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2026-07-12

活かすか捨てるかは若者が判断すればいい論

自分と同世代か、その周辺の、年齢にして40〜60代くらいの人たちが、「自分たちのやり方は今の時代にそぐわないだろうから、若い人は若い人たちのやり方でやったらいい」というのに、「ちょっと待った!」と思うことがある。

実際そうすべき現場やシチュエーションというのも、世の中には多分にあるのだろう。現場現場で個別具体の事情が異なるから、長いこと不特定を相手にもの言う気にはならなかったのだが、ここでぼそっと書きながら自分の脳内にうごめく考えを整理してみたい。

私は「その取捨選択って、年輩の自分たちが判断することじゃなくない?」って胸がざわつくことが、ままあるのだ。

次の時代・次の世代に「それまでのやり方、考え方」が使えるのか使えないのか。ちょっと応用することで使いものになるから基礎としては知っておきたい、身につけておきたいことなのか、そういうものじゃないのか。断じて使いものにはならないが、それを下手に使わないためにも年輩者からじっくり教わっておくのが得策か、話半分で切り上げたいか。そうしたことは、受け取る側の若者が判断することであって、受け渡す側の年輩者が判断つくことじゃなくないか?と。

それを、何を勝手に、自分にその判断ができると思い込んで、あれもこれも渡す前から「若い人には使えないもの」と決めこんで、「教えない、伝えない、授けない」に、謙虚な風情で断定しているのだ?と。

アナログな作り方。基礎から作る工程や要諦。一定のストレスを自分にかけて突破していく面白さ。見知らぬ人と仕事を通じて出会い、少しずつ信頼関係を結んでいって志しが通じ合い、活動を励まし合って多様な世代と親しんでいく楽しさ。自分ひとりではできなかったり思いもよらなかったことを、勤め先や業界の後ろ盾をもって自分が社会的役割を果たしていくやりがい。

そうだな、こう書いていると私は「自分が経験的に嫌だった、不毛だと思ってきた」慣習などを、年輩者が自分のところで断ち切っている様をみても、別に「ちょっと待った!」とは思わない。

どういうときに「ちょっと待った!」と思うのか自己洞察してみると、自分では経験的に「楽しかった、面白かった、充実感をおぼえて今も自分はそのやり方、生き方を大事にしている」ということを、若者に教えない、伝えない、「いやいや、今の若い世代は違うんでしょう?」と勝手に決めつけて「私らおばさんおじさんは、とち狂っちゃってるけどさ。気にしないで若い衆は若い衆で自分たちの楽しいこと自由にやんなさい。押しつけたりしないから」みたいなことを見聞きする場面だ。

そんなに世代で全部を言い切れるもんじゃなかろう?人間という生き物は、ひと世代でそんなにがらっと一斉に、興味関心を総入れ替えして、画一的に性質を変えるものだと思うのか?と。

それを、さも自分が寛容で賢明で、新しい時代精神をわきまえている人間のようなふるまいをしているのに「ちょっと待った!」って思っちゃうのだ。

自分は上の先輩たちから、上の先輩たちはさらに上の先人たちから、たくさんのものを教わり、たくさんの人や新しい機会との出会いを授けられてきたのに、なぜその伝承・継承のあれもこれも思慮浅く、自分のところで断絶していいと思っちゃうのか。その判断の根拠は、どれほど確かなものなのかと。

とりあえずは押し付けでなく若者に伝えてみて、それをどうするかは若者に判断を任せたらよかろう。そうしたものが、今伝えることを差し控えている年輩者の「楽しい」「面白い」「有意義」な経験の中に、まだたくさんあるのではないか。

いらなかったら若手が捨てる。いるなら若手が活かす。今流に改良を加え、自己流にアレンジして活かすものもあろう。なぜ、そのリソースの提供を出し惜しむのだ。押し付けでなく、いったん教えてみたら、伝えてみたら、披露してみてもばちはあたらないんじゃないかと。

勝手な決め込みをはたらく腹のうちを探っていったとき、実は「教えたくない、自分の仕事や役割、ポジションをとられたくない」という保身のためであったり、「教えるのが面倒くさい、面倒くさい人と思われたくない、自分のことだけこのままやっていたい」という怠惰のためという自分都合ってことはないかと。

