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2024-12-28

なりたい自分像とか、ありたい自分像とか

小説って、豊かな人物描写があるのが魅力の一つだ。登場人物の人となりを、言葉でスケッチしたような文章がふんだんに詰まっている。そういう中には、自分はこういうふうにありたいと思う人物像との邂逅もある。これが、映像作品のそれとも違うし、日常出会う人とのそれとも違う、小説には独特の斬れ味がある。

作家は言葉を用いて、簡潔明瞭な一節をもって、読者に人物像を提示してみせる。彫刻を彫るように姿を浮かび上がらせて、私の脳内に顕現してくれる、とでも言おうか。これは小説家の筆致力なくして叶わない。

2024年のノーベル文学賞を受賞したハン・ガンさんの「別れを告げない」に、それがあった。主人公が、彼女の友人のことを、こう表していた。

しばらく話すだけでも、混沌、おぼろげなもの、不明瞭さの領域が狭まってくるような気がすることがあった。

そして、こう続く。

私たちの行為のすべてに目的があり、苦労や努力が毎回失敗に終わっても意味だけは残ると信じさせてくれるたくましい落ち着きが、彼女の言葉遣いや身ごなしには染みわたっていた。

私は、この一節に出合いがしら、あぁ本当にこの本を読んでよかったと思った。まだ話の入り口、40ページに書いてあるのだけれど。

私は、なんとかの職業で名を馳せたいという欲もないし、ワークとライフでどっちを重視したい?といった仕事観にも、これといった志向性を持たない。なんなら、そんな既成枠組みに侵されて、且つそのことに無自覚なまま、この手の設問を乱用する世の中に嫌悪感すら覚えている。

とりわけ仕事を経験していない未成年に対して「あなたはワークライフバランスを重視しますか?」などと軽々しくアンケートで回答させて、実際にはない人の心に、少なくとも今は持たない人の心に、自分の志向性なりこだわりなりが、さもあるかのように捏造させる設問に暴力性を感じている。

ワークとライフ(プライベート)は「便宜的に分けて捉えることもできる」だけであって、概念的ワードを「はなから分かれているもの」と見て扱うほどアホなことはない。こういう問いかけ方は、「誰しもがどちらか一方を選好する人間の性質がある」とでも思い込んでいるような、その自分の思い込みを、知らぬ間に若者のうちにも植え付けるような、うげげ感がある。

愚痴が過ぎた、閑話休題。自分の話をしよう。私は、先の一節がとても気に入ったのだ。これは、私がこんなふうにあれたらなって思う人物描写だった。人との接点で、社会との関わりの中で、こんなふうに自分が働けたら至福だと思う自分像を描いた文章だった。

仕事の場はもちろん、公私問わず人とのやりとりを終えて、こういうふうに作用できたかなぁって手ごたえを覚える帰り道は、この上ない幸せが心にわきあがる。ただの自己満足だ。けれど自己で満足する以上に人生で至福を得られることなんて、あるだろうか。そういう物差しこそ、自分の中に見出して尊び、大事に磨くべきなのだ。

ところで、この引用は慎重に読まれなければならない。上の文では別に「行為のすべてに目的がある」か否かは、問われていない。

行為の目的は後づけも可能であり、行為してみた後に目的が見えてくることもあれば、行為前に掲げていた目的とは別のところに真の目的が発見されて置き換わることもある。たとえ目的が見当たらぬまま行為したとしても、あらゆる行為は無駄にならない、そのように後から必ず意味づけが可能だ。

見当たらなければ一緒に考える用意があるという眼差しで、相手を送り出す。その関わりが相手に「たくましい落ち着き」として届き、相手の支えとして働く。「言葉」ではない、「落ち着き」であり「言葉遣いや身ごなし」であることも決して見逃してはならない。

それは静かな働きで、ほとんど相手に意識されない。むしろ、こちらの働きが意識されて相手の気を散らしてはならない。労働市場で数値化され評価されることも難しい、特別の高度な専門性も認めがたい。そういう類のものに尊さを見出して、そこに力を注ぐか否かは結局、自己判断だ。

微力で端っこで働くことをわきまえて按配を見極められるからこそ、その人が自分で歩く主体性を奪わないで済む。相手を飲み込んだり、覆い被さって潰してしまうようなことがない。その人が、あわてたり、うろたえるところから解放する力を静かに注ぎ込みながら、相手が自分の力で立ち、歩き、自分の握力で大事なものを握り続けていけるための関わりを大事につとめる。そんなの、自己満足するほかない、自分の物差しでしか測れないし、自分の物差しを持ち替えながら試したり、それを洗練させ続けるほかない。

情報をあびまくるこの世界で、なりたい自分像、ありたい自分像がここにこそあると、そのありかに気づいて言葉でとらまえるのは、難儀だ。川上からどんぶらこんぶら情報は流れてくるけれども、川岸とは別のところに、例えば背にしていた山のほうに、自分のなりたい像、ありたい像が埋まっていて、土を掘り起こすように小説の中にひそんでいるのを発見する作業なのかもしれない。

