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2025-03-18

企業と労働者で認識がズレる「OJTの実施状況」

企業と労働者それぞれに「人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査」を行ったレポートが、私の中で話題。注目したトピックの一つが、企業と労働者で認識のズレが際立つ「OJTの実施状況」だった。

企業と労働者の「効果的なOJT実施」状況の認識差(クリック or タップすると拡大表示)

企業と労働者の「効果的なOJT実施」状況の認識差

企業のほうに「日常の業務のなかで、従業員に仕事を効果的に覚えてもらうための取り組み」を質問して、「何も行っていない」と回答したのは、たった2.9%。何かしらはやっている、というのが企業サイドの認識だ。

一方、労働者のほうに「仕事を効果的に覚えるために、いまの会社で仕事をするなかで経験したこと」を質問して、「特にない」と回答したのは28.0%にのぼる。3割近くの人たちが、会社に何かしてもらった覚えはないがなぁ、という認識。

ざっくり言って3%と30%、この開きは大きいなぁと思った。

この調査は、厚生労働省からの要請を受けて独立行政法人労働政策研究・研修機構が行ったもの。上の図は、同じ観点で、企業と労働者それぞれに調査した結果レポート(6ページ目、14ページ目)を取り出して並べたものだ。

これに興味をおぼえて、手元でがっちゃんこしてみたのが、下の棒グラフだ。

企業と労働者の認識別「具体的なOJTの取り組み」(クリック or タップすると拡大表示)

企業と労働者の認識別「具体的なOJTの取り組み」

具体的なOJTの取り組みとして、「企業が、やっていると認識している」ものは青色の棒で、「労働者個人が、会社のなかで経験したと認識している」ものは赤色の棒で引いて、上下に並べてグラフ化してみた。

1つ目でいえば、従業員には「とにかく実践させ、経験させる」ことをやっていると認識する企業が6割あるのに対して、「とにかく実践させてもらい、経験させられた」と認識している労働者は3割にとどまった。

2つ目は、「仕事のやり方を実際に見せている」と認識する企業は6割におよぶが、「仕事のやり方を実際に見せてもらった」と認識している労働者は3割程度にとどまるというわけだ。

グラフの右側に、企業と労働者の認識ギャップが大きい取り組みには星をつけてみた。上の2つは、極めて認識ギャップが大きいが、それ以外も一つずつ下ってみていくと、企業サイドはやっていると認識している施策が、労働者サイドではそう認識されていないんじゃないか疑惑が募るばかりの結果だ。

ちなみに、この調査、企業調査と労働者調査それぞれ別個に行っているようなので、労働者調査の回答者は、企業調査の回答企業に勤めているわけではない。

全国、業種さまざまで、従業員数5人以上の企業と、従業員数5人以上の企業に勤める個人(正社員&直接雇用の非正社員、男女、18〜65歳)に、それぞれ調査。調査実施時期はいずれも昨秋2024年10〜11月、公表日は今春2025年3月13日。詳しくは下のリンク先で。

人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査┃独立行政法人労働政策研究・研修機構

こういうのを眺めていると、「企業、経営陣、人事部門、上司は、やっていると認識している施策」が、「従業員、現場、部下からは、やっていると認識されていない施策」というのは、これに限らず各所でいろいろあるんだろうなぁと妄想が広がってしまう。

おたがい「相手方も、当方と同じ認識であろう」と思い込んでしまって、あえて問いただす機会もないまま、認識ずれが顕在化せずに放置され続けて早幾年か。こういうのを解消する突破口は、なんとかフレームワークとか作ったり使ったりしている場合じゃなくて、「ねぇねぇ、ところでさぁ、ちょっと聞いてみたいんだけどもさぁ」みたいな一言だったりするのかもしれないなぁとか。職場の「ねぇねぇ」は、けっこう大事だ。

2025-03-17

父と映画館で観た作品が100本を超えた

週末に父と映画館に通うようになって早2年、一緒に観た映画が100本を超えた。いつまでも続くことなんて一つもないと思い知りながら、穏やかに続く習慣に感謝と尊さをおぼえる。101日目を無事に進み出してから記念するところが、私の堅実で臆病なところ…。Instagramでぱしゃり。

