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2024-08-08

言葉1割、行動9割

齢重ねてくると、ずっと支えにしてきた親を、子どものほうが支える立場逆転の時期が到来するけれども、なかでも絶対にタイミングを逃さず全身全霊で引っ張り上げなきゃいけない時というのがあって、それに即時その場で気づけるか、気づいたとき即動けるかで、その先のすべてが変わってしまう事案というのがある。

一日二日寝かせてしまうと、同じことをしても全く取り戻せなくなってしまう不可逆的な事態。そういうときは恥じらいや照れを放り出して、「今やる、すぐやる」に限る。それが後になって、かけがえなく強大な意味をもつ。

ちょうどひと月前に、「あ、これはまずいな」と思うことがあった。うちの父は自称認知症だが、実際のところかなり物覚えがよく、いろんなことをしっかり覚えている。もちろん「歳の割には、そう言う割には」ということではあるが、とはいえだ。

それがひと月前に突然、その日の午前中にどこそこに行ったことを全く覚えていないと言いだして焦った。冗談か、ちょっと投げやりに言ってみているだけかとも思ったが、どうもニュアンスが違う。「あ、これはまずいな」という直感が、私の心を動揺させた。

頭の中に、あるイメージが浮かんだ。なんだかんだ言いながらも、これまで自分の船の船長として、自分の手で舵を握り続けてきた父が、ふぅっと力を抜いて、今それを手放そうとしている、自暴自棄という言葉も脳裏に浮かんだ。

前日に一緒に出かけた先で、思い当たることがあったのだ。

私は実家の居間のじゅうたんに座りこんで、きわめて平静を装いながら一気にモードチェンジした。これは一刻を争う事態とみてかかったほうがいいと暫定的に結論し、念入りに思慮深く、父に言葉をかけた。

父は早々に、もう今日は寝るわと床につき、私は食卓に書き置きを残して自宅に帰った。

書き置きには、父が読んで、こいつは何を言ってるんだ?と疑問符を打つことも厭わず、自分の懸念も、父が抱え込んでいそうな不安も、率直な言葉に含めて、それに飲み込まれないよう注意を促した。そのために私は全力で応援する所存であることを表明して、短いメッセージにまとめた。

メッセージそのものは平易な物言いだ。不安も懸念も、的外れなら、それはそれでいい。的を射抜かれているのに、本人がその矢の存在に気づいていない事態が一番危険なのだ。

家路について歩いているときだったか電車に揺られているときだったか、「応援する」という言葉ではダメだったと反省した。翌朝、父から「昨日はありがとう」とメッセージが届いたので、それに返す形で、もっとしっかり「支える」という言葉を使って「大丈夫だよ」とLINEを送った。

父が気を張って、相当に頑張ってやってきたことを私は知っている。いや、知っているというのは言い過ぎと思うが、誰より察しているつもりだ。それはとても尊いことだから、これからもできるだけ、その手綱を自分の手で持ち続けて、のんびりやっていこう、子どもら3人ついているから大丈夫だと言葉を贈った。既読したので、あとは静かにした。

翌日に再び、父の所用につきあうために地元近くで会った。某手続きの待ち時間に、ファミレスに入って対面で腰かけた。騒がしい店内で、父はたくさんの自分の思いを、あふれだすままにしゃべりまくった。私は、全部を聴いた。こぼれおちてくるものを全部、聴いた。父が内にためこんでいた気持ちが、ぽろぽろと流れだした。

ここ一年は週1ペースで会っていたので、だいぶいろんな話を聴いているつもりだったが、それよりもっと心奥のほうで詰まっていたものが、体の外に出てきた感じだった。

私は、とめどなく流れてくるものを、受け流してほしそうなものは受け流して、大事に受け取ってほしそうなものは両手を差し出して受け取るようにして話を聴いた。

弱音を吐いたっていいし、こんがらがった気持ちをこんがらがったまましゃべったっていいし、さっきと今で矛盾したことを言ったっていいのだ。ここは安全地帯なのだから。人は矛盾する世の中を、矛盾する性質を抱え込んで生きているのだから。別になんら、おかしいことはない。

おかしくなってしまうのは、それを表に一切出さずに力んで力んで一人の体の中にためこんで、消化もせずいっぱいいっぱいになってしまうことなのだ。

といって、全部を他者に吐き出すことが、必ずしも良いことではない。ダメなカウンセラーがとにかく全部吐き出すのが良いとでもいうふうに、喉元に指つっこんで話をさせるようなのは、単なる自己満足で、本当にタチが悪いと思う。とにかくその辺りを思慮深く、大事に話を聴いた。

父は、日々の細々したやりとりの中で、少しずつ気持ちを上向かせていっているように見えた。私は上向いてきたなと思ったときに気を抜かず、安定して支え続けることに努めた。それが父にも静かに伝わり続けることに努め、揺り戻しに備えた。私は急場をしのいだらぱっといなくなる存在ではない。それを言葉ではなく、行動で示し続けた。

父は父らしく、こちらに思いきり寄りかかることなく、自分の船の舵を握り直し、握力の数値を慎重にもとに戻していっているように思われた。

正気と生気を取り戻していく様子を肌で感じ、ひと月ほどして、ある日の別れ際のことだった。とってもさわやかな表情を浮かべて、父が「ありがとう」ってこちらに笑いかけたとき、私は「あぁ、戻った」と思った。自分でも、それが何をもってと尋ねられて答えられるだけの言葉を持ち合わせていないのだが、とにかく崖っぷちから安定した足場まで戻ってきたという感慨をおぼえた。

結局、ひどく「憶えていない」症状を私が認めたのは、ひと月前の数時間に限られる。私の杞憂に過ぎなかったかもしれない。それならそれでいい。

私はこの一件で、かなり意識的に、自分に悔いのないよう自分がやりたいこと、果たしたい役割をしっかりやることをして、ちょっと成長したかもしれないなと思う。

そして、やっぱり言葉1割、行動9割だという思いを新たにした。放った言葉を相手に信じさせるだけの行動がとれなければ、とり続けられなければ、意味はないどころか、人を傷つける実害を生む。肝に銘じたい。

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