とても、分かりづらい。けれど邂逅したときには、たぶん自分で、あっ!て気づく。自分でゼロから表現することはできなくても、行き当たりばったり遭遇すれば、あ、自分のはこれだなと、たぶん気づくのではないか。

なんとかの職業で5本の指に入るとか、なんとか業界に入るとか、どこそこ企業で働くとか、どこのポジションに就くとかじゃなくて、世間に出回っている一般名詞や固有名詞に、一つふたつの形容詞をまぶした言葉ではなくて、なかなか言い表せないところに、実は自分がしっくりいく自分像が描かれるのかもしれない。少なくともそういう余地を残しておけば、そうそう簡単に、何者かになれなくて絶望の淵に追いやられることはない。

実際には、何かの職業に就くことにこだわりはない、有名になることも、社会で評価や名声を得ることも、できるだけ多くの人から称賛をされることも、特別ぴんとこない人はけっこう多くいるのではないかと思う。そこら辺の人の志向パターンにフィットする人物描写というのが、そんなにどんぶらこ、どんぶらこと流れてこない世の中に思うのだが、あるいは小説の一節に埋め込まれているかもしれない。そんなことを思うのだった。いやぁ、長くなった。

ハン・ガン著、斎藤真理子訳「別れを告げない」(白水社)

2024-12-11

ネット上に流れづらい多様で小粒な数多くの伝承ノウハウ

しっかり校正者が入っていそうな大手出版社の本でも、私はかなりの頻度で誤植を見つけるほうで、「良い本だなぁ!」と思った本は、感謝の念をもって&重版も見込んで、出版社に「誤植かも?報告」を入れるようにしているのだけど。

下のスライドは、直近で出版社サイトの問い合わせフォームから連絡を入れたとき、その問い合わせ文面を作成するに際して配慮したポイントを、ざざっと挙げたもの。

(画像をクリック or タップすると拡大表示)

Inquiryformtext

言われなくても、わかっている。実にちっぽけなノウハウの列挙だ。

なのだが、世の中は実はこうした小さなノウハウに溢れていて、日常的にそこここで発揮されているのに、各々が物静かに行っているから​、情報としてはカスタマーハラスメント事情ばかり大量生産・流通されて、そっちばかり目立ってしまっているのではないかと、そうした疑念を抱いている。

前者は「口にするのは粋じゃない」ってカルチャーがあるから、流通する情報のバランスが悪いんじゃないかなぁと。家庭で親が子に示したり、職場で上司や先輩が教えてくれたり、そういうところでしか、なかなか伝承されていないとなると、実態より社会が汚く見える人も生み出しちゃっているようで、ちょっともったいないなぁと。

ちなみに上の問い合わせをする前には、出版社サイトで「正誤表」がすでに公表されていないか確認し、「よくあるご質問」ページに誤植報告用の手順説明がないか確認の上、特になかったので「問い合わせフォーム」から送る手順を踏んでいる。「問い合わせフォーム」のページにも、たいてい案内や注意事項が添えられているので、そこは一通り目を通して、必要な指示に従って問い合わせるのを礼儀としている。

そういう一つひとつを、小粒ながら丁寧にやっていきたい。子も、教え子もいないけれど、いろんなところにお世話になっている1市民、1カスタマーとして。

2024-12-10

10年前20代だった人たちの、ここ10年の「職業観」経年変化

厚生労働省が12年続けている調査で、2012年当時に20代だった全国の男女を対象に、結婚・出産や就業実態・意識の経年変化を追っている「21世紀成年者縦断調査」というのがある。

その中に「職業観」という項目があって、10年前(2013年)と最新(2023年)のデータを取り出して比べてみると、こんなグラフになる。

(画像をクリック or タップすると拡大表示)

Occupationalview

2013年に22〜31歳だった人たちが、2023年では31〜40歳になっている。会社でいったら若手から中堅に。

何を読み取るか人それぞれと思うのだけれど、超個人的には「社会に貢献するため」「働くことが生きがい」に、「あと5パー!」と一声かけてしまいたくなる。

昔の価値観を押し付けたいわけじゃ毛頭ない。ただ、仕事、職場、職業経験を活かすことで、単体・個人では生きられなかった人生を謳歌できることも多分にあり、私は平凡な人間ながら、その恩恵を受けて人生で経験できることを拡張させてもらえたような、仕事に生かされてきた感覚があるので。

私のように、個人として特別優秀でない普通の人たちこそ、そういうテコの原理みたいなのを活用したら、楽しく人生時間を過ごせると思うし、その意味では特別な人たちだけが「社会に貢献するため」「働くことが生きがい」を思うのではなく、普通の人たちこそそういうことを職業観としてもっている社会のほうが、なんかいいんじゃないかなぁとか思っちゃうのだ。

