その仕事をしなくなるなら、その仕事能力を身につける必要はなくなるのか問題
何かにつけ「AI時代の〜」と枕がつく今日この頃だけれど、「AIの台頭で人間の仕事はどう変わるか」からの「この仕事はAIに代替されるから、人間がやる必要はなくなる」からの「今後人間に求められる仕事能力は、こう変わる」みたいな論を読むにつけ、どうも論の拙速さ、ピースの不足感を覚えることが多い。
人間が職場で何をやるかという意味では、確かに「AIに代替されて、人間がやらなくなる」移行は進むと思う。ただ、実際にやる「仕事」と、その仕事を成し遂げるために働いている「仕事能力」は別物だ。
一つの仕事をやり遂げるのには、それを成り立たせる仕事能力が水面下で働いているわけだが、仕事能力というのは仔細にみると、じつに複雑に絡まりあい、階層的な構造をもって発揮されている。とりわけ、専門家の仕事能力とはそういうものだろう。
ここで私が言う専門家というのは広く、一定の専門性をもって特定の業種、業態、事業、職業の経験を積んで仕事をしている人くらいのニュアンスなのだが。
水面下で働く仕事能力の代表格として、ひとつ取りあげて迫ってみたいのが「長期記憶」だ。参考までに、最近整理した「長期記憶」についてのメモを下にはっておく。
感覚記憶と長期記憶、流入元で変わる作業記憶の働き(クリック or タップすると拡大表示)
ここでフォーカスしたいのは、今すでに専門家として活躍しているアラフィフ・アラフォーな人たちが、生成AIを活用しながら、いかに自分の仕事を洗練させていくかではない。これから社会に出て専門性を育んでいく若者の「専門家の長期記憶」は変わるべきなのか、変わるべきなら何を目指すように変わるべきで、どう育て方を変えるべきだというのか、その「べき論」である。
私が読んできたのは、若者も含めて、これまでと変えるべきという話なのか、それは別・それは知らんよという話なのかが明示されていなかった。それで、もやっているのだ。ゆえに今のところ「変えろ」論を訝しみ、これまで通り長期記憶を涵養すべきではないのかという認識を保ったところで、うろうろしている。変えどきには、あっさり変えられる人間でありたいとは思っているのだが。
専門家にそなわる長期記憶って、職場での実行役をAIに移行するからといって、そんな安直に手放せるものかしら。長期記憶のあるべき論・育て方論って、そんな簡単に変えちゃっていいのかしら。簡易化したり、身につけるべき能力を別の力点にごそっと差し替えちゃっていいのかしら。その点が、いまいち腑に落ちていない。
専門家のもっている長期記憶は、素人とは大いに異なる。専門家は、外から同じ情報(相談とか課題とか)が持ち込まれても、素人とは全然違う反応をみせる。それはなぜかって、長期記憶の作りが、素人のそれとは全然違うからだ。
専門家の長期記憶は、その道の専門知識と、その周辺の関連知識、一見すると専門とは遠い教養、実務経験や日常生活から培ったノウハウなどが渾然一体となって、複雑にスキーマ化されている。
新しい情報(相談とか課題とか)が外から持ち込まれたときには、その複雑なスキーマから、うまいこと必要十分な要素を、機能的な様態で組み合わせ、無駄は削いで、「作業記憶」に持ち込むことができる。
素人には、それが複雑な問題か単純な問題かの判断もつかない、あるいは単純化して見誤ってしまう。学び途中の人にとっては、たとえそこに複雑さは認められても、作業記憶がそれを処理するだけでパンクしてしまう。玄人は、複雑な状況・情報が入ってきても、その多くを「単一の要素」としてパターン認識して自動処理でさばくことができ、他の事がらに労力を注いで仕事に取り組むことができる。
だから、専門家を育てるには、専門家の長期記憶をじっくり涵養することが要の一つとなってきた。私の理解は、そういうふうである。
その長期記憶の厚み、縁の下の仕事能力を、専門家のそれとして涵養することなく、AI活用の能力、専門的な知識・文脈と関連づかないロジカルシンキングだの発想力だの、なんちゃら力だのの単体で切り刻んだ訓練に全振りしたところで、どうとも転がらない気がしてならない。
だから、つまり、今のところ、その仕事そのものは人がやらなくなり、AIに任せることになったとしても、そのAIの仕事を監督・評価したり、修正・追加指示したり、自ら修正したり他と連携させたり、その仕事を包括する事業活動の価値を着想したり創造・マネジメントしていく上では、専門家としての長期記憶を育むプロセスって、人材育成の一環として手放せないんじゃないの?みたいなのがある。
長期記憶の作りによって、作業記憶の処理は劇的に違ってくる。このことは、アナログな人間の体に規定されたものであるから、そうがらりと一変するものでもなかろうと。
その辺のことが、野良な自分には、うまく説明もできなければ、ここにもやもや書きつけることしかできないのがもどかしいのだが。それに、もう少し「人体そのもの」が変わっていった先は、こんなもやもやも一掃されてしまうのかもしれないし。
とにかく私としては、自分の頭を柔らかくして、ほぐしほぐし、手放すべきこと、変えるべきことにも、手放すべきでないこと、大事にすべきことにも心を開いて本質を自分なりに見定めながら、目の前の仕事に関わっていきたいのだ。
* ジョン・ハッティ、グレゴリー・イエーツ著「教育効果を可視化する学習科学」(北大路書房)
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