語釈の御託を述べる
「あらゆる差別を禁止」条例成立へ、東京・国立市という日経の記事見出しに目が止まった。ここで私が話題にしたいのは、記事内容についてではなくて、日本語の「差別」の意味とか使い方についてなのだけど。(前置き重要)
記事の本文を読んでみると、もちろんだが、国立市の条例は「あらゆる差別を禁止」とは言っていない。
「人種、民族、国籍、性別、性自認、障害、職業、被差別部落出身などを理由に差別を行ってはならない」
というわけで、「あらゆる差別を禁止」ではなく「不当な差別を禁止」という話である。
これを日経が見出しで「あらゆる差別を禁止」にデフォルメしたわけだ。メディアの見出しが、多少の厳密さを欠いても耳目を集めようとするのは世の慣わし。多少をどこまで許して許さないかは人それぞれ違うだろうが、とりあえずこれをもって「絶対に許すまじ」という話をしたいわけじゃない。
個人的に、日本語として「差別」という言葉をどう扱ってきたかでいうと、私は長いこと「差別」というワードはフラットに「ある基準に基づいて,差をつけて区別すること」と理解して運用してきたのだ。
その「ある基準」という物差しに「不当なもの」と「正当なもの」とがあって、「不当な差別は良くない」という話。そういう構造で、この言葉を使ってきた。私の中には「正当な差別」という領域も、あり続けていた。
だけど、もう何年も前に「差別」の意味について話題にしたとき、「差別は、不当な差別の意味あいだけっしょ?」という感じの反応を示した知人がいて、私は激震した。私が何をそんなにこだわってるのか意味がわからないというふうに眉をひそめるのである。
私は肩を落としてその話を終わりにしたのだが、後から、え、だって、あなた、これまでさんざん「競合他社との差別化」とか悪気なく使ってきたじゃないの?それ、まさか「不当上等だぜ!」と思って客先にプレゼンしていたわけじゃないでしょう?と思ったりもした。
以来なんとなくもやもやと、「正当な差別」という認識領域は、日本語が交わされる社会の中でどうなっていくのか、狭まって消失していくのだろうかと静かに様子をうかがってきたのだった。
この間、駅のホームで電車を待っていたときに、こんな「正当な差別」事例はどうだろうか?と思いついた。1番線と2番線では、アナウンスの声が男性の声(低音)と女性の声(高音)と使い分けられている。これって「正当な差別」じゃないだろうか。え、それは「区別」じゃないか?よし使ってみてみよう。
「1番線と2番線の声を区別している」
区別にすると、それはアナウンスを聞く客側の行為が思い浮かぶ。
「1番線と2番線の声を差別している」
差別にすると、駅のサービスを提供する側の行為になる。JRとかメトロとかが、お客さんが判別しやすいよう「1番線と2番線の声を差別化している」ということだ。
区別か差別かで、行為者が違ってくる。とすると、区別という言葉では「正当な差別」行為を言い表すのをまかなえないではないか。これでは困るだろう?やっぱり「差別」という言葉の意味に「正当な差別」も含められるように残しておいたほうが困らないんじゃないか?
なんてことを脳内でぶつぶつやりながら、自分をなぐさめる。世情が変われば、それに合わせて使う言葉を変えていかなきゃいけない。だけど、めったやたらに世情に流されるのも違う。だって、そこにそれがあるのに、それを言い表せなくなったら困るじゃないか。私は言葉を大事にしたいのだ。



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