« 2024年6月 | トップページ | 2024年8月 »

2024-07-26

「終身雇用制度を望む」率は21世紀もジグザクしている

一つ前に書いた「メンバーシップ型 vs ジョブ型」の違和感にも通じるところで、Z世代と呼ばれる本年度の「新入社員の会社生活調査」結果を産業能率大学総合研究所がレポート公開していたので、自分の興味あるところだけつまみ食いしてスライド5枚(実質4枚)にまとめてみた。自分用メモだけど、ネットの片隅でシェア。

※1枚目の「調査概要」はそのまま引用。以下の画像はいずれもクリックorタップすると拡大表示する。画像ではなく、スライドまとめてPDFで見たい方はSpeaker Deckにてどうぞ。

▼まずは調査データの特徴ざっくり
本年度の新入社員に、この春(ちょうど入社時期)にとったアンケート調査。有効回答は563人。男性6割強で、入社企業は従業員数千人以上が6割強、上場企業6割強、関東が6割強の偏りあり。

調査概要
▼長期間、安心して働けることを重視
53.8%が「長期間、安心して働けること」を重要視。76.0%が企業に「長期的な安定性」を求める。

長期間、安心して働けることを重視

▼68.2%が「終身雇用制度」を望む
84.7%が「同じ会社に長く勤めたい」、「終身雇用制度」を望む声は経年でジグザグしているのが見て取れて興味深い。制度の後退に比して、個人の希望は別に、どんどん減っていっているわけじゃない。

Lifetimeemploymentsystem

▼「年功序列 or 成果主義」「メンバーシップ型 or ジョブ型」は拮抗
48.5%が「年功序列」を望み、過去最高を記録。25.8%が「メンバーシップ型」を希望、昨対3.3ポイント増で「ジョブ型」から逆転した。

メンバーシップ型とジョブ型

▼52.9%が「管理職」を志向。最終的な目標地位は役員/部長あたり
将来キャリアに「管理職として部下を動かし、部門の業績向上の指揮を執る」を志向する人が、2000年度23.7%と比べて顕著に増えている。

ちなみに、この右側のグラフ、1990年度だけ皆「社長」になりたがりすぎているんだけど、誰に訊いてこうなったんだ…と気になっていたが、ど真ん中世代の先輩いわく、1990年度だけが特殊なのではなく、1989年以前も比較的その傾向にあったのが1990年バブル崩壊で一変したのではないかとの見解、すごく腑に落ちた。

Management

単発ものの調査レポートって、自分では解釈が難しいので訝しんでみる癖があるのだけど、この調査は第35回と回を重ねていて経年比較あれこれを提供してくれるところが好み、ありがたい。

大もとの調査レポート(PDFファイル)は、こちらで。2024年度(第35回)新入社員の会社生活調査┃学校法人産業能率大学 総合研究所

2024-07-18

「メンバーシップ型 vs ジョブ型」の違和感

先月に出た、政府の「新しい資本主義のグランドデザインおよび実行計画2024年改訂版案」の関心あるところを読んでいて引っかかったことの一つに「ジョブ型」の扱いがある。

「ジョブ型人事」に対置させている「メンバーシップ型雇用」の内容が、「従来」というより「20世紀」すぎないか?というのと、それをもって極論対決させて「ジョブ型に全面移行」を迫らんとする論の立て方って、ちょっと乱暴すぎないか?というのと。

従来の日本のメンバーシップ型雇用とジョブ型人事(職務給)の違い

Photo_20240718091801

(クリック or タップすると拡大表示)

2つ目のぽちで「制度に移行する必要。」とまとめているけれども、これって組織の人材マネジメントシステムやら人事制度として「これからの時代はジョブ型一択」ってメッセージに見えちゃう。表現上の問題で、そんなこと思っていないのかもしれないけれど。もしそうなら尚のこと、ちょっと踏みとどまって整理してみたくなった。

メンバーシップ型からジョブ型に移行するって、組織のあり方として大転換である。「人」ではなく「職務」にグレードを割り当てて、「職務A」はこのくらいのレベルだから基本給いくらと割り当てて、設定した基本給を「職務Aを担当する人」に支払う。

