アンケートの選択肢が、回答者の認識を偏狭な檻に閉じ込めてしまう問題
アンケート調査結果を論拠にして何かを問いている文章で、私が眉間にしわを寄せてしまうシリーズ。前々回、前回の勢いついでに、今回も私の引っかかり突っかかりをお焚き上げ。つまり今回も面倒くさい話だ。
最初に例を示すと、「今後の日本の将来について、AとBのうち、あなたはどちらを選びますか」という設問で、下のA/Bを挙げたもの。
A:このまま緩やかに日本経済が衰退しても、穏やかに暮らせるほうが良い
B:日本経済を維持・発展させるために頑張りたい
調査結果は、A寄り回答を「衰退派」、B寄り回答を「発展派」と分けて、「衰退派が6割」と銘打つ。
東洋経済オンラインの記事タイトルは、こちら。
「がんばるくらいなら、日本経済はこのまま衰退してかまわない」と思う若者たちが60%もいるという衝撃*
これを見て私が真っ先に思ったのは、選択肢Aの「衰退して尚、穏やかに暮らせる」というのは具体的にどういう現実的なイメージをもって成り立つって話なのだろうか?だった。
アンケート作成者は、わりと手堅くありうるだろう認識のもとに、Bに対置する選択肢として、Aの一文を設けたのか。それとも、そこのところはあまり熟慮せずに置いたのか。後者の場合、個人の主観・価値観を問うのだから現実性の高い低いは問題にならないという理屈なのか。この辺は前々回の「AとBは、対等な意見が用意されているか問題」にも通じるところだが、悶々としてしまう。
AとB、どっちがいい?という選択肢を用意されていれば、回答者は「両方選べるんだったら、こっちがいい」と、両者を対等に並べて選ぼうという構えになるのが自然のなりゆき。私的には、それなら現実解として相応の見通しを、選択肢には求めたいのだった。
もちろん「究極の選択」でA/Bをこしらえる設問も、世の中にはあっていいと思っている。が、それは時と場合によるだろう。このテーマや調査結果の使われようだと、その理屈は通らないように思える。
日本経済が衰退すれば、そのぶん外圧から受ける影響は相対的に高まる。弱体化した国として、外国の政治、経済、軍事などなどにコントロールされるところ大きくなり、場合によってはいいように扱われたり差別されて見下されたり、土地を奪われたり。蔑まれる、従わされる、労働を強いられる、戦場と化すことも、あり得ないではない。そうなっては、もちろん穏やかには暮らせない。
私はその方面の専門家でもないし、どの方面の強力な思想・信条ももたないので、「日本経済の衰退」がどう作用するかについて何の専門的見通しも主張も述べられない。
けれど、ごく一般の市井の人として、「日本経済の衰退」と「穏やかな暮らし」の現実性が、どういうかげんで成り立つと想定して、アンケート作成者がAをこれと作文して、Bとの二択に打って出たのかは、ちょっと理解しがたいのだ。
言葉の抽象度の高さも気になる。A/Bで対置させている「衰退」と「維持・発展」の境い目には様々な切り分けようがあって、「何をもって」という解釈や評価のつけ方は一様ではない。
「あくまで回答者が主観的にどう思っているか」を問うて把握するものだからという意図は理解の上だが、この回答結果を足場に論を展開することに、どれほどの価値があり、またそれによる副作用をどれくらい考慮しているのだろうかと眉間に皺が寄ってしまうのだ。
一番恐れるのは、回答者が、どう現実的にありうるかは全然イメージを掘り下げないままに、「選択肢にあるということは、そういう選択肢が実現性高く成り立つんだろう」という漠然としたイメージを植えつけられるようにして、Aを選択し、Aを選択した経験を記憶の底に沈澱させていくことだ。そういう選択経験が、知らないうちに自分の見解として内面化していくのを恐怖している。
そこに見出される「諦念、あきらめの境地」傾向が、記事では展開されていく。言うのは簡単だが、具体的にどこまでどう「衰退した社会生活」を受け入れられるかのイメージが掘り下げられないまま回答が集められ、そこを足場に論を展開することの社会的価値とは何なんだろうか。諦念て、内実そんなに簡単に至れる境地のことを言っている言葉じゃないだろうと思うし。
私も代わりの妙案をここで示せるわけじゃないし、この問いでとりたいことのニュアンスは汲める、別にこれに噛みつくのが主旨でもない(のに、すみません)。
これに限らず報道機関のアンケートでも、ネットで簡易にとられているアンケートでも、「ありえない現実解」を回答者に植えつけかねない選択肢だったり、もう少し具体的に特定しないとそれだけではなんとも言えない選択肢だったりを用意しているものは少なくない。
もう少し具体的な言葉を加えて選択肢を分ければ、集まる回答は2方向に割れるだろう選択肢を、あえて分けずに抽象的な言葉で束ねたままにすることで、アンケートをとった側が主張したいことに有利な結果が出るよう操作しているようなのも散見される世の中だ。
意図的にそう作っているものが出回るのは世の常とも言えるけれど、意図せずして思慮不足でそうなっちゃっているだけのものは、ぜひともアンケート回答者に与える副作用にも目配りして、設問や選択肢の言葉選びに推敲がなされていくといいなと思う。
キャリア関連のテーマで言えば、社会に出て仕事を経験していない学生をつかまえて「ワークライフバランスの志向性」をアンケートで問うているのも、見るたびに勘弁してくれと嘆いている。
学生にしてみれば、経験がないワークより、経験していると自認するライフのほうに重きをおく選択に寄るのが自然。問われれば、そうなる。そうして選択肢から「ライフ重視」を選ぶという自分の回答行為を重ねることによって、ワークを経験する前から「ライフを大事にしたい」「ワークとライフのバランスを重視したい」という自己認識が内面に築かれていく。そういう思い込みをさせているのは、問うている側の大人のしわざだと、私はけっこう腹を立てている。
エドガー・シャインが提唱した「キャリア・アンカー」についても、8つのタイプを並べて「あなたが仕事において重視することは何か」を選ぶことで、自分の仕事観を明らかにするというので、使い勝手もよく、キャリア理論に基づいた専門的見地からの問いだてに見せられることもあって、学生に(あるいは対象者属性を問わずに)設問するのを見かけたりする。が、あれも悪手だ。提唱者のシャインも、あれは社会に出て仕事をしていない学生に対して使うもんじゃないと言っていたはずだ。
まだまだ自分自身でも未知のことが多い若者をつかまえて、早々「自分はこういう人間だ」と規定する問いを投げかけ、今時点で思う自分像の檻に閉じ込めてしまう悪手を、不用意に働かないようにしたい。
アンケート回答者が、与えられた選択肢から自分の答えを選ぶ行為を通じて、無意識のうちに「自分はこう思っている」「自分はこういう人間だ」という自己イメージを強固にしていき、それが内面化、硬直化して、作成者も回答者も無自覚なままに言葉の檻に閉じ込められてしまうことがないように。また実現性についてさほど練られていない選択肢が、さも「社会にはこういう選択肢があるんだ」「将来にはこういう選択肢があるんだ」と思いこんでしまうことがないように。
程度問題なのだろうけれど、アンケートって低コストで誰でも簡単にとれるようになった今だからこそ、こういう副作用に対して、問う側も答える側も目配りできたほうが健全だろうって思うのだった。
*金間大介「がんばるくらいなら、日本経済はこのまま衰退してかまわない」と思う若者たちが60%もいるという衝撃(東洋経済オンライン)
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