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2025-06-29

労使コミュニケーションの良好度の低さが際立つ「50〜99人企業」

労使コミュニケーションの良好度指数というのを企業規模別にみてみると、「50〜99人企業」の低さが際立つのに目が止まった(厚生労働省の令和6年「労使コミュニケーション調査」より)。

「30人の壁」という言葉も思い出した。少しずつ会社規模を大きくして、30人、50人、100人とスタッフが増えていく会社経営の道のりで、乗り越えなきゃいけない壁として立ちはだかる感。

人間という生き物的に、このくらいの人数の集団を営むのには、特有の難しさがあるのだろうかなぁなどと思い耽った、というだけのスライドなのだが、1枚こさえてみた。(クリック or タップすると拡大表示する)

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労使コミュニケーション調査で、「50〜99人企業」の良好度の低さが際立ち、良好度指数が3割を下回って29.4%(平均だと46.9%、5千人以上の企業は62.2%)。最も重視するのは「職場の人間関係」で、重視すると回答した労働者は7割を超す。

古来からの集団形成でいえば「集落から村落になる」ようなフェーズに入ったとき、構成メンバーらが「村長」という役割、「村」という概念だとかに漠然といだく期待が、自然と(無自覚に)中身入れ替わっていくものなのかもなぁ、なんて思った。個を抑制するのと引き換えに、依存度が増していく感じの期待とでも言おうかしら。

会社組織に話を戻すと、30〜50人くらいまでの集団だったときは何事も、個人名で「〜さんが」と言っていたのが、だんだん「総務が」とか「マネージャー陣が」とかいった総称ラベルを使い出すようになってきたりして。

その成れの果てが「会社が、わかってくれない」「みんな、そう言ってる」ではなかろうかと。「会社って誰やねん」「みんなって誰やねん」を明らかにすれば、けっこういろんな問題は解消に向かえると思うんだけどなぁと思うことも少なくない。成れの果てに到達する前に、いくらでも組織の運営の仕方は変えようがあって、そこをうまく切り替えられるかが経営手腕の一つになるのかも。

労働者サイドも、無自覚に組織規模と優劣を直結させて「大きいほうが立派な会社」みたいな価値づけやコンプレックスに振り回されることなく、組織立って成しとげたい事業、自分の人生時間を使って参加したい社会的活動、自分の適性にフィットする職場空間など総合的に見定めながら採択していくと健全なのだろうと思う。

経営者サイドも、何かを採択すれば、何かを捨てることになるのは必然で。組織規模の転換期では折々、割り切らなきゃいけなくなるのだろう。只中では、心がひりひりすること多いと思うけれど、双方の賢明な歩み寄りを尊く思う次第。

なんとなく気になって1枚こさえたスライドなのだけれど、「なんとなく気になったことを言葉にするなら、こういう感じのこと」というメモ書き。

* 令和6年労使コミュニケーション調査の労働者調査(該当部リンク)┃厚生労働省(2025/6/24)

2025-06-25

トルストイ「アンナ・カレーニナ」の読み応え

ついに、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読了した。上中下巻あわせて2千ページに及ぶ大作で、のんたら読み進めていたら3ヶ月近く経ってしまった。ひと月に1冊ペースだ。しかし、なんだか豊かではないか。

解説によれば、この物語には150人にも及ぶ登場人物があるという。「社会的集団や階層の言語の特殊性に細かい注意が払われている」とあるが、まさしくだ。

伯爵婦人から百姓まで、老いも若きも幼きも、いろんな人がいろんな立場で、いろんな境遇を背負って出てくる。その一人ひとりが自分の言葉で自分の思考を語り、かつトルストイがそれぞれの置かれた境遇を見事に描写し、何を本人がうまく自己制御できていないかも書き暴いている。同情に寄るでもなく、突き放すでもなく、それぞれ個性ある人間の「性」をえぐるようにして書き尽くす筆致は、すこぶる鋭い。当時の貴族社会や暮らしぶり、農事経営、思想、政治と、あらゆる側面を取り込んで描きだす手腕もふるっている。

