同じ本を読んでも、読書は個人的体験にならざるをえない
しばし静けさとともに暮らした。「丘の上の本屋さん」というイタリアの映画を観ていたら、カルロス・ルイス・サフォンの小説「風の影」の中に出てくる一節が出てきて、心を鷲づかみにされた。主人公が営む小さな古書店の入り口に、こう掲げられている。
持ち主が変わり、新たな視線に触れるたび、本は力を得る。
古本屋にぴったりの名文句だが、それにとどまらない魅力を放つ。これに惹かれて、私はサフォンの「風の影」を買い求めた。遅読家ながら、上下巻で800ページ強を読み進めて、このほど読了した。
上の一言を示す本文は、上巻のかなり最初のほうに出てきた、この辺の一節じゃないかと思うのだが。
おまえが見ている本の一冊一冊、一巻一巻に魂が宿っている。本を書いた人間の魂と、その本を読んで、その本と人生をともにしたり、それを夢みた人たちの魂だ。一冊の本が人の手から手にわたるたびに、そして誰かがページに目を走らせるたびに、その本の精神は育まれて、強くなっていくんだよ。
そうだとすると、さきの映画で字幕翻訳した人の手腕には脱帽するほかない。
さて、サフォンの魂が宿っていることに疑いようがない「風の影」を、私は私で、この本が強くなっていく一端を担えるよう丁寧にページをめくっていった。
読者も誰ひとり同じではなく、同じ本を読んでも、同じようには受け取れない。それが読書なのだということを受け取る作品でもあったのだ。
読書は個人的な儀式だ、鏡を見るのとおなじで、ぼくらが本のなかに見つけるのは、すでにぼくらの内部にあるものでしかない、本を読むとき、人は自己の精神と魂を全開にする
「ぼくらが本のなかに見つけるのは、すでにぼくらの内部にあるものでしかない」というのは、読者各々が負っている制限や限界もにじませるが、一人ひとりが固有の読書体験を得るという創造的価値も併せもつ。
例えば「この上下巻の中から、心に刻まれた一節をひとつだけ取り出すとしたら、どこ?」と問われて、読者ごとに指し示す場所は異なるだろう。長編小説の名作であればこそ1箇所におさまらないという面は多分にあろうけれども。
ちなみに映画「丘の上の本屋さん」の静けさとまったく様相を異にして、小説「風の影」はかなり壮絶な物語。そんな中で、私がひとつ挙げるとしたら上巻に出てきた、この一節になろうか。
「フリアンはひとりで死んでいったの。自分のことも、自分の本のことも、誰も思いださないだろう、自分の人生はなんの意味もなかったって、そう納得して死んでいったのよ」と彼女は言った。「フリアンは知りたかったにちがいないの。自分に生きていてほしいと思っている人がいる、誰かが自分を覚えていてくれるって。『誰かしら覚えてくれている人間がいるかぎり、ぼくらは生きつづけることができる』彼は、いつもそう言っていたわ」
「納得」という言葉選びに共鳴したのだ。私は納得するように生きている向きがあり、そう言うと刹那的に受け取られかねないが、そこに立脚してこそ楽観的に生きていけることもある、私のスタンスはそういうものだ。
そこに、2つ目の文が呼応してくる。1文目は「納得すること」、2文目は「納得しないで希望すること」。1文目は「厳しさを受け取る強さ」、2文目は「厳しさを受け取れない弱さを認める強さ」、この2つが響き合っているように読めた。ひと連なりに、不可分に、どちらにも正しさなどなく、丸呑みするように一息に両面を抱きこんだ文章。そこに人のたくましさ、やわらかさ、尊さを感じるのが、私の読み方だ。
「丘の上の本屋さん」の古書店主リベロによれば、「本は二度読むんだ。一度目は理解するため、二度目は考えるため」だとか「最初に考えたことが、すべてじゃない」という。再びこの闇に入っていくのは大変なのだけど、考えるための二度目をもつ読書習慣をもっていきたい。
やや久しぶりに長編小説を読んで、なんだか姿勢正される思いもした。表層的な見立て、うわ滑った言葉、形式だけのふるまいに溺れることなく、自分は自分が大事にしたいことを丁寧に見立てて、言葉やふるまいを選んで、自分の日常をやっていくだけなのだ。
*カルロス・ルイス・サフォン「風の影」(集英社)
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