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2024-10-31

サービス劣化を食い止める、真っ当なクレームは存続するか

Facebookで私が一方的にフォローしている藤野英人さん(SBIレオスひふみCEO)の投稿にふれて、自分が思ったことメモ。

元のFacebook投稿はこちらのリンク先から読めるが、ざっくりまとめてしまうと藤野さんが2年ぶりの引っ越しに際して日本のサービスのポンコツ化を実感した話。引越業者、小売店、運搬業者とのやりとりで、日にち間違い、忘れ物、連絡の行き違いなど大小さまざまなミスに遭遇し、2年前と比べて引越業者の仕事も明らかに雑になっていたと言う。

カーテンが届かないのも、運搬業者と小売店の言い分が食い違っていて、なんだかなぁという感じだったのだが、次のとおり、あまり事を荒立てず、現場対応にあたった様子がうかがえる。

まあそこを解明したところで意味はなく、カーテンの取付は明日以降に。

しかし、これを愚痴りたいわけではなく、次の胸のうちのほうが投稿の主旨と見受けられる。

しかしそれは、人手不足による人材の品質と教育機会の低下が背景にあるだろうし、「運んでいただけるだけ感謝」というように顧客側も思わなければいけない。時代はそう変化しているのだ。お客様だから威張れる時代ではない。

投稿の最後の一文は「全般的には日本のポンコツ化はすすんでいるような気がする」で終わるのだが、これを読み終えて私が思ったことを書き留めておきたい。藤野さんが書きたい論とは軸のずれた話を展開しているのは承知の上で、なのだけども…。

知性的で誠実で善良な市民こそ、一顧客としてトラブルに遭遇しても、背景事情を慮って現場でクレームを言わず、打開コミュニケーションを図らなくなっていることも、ポンコツ化の歯止めをきかなくしている一因では?と思うところがある。

「一因がある」というのは、責任の一端があるという意味ではなくて、ポンコツ化を好転させるのに影響を及ぼせる余地をもつのに、その力を眠らせているという意味で言っているのだけども。

その場でクレームをあげる、率直に思うところを相手に伝えてみるという平易な行為が、ずいぶんと平易でないところに遠のいてしまったな、とも思うのだ。

「この人に言ってもな」という物分かりの良さ、背景に理解を示して現場の個別具体より社会情勢に焦点をあわせようとする知性が働いて、知性的で誠実で善良な市民こそ、現場でもの言わなくなっていく。それは事を荒立てない道筋であると同時に、事態の好転をあきらめる道筋でもある。

そうすると、いよいよクレームというものが、無知性で不誠実なカスハラ的な人の行為として色濃さを増していって、一般の人が「クレームを言う」行為に対する抵抗を頑なにしていく。それはそれで社会全体でみると悪循環にはまっているようにも思えてくる。

カスハラに括られるような極端な顧客は声をあげるけれども、真っ当な顧客は事情を慮って現場でも何も言わないし、カスタマーサポートセンターにもクレームをあげない。そうすると企業の上層部もなかなか問題を検知できない、そうして静かに着実に、組織も社会も腐っていく。

善良な市民こそが顧客として、その組織がサービス改善する機会提供をできないものだろうかとも思う。「威張って文句を言う客」と「一切文句を言わない物分かりのいい客」の間に、いくらでも真っ当な客としてコミュニケーションを作り出す余地はあるのではないか。

現場でクレームを飲み込み、その後一切のコミュニケーションを断つのではなく、あるいは抽象化して世を憂いたり嘆いたり社会問題的に語るばかりでなく、直接に被害を受けた顧客として、現場で伝えてみるとか、組織に伝わるように問題点を送ってみるとか。

それで動くか動かぬかは組織の力だけれど、そこに網をはっている経営層はいなくはないだろうという期待がある。それでも言おうか言うまいか、今言おうか、後でサポセンには送ってみようかと、遭遇するたびに逡巡する小市民ではあるのだけれども。一切合切のコミュニケーションをあきらめたくはないなぁとは思う。

