紫陽花(あじさい)花が挿してある。花弁はまだ色づいておらず葉のような薄緑で、それが却って目に涼やかで、清潔だった。筋目だって掃かれた路面には、きちんと水が打たれている。格子窓の手すりには、陶器鉢がひとつだけ、ちんと置いてある。

もう、これだけで、ぐっと小説を読む愉しみに浸かれる。作品の紹介文に幸田文、有吉佐和子の流れを汲むと見かけた。

際に立ったテキストがあふれるメディア社会において、あっちにつかず、こっちにつかず、文章はこういうところに立ち上がっている姿こそ凛々しく、美しく、価値があるものだなぁと染み入るのだった。はぁ、長編小説の尊さよ(主語がでかい)。

しゃっ、しゃっと、草履の裏で砂利を掃いて路上を浄めるように、滑らかな足取りで調子よく進んでゆく

自分の目に映る光景を、人の立ち姿や足取り、他者へのふるまいを、どうとらえるか。描写のもとには洞察があり、洞察のもとに現実がある。こんなふうに現実を豊かにとらえることができるんだよと、豊かな描写が教えてくれる。

自分の内側をどう豊かにしていくかは、こういう長編小説のなかにこそ、手がかりや助けがあるものだなぁと思う。

展開がうまくて面白い、読ませる物語だからこそなんだけど、いやぁほんとに、こんな作家さんが自分のちょい上の年齢で同時代に生きて作品を発表してくれているなんて、ありがたく心強いことだなぁと思った。

* 嶋津 輝「襷がけの二人」(文藝春秋)
* 山内マリコ「襷がけの二人」書評 家族からはぐれ女中と築いた絆(好書好日)

2024-01-16

専門性を磨く/専門家を育成する「手順」の落とし穴

専門性を磨く、専門家を育てるニーズっていうのは、個人目線でも組織目線でも高いと思うのだけど、欠かしてはならない前提が、専門性を発揮したり専門家の役割を果たすには「深さ」も必要だが「広さ」も必要になってくるってことだと思うんだな。

で、これを入門する段階で一気に両方身につけるのは無理って考えると、身につける順序、教えたり教わったりするステップの踏み方に一考の余地があるってことになる。

そこで、あぁこういう落とし穴にはまりがちなのかもしれないと思ったのが、次のスライド(クリック or タップすると拡大する)。

20240116

左の図、右の図、ともに縦・横に線をひいて十字にきって、上下の線が「学ぶ領域の広さ・狭さ」、左右の線が「学ぶ領域の深さ・浅さ」と分けている。

左側の図が、こういう落とし穴に落ちがちなんじゃないかと思った3ステップ展開。学び始めに、左上の「浅くとも広い」領域を経験する・させることなく、左下の「浅く狭い」領域、言い換えれば「簡単な作業」から入っちゃう。そこから実務経験を積み始めて、専門家に求められるだろう右上の「広く深い」領域を目指した場合、そこに到達する手前でヘタっちゃうんじゃないかな、と思ったのだ。

実務未経験の新卒社員が入ってきて、その若手を専門家として育てあげて戦力化したい。そのとき、手っ取り早く「実務経験を積ませる」ということでいうと、手元にある実務をふって、部分でも、とにかくこれをやってみろと、左下の浅く狭い仕事(簡単な作業)をふっていく。これの寄せ集めをこなすだけで「実務経験3年以上」の経歴保持者になることも、大いにありうる話だ。

しかし本当の意味で「専門性を身につける」ということは、一朝一夕で済まないのが前提の話。長い期間さまざまな困難を克服して壁を突破できるかというのを念頭におくと、右側の図のように、学び始めに「浅くとも広い」領域を経験する、ここの足場があるかないかが、長旅を続けて右上の「広く深い」領域に到達する可能性に効いてくるんじゃないかなぁと思う。

