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2025-01-26

人生は短いか長いか、セネカの「人生の短さについて」

光文社の古典新訳文庫から出ている、セネカの「人生の短さについて」を読む。古典も古典で、セネカは紀元前1年の生まれ。今から2千年前を生きた古代ローマ帝国の哲学者なのだけれど、書かれていることの現代への通じっぷりが半端なくて、示唆に富んでいる。

人間がいまいち「時間」と上手くつきあえず「人生」を生きて死ぬ悪戦苦闘を、二千年続けてきた感をおぼえる。翻訳者の中澤務さんが、初心者にわかりやすく言葉を編んでくれていることも大きいのだろう。

人生は長いか、短いか。

「人生は長い」と聞くことはないが、「人生は短い」とはよく聞くフレーズだ。これは昔も今も変わらぬようで、セネカは冒頭「ひとの生は十分に長い」と始める。「人生は、使い方を知れば、長い」のだと説く。

われわれは、短い人生を授かったのではない。われわれが、人生を短くしているのだ。われわれは、人生に不足などしていない。われわれが、人生を浪費しているのだ。

どう浪費しているか。「人生」というと大きすぎるが、「時間」に置き換えてみるとわかりやすい。

だれもが、ほかのだれかのために、使いつぶされているのだ。

あの人のこと、この人のことばかり気にかけて、自分のことには気にかけないで時間を過ごしている。

自分の土地や金銭を、安易に人に譲ったりはしない。自分の財産を管理するときには倹約家なのに、自分の時間を使うとなると浪費家に変貌する。時間は目に見えないから、無頓着になる。そうして、いろんな人に自分の時間を明け渡して「多忙な人間」になっている。

私自身は今「多忙な人間」ではないが、そこそこは多忙に過ごした時期を経て今。多忙に過ごした時間も、今の静かな閑暇も好きだし、愛おしく思っている。

今は静かなので、自分の声がよく聞こえる。自分の時間を過ごしている感覚がある。仕事している時間も、自分のための時間を使っている感覚がある。それは私の中で両立する。私はもともとそういう感覚で仕事もしてきたのだが、いよいよシンプルに合一した。

自分の時間を過ごすというのは「怠惰に過ごす」こととは違う。

あなたの人生のうちのかなりの、そして間違いなく良質な部分は、国家に捧げられた。これからは、その時間を少しでも自分のために使いなさい。

わたしは、あなたに、怠惰で退屈な休息を勧めるつもりはない。あなたのうちにある生き生きとした活力を、惰眠や大衆好みの娯楽に浸せと言うつもりはない。(そもそも、そんなものは休息ではない。)そうではなく、あなたは、そこに大切な仕事を見いだすことになるのだ。それは、あなたがこれまで一生懸命に果たしてきたどの仕事よりも、大切な仕事だ。あなたは世間から離れ、心静かに、その仕事に取り組むことになるのだ。

へたな危険、へたな重責を背負わず、大切な仕事に戻ること。心静かに、大切な仕事に取り組んで暮らしていけたらなぁと思う。その仕事が何なのかは巡り合わせ次第で、未来は不確かなもの。そういうものと受け止め、今を大事に重ねていけたらいい。

巻末の年譜をみると、セネカが「人生の短さについて」を執筆したのは48歳頃。つまり2千年を超えて今の私と同世代、どうりで話が合うはずだわ。波乱万丈すぎる生涯を生きたセネカに共感をおぼえるのは軽薄な気がするけれど…、今の私の「時間」への向き合い方によく馴染んだ。

*セネカ(著)、中澤務(翻訳)「人生の短さについて 他2篇」(光文社)

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