習慣的に父と観た映画だけ登録しているアプリがあって、先週アプリ画面上に100って表示されているのを見て、ほぅっ!となった。

途中、父の短期入院が入ったのと、一緒に旅行に出かけたのと、2、3日行かなかった週を挟むけれど、基本的に2年間、毎週末。すると必然100作品に達する。

「毎週末、父と映画館に行っている」なんて言うと、「すばらしい、素敵だ、終わった後に映画の感想を話し合ったりして?」なんて期待されるのだけれど、とんでもない。観終えたそばから、今日は豆腐を買うだのなんだのと買い物の話をはじめる始末。ときどき双方のぼやきは交換されども、高尚な感想戦などまったく展開されない。

この習慣は、何より習慣として続くことが大事なのだ。もちろん私は毎回、映画を楽しんで選び、楽しんで観ているのだが極論、映画がおもしろくなくても、主たる問題ではない。映画の前に、顔を見て、視線を合わせて、一緒に食事をすることが大事なのだ。

そこで、その週にあったこと、最近気がかりなこと、ふと思いついたことなどを思いつくままに、あれこれおしゃべりしたりして父のもやもやが晴れること。なにか大ごとになる前に、問題の芽が摘まれて解消すること。

娘が、あるときは軽口をたたき、あるときはけらけらと笑い、あるときは気にするなかれと嗜め、あるときは発破をかけ、あるときは励まし、ときに小競り合いをしても、再びたわいのないおしゃべりに戻ること。

父の子どもの頃の話、大学時代のこと、社会人になってからの仕事のこと、社会をどう見ていたのか、どうつきあってきたのか、友人のこと、上司のこと、同僚のこと、取引先のこと、両親のこと、兄姉弟のこと、親戚のこと、自分のことをどう見てきて、今どういうふうに考えているのか。暮らした町、故郷のこと。そういう話をゆったりと聴くこと、引き出すこと、引き継ぐこと。

映画の後には連れ立って、豆腐やら魚やらネギやら、ときに靴やら帽子やら塗り薬やら、必要なモノを買いものして歩くこと。ただ、ただ、庶民の家族のコミュニケーションが繰り返されることに尊さをおぼえる。

別れ際には私が「お疲れさまでしたー」と言い、父はいつも「ありがとう」と言う。そう挨拶を交わす度、なんだかんだ言ってやっぱり父のほうが、うわてだと思う。

2025-03-09

量を減らして、一つのことを自分に丁寧に織りこむ

自分が書くエッセイは、豆腐を作るときに出るおからのようなものだと、吉本ばななさんが言っていた。彼女にとっての豆腐とは、もちろん小説だ。

先日おからのほうの『「違うこと」をしないこと』を読んでいたら、やっぱり豆腐も食べたくなって「花のベッドでひるねして」という小説を読んだ。立て続けに読んでみると、2つの作品はかなり密接につながっていて、「花のベッドでひるねして」には切々と、「違うこと」をしないことが書いてあった。

この小説のほうは、なぜだか家に文庫本があって、実際は再読。ページの最後のほうまで折り目がついていたので、数年前に一度読み切ったはずなのだが、全然記憶に残っていなかった。なので今回、新鮮な気持ちで改めて読んでみたのだ。すると今このタイミングで読むべくして読んだという気がむくむくわいてきた。調子がいいものである。

おそらく、これを最初に読んだ頃と比べて、私は今、そうとう静かなところにいる。身の回りで起きる出来事はそんなに多くなく、騒音混じりの情報を大量に浴びまくって生活することも、ほとんどない。

自分のキャパシティは、そんなに大きくも奥行き深くもないので、手に余りすぎて自分じゃどうにもならないところに浸かりにいくより、量を減らしても自分がきちんと負えるところで、傷すらきちんと負ったほうが糧になると、そんなふうに落ち着いている。