多様性社会と言われる中、そういう人の歩き方を撲滅するのではなく、それはそれで何割か残って尊重されていいんじゃないかなぁと。おもてだって下手に発言すると叩かれるかもしれないけれども。

2024-12-08

長篇でなければ実現不可能だった

先月半ばに分厚い長編小説を2冊読み終え、次はいくらか小ぶりな中編小説に手をのばすのかなぁと見立てて本屋を訪れたのだが、文庫コーナーの前に立つと、あいも変わらず600ページ級の長編小説になびく自分がいた。遅読のわりに果敢だなぁと感心しつつ、なびく理由はわからぬまま、自分のそれに従ってレイモンド・チャンドラー「長い別れ」*1を買って帰ってきた。

初めてのレイモンド・チャンドラー作品だ。この作品から入るの?と言われそうだけど、タイトルに惹かれて。原書「The Long Good-bye」は、1958年に清水俊二訳「長いお別れ」、2007年に村上春樹訳「ロング・グッドバイ」が出ているが、今回私が手にとったのは2022年に出た田口俊樹の新訳「長い別れ」。

とても好かった。他の訳者と比べた評は何も言えないけれど、すごく自然に脳内描写を誘う文章で読みやすかった。「訳者あとがき」からも、真摯な翻訳への向き合い方が伝わってきて職人魂を感じる。「解説」の591ページに、同じ箇所を3者がどう訳したか読み比べられるところがあるので、比較してみたい人は書店でそっと開いてみるとよいかも。とりわけ村上訳は個性的に感じた。

肝心の中身は、というと、読んでいる最中しばしば「小説を読むのに理由なんていらないんだわ、私はおもしろいから読んでいるんだな」と実感させられるおもしろさだった。それと相反するようだが「私が小説を読んで成し遂げたいことは、長篇でなければ実現不可能」なのだとも、読後に思い耽った。

というのは、「解説」で書評家の杉江松恋さんが書いていた、これの裏返しなのだけど。

彼が小説を書いて成し遂げたいことは、長篇でなければ実現不可能だった

まぁ、書き手のそれと、読み手のそれじゃあ、全然違う。読み手としての私は、長篇でなくとも様々に小説から恩恵を受けられているのが実際なのだが。それでも600ページ級の長編小説をこそ、いま自分が渇望していることに間違いはない。

そのことについて、最近いろいろと考えていた。うまく言葉にできなくて、自分の文章表現力にやきもきもしていた。同じところをぐるぐる思考巡らしているようで途方に暮れていた。

まだその只中にいるのだけど、とりあえず、最近のSNSにぐったりしてしまったことが一因にあっただろう。人を、出来事を、一面的、表層的に捉えて、何かを早々と結論づけてしまう。いったん結論つけたら、その結論ありきで単純なロジックを組み立てて、見立てを柔軟に変容させていくことをやめてしまう。どう見立てたら、より明るい光を先に見出せるかを思案し続けることをやめてしまう。その不健全で怠惰な流れが、きつかった。これは一方で人間の性でもあって、この先どんどんひどくなって、自分も知らぬ間にそれに飲み込まれていってしまうんじゃないか。いや今すでに、無自覚にその流れの中に浸かっているのじゃないかという恐れがあった。

端的に言えば、大江健三郎さんの本*2の中にあったチェコスロヴァキアの作家ミラン・クンデラが遺した言葉(「笑いと忘却の本」King Penguin版、1979)そのままなのかもしれない。

とにかく世界じゅうの人びとが、いまや理解するよりは判定することを好み、問うことより答えることを大切だとするように感じられます。そこで、人間の様ざまな確信の愚かしい騒がしさのなかで、小説の声はなかなか聞きとられがたいのです。

これは1970年代の言葉だけれど、今にも通じている。当時より増しているのか減じているのか、私にはよくわからない。けれど私個人として「小説の声が聞きとられがたい」時代を背景に、切実に、この流れに抗いたがっている。「小説の声を聞きとりたがっている」自分の渇望に応えて、長編小説に手を伸ばしている感じがする。

自分の終わる日まで、たおやかに育んでいきたいものがある。それが何なのかは、書き出すといつまでも止まらないで、だらだらとしたものになってしまって仕方ない。自分の中ではこれと分かるのに、なかなか言葉にまとまらない。でも、これと自分では分かるから、それを大事に育て続けようと思う。伸ばし続け、発揮し続け、縁ある人に役立てて、今の社会に還元して、終われれば良い。いよいよ砂嵐の中に立っているような風景に呆然としてしまうことが増える一方だけど、それもきっと一面的な見方にすぎないのだろう。

*1:レイモンド・チャンドラー著、田口俊樹訳「長い別れ」(東京創元社)
*2:大江健三郎「新しい文学のために」(岩波新書)

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