2024-10-24

遊びと研究と仕事がない交ぜになった、エキサイティングな場所としての会社組織

CG・映像の月刊誌「CGWORLD」が、今月号で「デジタルハリウッドの30年」を特集している。デジタルハリウッド株式会社は、私が社会人になって(ほぼ)最初に勤めた会社、1996年から2000年まで丸4年お世話になった。

ちょうど今、同大学の卒業生が「第51回学生アカデミー賞」のアニメーション部門で銀賞を受賞した快挙で話題になっている。が、私が所属していたのは時をぐるんぐるんと巻き戻して、今から20年以上前のことだ。

1990年代後半、世の中はインターネットが普及していく黎明期にあった。会社は設立2年足らず、創業期から急成長期へと移行する只中だったろうか。猫の手も借りたい時期に、猫の手としてなら役立つことを認められて転がりこんだかっこうだ。別に、コンピュータやインターネットに詳しかったわけでもないし、工学や建築、CGを専攻していたわけでもない。私は「とらばーゆ」で、たまたま引っかかっただけだ。

当時はまだ数十人のスタッフが、淡路町の雑居ビルに散らばって、ビル間を行ったり来たりしながら昼夜なく事業をしていた。生みの親会社であるVSL(研究所)も、そこから生まれた小会社も、同じように近所の雑居ビルに点在し、親も子もまるで同じ会社の部署違いのような緊密さでやりとりしていた。「システム関係は、VSLのTさん」みたいな感じで、私のような小僧の入社時の初期設定からマシントラブルまで親会社の人が親身に面倒をみてくれた。

特集では、はじめに「杉山知之学長の巻頭インタビュー」が展開される。杉山先生は、社会人なりたてほやほやの私に「会社」というものを具現化して見せてくれた人だった。それに気づいたのは会社を辞めた後、長い年月を経て振り返ったときのこと。会社も、仕事も、事業も、ビジネスも全部、有意義なものなのだという当たり前を、私にインストールしてくれたのは杉山先生だったなと。それが、私が社会人として仕事場に立ち続ける足場になっていた。

という話は以前ここにも書いたことがある(「みんなを生きるな。自分を生きよう。」に触れて)ので、これくらいにして、今回の特集である。

特集では、設立当初や、会社設立前の話を、とりわけ興味深く読んだ。

1987年からのMITメディア・ラボ客員研究員の任を終え、杉山先生はデジタルハリウッドの生みの親の研究所(VSL)の所長に就き、「日本大学理工学部の建物の空き部屋を占拠して、経済産業省や国土交通省からの委託でVRコンテンツを制作していた」、1992年のことだ。

杉山:やってみると困難の連続で、人が足りず、なんとかツテを頼ってCGがわかるプログラマーを雇用したのですが、会社組織の中では、はみ出していた人ばかりでした。とにかく働きたいように働いてもらい、やりたいことを追求して、開発できるように心がけていました。

数年経てVSLに入社した90年代中頃の職場環境を、インタビュアの広川さんが語る。

広川:当時のVSLは、遊びと研究と仕事がない交ぜになった、エキサイティングな場所でした。僕も含めて、普通の会社だと「社会人失格なんじゃない?」と言われるような人も多かったと思うのですが、自分の個性をなくすことなく、ちゃんと居場所がありました。それぞれが好き勝手なことをやっていながら、ひとつのコミュニティの中に収まっていて、理想的な環境だったと思います。

重ねて、当時のデジタルハリウッドの学校環境を杉山先生が語る。

杉山:学校の中はカオスそのもので、学生たちは徹夜で作品をつくり、廊下で仮眠をとっていました。朝になると、男女を問わず学校の洗面所で頭を洗い、会社に出かけたりしていました。VSLもデジタルハリウッドも、そこにながれるエネルギーは、まさにMITメディア・ラボと同じでしたね。よく「デジタルハリウッドって、ほかの学校と何がちがうのですか?」と聞かれるのですが、ちがいは受け継いでいる文化なのですよね。