この4ステップ展開って、意識的に仕組まないことには、なしのまま左側の3ステップ進行するのが常だろうなと思い、対比的に図にしてみた次第。

高いレベルは求めない、組織が「浅く低い」領域を任せられる作業者を量産したい施策なら、左側の3ステップで事足りるのかもしれない。が、本人のキャリア戦略であれ、組織の人材戦略であれ、高い専門性を育みたいなら、右側の4ステップで「浅くとも広い」経験を最初手にどう組み込むか、どう許容するかが、けっこう大事な気がしたのだった。

これは実務貢献度とのトレードオフにもなるから、自分・自社環境で現実的に許容できる按配をはかって設定する必要があるんじゃないかな。というのもあって、すごく抽象的な描き方にとどまるけれども。

そんなことを考えさせてくれたのは、観世銕之亟「ようこそ能の世界へ―観世銕之亟 能がたり」*だったりするのが、人の世の趣きあることだなぁと味わっている。

能役者は、子どものとき稽古するのに、だいたい神さまの能から始めるのです。それからしだいに人間のドラマへと入っていく、そうしないと戯曲がだんだん細ってしまうのです。つまり、神の偉大さということを体現していないと、どうしても演技に膨らみがでてこないのです。

平易に言えば、まず仕事の醍醐味から味わう、その活動の大義に触れること、魅力に接触すること、というのかな。それなしに、ぐいっと跳躍が必要なスケールの成長の軌跡って、なかなか見込めないんじゃないかな、などと思ったりするのだった。

*観世銕之亟「ようこそ能の世界へ―観世銕之亟 能がたり」(暮しの手帖社)

2023-12-31

伝えようとする人の意を汲もうとすること

鶴見俊輔さんの「文章心得帖」の中に、

自分の言いたいと思うことが、完全に伝わることはない。表現というのは、何か言おうとしたならば、かならずうまく伝わらなかったという感じがあって、出発点に戻る

という一節がある。そうして「無限の循環をする」のが表現というものなんだと、冒頭で腹をくくる。

文章というのは、書いたものが人に読まれたときに初めて意味をもつわけではなくて、自分の内面で何か思いついたときから意味をもちだしている、とも。

実は自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるものが文章であって、文章が自分の考え方を作る。自分の考えを可能にする。だから、自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を書くとすれば、それがいい文章です

自分の文章であれ、人の書いた文章であれ、何かを思いつかせてくれたり、何か自分にはずみをつけてくれたとき、そのことを大事に認識したい。文章に限らず、人が表現したものに対して。

何かを完璧に伝えられたなんて表現はない。そういう前提に立てば、自分の表現にも、人の表現にも寛容さが生まれる。

そういう中でも表現を試み続けている人のそれを、両手を差し伸べるようにして受け取る心もちになる。その姿勢がとても大事だし、それによって実際に自分が受け取れるものもぐっと豊かになっていくだろう実感がある。

鍛錬すべき能力というと、とかく批判的にものを見たり文章を読んだりするスキルが語られがちだけれど、それ以上に大事なのが(大事なのに当たり前すぎてなかなかメッセージ化されて情報流通していないのが)、なにかの出来事に触れたり、話や文章を通じて人の考えや気持ちに接したときに、そこにポジティブな意味を見出そうと努めること、相手の意を汲んで読み取ろうとすること、それを発見して前に展開させる力だと思う。

うまく表現しきれていないけれど、相手が表現しようとしていることに己の想像力をめぐらせて汲み取ることができる。汲み取ろうと努めることができるし、鍛錬によって汲み取るスキルを高めていくことができる。これって、とても尊い人の性質だと思う。

大事なことってだいたい両極をもっているし多義的だ。何か一つのことに傾注しているとき、他にもいろんな大事なことがあるって前提を見失ってしまうと足元をすくわれてしまう。シーソーの中心に立っている自分の足の感覚をいつでも大事にもっていたいし、その足腰を支える基礎を養い続けることを一番に大事にしたい。

鶴見俊輔「文章心得帖」(筑摩書房)

