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2026-09-29

語釈の御託を述べる

「あらゆる差別を禁止」条例成立へ、東京・国立市という日経の記事見出しに目が止まった。ここで私が話題にしたいのは、記事内容についてではなくて、日本語の「差別」の意味とか使い方についてなのだけど。(前置き重要)

記事の本文を読んでみると、もちろんだが、国立市の条例は「あらゆる差別を禁止」とは言っていない。

「人種、民族、国籍、性別、性自認、障害、職業、被差別部落出身などを理由に差別を行ってはならない」

というわけで、「あらゆる差別を禁止」ではなく「不当な差別を禁止」という話である。

これを日経が見出しで「あらゆる差別を禁止」にデフォルメしたわけだ。メディアの見出しが、多少の厳密さを欠いても耳目を集めようとするのは世の慣わし。多少をどこまで許して許さないかは人それぞれ違うだろうが、とりあえずこれをもって「絶対に許すまじ」という話をしたいわけじゃない。

個人的に、日本語として「差別」という言葉をどう扱ってきたかでいうと、私は長いこと「差別」というワードはフラットに「ある基準に基づいて,差をつけて区別すること」と理解して運用してきたのだ。

その「ある基準」という物差しに「不当なもの」と「正当なもの」とがあって、「不当な差別は良くない」という話。そういう構造で、この言葉を使ってきた。私の中には「正当な差別」という領域も、あり続けていた。

だけど、もう何年も前に「差別」の意味について話題にしたとき、「差別は、不当な差別の意味あいだけっしょ?」という感じの反応を示した知人がいて、私は激震した。私が何をそんなにこだわってるのか意味がわからないというふうに眉をひそめるのである。

私は肩を落としてその話を終わりにしたのだが、後から、え、だって、あなた、これまでさんざん「競合他社との差別化」とか悪気なく使ってきたじゃないの?それ、まさか「不当上等だぜ!」と思って客先にプレゼンしていたわけじゃないでしょう?と思ったりもした。

以来なんとなくもやもやと、「正当な差別」という認識領域は、日本語が交わされる社会の中でどうなっていくのか、狭まって消失していくのだろうかと静かに様子をうかがってきたのだった。

この間、駅のホームで電車を待っていたときに、こんな「正当な差別」事例はどうだろうか?と思いついた。1番線と2番線では、アナウンスの声が男性の声(低音)と女性の声(高音)と使い分けられている。これって「正当な差別」じゃないだろうか。え、それは「区別」じゃないか?よし使ってみてみよう。

「1番線と2番線の声を区別している」
区別にすると、それはアナウンスを聞く客側の行為が思い浮かぶ。

「1番線と2番線の声を差別している」
差別にすると、駅のサービスを提供する側の行為になる。JRとかメトロとかが、お客さんが判別しやすいよう「1番線と2番線の声を差別化している」ということだ。

区別か差別かで、行為者が違ってくる。とすると、区別という言葉では「正当な差別」行為を言い表すのをまかなえないではないか。これでは困るだろう?やっぱり「差別」という言葉の意味に「正当な差別」も含められるように残しておいたほうが困らないんじゃないか?

なんてことを脳内でぶつぶつやりながら、自分をなぐさめる。世情が変われば、それに合わせて使う言葉を変えていかなきゃいけない。だけど、めったやたらに世情に流されるのも違う。だって、そこにそれがあるのに、それを言い表せなくなったら困るじゃないか。私は言葉を大事にしたいのだ。

2026-09-28

「組織の施策を考えるときの頭」で研修を考える

複数の会社に共通して、こういうことを共有したら有効活用してもらえるかなというイメージがあったので、2枚のスライドをシェアしてみたい。

1.研修の足場を組む「四つ角」を確認する

1_20260928090101

2.「今回の研修」で、四つ角を押さえてみる

2_20260928090101

社内研修を作りたいときって、特別に突飛なものとして考えずに、普通に「組織の施策を考えるときの頭」で考えたらいいというか。

これをブレイクダウンして詰めていくときには、確かに研修ならではのノウハウみたいなことがいくらでも出てくるんだけれど、この四つ角の足場を最初に押さえてからとりかかれば。


研修の実施目的
組織目線での目的・課題・思惑を明確にする

現在地
育成対象者の現在地を明確にする

到達ゴール
研修のゴール・範囲を明確にする

条件・リソース
実施条件や使えるリソースを明確にする


あと「現実的にこれは無理があるっしょ」みたいに思う肌感を大事にして取捨選択していけば、そんなにおかしなことにはならないというか。突き出しに、お口に合えば幸いです。

