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2025-06-04

教える側は、初学者に谷越えまで伴走すべき(ダニング・クルーガー効果からの考察)

筆記テストを受けて部屋から出てきた大学生をつかまえて、「自分は何点とれていると思う?」と尋ね、「本人の推定得点」と「実際の得点」を比較分析した研究がある。

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2種類のデータを手にした研究者は、受験した学生を「実際の得点」順に並べて、4つのグループに分けた。成績の上位25%、中の上25%、中の下25%、下位25%である。

さて、そこから見えてきたものは何だったか。

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結果を上の表にまとめてみた(画像をクリックすると拡大表示する)が、ざっくり言うと、上位25%の学生らは自分の点数を、実際より低く見積っていたのに対し、下位25%は実際より、自分の点数を高く見積っていた。つまり上位グループは自分を過小評価し、下位グループは自分を過大評価していたわけだ。

さらに言えば、上位グループの過小評価より、下位グループの過大評価のほうが、実際の点数との認識ギャップが大きかった。正答率でいえば「上位グループが自分を低く見積もった誤差」は5%だったが、「下位グループが自分を高く見積った誤差」は20%ほどのズレがあった。

ちなみに、テスト内容はユーモア、文法、論理を扱ったもの。そのすべての課題で、成績の低かった学生ほど、実際よりも自分のランクを高く見積もっていたという。

この実験から展開された研究成果は大変注目され、認知バイアスの一種「ダニング・クルーガー効果」(1999)として知られている。アメリカの社会心理学者デイヴィッド・ダニング氏とジャスティン・クルーガー氏によって提唱された。

「自信の高さ」と「能力の高さ」って、どんな関係だろうか?と自ら問いを立てて考える機会も、なかなかないものだ。だから無意識に持っている素朴なイメージは、下のようなグラフになっているのが、素直で善良な市民というものではなかろうか。

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横軸を「能力の高さ」、縦軸を「自信の高さ」とするなら、左下と右上に丸を置いて、右肩あがりの正比例。

能力が低い人は自信がなく、自信がない人は能力が低い(左下の丸)。能力が高い人は自信があり、自信に満ちた人は能力が高い(右上の丸)のが普通では?と。

しかして、その実態は!研究によれば、全然ちがう線がグラフ上に描かれたのだった。

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グラフの左側。能力の低いうちに、まず自信過剰になる「馬鹿の山」がそびえ立っている。そこから右へ、少し能力が高まったところで「絶望の谷」に急落する。そこから抜けた場合「啓蒙の坂」を登っていって、「継続の大地」に到達するんである、という激動。

この軌道は、実にセンセーショナルだ。そんなわけで、この研究は2000年にイグノーベル賞も受賞しているそう。

なぜ、このような認識ギャップが生じるか。「能力の低い人」は、自分の能力が低いことを知る手段をもたないために、自分の能力を過大評価する傾向をもつ。一方、「能力の高い人」は、自分よりも他の人が容易に同じタスクを遂行できると考えるために、自分の能力を過小評価する傾向をもつ。

つまり、能力が高い人の場合は、自分の能力を見誤るというのではなくて、他人の能力を(過大に)見誤るというわけだ。自分にわかる・できることは、他の人もわかる・できると、無意識のうちに思い込んでしまう。ここに認識ギャップが生まれる。

これって、職場で、産業界で、熟練エキスパートが若手〜中堅メンバーに専門知識・スキルを教えるときにも、災いのもとになっている。

何かの講師・講演・指導役を任された熟練エキスパートは、教える相手のことを、無意識のうちに、実際よりも過大評価してしまっている。すると、どんなことが起こるか。

まず、説明不足になる。「これくらいのことは知っているだろう」と、本人に確認もせずして思い込んでしまう。ただでさえ、熟練者は、話が抽象的になりやすく、自分はすでに自動処理できるようになっていることを改めて意識(言葉)に戻して説明することが難しいため、いくらでも初学者にとって話がわかりづらくなる懸念を負っていることに自覚的でなければならない。

最も手っ取り早く有効な策は、思い込まずに本人に「何を知っていて、どこまでできるか」訊くことだ。

また、初学者が習得までに要する時間も、熟練者こそ見積もりが甘くなる。訓練時間を短く見積ってしまうのも、学習者を過大評価しているからこそだ。

別の研究に、「前の授業でこの技能を習得するのに、自分がどのくらいの時間を要したのかですら過小評価した」ともある。学んだそばから、自分が費やした学習時間を、実際にかかった時間より短く記憶改竄する愚かさをもつのが我ら人間と心得たい。

人に教えるに際しては、それを学習・訓練・獲得・発揮するまでの時間を短く見積もりやすいことをわきまえて、現実的な学習経験を積み上げ算出しながら計画立てたい。

熟達者は、初心者にとっての課題の難しさに鈍感で、難易度を軽視する傾向にあることが分かっている。学ぶ側も、教える側も、ともに学習・育成活動における自分の立場の弱点に目を向けると、学ぶ活動も教える活動も、より協力的で実効的なものに見直していけるだろうと思う。

そして、この研究成果を紐解きながら思った最大のことが、教える側は、初学者にどこまで伴走すべきか問題だった。

若手育成のアプローチとして「伴走」の必要や有効性は、よく聞かれる。ただ、どこまで伴走するかという論点も、きわめて重要だと思ったのだ。先のグラフを眺めながら、教える側・組織の育成施策としては、初学者が「啓蒙の坂」を登りだすまで伴走する視野が肝要ではないかと思い耽った。

今は、職場・産業界でも、勉強会だ、セミナーだ、ネットワーキング・イベントだと、人を育てる系を目的に掲げた活動は実に活発だ。それは単体で見れば、大変素晴らしく喜ばしいことなのだが、単発イベントも多く、伴走まで含んだ中・長期の仕組みは十分といえない。タイプ的に選り分ければ、単発イベントというのは、先のグラフでいうところの左サイド(初学者)向けに、どうしても数が偏りやすい。

だからこそ、意識的に「どこまで伴走しないと、むしろ育成施策もマイナスに作用するリスクが高い」という視点をもって、人材育成の諸活動をプランニングしていくことが大切になる。そうしないと、せっかく人材育成のための施策活動を数多く打っていても、「馬鹿の山」と「絶望の谷」の山間部から出るに出られぬ人たちを多く生み出す活動に滞ってしまう恐れがある。

これは個人にとっても、組織にとっても、産業界にとっても、社会にとっても痛手だ。大変もったいない。「絶望の谷」を抜けて、「啓蒙の坂」に入って、学習者本人が自走しだすのを見届けられればこそ、いろんな諸活動がテコの原理をきかせて、ぐっと活きてくる期待もある。その辺のことをきちんと考えて、小さくとも本質的な人材育成に資する活動に取り組んでいきたいと思ったりしたのだった。

* 上記の画像スライドをまとめてPDFファイルで確認したい場合は、SpeakerDeckにて。

* ジョン・ハッティ、グレゴリー・イエーツ著「教育効果を可視化する学習科学」(北大路書房)

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