「普通の人」の見方に、凡庸と非凡が出る
昨日は「来し方行く末」という映画を観た。大学院を出て脚本家を志す青年が、生計を立てるため北京で弔辞の代筆業をしている、とても丁寧に。
静かな映画だった。だからこそ観る側の想像力を駆動させる。セリフが生きて届き、監督から観客へと意味の受け渡しが、うまく運ぶ。
作り手が余白を残して送り出してくれるからこそ、受け手は手づかみして内に取り込み、己に編みこんで育てられる。余白をもって送り出し、その余白が自分の予知する範囲をこえて、受け手側で開拓されることを信じる。そのための最善を尽くして作りこんだら、潔く手放す。これが、作り手や送り手の心得だ。
人の弱さと、善良さは、よく混用される。
こんな短いセリフでも、私たち観客は自分のうちに編みこんで、さまざまに思い馳せることができる。
脚本家は、第一幕で問題を仕かけ、第二幕で展開させ、第三幕で美しいラストを描こうとする。でも多くの人の人生に、第三幕はない。第二幕で閉じる。
そんなふうに「普通の人」の人生をあらわす。その尊さに光を当てた映画。
私は、普通を尊ぶ。「普通の人」を一束でくくる見方を雑だと思う。普通と凡庸は、ちがう。普通を凡庸とみるのは、そう観る人が、いわば凡庸な見方なのだ。
普通の中に、それぞれの個性を観る人間の力こそ尊い。鍛錬したいとも思う。その鍛錬は生涯きっと終わらないだろうとも思う。それは私にとって、とても創造的な活動だ。
予告をみて、この映画を観たいなぁと気にとめたのも、その辺に肌なじむ感があったからだろうなぁと思う。
なんだか、転機にある人のお話をじっくり対面で伺う機会が、重なってあったなと振り返る4月。人と過ごす静閑で豊かな時間。旅にも出た(写真は厳島の満ち引き)。風のようになった。
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