脳の活動を、胃の活動と同一視して期待しすぎているのかもしれないと思いつく
ネットで知った情報、本を読んで知ったこと、誰かに教えてもらったこと、新しい情報を得るや、そのまま「新しい知識をインプットした。必要なタイミングで、この知識は思い出されて発揮されるであろう」とまで盛って期待してしまう。
知ったところで学習プロセスは完了し、あとは体が勝手に運用してくれるかというと、そう一足飛びにはいかないのだが、こうした思い込みが発動するのは、けっこう自然なことかもなぁと、ふと思ったのだ。「胃」のような活動と同一視しちゃうのは、人のサガではないのかと。内蔵器官に人がもつだろう素朴なメンタルモデルとでもいうか。
食物を体内に取り込むとき、口の中でもぐもぐやっているうちはいくらか意識もあろうが、これだって大変なごちそうでもないかぎり自動化されていて、無意識に咀嚼しているものだ。本を読んだりテレビを見たり考えごとしながらの、もぐもぐだ。
そこから食道を通って、胃の中で消化する活動なんかは、もう完全に体任せだ。肉はこのように、葉ものはこのように消化してくれと、いちいち胃に指令を出したりはしない。頼まれずともいい感じでやっておいてくれるという期待があり、実際いい感じに消化したり栄養にしたりしてもらって何年も関係を築いてきた。
脳が情報を知識化するのも、同じような自動操縦を体に(脳に)期待してしまって、なんらおかしくない。意識して「胃と脳は別なのよ」と注意を促されないかぎり、そう勝手に期待しちゃうのが自然だよなぁと改めて思ったのだ。
新しい情報を知ると、それが自動的に自分の脳内に取り込まれ、咀嚼されて知識となり、脳の中に組み込まれたそれは、必要なタイミングで自動的に発揮される。そこまでを勝手に運用してくれるものと、人は体に(脳に)期待してしまうものじゃないかと。
実際、生命に危険が及ぶレベルのことなら、それは自動でなされているのかもしれないなぁとも思うのだ。めちゃくちゃ不穏な雰囲気を漂わせた巨大な生物を視界にとらえたら逃げるにかぎる!とか、ものすごい異臭を放っている代物は食べたらダメだ!とか、そういう類のもの。
そういうことは、一度知ったら、そのまま脳に刻まれて、ずっと先にそれを感知したときにも長期記憶から自動的に知識が呼び起こされて発動し、「逃げる」「食べない」と判断するまで自動操縦でやってくれるのかもしれない。
が、現代社会で求められる学問とか、知的労働とか、複雑性高い問題・課題にどう取り組むかみたいな高次レイヤーに及ぶと、そうは問屋がおろさない。情報は勝手に知識に変換され、必要なタイミングで自動的に記憶が呼び起こされて、いい感じに知識が発揮されて物事に対処しておいてくれたりしない。
一度読んだはず・聞いたはずのものが、記憶に残っていない。テスト問題に出ても、答えが浮かんでこない。こうしたことは既に10代のうちに多くの人が経験済みで、よくよく考えると、みんな承知していること。なので、たいした話ではないことを書き連ねているわけなのだが、飲み屋の駄話のようなものと堪忍してほしい。
情報と知識は別物とは、方々で説かれて久しいけれども改めて、見聞きした情報を私のものとして活かしたいなら、知識にする、知恵となすまで丹念に学習プロセスを歩んでいかねば仕方ないと、分厚い本を再読しながら、もぐもぐしている次第。
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