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2025-05-24

その仕事をしなくなるなら、その仕事能力を身につける必要はなくなるのか問題

何かにつけ「AI時代の〜」と枕がつく今日この頃だけれど、「AIの台頭で人間の仕事はどう変わるか」からの「この仕事はAIに代替されるから、人間がやる必要はなくなる」からの「今後人間に求められる仕事能力は、こう変わる」みたいな論を読むにつけ、どうも論の拙速さ、ピースの不足感を覚えることが多い。

人間が職場で何をやるかという意味では、確かに「AIに代替されて、人間がやらなくなる」移行は進むと思う。ただ、実際にやる「仕事」と、その仕事を成し遂げるために働いている「仕事能力」は別物だ。

一つの仕事をやり遂げるのには、それを成り立たせる仕事能力が水面下で働いているわけだが、仕事能力というのは仔細にみると、じつに複雑に絡まりあい、階層的な構造をもって発揮されている。とりわけ、専門家の仕事能力とはそういうものだろう。

ここで私が言う専門家というのは広く、一定の専門性をもって特定の業種、業態、事業、職業の経験を積んで仕事をしている人くらいのニュアンスなのだが。

水面下で働く仕事能力の代表格として、ひとつ取りあげて迫ってみたいのが「長期記憶」だ。参考までに、最近整理した「長期記憶」についてのメモを下にはっておく。

感覚記憶と長期記憶、流入元で変わる作業記憶の働き(クリック or タップすると拡大表示)

Longtermmemory

ここでフォーカスしたいのは、今すでに専門家として活躍しているアラフィフ・アラフォーな人たちが、生成AIを活用しながら、いかに自分の仕事を洗練させていくかではない。これから社会に出て専門性を育んでいく若者の「専門家の長期記憶」は変わるべきなのか、変わるべきなら何を目指すように変わるべきで、どう育て方を変えるべきだというのか、その「べき論」である。

私が読んできたのは、若者も含めて、これまでと変えるべきという話なのか、それは別・それは知らんよという話なのかが明示されていなかった。それで、もやっているのだ。ゆえに今のところ「変えろ」論を訝しみ、これまで通り長期記憶を涵養すべきではないのかという認識を保ったところで、うろうろしている。変えどきには、あっさり変えられる人間でありたいとは思っているのだが。

専門家にそなわる長期記憶って、職場での実行役をAIに移行するからといって、そんな安直に手放せるものかしら。長期記憶のあるべき論・育て方論って、そんな簡単に変えちゃっていいのかしら。簡易化したり、身につけるべき能力を別の力点にごそっと差し替えちゃっていいのかしら。その点が、いまいち腑に落ちていない。

専門家のもっている長期記憶は、素人とは大いに異なる。専門家は、外から同じ情報(相談とか課題とか)が持ち込まれても、素人とは全然違う反応をみせる。それはなぜかって、長期記憶の作りが、素人のそれとは全然違うからだ。

専門家の長期記憶は、その道の専門知識と、その周辺の関連知識、一見すると専門とは遠い教養、実務経験や日常生活から培ったノウハウなどが渾然一体となって、複雑にスキーマ化されている。

新しい情報(相談とか課題とか)が外から持ち込まれたときには、その複雑なスキーマから、うまいこと必要十分な要素を、機能的な様態で組み合わせ、無駄は削いで、「作業記憶」に持ち込むことができる。

素人には、それが複雑な問題か単純な問題かの判断もつかない、あるいは単純化して見誤ってしまう。学び途中の人にとっては、たとえそこに複雑さは認められても、作業記憶がそれを処理するだけでパンクしてしまう。玄人は、複雑な状況・情報が入ってきても、その多くを「単一の要素」としてパターン認識して自動処理でさばくことができ、他の事がらに労力を注いで仕事に取り組むことができる。

だから、専門家を育てるには、専門家の長期記憶をじっくり涵養することが要の一つとなってきた。私の理解は、そういうふうである。

その長期記憶の厚み、縁の下の仕事能力を、専門家のそれとして涵養することなく、AI活用の能力、専門的な知識・文脈と関連づかないロジカルシンキングだの発想力だの、なんちゃら力だのの単体で切り刻んだ訓練に全振りしたところで、どうとも転がらない気がしてならない。

