300人の若者の表情をみられる単発講師案件
演者としての自分の心許なさを抱えて、うーむと唸りながら準備して臨んだ本番2日間を終え、一息した週末である。天気も快く、すがすがしい。春が来た。
昨年度に引き受けた大学1年生向けの90分単発授業が、なかなか良かったというので、今年度も行うことになった。一年前より実施日程が早まり、4月2日、3日に授業を行うことになったので、もう本当に入学したてだ。ちょっと前まで、高校生だった人が大半だろう。少し前に東京に引っ越してきた人もあるだろうし、国をまたいで今ここにいる人もいるだろう。人生これからだ。
昨年度から、中身もゴールも大きく変更は加えない前提だったものの、そういうときこそ落とし穴にはまりやすいもの。なので、今回も一から準備するスタンスで、けっこう前から前年度の内容を見直し、今回対面する大学一年生に、自分としてどう向き合うか、何を伝えたいかと思案していた。
自分が話したことは、それはそれとして。300人の若者の表情が見られる体験というのは、とてもいい。しかも、自分がこさえてきた授業の反応をもらえるのだ。
どの話を聴いたときに、表情をどう動かすのか。何を話しているときに、私と目線を合わせて「ふむ」と頷くのか。これについてどう思うかと問いかけたときのリアクション。考えてみてと投げたお題を、一人で考えてみているときのアウトプット、数人で話し合いながら検討を重ねていく中でのワークシートの煮詰まり具合。各々のアウトプットから、交わす発言から、頭の中の躍動が(私の妄想こみで)汲み取っていける。
あぁ、ここが壁になっているのだな、ここの突破が難しそうだ、こういうことを考えているのだけど、うまく言葉に表せなくてもどかしそうだ、そういうことが、いくらでも想像を広げて汲み取れる。これはもう、大変な経験である。
なにせ90分授業なので、一つのことに割ける時間は、ごく短い。それでも私的には、相手から勝手にキャッチしていくボールの手触りを、とても豊かに感じる。
私が「そういう怒りのエネルギーが、素晴らしい作品作りの燃料になることもあると思うんですよね」と話したとき、ものすごい目力をもって、私に目線を合わせてくれた学生がいた。
私は、話を続けた。
だけど、その手綱を自分で握れていないと、人の印象操作に簡単にのってしまうし、いちいち感情的に振り回されて、へとへとになってしまっては、自分の創作にも活かせない。私がここで共有したいのは、「そうかもしれないし、そうではないかもしれないと断定できない情報に対して」解釈を拙速に一つに決めこまないことです。
なんとなく、彼が頷いたように見えた。あぁ、この人は、これまでの人生の中ですでに、この言葉に思い致すような経験をもったのだろうかなと想いを寄せながら、話を続けた。
大学1年生の最初にあった90分授業のことなど、なかなか覚えているものではないだろうけれど、無意識的にも何か残るものが働いて、今後の人生を歩む下支えにポジティブに作用してくれたらいいなと思う。
それにしても、作、演出、出演、全部一人でやる先生業を生業にしている人への敬服の念は、年々募るばかり。本当にお疲れさまです。
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