もしそうだとすると、これは一度じっくり考えてみたほうがいい案件だ。自分は分をわきまえた賢明で寛容な人間だから、老害をはたらかず若手を自由にしてやっているのだと思い込んでいる場合、そのまま行った先で自分自身のキャリアが急に断絶してしまうリスクもある。

率先して引き継ぐ、教える、伝授する、そうして徐々に自分の役割や立ち位置をずらしていく。空いた時間で他をやってみる体勢にシフトしていくほうが、実はキャリア選択の柔軟性が帯びていって、仕事を長く続けやすくなったりするかもしれない。逆に、出し惜しんで自分の仕事を自分の手のうちに囲っていると、その仕事は組織の中で価値を停滞・後退させていって、気づいた時にはどうとも選択肢を失っているかもしれない。

実際には、丁寧に年輩者から若手に教えている現場というのがいくらでもあるのだろうし、へんな言説がメディアにのって悪目立ちしているだけだとも思うのだけども。

自分の脳内をこうして探ってみるに、自分が面白いと思って生きてきたことは、若者にも出し惜しみせず、まずは教えたれよ、共有してみようよってことかな。自分は先輩たちにたくさん教えてもらって、今ここにいるのだから。

2026-07-11

能力要件を整理・言語化して一覧化する云々

人事院が「国家公務員に求められる能力を整理・言語化、スキル一覧を作成して各府庁に提供した」というリリース。職業柄こういうものはわりと好物で、よく噛んで味わう。

省庁や業務を超えて共通性が高いと考えられるスキルを特定し、57の能力要素を言語化したラベルを作成したという。

説明資料まで目を通してみると、「ヘルスリテラシー」っていうのが私的には新用語だった。巷でそこそこ使われている言葉なのだろうか、それともこの話し合いの過程でオリジナルに作り出したワードなのだろうか。あと「ナラティブ力」出た!と思った。

国家公務員スキル一覧(クリックすると拡大表示する)

Nationalcivilservantsskillslist

「分類」というのは、現実世界のカオスから、どこかの誰かが何かしらの秩序を持ちこんで体系だてる作為であるからして、それをした人らの思想やらポリシーやら美意識やらが反映され、目的やら戦略やら戦術能力やらが顕現する。ときに中の人の無意識のまま、死角やテキトーさが剥き出しとなって露呈していることもある。

非公開の内部資料までつなげてみれば見え方も変わるものだから、外野からの見立てはあくまで妄想と憶測にすぎないわけだが、健全に言い換えれば「検証なき仮説」とでも言おうか。私は、いわば日常のトレーニング教材として、自分の関心ある分野の「分類」というのを外部資料でも、するめのように味わう。

それでいうと、これは、なんというか、別にこれといった出汁の出ていない感じが、味わい深かった。

「国家公務員の〜」をはずして、一般的なスキル一覧として市販書にサンプル掲載されていてもおかしくない感じというのか。地方公務員とどう違うのか、民間企業とどう違うのか立ち上がってこないところに個別具体性の低さを覚え。この後これを足場にして自ずと何が導けて、どう使えるつもりなのか見えてこないところに有用性の低さを覚え。

もちろん、こう見えている私の目が節穴であることを、こう書いていることによって自分で露呈している可能性だって十分ありうるわけだが。

良くも悪くも、この手のものは「作成者の自己満」成果物に陥りやすいので、眉間に皺を寄せながら見る癖がついてしまっている。

分類というのは、どうも人を「漏れなくダブりなく作れたら達成」という気分にさせて、当初目指していた「役に立ってなんぼ」という志しを煙に巻く作用があるんじゃ?と私は疑ってかかっている。

今後は同一覧を人事院が実施する各種研修の充実、主体的な学びの支援などに活用していく。

とあるが、最悪な展開は、個別具体の文脈こそものをいう「ナラティブ力」みたいなのを、これだけ切り出して超脱文脈化した「ナラティブ研修」とかやって満足しちゃう顛末だ。そういうのは、全業種対応、誰でもござれの薄利多売系「ロジカルシンキング研修」で、なんともならなかった事例を彷彿とさせる。

「漏れなくダブりなく」だけ頑張ったキレイな体系図は、受け取る側からすると「ほんで?」「だから?』「So what?」ってなるんだけれど、渡す側があんまり生き生きとした表情で持ってくると、鼻をへし折る気になれず「あぁ、どうも」と受け取って、さらっと置きっぱなしになる。そういうやりとりで終わってしまうと、一向に問題は露呈せず、組織の人材開発も前進しない。声をかけあっていきたいものだ。