「文化」という言葉が、心にとまる。「文化を受け継ぐ」という文化が、どのように伝承・継承していけるものかなと、最近立ち止まって思い耽ることが多い。文化を受け継いでいくことに、現代どれほど慎重に、軽視せずに取り組めているだろうか。

悪きを断ち切ろうキャンペーンは旺盛だが、そこで一切合切を分別つけず断絶して、良きをも断ち切っては、人間の営みとして、あまりに杜撰だろうと思う。人間は基本、伝承して、継承して、生きてきたのだ。その尊さが減じているわけじゃない。

閑話休題。たぶん上位のエリート層には、そこ独特に受け継がれていく文化、引き継がれていく価値観があるんじゃないかとも思う。あるいは、それと真逆の底辺意識をもったアンダーグラウンド層にも、それはあり続けるかもしれない。

けれど日本の個性は、そのどちらにも所属意識のない私のような凡庸な6割の層に「たまたま転がりこむ」チャンスが、ごろごろと転がっているところにあったように思えてならない。学歴エリートでも家柄エリートでもなく、IT強者でも情報強者でもない、意識高い系でも低い系でもない、ぼんやりと社会人になった人間が、社会に出てから遭遇する機会に乗じて「化ける」ような化学反応を起こすところに豊かな恵みがあった。

それを安易に手放してしまうと今度は、欧米社会が抱えている「ごく一部のエリートと、それ以外との格差問題」に飲まれてしまうだけなのではないか。日本には、日本人の文化にフィットする、もう少し別のアプローチがありそうで、それについて悶々と考えている。

もちろん、ワークとライフをライフ重視でバランスとりたい人が、それを叶える道を選択できる社会は豊かだと思う。一方で「遊びと研究と仕事がない交ぜになった、エキサイティングな場所」も、若者の選択肢としてあり続けるのが、本来目指す多様性社会じゃないのかなと。今は多様性多様性と謳いながら、「Aの画一性社会」から「Bの画一性社会」へと大移動しているだけのように感じることも多い。どちらも選べる、選び直せるというポジションどりが、社会の中の6割の民にも開かれていてほしい、そんなことを思うのだけれど。なかなか、うまく表現できなくって、毎回こんな文章にとどまってしまう。

*CGWORLD 2024年11月号 vol.315(ボーンデジタル)

2024-10-14

限定公開と一般公開のはざまにある文章

14年近く前、母の末期がんが発覚して、いきなり余命何ヶ月かということになったときには、日ごとに揺れる自分の胸のうちを、かなりこまめにブログに書きつづっていた。文章にすることで、どうにかこうにか乗り切っていたのだと、遠い目で振り返る。

そうして14年ほど経過、ずいぶんと自分なり身内なりの機微情報にふれそうなところをネット上に記述することは、その一切が憚られるようになったなぁと肌で感じる。共有するメリットより、開示するリスクが圧倒的に前景化して見える。そこに、時間の経過を感じている。

でも、なのだ。これも、その昔という話だが。私は「翼状片」という目の病気を患って、両目とも手術をした。その顛末をグロテスクにブログに書きつけていたのだが(ちなみに先月で術後10周年を迎えた)、あれには今なお断続的にアクセスがあり、また患者本人や、親御さんなどから私に質問も入る。

「翼状片」や「目の手術」などで、患者本人の声、手術の体験記を読みたい人らがやってきては、読んで励みにしてくれたり、情報を活用してくれている。エントリーにコメントをつける形、あるいはメールを使って質問を寄せる方も、これまでに一人や二人ではない。つい最近もあった。

私にとっては、インターネットの価値実感って、ここに原体験がある。エンジニアでもデザイナーでもない私は、ごく普通の社会人として七六世代を生きてきたので、インターネットを一市民として使ってきた感覚が強く、ただの人である自分がブログを書いて、それが、「誰それのブログ」として価値をもつのではなく、「見知らぬ人のブログだが、その中の1エントリー」が誰かにとって意味をもつことの実現を、体感してきた。