私はこれを要約する術も、評論する腕ももたないので、ここで解説にあったチェーホフの一節をはさむ。

「アンナ・カレーニナ」が今後とも全世界の人びとに永く愛読されていくであろう秘密を、チェーホフは次のように語っているという。

『アンナ・カレーニナ』には問題は一つとして解決されていませんが、すべての問題がそのなかに正確に述べられているために、読者を完全に満足させるのです。問題を正確に呈示するのが裁判官の役目であって、その解答は陪審員たちが、自分自身の光に照らして取出さなければならないのです

これまで「全世界の人びとに永く愛読されてきた」秘密は、まさしくこの通りなんだろう。時代を経ても、それぞれの時代を生きる読者一人ひとりが陪審員として、この本に向き合ってこそ成り立ってきた価値だ。

これが今後とも「全世界の人びとに永く愛読されていく」秘密として、あり続けるといいなと思う。こうした名作の読書文化が衰退せずに、私のような一般庶民が本屋で文庫本を手にとって、手軽に味わえる世の中が継承されていくといいなと。

「人が生きる」ということを考えるとき、また「自分が生きる」ということを考えるのに、整然と秩序化されたノウハウだけではやっていけないし、合理化だけでは納得できないし、満足だけでは続かないし、退屈ではやっていられないし。

そういうものからこぼれ落ちてしまうもの、人が生きていく上での糧みたいなものが、文学作品の中には詰まっているのだよな。そういうことを、こういう最高峰の名作を読むと実感させられる。

なんだい、その本には「人はなぜ生きるのか」の答えでも書かれているのかね?と問われれば、私はこんな返答をするかもしれない。なぜ人は生きるのかという理由も目的も使命もなくても、人は生きていけるという当たり前のことが書かれていると。まぁ、でも、それも、一読者の、読み終えた直後の、ぽっと出た解釈の一つにすぎない。どんなことを述べても、作品価値を矮小化してしまうようで、自分の内で育むにとどまってしまう。だからこそ、一般庶民にも読み継がれていく文化を尊く思う。

文学作品は、たくさんの彩り豊かな解釈の仕方を、自分のなかに編み込んでくれるようだ。落ち着いて見渡せば「無秩序すぎる世の中」と「何にも不完全な人間」と「矛盾を内包した自分」は、いつの時代も変わらない。それを受容し、解釈し、折り合いをつけながら健やかに生きていく力と意思を育むことは、ここに生まれ落ちてしまったからには一人ひとりにとって、とても大切な術だと思う。少なくとも、この先しばらく、人間が人間ではなくなる時までは。

人は、そもそも愚かで、不完全で、機械的な「ものさし」を当ててみれば狂っているとも言えるような性質を前提に生きている。世の中もまた、無秩序で、不条理やら理不尽やら人間が思うところ多分に含んで運行されている。少なくとも私は、人とも自分とも世の中とも、そういう前提でつきあっていかないと、どうにもならないと思っている。だからこそ人間は、皆で協力して暮らしているんじゃないのさとも思っている。

けれども最近は、それって一般社会で合意形成された常識でもないのだろうかなぁと思うこと、しばしばである。さも、秩序があるかのように、完全を目指せるかのように、矛盾を解消できるかのように見誤る、驕りやら愚かさやらは、むしろ現代のほうがひどくなっているのかもしれない。それもまた、世の中であり人なのだ。

* トルストイ「アンナ・カレーニナ」(新潮文庫)

2025-06-15

「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」の個人的読書メモ

あまのじゃくな性向が災いしてか、たいていのことの初動が遅いのが災いしてか、この中途半端な時期に重たい腰を上げて「生成AI」の入門書を一冊、手に取った。という話は一つ前の話で書いたが、

