なりたい自分像とか、ありたい自分像とか
小説って、豊かな人物描写があるのが魅力の一つだ。登場人物の人となりを、言葉でスケッチしたような文章がふんだんに詰まっている。そういう中には、自分はこういうふうにありたいと思う人物像との邂逅もある。これが、映像作品のそれとも違うし、日常出会う人とのそれとも違う、小説には独特の斬れ味がある。
作家は言葉を用いて、簡潔明瞭な一節をもって、読者に人物像を提示してみせる。彫刻を彫るように姿を浮かび上がらせて、私の脳内に顕現してくれる、とでも言おうか。これは小説家の筆致力なくして叶わない。
2024年のノーベル文学賞を受賞したハン・ガンさんの「別れを告げない」に、それがあった。主人公が、彼女の友人のことを、こう表していた。
しばらく話すだけでも、混沌、おぼろげなもの、不明瞭さの領域が狭まってくるような気がすることがあった。
そして、こう続く。
私たちの行為のすべてに目的があり、苦労や努力が毎回失敗に終わっても意味だけは残ると信じさせてくれるたくましい落ち着きが、彼女の言葉遣いや身ごなしには染みわたっていた。
私は、この一節に出合いがしら、あぁ本当にこの本を読んでよかったと思った。まだ話の入り口、40ページに書いてあるのだけれど。
私は、なんとかの職業で名を馳せたいという欲もないし、ワークとライフでどっちを重視したい?といった仕事観にも、これといった志向性を持たない。なんなら、そんな既成枠組みに侵されて、且つそのことに無自覚なまま、この手の設問を乱用する世の中に嫌悪感すら覚えている。
とりわけ仕事を経験していない未成年に対して「あなたはワークライフバランスを重視しますか?」などと軽々しくアンケートで回答させて、実際にはない人の心に、少なくとも今は持たない人の心に、自分の志向性なりこだわりなりが、さもあるかのように捏造させる設問に暴力性を感じている。
ワークとライフ(プライベート)は「便宜的に分けて捉えることもできる」だけであって、概念的ワードを「はなから分かれているもの」と見て扱うほどアホなことはない。こういう問いかけ方は、「誰しもがどちらか一方を選好する人間の性質がある」とでも思い込んでいるような、その自分の思い込みを、知らぬ間に若者のうちにも植え付けるような、うげげ感がある。
愚痴が過ぎた、閑話休題。自分の話をしよう。私は、先の一節がとても気に入ったのだ。これは、私がこんなふうにあれたらなって思う人物描写だった。人との接点で、社会との関わりの中で、こんなふうに自分が働けたら至福だと思う自分像を描いた文章だった。
仕事の場はもちろん、公私問わず人とのやりとりを終えて、こういうふうに作用できたかなぁって手ごたえを覚える帰り道は、この上ない幸せが心にわきあがる。ただの自己満足だ。けれど自己で満足する以上に人生で至福を得られることなんて、あるだろうか。そういう物差しこそ、自分の中に見出して尊び、大事に磨くべきなのだ。
ところで、この引用は慎重に読まれなければならない。上の文では別に「行為のすべてに目的がある」か否かは、問われていない。
行為の目的は後づけも可能であり、行為してみた後に目的が見えてくることもあれば、行為前に掲げていた目的とは別のところに真の目的が発見されて置き換わることもある。たとえ目的が見当たらぬまま行為したとしても、あらゆる行為は無駄にならない、そのように後から必ず意味づけが可能だ。
見当たらなければ一緒に考える用意があるという眼差しで、相手を送り出す。その関わりが相手に「たくましい落ち着き」として届き、相手の支えとして働く。「言葉」ではない、「落ち着き」であり「言葉遣いや身ごなし」であることも決して見逃してはならない。
それは静かな働きで、ほとんど相手に意識されない。むしろ、こちらの働きが意識されて相手の気を散らしてはならない。労働市場で数値化され評価されることも難しい、特別の高度な専門性も認めがたい。そういう類のものに尊さを見出して、そこに力を注ぐか否かは結局、自己判断だ。
微力で端っこで働くことをわきまえて按配を見極められるからこそ、その人が自分で歩く主体性を奪わないで済む。相手を飲み込んだり、覆い被さって潰してしまうようなことがない。その人が、あわてたり、うろたえるところから解放する力を静かに注ぎ込みながら、相手が自分の力で立ち、歩き、自分の握力で大事なものを握り続けていけるための関わりを大事につとめる。そんなの、自己満足するほかない、自分の物差しでしか測れないし、自分の物差しを持ち替えながら試したり、それを洗練させ続けるほかない。
情報をあびまくるこの世界で、なりたい自分像、ありたい自分像がここにこそあると、そのありかに気づいて言葉でとらまえるのは、難儀だ。川上からどんぶらこんぶら情報は流れてくるけれども、川岸とは別のところに、例えば背にしていた山のほうに、自分のなりたい像、ありたい像が埋まっていて、土を掘り起こすように小説の中にひそんでいるのを発見する作業なのかもしれない。
とても、分かりづらい。けれど邂逅したときには、たぶん自分で、あっ!て気づく。自分でゼロから表現することはできなくても、行き当たりばったり遭遇すれば、あ、自分のはこれだなと、たぶん気づくのではないか。
なんとかの職業で5本の指に入るとか、なんとか業界に入るとか、どこそこ企業で働くとか、どこのポジションに就くとかじゃなくて、世間に出回っている一般名詞や固有名詞に、一つふたつの形容詞をまぶした言葉ではなくて、なかなか言い表せないところに、実は自分がしっくりいく自分像が描かれるのかもしれない。少なくともそういう余地を残しておけば、そうそう簡単に、何者かになれなくて絶望の淵に追いやられることはない。
実際には、何かの職業に就くことにこだわりはない、有名になることも、社会で評価や名声を得ることも、できるだけ多くの人から称賛をされることも、特別ぴんとこない人はけっこう多くいるのではないかと思う。そこら辺の人の志向パターンにフィットする人物描写というのが、そんなにどんぶらこ、どんぶらこと流れてこない世の中に思うのだが、あるいは小説の一節に埋め込まれているかもしれない。そんなことを思うのだった。いやぁ、長くなった。
ハン・ガン著、斎藤真理子訳「別れを告げない」(白水社)
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