だから、つまり、今のところ、その仕事そのものは人がやらなくなり、AIに任せることになったとしても、そのAIの仕事を監督・評価したり、修正・追加指示したり、自ら修正したり他と連携させたり、その仕事を包括する事業活動の価値を着想したり創造・マネジメントしていく上では、専門家としての長期記憶を育むプロセスって、人材育成の一環として手放せないんじゃないの?みたいなのがある。

長期記憶の作りによって、作業記憶の処理は劇的に違ってくる。このことは、アナログな人間の体に規定されたものであるから、そうがらりと一変するものでもなかろうと。

その辺のことが、野良な自分には、うまく説明もできなければ、ここにもやもや書きつけることしかできないのがもどかしいのだが。それに、もう少し「人体そのもの」が変わっていった先は、こんなもやもやも一掃されてしまうのかもしれないし。

とにかく私としては、自分の頭を柔らかくして、ほぐしほぐし、手放すべきこと、変えるべきことにも、手放すべきでないこと、大事にすべきことにも心を開いて本質を自分なりに見定めながら、目の前の仕事に関わっていきたいのだ。

* ジョン・ハッティ、グレゴリー・イエーツ著「教育効果を可視化する学習科学」(北大路書房)

2025-05-22

「神経を抜く」との出会い

「神経を抜く」との出会いは、40年ほど前に遡る。小学生の時だった。テレビやラジオからではない。じぶんの人体に及ぼされる直接の行為として、その言葉を耳元で聞いた。そう、歯医者だ。

Removenerve

40年以上前から、お口の中では「神経を抜く」ということが、一般庶民に受け入れられるかたちで言葉としても流通していたし、行為としても普及していた。

あの頃すでに、我々は人工人体化の一線を越えてしまっていたのだ。昨今、あの頃の歯医者体験を思い出して、人工人体化する世の中のあれこれに一定の理解を働かせようとする自分がいる。

口の中で抵抗なく行われていることは、時代進めば、他の部分にも一般化しうるし、それが一つの人体において複数箇所に及ぶことも想像に難くない。それがじわじわ多数へ、全体へと波及するのは当然の流れ。いったん部分が始まってしまえば、全体への広がりは歯止めがきかない、なんつって。

「言葉がある」「名前がつく」が人を動かすパワーは、やはり強大だなと改めて思う。有無を言わさず受け入れる感じ、そういうものなんだと子どもの頭が受け入れる感じ。「神経を抜く」と平然と大人に言われれば、「はぁ、そういう医療行為があるのだな」と受け入れてしまう。言葉が日常語として一般家庭に、子どもにまで流通すれば、行為への抵抗感は薄れていき、適用範囲は際限なく広がっていくのだろうなぁ。

などと思いつつ、私はその手前で、この世をおさらばする気でいるけれども。ただ、例えば運良くあと10年だか20年だか生きたとして、その間に自分の同世代が「明日、神経抜く人間ノイド行ってくる!」「わぁ、どんなだったか話聞かせてー」なんてやりとりしだして、それが一気に広まって続々と人工人体化して、「えー、みんなこの世に残るの?」みたいなことになったら、さて私はそのまま昭和人間としてこの世を立ち去れるか。100%絶対そうするとは、なかなか言い切れない。けど、やっぱり今のところ、今の人生観でおさらばするつもりなのだけれど。この世は一体全体、どうなるんだろうなぁ。

2025-05-06

教える側の効率より、学ぶ側の能率

ある算数の授業を、同じ教え方、同じ授業時間で条件を合わせて、一方のグループには「1回にまとめて120分」で教え、もう一方のグループには「4回に分けて120分」で教えてみて、学習効果に違いが出るかを実験した研究がある*。

Spacedlearning

学習効果に違いは出たか。出たとすると高かったのは、どちらか。

一見すると効率が良さそうな「集中学習」だが、結果は「分散学習」のほうに軍配が上がった。間隔をあけて教えたほうが、生徒はよく学習したという。記憶に定着しやすく、学習内容の理解も深まりやすかった(Hattie, 2008)。