これが本当に分かりやすくて楽しく読み終えられたので、内容についても個人的なメモを残しておく。

※強調するが、この本に書かれていること(そのまま)ではなく、私の解釈で自分の脳内用に作り替えたメモ

まず「生成AIツールの主な用途」として、私が列挙したのは


  • サマリーやレポートをまとめてもらう
  • アイデアを列挙してもらう
  • コンテンツのたたき台を作ってもらう
  • 調べ物をしてもらう
  • レビューをしてもらう
  • 実行計画を立ててもらう(実行してもらう)

著者の深津さん曰く「文章を作らせるよりも、レビューをさせるほうがいい仕事をする」印象をもっているとのこと(2024年8月時点)。

こうした依頼をかけるときのポイントとして、「〜を考えて」とか「〜を作って」とか、一言で雑な質問をするな!という話である。

じゃあ、どうしたらいいのかという問いかけの基本文型や文例が、書籍では体系立てて解説してあるわけなのだが。

その体系をちょっと崩して、ざっくり私の脳内に接続する言葉に言い換えると、こんな感じである。

ChatGPTに問いかけるときの構成要素。


まず基本として、

1)AIに役どころ(何をやってほしいの?)を示し、
2)文脈(誰向けの、何に使うもの?)を示し、
3)元資料なり参照資料を与え(or 検索範囲を指定)、
4)回答時の形式(目次構成、文字数や段落数、箇条書きや個数など)を指定する

オプションとして、

5)回答までに踏ませるステップを指定する
6)回答サンプルを与える


そうすると、精度高く、少ないラリーで、欲しいものが手に入りやすくなるという話。

1、2を与えれば、目的に適った回答を得やすくなる。
3を与えれば、どこからもってきたかわからない情報だとか誤情報などが混じりにくくなる。
4を与えれば、用途に適った形式で出力されやすくなるというわけだ。

これまでに私も、先行して生成AIツールをビジネス利用している人の話を聞く中で、全然「要件定義」せず依頼していて、それだったら自分で一から作ったほうが断然能率がいいんじゃないか?と思うことが少なくなかったので、ほんと使いようだよなぁと改めて、もぐもぐ味わった次第。

さらにオプションである。5を与えれば、どういう経路をたどってAIがその答えに辿り着いたのかわけわからん、ということがなくなる。「調査分析してから企画立案して」とか、「一般論」を回答させた上で「それに従った個別事案を考えて」とか「その一般論からはずれた個別事案を作って」とか、「複数のアプローチで複数案を出してくれ」とか、そういった回答までの段取りをマネジメントできる。

6を与えれば、与えたサンプルに倣って「言葉選びや表現」を作ってくれる。小学生向けの教材か、法人営業のマニュアルか、個人カスタマー向けのFAQかで、適切な言葉遣いは異なる。サンプルを与えれば、その辺のニュアンスを汲んで新たに作るものも生成してくれる。言い回しや単語の用い方、文章の長さにとどまらず、テイストだ、トーンだ、出力形式も何も、細かいニュアンスを汲んで寄せてきてくれるというわけだ。

この辺を、具体的にどう問いかけたらいいかという文例がふんだんに詰まっていて、わりとさくっと短時間で読めるのもいい。部分的に、使いたいように、自分の日常に取り込めるライトさも良い。

著者2人の掛け合いの読みやすさ、読者を惹きつける構成の妙、具体例の作りの巧さは、前の話でふれた通り。一通り読み終えて、なお「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」*は、ビジネスパーソンの入門書に最適だなと思う。私同様、そろそろ一冊読んでみようかなぁという方は、ぜひ。

* 深津貴之、岩元直久「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」(日経BP)

2025-06-07

教えるとき「基礎を取り出す」構成の妙(ソロ タキソノミーのメモ)