2026-09-22

人は「一般論」では救われないから

村上春樹の初期作を読み耽る夏だった。話題の最新作「夏帆」を読む前に…と、昨年に文庫化された「街とその不確かな壁」を読んだら、まだ読めていなかった初期の作品群に心ひかれて「羊をめぐる冒険」上下巻を一気読み。その勢いで「1973年のピンボール」、「ダンス・ダンス・ダンス」上下巻、「風の歌を聴け」と初期三部作を立て続けに読んだ。

発刊順でないのは私が長編好きだからで、長編の後日譚だか前日譚だかを装って短編を紛れ込ませたほうが流れに乗って読みやすそうだったため。結果「3→2→4→1」の順で読んで正解、緩急をつけて味わえた。

最初に手に取った3作目の「羊をめぐる冒険」に、鼠が主人公に言い返す、こんなセリフがあった。

一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしてるんだ

これを読んだとき、若き村上春樹が小説家として何がやりたいのかを訴えているように読めて、当て推量だが一人感じ入った。

その後、私的にはオーラスにしてデビュー作の「風の歌を聴け」を読み出して早々、あっ!となった。

あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。

文庫本めくって2ページ目の冒頭に、こう釘を刺してきたのだ。一見もっともらしく聞こえる教訓を挙げて、そういう一般論で人間個人が救われると思うか、救われたことがあったかと問いただしてくるような一節だ。一般論は軽率に「あらゆる」「何か」を多用する。

私のいる2026年は、一般論が花盛り。しかも「善は急げ」と「急がば回れ」みたいな対極の一般論がA群とB群に分かれ、文脈を共有しない者同士で泥団子を投げ合っているようなのが散見される。そんなことをしても、どこにも到達しないし、誰も救われないし。という、この文章も実に薄っぺらく、どこにも到達しないし誰も救わないから途方に暮れる。だからか、この「一般論」の訴えには身に沁みるものがあった。

最近になって村上春樹さんがエルサレム賞の授賞式で行った「壁と卵」のスピーチも読み返してみたが、あれにも通じている。一貫して、人間個人は一般論では救われない、ゆえに小説を書いているのだと、切々と訴えかけているように響いた。

そういえば、あのスピーチには同意しかねるという人があったな。その時の私は、そういう人もいるのだなと思うどまりだったけれど、今一度よく噛み砕いてみるとおもしろい。

その高く堅い壁が正しく、その前で割れる卵が間違っていようとも、私は常に卵の側に立つという話だった。

私はその話の核心を、その壁の正しさってどれほどのもんじゃい!という「正しさの不確かさ」を突くメッセージとして解釈した。正しさと間違いを決めるのは常に人間だ、虫も鳥も動植物も答えをもたない。その人間に、完全な統一見解など望めない。文化、地域、時代変われば、いくらでも価値基準も判断も変わるのは、歴史をみれば明らかだ。人間が未来永劫どの地域、どの文化圏でも統一見解をもつ日が来るとすれば、それは完全に人類が規格化され画一化された世界においてだろうか。

その人は「システムと人間の話」として解釈していたかもしれない。それが正しいシステムであるならば(と仮定した場合)、いっときの情だかなんだかに流されて間違った人間の側に立つよりも、システムの正しさを採択すべきじゃないかと。

この仮定が成り立つなら、ふむ。でも、その仮定はどれほどありうるのかと考えると、私からすればゼロだ。そこに立脚すると、私の考えは折れない。

でも、それもまた人それぞれにいろんな解釈があって、散って分かれるのが自然なのだろう。腹を割って話し合えたら、これ幸いということだ。

そして本当に大事なことは、物語の中の中のほうに沁み込んでいる。スピーチの最後の最後のほうにある。私たちは間違う、不器用で不完全で、完璧なんて一生無理な上に、世の中は理不尽で不条理で秩序だっていないこと多々あり、一度整理した秩序も長持ちせずに無理が出てくる始末。

それを織り込み済みで生きていくタフさが個々人に求められる。人と協力しないでは到底、一人では生きていけないのも明らか。そういう前提を一つひとつ各現場・各人ベースで指差し確認していかないと、もうもたない。一般論ではやる方なしだ。