とか、いろいろ思っちゃうけれども、こういうのを開示してくれるのはありがたいことだ。感謝して、頭を肥やしていこう。

2026-07-05

いまだにメールを全部手打ちしている

私はメールを、いまだに全部手打ちしている。「お疲れさまです」と書いているときは、お疲れさまだなぁと思いながら打っている。「お世話になっております」と書いているときには、お世話になっているなぁと思いながら打っている。

みんな忘れているかもしれないが、本来「お疲れさまです」とは、「お疲れさまだなぁ」と思って贈る言葉である。「お世話になっております」とは、「この人にはお世話になっているなぁ」と思いながら、贈る言葉である。

私も別に立派な人間ではない。「思うが先か、書くが先か」と詰問されれば、私はしどろもどろになって「書くほうが、先行しているかもしれない」と応じる。しかし、手打ちしていると、むくむく言葉が自分の心を立ち上げてくる。

定型句を書きながら、その人への思いが改めて確認され、深まっていく。そのうち、その人から離れたところまで自分の考えるフィールドが広がっていって、いろいろな思考なり感情なりが私の中で膨らんでいく。

その人への感謝の念が篤くなる、健康や快復を願う、あの後どうなったかなと慮る。きっとうまく行きますように、と祈って応援する。

そうだ、あの件を教えてあげよう。あのことを話そうと思っていたんだった、この人はこれについてどう思うだろう。そんなふうに、あれこれの話題を思いついたりもする。そうしたことは、今度会ったときに話そうというので、手元のカレンダーアプリや次回のアジェンダメモに書きつけておくことも多い。

そんなことをしているうち、自分の関心と、最近読んだ本の一節が頭の中でリンクしたりして、本を手にとり直したり、その時のノートを開き直したり、仕事のファイルを確認したりと、別の頭が働きだす。今やっているこの仕事と、こう重なるんだよなぁ、今度時間に余裕があったらシェアしてみようなどとも思いつく。

そんなふうにして型通りの挨拶や定型句は、それを起点に様々な定型外へ展開していく。ときに道くさし、ときに羽をつけて飛んでいき、ときに本筋に深く深く潜っていく。そうやって方々へ編みこまれていくのを、私は人の日常の営みとしてとても大事に思っている。人にメッセージを書く過程というのは、その相手がいなければ得られなかった、私固有の尊い人生時間である。

ここ数年、仕事はメール以外にメッセンジャー、案件によってSlackを使うが、仕事ど真ん中を離れると、季節の挨拶や感謝の気持ちを届けるのに、封書とハガキが加わった。

封書やハガキで手書きをしていると、しみじみ一言を選ぶ意味というのを感じられる。何を書いて、何は書かないか。どういう言葉で伝えるか。便箋も選ぶし、封筒も選ぶ。ペンも悩む。文字の書き方もあらたまる。一つひとつ真剣にのぞむ必要に迫られる。

これが、人が人にメッセージを送る行為の原点、基本的な価値なんだろうと体感する。

一番おおもとにはきっと、送り先の相手が立ち上がって、送り先の相手に届けたい自分のメッセージがあって。これが自分を駆動させて、そこに、どうしたら相手に真意が伝わるだろうかと創意工夫が生まれてくる。相手に配慮する言葉や心遣いも生まれてくる。

効率化や付加価値追求もいいけれど、基本的な価値を見失ったり、浅はかに削り落とされたりした人の営みには、本来的な意味が残っていない。それならば確かに、メッセージを送ることそれ自体無駄に感じられて、いっそやめてしまえというのも理にかなっている。

しかしそもそも、何の意味を求めてそれを始めたのだったか。今それを根こそぎにして手放していいのか。その辺の思考回路のいまいちつかめない効率化や付加価値追求の活動にふれることも少なくない昨今なのだった。

どんなにシンプルでも、基本的価値に満ちた営みにこそ意味がある。私はそこに立脚して、自分の時間を大事に使いたいと思う。

お便りというのは、一回性に基本的な価値があるように思う。私の人生はお便りのおかげで、たいそう豊かになっている。とても感謝している。

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