2023-11-18

スタートアップに限らない「スタートアップのための人事制度の作り方」を読んで

金田宏之さんの著作「スタートアップのための人事制度の作り方」が大変ためになったのだけど、この本に掲載されている「従来の日本企業とスタートアップの人事制度の特徴」という表に改めて目を通してみて思ったことメモ(クリックかタップすると拡大表示する)。

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上の表は本の始めのほうにあって、従来企業と対比的にとらえた「スタートアップの人事制度の特徴」を示したもの。「スタートアップのための」本なので、表の右側のスタンスで行くよという本作の方針を指し示しているわけだが、これって「スタートアップ企業のための」に限らないよなって思ったのだ。

現在の人材市場を前提にすれば、これまで左側の「従来の日本企業」型をとってきた企業も、「スタートアップ」型の人事制度に移行・改訂せざるをえない情勢にあるんじゃないかなと。

少なくとも一旦検討プロセスを踏んだ上で、あえて差別化するために移行しないという意思決定をするならいいが、なんとなくそのままというのでは、この先の人材マネジメントがうまくいかなくなるんじゃないかと危惧する。

上の項目一つとっても、外の会社が「実力と成果と経験をベースとした昇格管理」をしている世の中で、「年齢と勤務年数をベースとした昇格管理」を続けているには、それなりの採択理由と説明責任が問われる。そこで納得いく理屈が説明できないと、有能な若手の離職リスクが高まる。

「従来こうだったから」「うちはこうだから」だけで従来方針を固持するのは早晩無理が出てくるというか、すでに無理が出てきているというか、けっこう今がぎりぎりの局面なのかも。検討の上「それでも、あえて」という会社があっても、それはそれで差別化とも言えるし、労使関係が双方で納得しているならありじゃないかと思うけれども。

この表のうち私が、これは「従来の日本企業」型でも「スタートアップ」型でも、各社でどちら型で行くか方針決めたらいいと思ったのは4項目に過ぎなかった(青色の背景色をしいてある項目)。この4項目は、各社ごとに色が違っていいだろうなぁと普通に読んだ。

1.「職種共通」の等級要件か、「職種別」の等級要件か
どれくらい「職種」ごとの分化して等級要件を定義するかは、事業ステージや各社の方針次第では?と思うので

2.「1次評価者・2次評価者」体制か、「メイン評価者・サブ評価者」体制か
後者は、直属上司をメイン評価者にして評価裁量を与えたほうが納得感高くないか?という話で、それはもっともだと思う。ただまぁ、どちらも評価者2名体制。制度上どちらにしても、結局どちらがメイン裁量権をもつかはその2人次第になりそう(運用圧が強そう)なので、一旦その会社の人たちが受け入れやすいほうを採用するのが現実的かも?ケースバイケース。こだわる人がいるなら、ここは譲りどころ

3.報酬の上下移動を「安定的」にするか、「刺激的」にするか
これは各社のポリシー次第、きちんと方針を決めて社員に共有すべきところ

4.報酬に「賞与、豊富な諸手当」を設けるか、「ストックオプション、最低限の諸手当」とするか
ここも各社の事業ステージとポリシー次第、きちんと制度化して全社共有すれば良いかと

逆に、この4項目以外は、スタートアップ企業かどうかを問わず、移行・改訂(少なくとも、その検討)に迫られている気がしたが、どうなんだろう。私は、従業員が万単位とか十万単位とかの企業とつきあいがないし、業種・業態的にもクライアントが偏っているので、もっと視野を広げたら見解を異にするのかもしれない。あまり決め込まずに、今後も目と心を開いて事にあたっていこう。

とにもかくにも、この本は「スタートアップ企業のための」じゃなくて「スタートアップ企業に限らず、今の時代のあらゆる企業に」有用なエッセンスが詰まっている良書だなぁと、ありがたく拝読した。

金田宏之「スタートアップのための人事制度の作り方」(翔泳社)

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