人間は心の脆弱性に対して無防備で
話題の東畑開人さんの新書「カウンセリングとは何か」の中に、カウンセリングが求められる現代の像、社会の変化について言及するところがあった。
近代以前、お互いが名前を知っているような小さな村落で暮らしていた頃は、宗教の役割が大きかったし、治療においては霊的な治療、社会的支援といった「問題を外在化する」治療(というか介入)アプローチが機能しやすかった。
これが近代以降、科学が発展してくると、現代医学の身体的治療、カウンセリングといった「問題を内在化する」治療アプローチが、機能しやすくなってくる。
社会や他者、霊や神の差配といった「外側」に原因の所在や治療・介入策を求めるのではなく、当の本人、個人の皮膚の「内側」の身体や心に治療すべき箇所を見出す。
表に整理すると、下のような感じ。個人主義の現代社会では、カウンセリングを含む「問題を内在化する治療」が、打ち手として機能しやすい。
医療人類学者アラン・ヤングが対比した2つの治療アプローチ(画像をクリックすると拡大表示する)
個人主義がうたわれ、「自分の生活スタイルや人生行路を自分で選んで決めていく」個人の生き方が尊ばれて久しい。となれば、それと引き換えに「自分の答えの出し方、それに納得して生きていく孤独と自立」が個人課題として立ち上がってくるのは当然のなりゆき。
そのわりに、人間は心の脆弱性に対して極めて無防備なまま。最近いろいろ学び直していても、そのことに思いふけることが多い。
この本の最終章に、ふたたび第1章に書かれていた上の話題に帰ってきて、一冊の本を結んでいたのも印象的だった。
神がいなくなり、王も貴族もいなくなる。僕らは自由な個人になった。その分、世界はひどく不確実になり、流動的になった。だからこそ、人は身分でも、宗教でもなく、自分の物語によって自分を証明することになり、人生行路を決めていくことになる。これが個人です。こうして生まれた個人たちの集合体として社会を作っていく。
「これが個人です」という言葉が、「個人主義」の現代社会を背景にして、ずしんと脳内に響いた。
著者は最後の最後、こう締めくくっている。
カウンセリングとは、近代の根源的なさみしさの中で、人が可能な限り、正直に、率直に、ほんとうの話をすることを試み続ける場所である。
私は「カウンセリングとは」を外しても、こういう場所が社会のそこここに、広くも大きくもなくていいから一人ひとり個々人の身近にあることが大事だろう、と読んだ。著者も、想いをともにしているように読めた。
私たち昭和生まれの現役世代の中には、全員とは言わずとも、親世代、祖父母世代、あるいは自分より少し上の先輩たちから、こういう場所を与えてもらった人が少なくないと思う。可能な限り、正直に、率直に、ほんとうの話をすることを試み続けられる場所。
そうした人との関わり方を上世代が与えてくれた営みを大事に受け継いで、次の世代に引き継いでいかなきゃいけないのではないかって、最近よく思う。「若者に対して老害は働きたくないから」といって、あらゆる継承を無責任に自分世代で断ち切ってしまうことなく、自分が先代から与えてもらった(自分が)良い・素敵・楽しい・面白い・美しいと思うものを、ここで改めて振り返って、バトンを渡してみること。
先代より、もっと前から脈々と伝承してきた人の営みとか、場とか、人づきあいといったものを次の世代にも伝えていくことって、難しいからこそメディアにはできないことで、目の前で直接関わる人間にしか、腰をすえて長く関わっていく人間にしかバトンを手渡せないものじゃないかなと。それは、ある世代とある世代にはさまった世代の役目として中年が果たしてきた大事な務めではないかと。老害回避が全盛の世の中を前にして、あまのじゃくに思ってしまうのだった。
まずは伝えてみて、見せてみて、共有してみて。それから、それをどう取捨選択するか、どう応用したり断ち切るかは、若い世代が決めたり試行錯誤することであって、引き継ぎ元の自分たちが決めることではないのではないかなぁと。そんなことを思いながら、いくらか厚苦しく、自分なりに細々若い世代と関わっている。
* 東畑開人「カウンセリングとは何か 変化するということ」(講談社現代新書)







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