小説家を生業とする村上春樹が「私は常に卵の側に立つ」というのも一般論ではない、「俺は今とても個人的な話をしてるんだ」というふうに響いて心を打つ。

* 村上春樹氏のエルサレム賞受賞スピーチ(試訳)

2026-09-11

つくり始めの人は、トゥーマッチになりがち

岡村靖幸・俵万智「短歌ご一緒しませんか」を読んだ話は先月もこのブログに書いたが、他にもいろんな観点で読みどころが満載で大満足だった。

そもそもこの本を手にしたのは、歌人の俵万智さんが短歌を「初心者にどう教えるのか、どう関わるのか、どう野暮から粋への手ほどきをするのか」を一冊を通して観察してみたかったから。なのだけれど、その収穫は多方面に及んだ。

その一つが「初心者はトゥーマッチになりがち」という俵万智さんの指摘に始まる金言の数々。その指南は胸に響くものばかりだった。

俵)短歌というコップの中に入るちょうどいい濃さというのがあるんです。濃すぎても美味しくないし薄くてもダメ

これって短歌以外にも言えるなぁと。ブログの文章でもそうだし、仕事のプロジェクト計画でもそう。「スコープと焦点を定めると洗練される」というのは共通するところ。

人に伝えたいことがあって、その相手に届けるために作るものであるなら、載せる媒体、入れる器に適した情報量や濃度に、中身をうまく合わせて作らないといけない、届かない。

なんだけど、このブログしかり、「うまく枠にはまっていない、容れ物に対してトゥーマッチ」と、それは承知しているもののうまく削れないのが初心者。せっかく思いついた言葉を削るのは惜しい、削りたくない、削ろうと思っても削り方が思いつかない、だからやっぱり削らない。結果トゥーマッチのまま、作者は初心者にとどまり成長実感もない。

俵万智さんの言葉は、そこで「やーめた」と匙を投げないでいいよう、初心者に救いの手を差し伸べる。トゥーマッチを「野暮」と突き返して終わらせるのではなく、その先に前進する道筋を大小様々に示す。

俵)三十一文字だからといって節約しながらあれもこれもぎゅうぎゅうに詰め込もうとすると、かえって伝わらなくなっちゃう。だから、バラして二首か三首にしたらけっこう良くなることがあるんです。

1首で詠みきろうとせず、2首3首に分けて作ってみたらいいよと。そうしたら3首作れるし、作品のくどさも回避できて一挙両得でしょうと。そんなふうに初心者の気持ちを盛りたてて、この先の創作活動を励ますように具体的に指南している、さすがだなぁと思った。岡村ちゃんとのやりとりの中で、それを自然と成しているのだ。作り手ならではの、すごく実践的で、初心者の気持ちを汲んだ関わり方だなぁと感服した。

小分けにして、削ったほうは別所で活かす。そういうスタンスに立てば、心置きなく手元の一つに集中して、今ここで最適なスコープや焦点を見直せるというものだ。こういう考え方って、短歌じゃないところでも大いに使いどころがある。「潔さの獲得」とでも言おうか。

仕事でプロジェクト計画を立てるときにも、適した情報量や濃度ってある。自分が今この状況でプロジェクト化してやるべきサイズ感。期間、予算、巻き込む人の数、達成水準や範囲など。見えない枠組みというのがある。そこをあんまり逸脱したプロジェクト計画を立ててしまうと実現性を欠いてしまう。自分もマネジメントできないし、人もついてこない。そうなんだけれど、机上で計画を立てている段階では初心者ほど、もりもりトゥーマッチな計画を立てがちだ。

私はプロジェクトの音頭を取るとき、大きな目的は見据えつつも3ヶ月程度に小分けして、フェーズ分けすることが多い。自分の身の丈サイズで短期プロジェクトを積みあげていったほうが、結果的に1年後の目的実効性が高い。自分も人も動きやすいし、途中で発生した調整ごとも、すぐ認識合わせして回収できてスケジュールを圧迫しない。そうして小プロジェクトを成功裡に終わらせ、その収穫を足場に3ヶ月後の現在地を見渡して次フェーズを計画したほうが能率がいい。

