村山由佳「DANGER」を読んで
村山由佳さんの「DANGER(デインジャー)」を読んだ。村山さんのお父上は、終戦後も4年間シベリアに抑留された。その抑留生活のことを、80歳を過ぎてから自叙伝に書き記した。その手記が、この小説の土台になっている*という。
主人公の一平(いっぺい)は25歳で、週刊誌の記者。同じ出版社で働く果耶(かや)先輩は27歳。今回ふたりがタッグを組んで取材する世界的バレエ振付家の久我(くが)氏は72歳。
そして読者の私は50歳、ちょうど真ん中に位置する。といっても、このお話は「今現在1992年」という設定なので、実年齢的には私のほうが主人公より1世代下にあたるが。
なんでそんなことを思ったかというと、読みながら久我氏の「伝える側」の気持ち、一平の「教わる側」の気持ち、どちらにも多分に共鳴するところがあったからだ。
50歳というのは、世代違いの後輩に「伝える側」にも立つし、世代違いの先輩に「教わる側」にも立ち続けている年代。あらためて、そういう自分の現在位置をみとめる読書体験だった。
20代より30代、30代より40代と歳を重ねるほど、伝える相手・教わる相手どちら方面も、年齢射程が広がっていくように思われる。直接対面して関わる相手もそうだし、本の著者など間接的に関わる相手も含めて。
それは別に、私の活動領域が広がったり活発になってという話ではなく、じわじわ自分のキャパシティや関心領域が広がりを帯びていった結果、微細な自然現象のように体感される。
興味をもって手に取る本も、若い頃に比べれば(あくまで過去自分比だが)多分野に広がっているし、百年前の歴史、数百万年前の人類史に興味を持ちだしたのも歳をとってからだ。
主人公の一平がいう「日中戦争から太平洋戦争へと至る道筋で起こった出来事、すなわち満州事変、盧溝橋事件、南京大虐殺、ノモンハン事件などなどについて、一応知っている」にも及ばない知識で読みだした私だが、読みながら一平に追いつき(整理したり調べたりして)、一平と同様「別もの」に思えるまでの機会を授かった。
<久我一臣少年>という具体的な存在をそれらの中心に据えたうえで眺める戦争は、これまで知っているつもりになっていたそれとはまったく別ものに思えた
西暦何年に何があって、その事件の経緯はこうで、それがどう展開したのかといった歴史的事実と別に、そこに生きて暮らしていた一人ひとりがいて、その生身の声に耳を傾けることで初めて想像がおよぶこと、汲み取れること、引き継げることがある。
僕がこれまで漠然と<過去の歴史>だと思いこんできたことの多くはもしかして、同じ今を生きる誰かにとっての<ついこの間の出来事>なんじゃないか。
小説は「過去の歴史」を「ついこの間の出来事」に置き換えてくれる力を与えてくれる。我が意を得たりだった。
僕は、腹に力を入れて見つめ返した。いま怖じ気づいてこの川を渡る覚悟をしなかったら、おそらく久我氏は僕らのことを諦めてしまって、そのぶん、ものすごく手加減して付き合おうとするようになるんじゃないだろうか。僕らの想像力が、彼の人生にどれだけ追いつけるものかはわからない。彼の言うように<想像しろというほうが無茶>なのかもしれないけれども、試してもみないうちから、話してもどうせ無駄だと思われるのだけは嫌だ。
そう言って、一平は「すみません。本来、こんな乱暴な訊き方をしていいような話じゃないってことはよくわかってるんです。ただ…」と喰らいつく。
私たち50歳には、まだ多くの先輩がいてくれる。けれど、怖じ気づいたり、あきらめてしまったり、面倒くさがったりしてしまえば、ここでバトンの引き継ぎは途絶えてしまう。
喰らいつく、ということを、自分は「教わる側」としてどれくらいできているだろうかと省みる。自分なりの度胸と関心と力量でも、まだまだできることはあるな、と思う。
インタビューに応じる久我氏の「伝える側」の胸のうちに、励まされる。
自分ひとりだったら思い出したくないことでも、真剣に聴いてくれる相手が目の前にいるのであれば、一度はちゃんと言い遺しておこうかという気にもなる
「伝える側」に回ってみれば、相手に喰らいつかれることで奮い起こされる勇気、引き出される伝承行為というのも、あると思う。
伝承に値するようなものこそ「伝える側」に立てば、そんなに簡単に口を開く腹が決まらないことだったり、言葉にするのが困難だったりする。思いつきでしゃべっては、伝えたいことの真髄がうまく伝えられないのではないか、そういう恐れも湧いてきて一筋縄でいかない。
教わる側、伝える側が、ある種結託するようにして力を出し合って、刺激しあって、お互いへの期待を持ち寄ったり、相対しながら信頼関係を育てていかないと、なかなかうまく運ばない伝承について思い耽る。
作品を読み終えてしばらくしてから、村山由佳さんのインタビュー記事*を読んだ。
戦争の話を聞いて育ち、作家になり、若い読者もいる。ちょうど間に立つ自分が、戦争のことを書かないでいるのは「怠慢だ」という思いをずっと抱いている。「まるでその場にいるかのように物語に入り込む小説だからこそ、手渡せることってある気がするんです。小説の力を信じていきたい」
「ちょうど間に立つ自分が」と読んだ時、あっと思った。この小説を読みながら、「ちょうど真ん中に位置する」と思った自分とリンクした。彼女が手渡そうとしたものを、手を差し出して、今の自分なりに受け取れた気がした。
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