生活地域が異なっても、共通する悩みや課題、希望や興味をもっている市井の人らがネットを介してつながり、情報や意見やノウハウが有意義に交換される。そういう野良作業に魅了されたわけだが。

ここ10年だけ振り返っても、ずいぶんと風向きは変わってしまった。そういう野良に価値を求め続ける指向にしがみつかず、さらりと別のものにアップデートしなくてはならないのかもしれない。できれば、その別のものと共存して、ココログの片隅とかに残り続けないものかなと、そんなことも思わないではないが。まぁ、世の流れに身を任せるほかないか。

そんなわけで、これの一つ前のブログエントリーは、前日にはひとまずFacebookに友人限定で公開した文章を、いくらか手直ししてのっけた次第。これにあたって、こんな長い文章を書いてしまう自分は、なんだか、おじいさんの気分である。

1枚ペラの「入院のしおり」を作る心根と工夫

ここ数ヶ月、親の病院の付き添い、検査や手術のための短期入院の手伝いがちょこちょこありまして(ちょいと一段落)、病院で渡される書類やら説明資料やらは束となり、院内の各所からは大量の説明を浴び続け、自分が親の年齢になったら、こんなの一人でさばききれない…と、たじろぐこと度々でありました。

で、わが予行演習も兼ねて、親の背後に立っては、いろんな人らの説明を聞きまくり、メモにとりまくり、持ち帰っては情報を整理し、自分がやることと本人(親)がやることに仕分けし、折々に「検査のしおり」とか「入院のしおり」とかを作って、A4紙に印刷して本人に手渡してきました。

その「しおり作成で工夫したこと」、及び「しおりのサンプルファイル」を、インターネットの片隅で共有したい次第(庶民の元来のインターネットの使い方)。

まず、作成上の大前提。しおりは必ず、A4紙1枚ペラ(両面印刷は許容)に収めて、父が携行できるようにする。文字サイズは、老眼鏡がなくても本人が読める10ポイント以上を確保し、これで1枚に収めること。

文字数的にも、行間の確保・レイアウト的にも、もちろん書いてある内容的にも、父が過剰な圧迫感を覚えず、気が滅入りすぎないで、読む気になる、携行して役立てる気を持ち続けられることを重視しました。

むしろ、いくらかは、しおりによって心強さを覚えたり、先々の見通しの良さを覚えてもらうことが、しおり作成の狙いです。

さて、そうするためには、内容量を削ぎ落とすための工夫が必要です。それでも病院側に問題が生じず、本人も困らない、というより安心材料として意味をなすためには、どうするか。思案して実践したところを、ざざっとですが書き出してみます。

1)入院パンフなど、病院でもらった情報・資料から、父には該当しない・関係ない情報を削ぎ落としまくる(例えば、持参するものに「薬・お薬手帳」はいらないとか、本人が気にしない細かな注意点・院内の施設案内とか)。

2)細かいタスクは私のほうで巻き取って済ませ、しおりには載せないようにする。

3)入院前にやっておくことリストは、「入院の前月までに済ませておくこと」と「入院前日にやっておくこと」の2つに項目立てて、箇条書き。

4)一方、入院中の段取りは「入院初日(午前)」「入院初日(午後)」「入院中(標準スケジュール)」というふうに分けて、日ごとでなく意味的に期間を区切って項目立て、情報の詳細度を調整。

あとは、安心感や、良き見通しを持ち続けられるように、

5)「退院」の期間見通しは、ちょっと辛抱したらすぐ出られる感を強調すべく、あえて「入院中」とは分けて項目立てて示す。

6)万一地震など起きてスマホがバッテリー切れしても、父が院内の公衆電話を使って自分で家族に連絡をとれるように、家族の携帯電話の番号、院内の公衆電話の場所を書いておく。