「トゥーマッチ」を逃れる方法は、この一冊を通してふんだんに指南されるが、「主語を大きくしない」という話をした後の、俵さんの一言も含蓄があった。

俵)「世界」とか「人類」とかが詠えないわけではないんだけれども、それを詠うためには、焦点を絞ったほうがいいってことですね。

大きなテーマを言いたいときでも、それを届けるためには焦点を絞ったほうがいい。これも短歌に限らない。

大きな言葉をそのまま出しても、ただの一般論で終わってしまう。受け取る方は「そうですね」としか返しようがないし、後にも残らない。せっかくの作品も没個性化してしまう。いかに大きなテーマが自分の内側にあっても、そこに創意工夫を加えて自分ごとに引きよせて焦点化した表現にこだわる。そこに創作の醍醐味がある。

具体的な何を自分は観察対象に取り上げて、それのどこに着目して、何を思い出したり考えたのか。それをどう表現しようか。そこに趣向をこらして詠んだ歌が、読み手に響いて、相手の手元で想像が広がっていく。この一冊を通して、いろんな投稿者さんの短歌を読ませてもらうことで、そういうことを体験させてもらった。こうして読者が自分の手元で想像を広げていける短歌的な一冊、重層的な読書体験だった。

ほんで結局、トゥーマッチなブログになっちゃうんだから、もう本当に。たくさん削って、これなのだ。ずっとこの調子、道のりは長いのだ。

* 岡村靖幸・俵万智「短歌ご一緒しませんか」(筑摩書房)

2026-09-09

最短距離を狙う直感が、まわり道を誘う

今日の打ち合わせでおしゃべりのネタにしてみたら、わりとクイズとして行ける感触を得たのでプチ共有。

8歳の子どもたちを集めて、玉投げの練習をしてもらった。8歳児には目隠しをしてもらい、その状態で的に向かって玉投げする練習をしてもらう。そのうち半分(Aグループ)は90センチ離れたところから玉を投げる練習。残り半分(Bグループ)は60センチと120センチ、2通りの離れた距離から玉を投げる練習をした。目隠しをしているので、研究者が本人に「どれくらい届かなかったか/行き過ぎたか」を口頭で伝えた。

12週間後、A・Bグループすべての児童に、90センチ離れたところから玉入れのテストを行った。さて結果はどうなったか?

(画像をクリックすると拡大表示する)

Ballthrowingpracticeresult

どちらかのグループが圧倒的にうまくいったか、AかBか。それともグループによる差は生じなかったか。

12週間後のテストが「90センチ」というのがポイントだ。Aグループは、ずばり90センチで練習している。Bグループは、ずばり90センチでは一度も練習していない。けれど条件の異なる距離で2通りの練習をしている。

正解はBだ。圧倒的にBグループの児童が、うまくできた。これは、なかなか示唆に富んだ調査報告だなぁと思った。「多様練習」の研究成果だ。

私たちは何かを学ぼうというとき、できるだけ短い時間に早く労なく習得したいと思う。そうしたとき、ひとつのことを完璧になるまで一気に何度も練習する「集中練習」が最も効率的だと考えがち。だからAグループの「90センチ」だけで練習を繰り返して玉が入る確率を早く100%に近づけようと頑張っちゃう。

でも実は、いろんな条件下で練習する「多様練習」のほうが、習熟度を高めるには能率がいいことが実証されているという。玉投げのような運動技能の習得にかぎらず、知的技能や認知的スキルでも、同様の研究があって実証されているのだとか。*

試験を受けた後さっぱり忘れても構わない一夜漬けの勉強なら話は別だけれど、せっかく勉強したのに1日で忘れちゃ困る学習であれば(大人の仕事分野では、そればかりだ)集中練習より多様練習のほうが、後まできちんと記憶に残って身につく。学習したことが必要になったときに、新しい状況でも学んだことを柔軟に記憶から呼び出して発揮されやすい。

今どきの仕事は単純作業で済まないし、専門性を発揮したいなら応用力がマストだ。それを「早く専門性を身につけたい」から「それと関連しないことはやりたくありません」とガチガチ集中練習にこだわってしまうと、どんどん多様練習の機会が遠のき、応用力を鍛える機会を損ない、スキルもキャリアも痩せ細ってしまう懸念がわく。

話を飛躍させすぎていると思うかもしれないが、どうにもこの辺のこととリンクしてしまう。こういう時代こそ、おおらかに遊びのある研鑽の積み方を心がけたい。そのほうが柔軟性が高まって「つぶしがきく」キャリア形成ができるだろうと思う。

*ピーター・ブラウン、ヘンリー・ローディガー、マーク・マクダニエル「使える脳の鍛え方 成功する学習の科学」(NHK出版)

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