この手の実験は何十年も前から行われていて、分散学習の有効性はよく知られたところ。なのだが、なかなか教育現場に取り入れられないまま今日に至るのが実状。

素人アタマでどうしてだろうって妄想してみると、一つに「いや、知らんがな」、一つに「変えるの面倒くさい」が思い浮かんだ。

長く続けてきたものがある界隈では、変えるのは面倒くさい。重たい腰をあげて変えるメリット、変えないデメリットをひしひしと感じないかぎり、なかなか人は変える気になれない。

また一回にまとめて行ったほうが、教育プログラムの計画上も、運用上も、教える側の手間を考慮しても、何かと楽で効率がいい。

そういうことだとすれば、つまり「学ぶ側が、学び終えるまでの能率」ではなく「教える側の、その場かぎりの効率」によって、集中学習スタイルが採られ続けている、ということになるまいか。

(妄想から結論するな、という話だが)だとするならば、分散学習の有効性を知らなかっただけで、有効ならやるさ!という身軽な層は、必要な現場で、どんどん取り入れていったらいいよな、と思った次第だ。

ことに会社の部署内の勉強会、同業界・同職種コミュニティの勉強会あたりでは、教えるアプローチや教材リソースにそう長大な歴史的蓄積を抱え込んでおらず、能率アップするなら身軽に変化を加えていける現場も多いだろう。そういうところで積極的に分散学習を取り入れていったらいい。

全面的に今やっている集中学習スタイルを刷新するとか、極端なことを言い出さずに。部分的に分散学習のやり方を取り入れてみたり、一部の集中学習を分散させてみたり、考え方として取り入れてみたり、柔軟に思考を巡らして、柔軟に試行してみたらいいのだ。

極論や曲解は、もうたくさん。古いAの画一から、新しいBの画一へと、全面移行する発想は貧しい。AもBもうまく取り入れて、自分とこの、それぞれの文脈で活かす態度こそ、人間の教養の尊さよ。

同じ会社の部署内であれば、年に一度の研修プログラムに寄せて育成施策の整理をつけないで、ふだんの定期ミーティングに15分程度の勉強会タイムを設けて、連続的に展開してみるという手もある。

上司や先輩が、部下や後輩に個別に教えるなら、教える側にとっても隙間時間をうまく使って教えるほうがやりやすいことも多々あるだろう。「これはちょっと厄介だから、まとまった時間がとれたときに丁寧に教えてあげよう」と思いながら先延ばしにしてきたことはないか。

その中にはもちろん、説明にまとまった時間が必要な事柄もあれば、厄介で複雑だからこそ、小分けにして連続的に教えたほうが良い事柄もあるだろう。

時間をあけて同じ情報に約6回出会うと、学習した情報は長期記憶に残るようになるという。そんなイメージに差し替えれば、一度で覚えられない部下・後輩にヤキモキしている心持ちにも、いくらか心の余裕が生まれてくるかもしれない。

車の運転が好例だが、とくに何かの操作・やり方を学ぶようなスキル習得においては、最適な状態で15〜30分を一区切りにすると費用対効果が高いとされる。車の運転なら、2時間ぶっ続けて学ぶより、1週間以上の間をあけて各20分間を6回以上に分けて練習したほうが効果が出やすい。

集中学習と分散学習の組み合わせ技でオーソドックスなのは、最初に集中学習をもってきて、その後を分散学習で継ぐやり方じゃなかろうか。最初、まとまった時間を設けて講義中心に研修を行う。それ一度きりでやりっぱなしにせず、ちょっと期間をあけて、次からは分散学習スタイルに切り替える。ちょっとした時間を使って、課題を与えて、やってみさせて、フィードバックを与えて、修正させて。そういう時間なら、小分けで展開しやすい。少しずつ課題の難易度をあげていって、基礎知識の記憶定着と並行で、熟練化を狙うこともできる。

集中学習と分散学習、両スタイルを教える手段の選択肢に入れてイメージすることで、実現できる打ち手もいろいろ発想しやすくなるかもしれない。身軽に変えられる教え手・環境にある人たちから、分散学習をうまいこと取り入れていったらいいなぁと思う。

*ジェフ・ペティ「科学的エビデンスに基づく最適の教え方実践ガイドブック」(東京書籍)

2025-05-01

学習効果が高いフィードバックの仕方(ルース・バトラーの実験)