これは本当に分かりやすい!思った「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」。重たい腰をあげて生成AI、LLM、ChatGPTの基礎知識を、と手に取ったが、ビジネスパーソンの入門書に最適だった。著者2人の掛け合いでテンポよく解説する小気味よさ、シチュエーションや活用例の巧さも然ることながら、本の構成が見事だなと感服。

「ビジネスシナリオでのChatGPT」を一章にまとめず、
第3章 ビジネスシナリオでのChatGPT(基礎)
第5章 ビジネスシナリオでのChatGPT
と、2つに分けられている構成の妙に、うなった。

第3章は「サマリーを作って」「FAQを作って」「検索して」の3本立て。「汎用的で(誰でも)、ライトで(すぐ)、ビジネスで役立つ(使える)」基礎をコンセプト立て、具体例を示しながら紹介している。これによって、第1章から第3章までの前半部で読者を小気味よく虜にして、後半に送り出す手さばきが見事なのだ。

すでに学習内容を熟知している著者の立場(先生として物事を教えるとき)って、無意識でいると、この分割になかなか頭がまわらない。無意識に教えるべきことを構成だてていくと、(ごく概念的な知識は別としても)「ビジネスシナリオでの〜」みたいな実践の件(くだり)で基礎部分だけを取り出して一章を立てることに、なかなか思い至らない。

思い至っても、その基礎部分を、この範囲とスコープ立て、これとコンセプト立て、一章として独立的に機能する構成内容を作っていくことが、かなり創造的な、ひと仕事となる。それに価値を見出さないと、やっていられない。これをしっかりやってのけているところに、巧いなぁ!とうなったのだ。

ここに意識が及ばないと、「第3章」に全部入りになっちゃうか「第5章」に全部入りになっちゃうかで、一章に束ねられる。こうなると「目次」として眺める分には、きれいですっきりしているんだけど、学習の実効性としては落ちる。しかし熟知している著者側は、それに気づかぬことも、ままあるだろう。

これは本にかぎらず、講義、授業、セミナー講演などで人に教える場の構成・時間割でも、言えることだ。

「初学者にとっての学びやすさ」という構成指針を取り入れると、どういうふうに学習範囲を絞り、構成要素を分割し、順序立てると良いかの答えが変わってくる。

演習課題を取り入れよう、ワークショップ形式にしようだとかの趣向を凝らすより前に、もっと基本的な骨格づくりの甘さをどうにかするほうが先決では?という現場は少なくない気がする。「実務者による、実務者のための、実践的な講座にすべく、ワークショップ形式」という話し運びだけで基本構成を固めてしまうのは、ちょっと安直である。

人の理解は「浅い理解から、深い理解へ」と段々に進むし、人の思考は「単純な思考から、複雑な思考へ」と段階を踏んで学習していく。

「人の学習段階」を5つにレベル分けして示したソロ・タキソノミー(SOLO taxonomy)は、概念的だが、良い道標になる。

「浅い理解」ステップを踏まずして「深い理解」には至れない。「単純な思考」を踏まずして「複雑な思考」へはなかなか至れないのが、アナログな人間の学習プロセス。

実践的だというだけで、ハイコンテキストな事例そのままに演習課題を与えて「複雑な思考」を求めても、初学者には考える足場がなく学習なしえないのだ(興味をもつことには貢献する場合もあるが)。

一足飛びに「深い理解」「複雑な思考」を求める育成イベントをしかけて、学習効果ゼロに終わることがないように歩みを企てよ!という示唆を、ソロタキソノミーは与えてくれる。

ソロタキソノミー(SOLO taxonomy):参考までに私のメモ的スライド(クリックすると拡大表示)

Solotaxonomy

それにとどまらず、その段階の踏み方を、どう組んだらいいかを考える道標としても使える分類表である。

一方、あくまで道標でしかないという認識も極めて重要だ。実際には「どこまでがレベル1なのか、どこからがレベル2になるか」は各現場で考えなくては仕方ない。実際には、その学習テーマ、その学習者次第ということになるから、仮説立てて、やってみて、検証してみて、手直ししてってサイクルを自分の手元でまわすしかない。