下にざざっと、サンプルファイルに工夫ポイントを書き込んだイメージを置きました(クリック or タップすると拡大表示します)。

Sample_guideforhospitalization

しおりは、自分のために娘が作ってくれたというのも込みで、気丈に気持ちを保つ御守り効果を発揮したようで、折々にしおりを作ってもっていくと、「おぅ、これこれ!」と言って受け取り、ずっと大事に持って、きちんと中身を読んで、活用してくれていました。

もちろん人によって、気にすること気にしないことが違うし、物の覚えとか、自分でどこまで入院準備をできるかとか、後期高齢者ともなると個人差も大きいので、わが父向けに情報構造化された形式がどれほど使えるかはわかりませんが、GoogleDocumentでサンプル化しましたので、たたきとして使えそう・使いたいというタイミングがあったら、ここからコピーしてカスタマイズして使ってください。

2024-10-11

「企業文化をデザインする」仕組み化と余白確保の按配

冨田憲二さんの「企業文化をデザインする」を読んだ。人を採用するときにはスキルマッチだけでなくカルチャーフィットの具合をみるのも必須だとか。メンバーをマネージャーに昇格させる時には、持ち場の職能レベルの高さだけでなく、組織のカルチャー体現者でないとチームが回らなくなるとか。企業文化や組織カルチャーの重要性を説く発信に触れることは多い。

が、実際どこまでどう仕組みを作ってデザインし、どこは余白として遊ばせておいたほうがいいか。ダイバーシティも説かれる昨今、これとの両立にも整理をつけてかからないと、二枚舌の矛盾だらけで納得感のない組織運営になってしまう。

先の本は、実務家による実務家のための良書、基本が読みやすく分かりやすくまとめられている印象。が、テーマがテーマなだけに、この基本の上に立ってどうデザインしていくかは極めて個別的な話。著者も説くように、よそから良さげなものを持ってくるのではなく、自社の内省を起点にデザインすることが極めて重要となる。

AmazonやNetflixのをトレースして、うまくいく企業は早々ない。組織を形成している人間が違う。市場環境も違えば、事業フェーズも創業期なのか急成長期なのか安定期なのか変革期なのかで、取り組む課題設定も変わる。もちろん目指すビジョンもミッション定義も、各社オリジナルなわけだから全然違う。そこの個別デザインに、組織運営の創造的活動が立ち上がるとも言える。

本の中では、人の採用と評価が極めて重要として、「カルチャーフィットの観点から見たときに少しでも疑問符がつくならば、絶対に採用しない」という固い信念を説くけれども(p147)、人を選べる強者の企業でないと、なかなか…とか。

選考シーンだと、応募者が入社後に変わる余地をどう見極めるか、とか。その人が入社して感銘を受け、柔軟に変化してコアバリューの体現者になっていく可能性はゼロじゃない。選考シーンで、その可能性が70%なのか30%なのか判断するのは簡単じゃない。

また、今自社が掲げているコアバリューがどれほど絶対的なものか、明晰に言葉に言い表せているのか、ここも絶対がない。「この応募者の、自社とのカルチャーフィットはいかほどか」を測る指標は、どれほど洗練されて装備できているのか。本当に排除すべき異分子なのか、多様性を高めるポテンシャル人材ではないと言い切れるのか。

採用機会を逃して本当にいいのかは実際、判断の難しい局面も多い中で、「ビジョン、ミッション、コアバリュー」という抽象的記述から、企業文化として経営戦略、事業戦略、人事戦略・人事ポリシー、人事制度として具体的な仕組みに落とし込んでいくか、どこまで仕組みに落とし込んでいくか、このデザインの按配は極めて難しいと感じる。少なくとも、難しいという感覚を働かせ続けることが、膠着化や形骸化をさせないために大事な気がする。