何かを誰かに教えようというとき、フィードバックは有効な策だ。一方的に「話を聞かせておしまい」ではなく、「課題に取り組ませて、本人の回答や作品に個別のフィードバックを与える」ことは学習に効果的(というか、それなしに完遂する学習なんて、そうそうない。その割りに前者どまりの教示活動が多いことを危惧している)。

ただ、フィードバックすれば、やり方はなんだっていいというものでも、もちろんない。フィードバックの仕方を誤れば、むしろ興味の維持、能力の向上を阻害することだって、ある。

「今この相手にとって、どのタイミングに何をフィードバックすれば学習に効果的か」の最適解を探る、文脈に応じたチューニングが肝。ということを腹落ちさせるのに、なかなか示唆的なルース・バトラーの実験(1988)が興味をひいた。

実験手順としては、こうだ。

1)学力が高い層と低い層を混ぜた3つの生徒グループを作り、3つの課題に取り組ませる。
2)課題に取り組んだ後、グループごとに異なる方法で、生徒にフィードバックを与えた。

Experiment

さて、3つのうち、どのフィードバックを受けた生徒グループの成績が向上したか。

Aタイプ)コメントのみを与える
Bタイプ)グレードのみを与える
Cタイプ)コメントとグレードを与える

Question

一見すると、コメントとグレードの両方を与えるフィードバックが、最もフィードバックが充実していて学習効果を高めそうなものだが、少し冷静になって考察してみると、いやいや…という気持ちがわいてくる。

そう、実験結果はこうなったのだ。

Answer1

Aタイプの「コメントのみを与える」だけ、成績が伸びた。他のグループと比べて約33%アップ。Bタイプ「グレードのみを与える」はもちろんのこと、Cタイプ「コメントとグレードを与える」フィードバックも、成績の向上はみられなかった。

BタイプとCタイプのフィードバックを受けたグループの生徒たちの変遷をみると、「学力が低い層」は、3つの課題を進めるごとに「課題への関心」が低くなっていった。学んでいるテーマそれ自体に興味を失っていったわけだ。これではフィードバックしている意味がない。

しかし、学習の道半ばで不用意に「E判定」(最下位)と突きつけられれば、やる気を削ぐのは想像に難くない。「自分には無理だ」と思わせるフィードバックは、育成上マイナスに作用する。

では、BタイプとCタイプのフィードバックを受けた「学力が高い層」の変遷はどうだったかというと、「課題への関心」は維持していた。が、3つの課題を進めるごとに、教師が与える「コメントへの関心」が低くなっていった。

A〜Eの5段階で「B判定」と通知されれば、まぁこれくらい取れていればいいかと、現在地に安住する気持ちもわいておかしくない。人は修正することを面倒くさがるもの。そこそこできているという判定を受け取って尚、コメントを読んで、修正を加えて、完成させようという気を起こすのは、なかなか至難である。

Answer2

この実験から得られる示唆は、むやみに「グレード」を付けてフィードバックすると、学習の質が落ちるということ。

「コメントのみ」にしぼったほうが、「他の人より自分は上か下か」といったことに意識を散らすことなく、自分のことに集中して「何を間違ったか」「何が(理解)できていないか」「間違いを直すにはどうしたらいいか」に意識を向けやすいということだ。

本人の回答、作品、パフォーマンスに評価してグレードを付けなきゃいけない状況、本人にフィードバックすべきシチュエーションというのは、確かにある。得点化してグレード判定し、選抜・採否を決める、等級を上げ下げする、報酬額を決める。本人は「判定と、判定根拠」を受け取ることによって、結論の透明性や妥当性を認めて納得できる。

だけれど、こと「育成」目的において、本人にグレードをつけてフィードバックすることが「常に」必要、妥当、有効ではないということ。そういう認識をもっておいたほうが、教えるという行為に思慮深く向き合える。何を今本人に伝えるべきなのか、伝えるべきではないか、取捨選択の意識が働いて良いのではないかなと思う。

以上、スライドにもまとめてSpeakerDeckに置いたので、勝手が良ければ、こちらでご確認ください。

学習効果が高いフィードバックの仕方(ルース・バトラーの実験)┃SpeakerDeck

*ジェフ・ペティ「科学的エビデンスに基づく最適の教え方実践ガイドブック」(東京書籍)P275-276より

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