どちらかといえば「どこまでをレベル1と見立て、どこからをレベル2と見立てるか」という表現のほうが、実際的だ。決めの問題なのだ。違ったら直せばいい。

「急いては事を仕損じる」というのは学習においても言えること、急いては学習を仕損じる。最近、人間のアナログ性について、よく思いふけっている。

*深津貴之、岩元直久「ChatGPTを使い尽くす!深津式プロンプト読本」(日経BP)

2025-06-04

教える側は、初学者に谷越えまで伴走すべき(ダニング・クルーガー効果からの考察)

筆記テストを受けて部屋から出てきた大学生をつかまえて、「自分は何点とれていると思う?」と尋ね、「本人の推定得点」と「実際の得点」を比較分析した研究がある。

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2種類のデータを手にした研究者は、受験した学生を「実際の得点」順に並べて、4つのグループに分けた。成績の上位25%、中の上25%、中の下25%、下位25%である。

さて、そこから見えてきたものは何だったか。

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結果を上の表にまとめてみた(画像をクリックすると拡大表示する)が、ざっくり言うと、上位25%の学生らは自分の点数を、実際より低く見積っていたのに対し、下位25%は実際より、自分の点数を高く見積っていた。つまり上位グループは自分を過小評価し、下位グループは自分を過大評価していたわけだ。

さらに言えば、上位グループの過小評価より、下位グループの過大評価のほうが、実際の点数との認識ギャップが大きかった。正答率でいえば「上位グループが自分を低く見積もった誤差」は5%だったが、「下位グループが自分を高く見積った誤差」は20%ほどのズレがあった。

ちなみに、テスト内容はユーモア、文法、論理を扱ったもの。そのすべての課題で、成績の低かった学生ほど、実際よりも自分のランクを高く見積もっていたという。

この実験から展開された研究成果は大変注目され、認知バイアスの一種「ダニング・クルーガー効果」(1999)として知られている。アメリカの社会心理学者デイヴィッド・ダニング氏とジャスティン・クルーガー氏によって提唱された。

「自信の高さ」と「能力の高さ」って、どんな関係だろうか?と自ら問いを立てて考える機会も、なかなかないものだ。だから無意識に持っている素朴なイメージは、下のようなグラフになっているのが、素直で善良な市民というものではなかろうか。

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横軸を「能力の高さ」、縦軸を「自信の高さ」とするなら、左下と右上に丸を置いて、右肩あがりの正比例。

能力が低い人は自信がなく、自信がない人は能力が低い(左下の丸)。能力が高い人は自信があり、自信に満ちた人は能力が高い(右上の丸)のが普通では?と。

しかして、その実態は!研究によれば、全然ちがう線がグラフ上に描かれたのだった。

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グラフの左側。能力の低いうちに、まず自信過剰になる「馬鹿の山」がそびえ立っている。そこから右へ、少し能力が高まったところで「絶望の谷」に急落する。そこから抜けた場合「啓蒙の坂」を登っていって、「継続の大地」に到達するんである、という激動。

この軌道は、実にセンセーショナルだ。そんなわけで、この研究は2000年にイグノーベル賞も受賞しているそう。

なぜ、このような認識ギャップが生じるか。「能力の低い人」は、自分の能力が低いことを知る手段をもたないために、自分の能力を過大評価する傾向をもつ。一方、「能力の高い人」は、自分よりも他の人が容易に同じタスクを遂行できると考えるために、自分の能力を過小評価する傾向をもつ。

つまり、能力が高い人の場合は、自分の能力を見誤るというのではなくて、他人の能力を(過大に)見誤るというわけだ。自分にわかる・できることは、他の人もわかる・できると、無意識のうちに思い込んでしまう。ここに認識ギャップが生まれる。

