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2025-02-28

定位置にあり続ける対象に、観る側が解釈力を駆使して近づいていく人間業

一昨年の秋に初めて「能楽堂でお能を観る」体験をした私だけれども、以来おりおりに能楽師の親戚に誘ってもらって能楽堂を訪ね、このたび7回目にして京都での観能を果たした。それまでは、東京は銀座にある観世能楽堂、千駄ヶ谷にある国立能楽堂のいずれかで観賞していたのだが、今回訪ねたのは京都観世会館。「能にして能にあらず」とも言われる「翁」(おきな)という演目は、ぜひ観てみたいなぁと思っていたところ、ちょうど親戚が小鼓を勤める舞台があるというので京都まで出かけていったのだ。

お能について自分が語れることなど何ももたないのだが、これほど「私は何も知らない」という前提認識をもって、門外漢よろしく自分勝手に夢想できるものもない。と開き直って、能楽堂の席に座っているときの私は、だいぶ好き勝手に考えごとしたり感じとったり全身で遊びほうけている。

今回思っていたのは、お能という「時代を超えて定位置を保ち続ける対象」に対して、「時代時代で入れ替わる観る側・受け取る側」(つまり私)が、そこに普遍的な価値を見出して、ハイコンテキストな解釈力をフル稼働させて歩み寄り、そこから自分なりの時代観をもって考えを導くこと、感じるところをもつというのは、とても創造的で尊い人間活動ではないかと、そんなことであった。

そしてこれは、どうかすると一般庶民の生活において今後、稀有な体験になっていくかもしれないという危惧も覚えた。なんであれ私はそれを、自分個人の人生観としては生涯を終えるまで大切に育み続けようと思った。

この時代の流れに身をゆだねて、上っ面だけあわせて揺らいでいると、私はこの人間活動に必要な知力・気力・体力を弱らせていってしまいそうだと危惧した。自分の知らないうちに使う機会をもたなくなり、日常使いしなくなると、使わない・使えない・そのことに自覚もない三拍子がそろう。それを恐ろしく感じて、意識的に回避しなくてはというか、生涯すくすく育てていくぐらいの構えでいたいと強く思ったのだ。

とすると毎日を送る中で、大事にしなきゃいけないことはなんだろう。受け取る側として、自分が解せぬものに向ける眼差しを温かく、健やかに持ち続けることが、大前提な気がする。対象に対して、敬意をもって向き合うこと。一見して、無駄だとか、コスパ悪いとか、意味わかんないとか、難解でとっつきにくいとか言って早々と関心を閉じない構え。

そうして一歩、自分が解せぬものに親しんでみる入り口に立ってみる。自分なりに歩み寄れる着眼点を探してみること。焦らず気張らず、等身大で丁寧な観察眼と洞察力を働かせること。ハイコンテキストな解釈力をフル稼働させて、そこに自分が見出せる価値を探索してみること、それ自体をゆったりした気持ちで楽しむこと。まだ自身が承知していない価値への想像力を、わくわくした気持ちで働かせること。

気持ちに余裕があればたやすいことな気もするし、余裕がないと無理だなぁという気もする。そういう意味では、今の自分にはとても大事にできそうな期待がもてる。アラフィフにもなってお能に親しくなったのは、なにか縁だろうなぁとも思う。

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