絵画音痴の絵画鑑賞
子どもの頃から、絵を描くのに苦手意識があった。中学時代の「美術」はいつも通知表に「3」がついていた。真面目に授業を受けているから「2」はつけないが、才能がないので「4」は絶対につけない、という先生の意思のようなものを毎回感じ取って眺めていた。
なので通知表から解放され、20代になっても30代になっても、絵画鑑賞に行くという趣味をもたなかった。ただ、美術を嗜む友人知人との巡り合わせには恵まれた社会人生活で、人に誘ってもらって美術館や展覧会に足を運んだりすることはあった。私はたいてい、その機会に手ぶらでのった。
アートというより、デザイン展示に足を運ぶほうが多かったけれども、創り手としての技量も洞察力も持たない私は、作品そのものを観るというより、作品を観にいく人間への関心をはさんで、展示作品を鑑賞していた。
誘ってくれた友人は、何を思いながら、今この作品の前で足をとめたのだろうかとか。この作品の何に着目して、今の発言にはどういう関心が働いているのだろうかとか。なぜ、この作家のこの展示会に行きたいと思ったのだろうかとか。この会場にいる他の人たちは、どんな動機だろうかとか、何に着目して何を思っているんだろうかとか。その空間で発せられる人の発言とか挙動というものこそ、私の興味をひいた。
それが、ごく最近になって、美術館に、その絵画を観に行きたくて行くというのを、一人でもやるようになった。40代に入ってから、そんな変化が人間に起こるのは、おもしろいなぁと思う。
この、無性に「東山魁夷と日本の夏展」を観に行きたいぞ!という思いは、どこからわいてくるのだろうというのを、自分でも不思議に思って眺めているところがある。
それについて、さほど解釈は進んでいないまま訪ねたりしているのだけれども、ふいに思い浮かんだのが老子の「曲即全」だ、「きょくなれば、すなわち、まったし」である。
「曲がりくねった樹のように役立たずでおれば、身を全うできる」という次第で、多くをむさぼることなく万事をひかえめにして慎んでおれば、生まれ出てきた本源にその身を返せるという話なのだが。
この解説に目を通すと*「他人に対して控えめに慎んでおれば」と解されているふうでもあるが、まずは「自分に対して」だろうと私は解したようだ。「自分に対して控えめに慎んでおれば」こそ、「他人に対して」も実現しうる、ということだろうなと。
つまり、自分に対して多くの期待をむさぼることなく、「いっぱしに美術作品をたしなむ自分像」など抱くことなく、「なんもわからないけれども観たい!」という素朴な自身の心を、そのまま大事にするだけにして観に行ったらいい。そう開き直って無邪気に出向けば、自分の器でそれに親しむことができる。
そういう自分の変化は快く、おもしろい。相変わらず絵画のことはまったく分からないし、それを理解しようという勉学も全くしていないのだが、絵画を観て、わぁーっと気持ちが高まるのを自分のうちに感じては至福を味わっている。
気張って何かを読み取ろうとしていたときよりもずっと、絵から生命力を感じとっている。描かれた風景の中に、静けさや、木々に積もる雪の重量感や、人の気配や、緊張と和らぎの混じり合いのようなものを覚えて、それだけで十分に満足してしまえる、おめでたい自分がいる。そしてやっぱり、描いた人間の、真摯に自然に向き合うさまが胸を打つ。
「東山魁夷と日本の夏展」は、恵比寿にある山種美術館にて。「京洛四季」は、気持ちそのまま京都の春夏秋冬に持っていかれる風情。「白い嶺」は、樹氷林に積もる雪が赤子のほっぺのような張りと生命力をもって魅了する。若き東山魁夷に、結城素明先生が「平凡なものを緻密に見れば、非凡な発見がある」とかけた言葉にも出会えて至福だった(Instagramの写真)。
*金谷治「老子 無知無欲のすすめ」(講談社学術文庫)
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