これって、職場で、産業界で、熟練エキスパートが若手〜中堅メンバーに専門知識・スキルを教えるときにも、災いのもとになっている。

何かの講師・講演・指導役を任された熟練エキスパートは、教える相手のことを、無意識のうちに、実際よりも過大評価してしまっている。すると、どんなことが起こるか。

まず、説明不足になる。「これくらいのことは知っているだろう」と、本人に確認もせずして思い込んでしまう。ただでさえ、熟練者は、話が抽象的になりやすく、自分はすでに自動処理できるようになっていることを改めて意識(言葉)に戻して説明することが難しいため、いくらでも初学者にとって話がわかりづらくなる懸念を負っていることに自覚的でなければならない。

最も手っ取り早く有効な策は、思い込まずに本人に「何を知っていて、どこまでできるか」訊くことだ。

また、初学者が習得までに要する時間も、熟練者こそ見積もりが甘くなる。訓練時間を短く見積ってしまうのも、学習者を過大評価しているからこそだ。

別の研究に、「前の授業でこの技能を習得するのに、自分がどのくらいの時間を要したのかですら過小評価した」ともある。学んだそばから、自分が費やした学習時間を、実際にかかった時間より短く記憶改竄する愚かさをもつのが我ら人間と心得たい。

人に教えるに際しては、それを学習・訓練・獲得・発揮するまでの時間を短く見積もりやすいことをわきまえて、現実的な学習経験を積み上げ算出しながら計画立てたい。

熟達者は、初心者にとっての課題の難しさに鈍感で、難易度を軽視する傾向にあることが分かっている。学ぶ側も、教える側も、ともに学習・育成活動における自分の立場の弱点に目を向けると、学ぶ活動も教える活動も、より協力的で実効的なものに見直していけるだろうと思う。

そして、この研究成果を紐解きながら思った最大のことが、教える側は、初学者にどこまで伴走すべきか問題だった。

若手育成のアプローチとして「伴走」の必要や有効性は、よく聞かれる。ただ、どこまで伴走するかという論点も、きわめて重要だと思ったのだ。先のグラフを眺めながら、教える側・組織の育成施策としては、初学者が「啓蒙の坂」を登りだすまで伴走する視野が肝要ではないかと思い耽った。

今は、職場・産業界でも、勉強会だ、セミナーだ、ネットワーキング・イベントだと、人を育てる系を目的に掲げた活動は実に活発だ。それは単体で見れば、大変素晴らしく喜ばしいことなのだが、単発イベントも多く、伴走まで含んだ中・長期の仕組みは十分といえない。タイプ的に選り分ければ、単発イベントというのは、先のグラフでいうところの左サイド(初学者)向けに、どうしても数が偏りやすい。

だからこそ、意識的に「どこまで伴走しないと、むしろ育成施策もマイナスに作用するリスクが高い」という視点をもって、人材育成の諸活動をプランニングしていくことが大切になる。そうしないと、せっかく人材育成のための施策活動を数多く打っていても、「馬鹿の山」と「絶望の谷」の山間部から出るに出られぬ人たちを多く生み出す活動に滞ってしまう恐れがある。

これは個人にとっても、組織にとっても、産業界にとっても、社会にとっても痛手だ。大変もったいない。「絶望の谷」を抜けて、「啓蒙の坂」に入って、学習者本人が自走しだすのを見届けられればこそ、いろんな諸活動がテコの原理をきかせて、ぐっと活きてくる期待もある。その辺のことをきちんと考えて、小さくとも本質的な人材育成に資する活動に取り組んでいきたいと思ったりしたのだった。

* 上記の画像スライドをまとめてPDFファイルで確認したい場合は、SpeakerDeckにて。

* ジョン・ハッティ、グレゴリー・イエーツ著「教育効果を可視化する学習科学」(北大路書房)

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