傾向には例外がある。例外を働くのが人間
今朝がたSNSで「IQが20違えば話が通じない」という話が話題になっていた。この辺が発生源なのかな。ざっくり取り出すと、
- 思考のレベルが釣り合う者同士でないと、長期的な関係は築けない
- 無理に背伸びして自分より遥かに思考レベルが高い人と付き合おうとしても、どこか居心地が悪くなってしまう
- 逆に、思考を磨き成長し続けてる人が「現状維持の人(毎日頭が衰退してる人)」に合わせ続ける関係というのも続かない
- 「IQが20違えば会話はできない」という言説があるが、本当にその通りかも
- 思考の深さが極端に違う人とはせいぜい「天気の話」「共通の知人の噂話と悪口」くらいしかできないのが現実
という弁。「IQテストの得点が違う」「思考のレベルが違う」「思考を磨き成長し続ける vs 現状維持(毎日頭が衰退している)」「思考の深さが違う」が、どれくらい同一のものとして語れるかというのもあるけれども、そこはXのポストであるからして。
これに対してか、けんすう(@kensuu)さんがうまいこと言っているのも見かけた。
「IQが20違えば話が通じない」という話があるんですが、頭のいい人ほど「ああ、そうだね、賢い人と話すと全くついていけていなくて的外れなことを言っているのをすごく自覚する」みたいなことを言い、頭の悪い人ほど「そうだよな、バカってマジで話が通じないよな」みたいなことを言いがち・・・
と、こういうSNS画面にふれながら私の頭にふと思い浮かんだのが「傾向には例外がある」だった。こっちが本題なので、上の件は、下のことを考えたきっかけとして置いたにすぎない。
いろんな研究成果を共有し、新たに発見された「傾向」を活かすというのは、そこここでやられている人間の営みだ。最近ではSNSを通じて、その学術分野の専門知識をもたない人も参加するかたちで、その発見された「傾向」を共有し、意見する風習がある。
共有されている研究成果というのはたいてい、一定の条件を整えた実験室(比喩的な意味で)で得られた結果であろうけれども、その辺は無視して「人間とはこういう傾向にある」「なんとか属性の人は、こういう傾向をもつ」というのは伝播しやすい。人間のあれこれというのは、自分が人間であるだけに関心になりやすい。
だけれど、傾向には例外がある。人間は例外的な行為をするのも特徴で、それによって発展してきたのだと前置きするなら、現代人は発見した「傾向」内に収まろうとするから、衰退していっている気がしてならない。
発見した「傾向」を活用してIQ違いの生活圏を分けようだとか、「傾向」に最適化して不快・不穏をもたらす環境を排除しようだとか、すればするほど「例外」は発生しづらくなり、人間は(個体の生き物としても、人間社会としても)停滞、弱体化するばかりではと。
IQが大きく異なる人同士が、一つの町や村の中で協同して暮らすなんて、歴史上いくらでもあっただろう。一緒に暮らせば、「天気の話」「共通の知人の噂話と悪口」だけでは済まない話題が持ち上がる。共通の問題を解決するために、共通の目的を達成するために、役割を分担して協力する必要が出てくる。
人間個々人の違いは、IQ以外にもさまざまな軸を立てて分けられる。性格も違えば体格も違う、何に興味をもつかも、何を面倒くさいと思うかも違う。IQ一辺倒で人を分けるという見方が貧しい。
ある人がどこかで何かに取り組んでいるとき、その人は物理的に別の場所で他のことはできない。体を壊しているとき、眠っているとき、食事しているときにも、その人は他のことができない。その仕事に長けた人ができることを、別の人が代わりまでできないかもしれないが、一定期間それを維持できたりする。
知能の一つとったって、ハワード・ガードナー氏に言わせれば、「言語的」「論理・数学的」「身体・運動的」「対人的」「博物的」「内省的」「空間的」「音楽的」の8つに分けられる知能が、ある程度の独立性をもって、それぞれ機能している。そのスキルの量や組み合わせは一人ひとり異なる。
ギリシャ時代には、こうした知能がほぼ等しく同等に尊重されていたと言うが、1905年にアルフレッド・ビネーらがIQテストを作って以来、知能のとらえ方に多元性が失われていったという話。それぞれを独立的に観られなくなり、一つの物差しで測ることしかできなくなるとすれば、それはものの見方がギリシャ時代より貧しくなっているということではないか。
もし人間がそうなっていくのだとしたら、それはある種の退化ではないか。それにはまた別の進化があるのかもしれないし、そこらへんはなんとも言えないけれど。
"Every individual is an exception to the rule."
私はユングのいう「すべての個人は例外である」を、生涯大事にしてやっていくつもりだ。

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