模式図の副作用
抽象概念を扱うことが多いご時世、巷にはいろんな図が溢れている。物事を単純化(シンプルに)して、縦一列で上に積んでみたり、それを横にずらして階段状にしてみた図を見かけるのは日常茶飯事。
作図される過程で「複雑さ」や「例外」が削ぎ落とされていることにも意識を向けて、解釈の誤りなく受け取ること、具体を自分で作り出すことは、図を見る側に委ねられている。
どう複雑さを織りこんで、ときにカスタマイズして自分の現場で活かすかは受け取り手次第。今こそこれを活かすべきだと発想して、ドラえもんのごとく、その模式図を脳内ポケットから取り出せるか。あるいは、ここでは活かすべきじゃない、今これは関係ないというジャッジができるかも、受け取り手次第である。
思考フレームワークなんて、たくさん知ってはいるけれども、使うべきときにこれというものを取り出せない、使えないところで下手に持ち出してかえって思考を混乱させている人が少なからずいる。あと、フレームワークに当てはめているだけで、ほとんど何も中身がないもの、何ら発見も導きもない資料などを見るにつけ、「先生、宿題やってきました」にしかなっていない感があって、ときに痛々しかったりする。資料が美しくグラフィカルであればあるほど空疎だ。
閑話休題。図を見る側は、この責任から逃れられない。だって世の中は、複雑性と例外でできている。
という次第で、図を作った人の意図(何を伝えたくて)、単純化の方針(その意図を伝えるため、何を浮き上がらせ、何を削ったか)を、まずは汲み取る必要がある。
さらには、図を作った人の作図能力にも目配せが欠かせない。単純化の明晰さを評価する。要素間の関係性を、包含関係・階層構造・同格など適切に位置づけて図示しているだろうか。言葉(名前)のつけ方は明解で、重複や漏れがなく妥当だろうかなど。
この辺の仮説・検証能力が、いちいち図を見る側に求められる。玉石混交の図が遊び狂う社会では、私は一市民として、その作図レベルまで常に目利きして怠りなくサバイブしていかなくてはならない。
市販の書籍に加えられている図版などでも、明らかに誤解をよぶ図の表し方をしているものに出くわす。今、世の中に出回っている図に対しては、そうとう慎重に、眉間に皺を寄せて、「これは何を言いたい図なのか」「そのために、こういうふうに図にしようとしたわけだな」「それをうまく図にできているか」と一歩一歩踏みしめるように汲みとっていかないと、かえって分かりづらくしている図などに翻弄されることがある。この図がなければ、文章だけであれば、むしろ混乱することはなかった…という図版に出くわしたこともある。
ともかく図を読むというのは、模式図的なものの特性と副作用を知って、よくよく図の解釈と活用をセルフマネジメントしていく必要が、受け手側にある。これは現代、情報を受け取る側のリテラシーだと、改めて思い耽るのだった。
段階を一つ(AからBへ)上がるというのも、1枚目のような図で眺めていると、あたかも「一瞬のこと」「一度で済むこと」「一度上がったら下らないもの」のようにイメージしちゃうけれど、人生の歩みなんかでいったら一段上がるのに(一段が何かによるが)5年とか10年ごし、上がったり下がったりしながらというのがザラだ。そういう行ったり来たりが実際であり、それをこそ楽しんで人生じゃあないか、という整理に至る(画像をクリック or タップすると拡大表示する)。
こんなことを思い耽ったのは、自分が、人のキャリア開発支援に従事する上での指針となることが書いてある「人が成長するとは、どういうことか ーー発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ」*を再読していてのこと。
上の図も、これを読みながらの自分ノートを(まぁ結局)図にしたものなのだけども。こうやって、自分で図に起こしながら、言葉を一つひとつ選んだり、言い換えたり、これは本質じゃないからはずしておくかなどと試行錯誤していく、その作図過程こそが、人が作った図をうまく読みこなしたり活かしていく視点や構え、力量を養う正攻法な気がするなぁと思った次第。
書く経験を積むことでしか、ほんとうに読む力は養えないのかも。自己理解なしに、深い他者理解など成し得ないように。
*鈴木規夫「人が成長するとは、どういうことかー発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ」(日本能率協会マネジメントセンター)
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