さらに、自分が身近にして最も難しいと感じているのが、現場マネージャーらがどこまで若手に、仕事観や働き方、日々の行動・判断のあり方を指導・伝承し、どこから先は踏みとどまるべきか。

厳化する社会通念やコンプライアンス、ダイバーシティやらとの調和を取りながら、現場で部下にコアバリューに基づく行動選択を導いていくミドルマネージャー層の板挟み状態に思いを馳せることは多い。部下のワークライフバランスやメンタルケアの守備にまわりがちな現場の苦悩を見聞きする今日この頃。自分ができる現場のサポートに、こまやかな洞察をもって取り組んでいきたい。

*冨田憲二「企業文化をデザインする」(日本実業出版社)

2024-10-04

若者の「職業生活の満足」のありか

厚生労働省が公表した「若年者の雇用実態」調査レポートで、とりわけ興味深く読んだのが、全国で働く若者に尋ねた「職業生活の満足度」だった。「仕事の内容・やりがい」と「職業生活全体」において、正規雇用より非正規雇用で働いている若者のほうが満足度が高い結果に、ほぉ!となったのだ。

調査では、全国で働く若者(15歳〜34歳)に仕事内容や職場環境、待遇面などの観点で9項目の満足度を問い、さいごに職業生活全体の満足度を尋ねた。これらを「若年労働者の職業生活の満足度D.I.」として、雇用形態(正規と非正規)別に示したレポートがある。下の図は、それをもとに筆者が作図したもの(クリック or タップすると拡大表示する)。

若年就業者の雇用形態別の職業生活の満足度

ちなみに「満足度D.I.」というのは、現在の職場での満足度について、「満足」又は「やや満足」と回答した労働者の割合から、「不満」又は「やや不満」と回答した労働者の割合を差し引いた値をいう。

回答結果として想像に難くないのは、正規雇用では「雇用の安定性」の満足度が高くて、アルバイトやパートなどの非正規雇用では「労働時間・休日等の労働条件」の満足度が高いのだろうこと。これは想定通りの結果(上図:青い文字の「想定通り」マーク)。

なのだが、興味をひいたのは「仕事の内容・やりがい」と「職業生活全体」が、正規より非正規で満足度が高い結果だ(上図:赤い文字の「ほぉ!」マーク)。

「仕事の内容・やりがい」は、正規が55.2ポイントに対し、非正規が59.9ポイント、4.7ポイント高い。「職業生活全体」は、正規が37.8ポイントに対し、非正規が45.3ポイント、7.5ポイント高い。

何に価値をおくかには、もちろん個人差があって然るべき。アンケートで提示された9項目のうち、どれに職業生活上の重きをおくかは人によって違う。だから「雇用の安定性」でも「労働時間・休日等の労働条件」でも、それを職業生活に求める人が、それに満足する職場で今働けているのであれば、雇用形態が正規であれ非正規であれ、望ましい状態と解釈できる。

つまり、上の調査で具体的な9項目に関して言えば、本人がその項目に重きをおいているのかどうかと関係なく訊いた「項目別の満足度調査」であるからして、「雇用の安定性」についてなんら重視していない人の「満足していない」回答も不満にカウントされているわけだろう。

加えて思うところは、こう9項目ずらっと並べられると、回答者個々の主観は異なれども客観的には、さも同等の価値をもって重視されている価値基準9つのようにも一見みえてしまう。けれど、あくまで「一見」にすぎない。数秒落ち着いて眺めてみると、背比べさせて均一に背丈がそろう9項目を立てたわけでもなさそうだ。

そうして9項目眺めていると気にかかってくるのが「雇用の安定性」のデフレ感だ。もちろん「雇用の安定性」を重視する人もあって、何らおかしくはない。わけだが、数十年前の高度経済成長期と比べれば、その価値を下支えする理屈がそんなに盤石ではない点、無視はできない。

勤め先どころか、勤め先が足場をおく業種・業態すら、この先10年でどうなるかわからない変化の時代を背景に敷いて視ると、1企業の「雇用の安定性」に価値をおくことに、どれほどの意味があるのかという問いは、どうにもこうにも頭をもたげてくる。

