「不当ではない差別」はあるのかないのか問題
素人考えながら私は、「差別」って行為は「不当な差別」と「不当ではない差別」とに分けられるものだと認識して、これまでやってきた。
たぶん、ここ数十年いろんな公式文書で「不当な差別」という表記に数多く遭遇してきたから、「不当な」とつけるからには「不当ではない」差別もあるという前提で、みんな差別というワードを使っているのだろうと、たぶんそんな流れで、この解釈を定着させてきたのだろうと思う。
しかし、それにしてはどうも最近おかしな論争を見聞きすることが頻発しているので、今朝がた試しにググってみたのだ。すると検索結果のトップに「AIによる概要」として端的に示されたのが、これだった。
区別とは物事の客観的な違いを認識すること、差別とはその違いに合理性のない価値観を持ち込み、一方を不当に扱うことです。
これに私は、たじろいだ。お、おまえもか…。っていうか、おまえのそれは民の認識の結晶か?私は涙目だ。
まず足場づくりに「区別」を確認しよう。人間はいろんなものを区別する能力をもつ。あれと、これは、違うよねって、ものを分けられる能力だ。これが「差別」の下敷きにある。区別が働かなきゃ、差別はできない。
太陽と月は違うよね。夏と冬は違うよね。陸と海は違うよね。山と平地は違うよね。蒸し蒸しする空気と、空っからの空気は違うよね。
平らな道と、坂道は違うよね。平らな道を行くのは楽だけど、坂道を行くと疲れるし、スピードが遅くなるし、同じ距離を行くのでも時間がかかったりするよね。
人類は、分ける必要に駆られて、あれとこれを区別してきた。区別したものそれぞれに名前をつけ、呼び分けることで他の人ともその区別を共有できるようにしてきた。あれとこれの取り扱いに差をつけることで知性を発達させ、文明を発展させてきた。いろんな分野で知識を体系化してきた。分ける必要がなければ「菜っ葉」をそれ以上には分けないし、必要が生まれれば「根菜類の葉」「青菜」などと分け出すのだ。
この区別したものに対して「取り扱いに差をつけること」が、私にとっては「差別」という認識で、これまでやってきたわけだ。
「取り扱いに差をつけること」のすべてが一気に、「不当な差別」に解釈されるというのは、ちょっと雑すぎないか、手荒すぎないか?
不当でなく取り扱いに差をつけるなんて、これまで人類がいくらでもやってきたことじゃないか。うまく活用してきた能力じゃないのか。
春によく育つ野菜と、冬によく育つ野菜を区別して、育てる季節を分け、取り扱いに差をつけてきたのじゃないのか。
子どもと大人を区別して、「子どもは学ばせ、大人は子どもに教育を受けさせる義務をおう」としようって、憲法で取り扱いに差をつけて、それに皆合意して運用してきたのじゃないのか。
事故や災害の現場で、怪我していない人と怪我人を区別して、怪我人を先に救助するとかいう判断も、取り扱いに差をつける行為だろう。これは「不当に当たらない差別」というものじゃないのか。
どちらか一方を、優先的に扱う。もう一方を、後回しにする。どちらか一方に、優先的に何かを与える。もう一方には与えない。
合理性がある価値観を持ち込んで、取り扱いに差をつけるという「不当に当たらない差別」も、人間はこれまでやってきたでしょう?と思うのだけれどなぁ。
いや、これは言葉をどう定義して記述するかとかいう定義闘争ではなくて、AIがどうかという話でもなくて。現実社会の現場で、ちまたの言論空間で、どんどん、そういう真ん中の選択(「区別」と「不当な差別」の間にありうる「不当ではない差別」を認識すること)が許容されなくなっている言い争いに遭遇するたび、なんていうかな、悲しい気持ちになるというか、そらおそろしくなるというか。
いったいぜんたい、この世界はどうなってしまうのかなと。「2つに差をつけて取り扱う行為」のすべてが速攻で、卑劣な行為と糾弾される社会に後退していってしまうのだろうか。私の目には後退と映るのだけれど、そんな見方は不健全とみなされる合意形成が一般に定着していくのだろうか。
とりあえず私は、自分の日々の暮らしの中で、そこんとこの分別を丁寧に持ち続けて人の営みを解釈し、雑にならないよう、粗くならないように心がけて生涯を生き抜いていこうと思うのだ。それはそれで、小さな個人に許された自由空間はいくらでもあるから。
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