傷ついたら傷を負ってしまった…と、きちんと戸惑い、自分はその出来事の何に傷ついたのだろうかときちんと吟味する。あぁ、自分はこういう人間だから傷をおったのだと考える。そういうことを一つずつ、うやむやにしないで丁寧に向き合っていくのだ。

それが痛みであっても、そこから自分の糧にして発見できることもあるし、成長の機会とできることもある。あるいは、これは自分の生涯だと突破すべき壁には当たらない、関心もないしなぁと手放すこともある。

他方、嬉しいことも、充実感を味わえることも、人や自然に感謝することも、味わいは増している体感だ。量が少ない分、一つから味わい尽くそうという渇望がわきやすいのかもしれない。人と話し込んで感じ入ることも、読書から味わえることも、本と出来事をつなげて学びを得ることも、とても豊かになった。

人と会っては別れ、本を読み終えては次の本へとせわしなくしていると、一つのことが何かに結びついて広がっていったり深まっていったりというのが、なかなか展開しきれず雲散してしまったりもする。そうではなく、自分の身の丈にあわせて慎重にインプットに向き合っていると、一つのことを大事に育める。

なにを本の読み方一つ知らないで、まったくテキトーにものを言うものだなと、外からみると呆れるほかない生き様だと思う。キャパを超えて浴びても無、数を減らして慎重に向き合っても無。ならば私は数を減らして、慎重に向き合う後者の道を選びたい。外野からみれば、ひどく幼いまま、いろんなものを取りこぼして本質を掬いきれずに生涯を終えていく人間だとしても、それをわきまえてもなお、自分の身の丈で自分の人生を充実させていくことができれば本望なのだ。

「花のベッドでひるねして」の中に、こんな言葉がある。おじいちゃんならきっとこう言葉を掛けるだろうという主人公の脳内セリフ。

そのつど考えて、肚(はら)に聞いてみなさい、景色をよく見て、目を遠くまで動かして、深呼吸しなさい。そして、もしもやもやしていなかったらその自分を信じろ。もやもやしたら、もやもやしていても進むかどうか考えてみなさい。そんなもの、どこからでも巻き返せる。

これは、おじいちゃんと幹ちゃんの共作であり、ばななさんが「私にとって世界一の父でした」とあとがきで述べる吉本隆明氏と、ばななさんの共作にも読めた。この機に再読できたのは良き誕生日プレゼントとなった。

*吉本ばなな『「違うこと」をしないこと』(角川文庫)
*よしもとばなな「花のベッドでひるねして」(幻冬舎文庫)

2025-03-02

専門家の志しは、ときに正体の把握を遠のける

小林秀雄のこのくだりは「作家」を志す者に限らず、ビジネス界隈でも「論は饒舌でも、現場仕事ができない」人の増殖を糾弾するようにも読めて興味深い。

文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお蔭で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。当人そんなことには気がつかないから、自分は文学の世界から世間を眺めているからこそ、文学が出来るのだと信じている。事実は全く反対なのだ、文学に何んら患らわされない眼が世間を眺めてこそ、文学というものが出来上るのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。巧いとか拙いとかいっている。何派だとか何主義だとかいっている。いつまでたっても小説というものの正体がわからない。<br><br><br><br><br><br><br><br>
小林秀雄『作家志願者への助言』新潮社『小林秀雄全作品4』より

横線を引いた「文学」のところを、職業家として専門性を極めんとする概念ワードに置き換えてみる。「リーダーシップ」でも「◯◯デザイン」でも「◯◯コンサルティング」でも「◯◯マネジメント」でも「◯◯マーケティング」でも「◯◯カウンセリング」でもいいが、置き換えて読むのだ。

後半に出てくる「小説」のところは、「現場仕事」だか、自分がその職業で作っているアウトプット、その専門性を発揮して現場でこなしている働きなり身のこなしに置き換えてみる。

すると、あら不思議、「読める、読めるぞ!」という興奮がわいてきて、「天空の城ラピュタ」に出てくるムスカみたいな気持ちになる。正体は、そこにはなく、ここにある。

良い本の読書体験って、実に豊かだ。小林秀雄は、これを昭和7年に書いている。

* 小林秀雄「小林秀雄 全作品4」(新潮社)

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