安定性を重んじる人生観をもつ人であれば、今自分が就業している勤め先、1企業における「雇用の安定性」ではなく、一歩引いて中長期的にみた自分、1個人における「生涯キャリアの安定性」を価値基準の一つとして、物差しを持ち替えてみたほうが理にかなうかもしれない。そうしてみて今この勤め先を選んでいるという話なら、たのもしいかぎりなのだが。

そんなことを悶々と考えながらレポートに目を通していると、非正規が

「雇用の安定性」(38.1ポイント)は正社員に比べて満足度は低くなっている

という言及がどれほどの問題性をもつものか、受け止めようが定まらずに宙に浮いた。

他方で、非正規の「仕事の内容・やりがい」の満足度は、正規雇用のそれを上回っている。その仕事内容が具体的に何なのかは、人それぞれで違うわけだが、仕事の中身にやりがいを見出して日常生活を送り、有意義な経験値を積み上げられているのであれば、この満足度を高く評した人ほど、正規か非正規かを問わず「雇用の安定性」は低くとも「キャリアの安定性」は手堅いようにも思えてしまう。

非正規の若者が、そもそも「雇用の安定性」を得たいと思っていなければ「雇用の安定性が低い」調査結果に、問題は生起しない。「職業生活全体」の満足度の高さからは、「雇用の安定性」にさしたる価値をおいていない解釈もわいてくる。

と、まぁ、レポートを読んだときの雑感をだらだら書いたにすぎないのだけど、昨今いろんな思いこみを解体しながら丁寧に一つひとつの現象を眺めていく必要に駆られることが多い時世なので、雑感を雑感のまま、ここに書き留めておく。

*令和5年若年者雇用実態調査の概況┃厚生労働省(2024年9月25日)

2024-10-02

「中小企業が圧倒的に多い」の足場選び

「日本は中小企業が圧倒的に多いのだから」という論を述べるときに、よく「大企業と中小企業の構成比」が論拠として示されるのだけど、9割とか7割とか出てくるので、ある時期から慎重に聞き分けるようになった。企業数でみている場合と、従業員数でみている場合がある。

どっちが正しいというより、文脈によって「企業数」でみたほうがいい場合と、「従業員数」でみたほうがいい場合があるという話である。

どっちでみても「大企業と比べて、中小企業のほうが圧倒的に多い」ことに違いはないんだけれど、わりとさらっと「中小企業が99%超なんですから」とか「中小企業が7割ですよ」とか、いずれか一方のデータをもって補強されるので、受け手としては聞き流し、読み流しがちになるのだ。

そこは自分で意識的に聞き分け、読み分けて、自分が人に何か伝えるときにも丁寧に使い分けたい所存である。というわけで、混同しがちなのを整理するため、グラフで横並びさせてみたのが下のスライド(クリック or タップすると拡大表示する)。

大企業と中小企業の構成比

まさかのもしか、ここにお立ち寄りの方で、そんな選択の岐路に立つことがありましたら、ご活用ください。

以降は、ただの夢想だが、この先10年後とか20年後とか想定してみて、この構成比に大きな変化って生じうるだろうか。どっちのほうが激変する可能性が高いかと問われれば、もちろん「企業数の構成比」より「従業員数の構成比」のほうが激変の余地はある。

企業数の構成比は、すでに中小企業が99%超なので、比率が傾くとしたら大企業が圧倒的に増える方向にしか激変しようがないわけだが、「んなことあるかい?いや、ないだろう」という感じがする。

では、従業員数の構成比が激変する可能性は?大企業勤務の人が激減して、中小企業勤務の人あるいは個人事業主とかが激増する未来。今現在、大企業に勤務している人が、中小企業に大移動するとか独立起業するとかは、わりとあってもおかしくない気がする。まぁ、遊びの駄文。

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