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2025-05-22

「神経を抜く」との出会い

「神経を抜く」との出会いは、40年ほど前に遡る。小学生の時だった。テレビやラジオからではない。じぶんの人体に及ぼされる直接の行為として、その言葉を耳元で聞いた。そう、歯医者だ。

Removenerve

40年以上前から、お口の中では「神経を抜く」ということが、一般庶民に受け入れられるかたちで言葉としても流通していたし、行為としても普及していた。

あの頃すでに、我々は人工人体化の一線を越えてしまっていたのだ。昨今、あの頃の歯医者体験を思い出して、人工人体化する世の中のあれこれに一定の理解を働かせようとする自分がいる。

口の中で抵抗なく行われていることは、時代進めば、他の部分にも一般化しうるし、それが一つの人体において複数箇所に及ぶことも想像に難くない。それがじわじわ多数へ、全体へと波及するのは当然の流れ。いったん部分が始まってしまえば、全体への広がりは歯止めがきかない、なんつって。

「言葉がある」「名前がつく」が人を動かすパワーは、やはり強大だなと改めて思う。有無を言わさず受け入れる感じ、そういうものなんだと子どもの頭が受け入れる感じ。「神経を抜く」と平然と大人に言われれば、「はぁ、そういう医療行為があるのだな」と受け入れてしまう。言葉が日常語として一般家庭に、子どもにまで流通すれば、行為への抵抗感は薄れていき、適用範囲は際限なく広がっていくのだろうなぁ。

などと思いつつ、私はその手前で、この世をおさらばする気でいるけれども。ただ、例えば運良くあと10年だか20年だか生きたとして、その間に自分の同世代が「明日、神経抜く人間ノイド行ってくる!」「わぁ、どんなだったか話聞かせてー」なんてやりとりしだして、それが一気に広まって続々と人工人体化して、「えー、みんなこの世に残るの?」みたいなことになったら、さて私はそのまま昭和人間としてこの世を立ち去れるか。100%絶対そうするとは、なかなか言い切れない。けど、やっぱり今のところ、今の人生観でおさらばするつもりなのだけれど。この世は一体全体、どうなるんだろうなぁ。

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