50歳になった
これまで年齢の十の位が変わる時にも、それほど気負いなく誕生日をまたいできた気がするのだけど、さすがに自分が50歳というのは、ちょっとインパクトがある。が、そういうことになった。
早生まれなので同級生は一足先に50代にあがっているし、ちょい上の兄さん姉さんがたもご活躍なので、その後をついていく心強さはある。
一方で、「自分の道をゆくのは自分だけ」ということもわきまえているお年頃。私は脱サラして相当のんびり自己流で暮らしているので、自分なりの清閑な成熟の道をゆかねばと気の引き締まる思いもある。
昨日までは40代だったわけだが、この十年をかけて、今ここにあるものに感謝すること、もうここにないものを求めないこと、私に遺してくれたものを大事に育むことに精進した気がする。おかげさまで、ずいぶんと自然体で潔く五十路の入り口に立っている気がするが、どうかな。自分の評価というのは当てにならないものだ。
五十路初日、すこし前に読んだ「アイデンティティの心理学」*を再び手に取った。哲学者の森有正さんの、こんな言葉が引いてある。
本当の孤独というのは、経験──他人によって置きかえることのできない経験そのものであって、孤独であるということが、つまり、人間であるということだと、思うのです
「人間を生きる」となれば必然的に「孤独を引き受ける」ことになる、とも解釈できようか。
「経験する」ということは確かに、どんなに同じ時間、同じ場所で、同じような体験をしたとて、他の人とまったく同じということがない。人それぞれに違う「経験」をしていることになる。とすれば「経験する」には「孤独」を切っても切り離せない。それに「生きていくとは、経験することだ」と継げば、「生きていくとは、孤独を引き受けることだ」とも、個人的にはすんなりつながって見える。
これは、他人の経験をいくら聞いたところで、また他人が教えてくれる理論、フレームワーク、概念知識、ノウハウ、事例、教えの数々を要領よく頭に入れたところで、自分の感覚と経験を通して時間をかけて獲得しなければ、大事なことほど自分の何にもならないという話にも通じている。
自分の経験に孤独さ(あるいは独立性)を認めることで、見えてくる自分がある。認めることなくして、自己には出会えない。そういう話でもある。
私の解釈は、独立性、自律性、自立心といったものとグラデーションでつながっているような「孤独」なので、上で説かれているものより、ずっとあまっちょろいものかもしれない。
でも森有正さんの次の一節は、たぶん50歳になった今だからこそ、しみわたるように解せるのだ。
ひとつの生涯、あるいは一個の自己というものが、どれほどの生々しい凄惨な現実をそのうちに蔵していることであろう。それを徹底的に味わい尽くし、感じ尽くさなければ、一応形式的に確立された経験も形骸に過ぎぬものとなり、人生は酔生夢死に等しくなってしまうだろう。
これを心して、五十路を大事に生きねばなと。
ちなみに40代最後の昨日は、毎週末恒例の父との映画館。ついに父と一緒に観た映画が150本に達した。つまり、この習慣を始めて丸3年ということだ。
晩にはふと思い立って、久しぶりに母の写真を取り出して眺めた。そしたら、なんだかぽろぽろ涙がおっこちてきた。自分でも不思議だった。挙げようと思えば理由はいろいろ思い浮かぶ、どれか一つということもない。ただ、彼女は59歳で亡くなったから、自分が50代に足なみそろえる段になってみると、そりゃあ、きつかったよなぁ、という思いがめぐったのは確かだ。大切に生きねばな。
* 鑪幹八郎「アイデンティティの心理学」(講談社現代新書)
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