翌年度に「職務A」が不要になれば、「職務Aに支払う基本給」も消失、「職務Aを担当する人」もいらなくなる。あるいは1年後に「職務A」の市場価値(その仕事の採用市場相場、給与水準)が減じれば、「職務Aに支払う基本給」も降給する。

そういう論理で動く組織体では、この資料のジョブ型の「キャリア形成」の欄に書いてある、「社内公募・転職を活用し、従業員が望むキャリアを選択」とか「自らリスキル・スキルアップする強い動機」が求められるという話に読める。

「自分が担当する職務Aが、翌年度にはなくなります」となったら、「社内公募に応募して職務Bに就けるよう自らキャリア選択なさい」と。「自分が職務Bに採用されるにはリスキル・スキルアップする必要があるなら、強い動機をもってそれを習得して採用されるよう努力なさい」と。「職務Bの担当者に求める要件を満たすレベルに達せないなら、組織があなたを雇用し続けることは困難なので、あなたが活きる職場に転職なさい」と。

ざっくり言うと、そういう箇条書きに読める。そういう論理の人事制度、人材マネジメントシステムに乗り換えるべしという話に読めるが、私が何か曲解しているのだろうか。

いや、別にこのジョブ型を採択する企業のことを、ひどいとか悪いとか思っているわけじゃない。どの人事制度の会社に所属するにせよ、現代社会に生きる大人は「キャリア自律」の要請を免れないと思っているのだ。メンバーシップ型だったら「キャリア自律不要」と安易に紐付けられる時代じゃなかろうと。

大方の組織の旬の寿命より、個人の労働寿命のほうが長いと見立てれば、大方の人は終身雇用を前提に自身のキャリア形成を勤め先に委ねられないことは自明だ。組織がなくならずとも、親会社が変わる、経営者が変わる、買収されてほとんど別の会社になる、上司が変わり、同じ職場のメンバーが入れ替わる、自分に求められる仕事内容だって専門性だって役割だって変わる。到底その要求レベルや種別に応えられなくなって、組織は存続しても自分はリストラ対象になることも想定される。今の自分の想定外の環境変化も、想定内に入れなきゃいけない時代だ。

その環境変化にも呼応して、何十年という単位じゃ自分もまた、想定外に変わっていく。自分の興味も変われば価値観も変わる。家族構成も変わり、自身の健康状態も変われば、身内も成長したり年老いたり生涯キャリアを変化させていく。自分の関わり方や、時間のかけ方も比重が変化していく。20代は仕事一辺倒で比較的シンプルだった自分の役割も、30代、40代と進む中でいろいろ掛け持ちするようになっていって気力、体力、時間配分が複雑化していくのが一般的だろう。

だから「社員にキャリア自律を迫るなら、ジョブ型に移行しよう!」であれ「ジョブ型に移行して、社員にキャリア自律を迫ろう」であれ、2つを紐づけたロジックは、なんか筋が悪いと感じてしまう。特徴をわかりやすく伝えるため極論対決をとったのかもしれないが、もう少し現実的なのを一つ加えてみてもいいのではないかと仮説立ててみたのが、次の3つ並びだ。

3タイプで特徴づけてみた

(クリック or タップすると拡大表示)

21世紀に入って四半世紀も経つ。メンバーシップ型も、HR業界でさまざまな紆余曲折とブラッシュアップがなされて今日に至る。そこに全く言及しないで、20世紀のメンバーシップ型とジョブ型の極論対決の構図でものを考えるのも堂々巡りに陥る危惧を覚える。

今では「メンバーシップ型2.0」のようなニュータイプとして、仮に「ミッション型」と呼ぶスタイルに乗り換えた企業が主流なのではないか?と思うのだ。いや実態としては、年功賃金的な運用が色濃く残っているかもしれない。としても制度上は、ここ20年かそこらのうちに「脱年功」を掲げて制度改革を済ませている企業が少なくないのでは?

上のスライドでいう真ん中のタイプ。社員の「能力・行動」レベルで等級(グレード)を定義して、◯等級はいくらと基本給のレンジを設定し、これに直近で達成した「成果・業績」を加味して賞与を支払う。

さすがに今の時代、メンバーシップ型(左列)の一辺倒で、「定年までの年功賃金」「新卒一括採用」それだけでやっていく運用は、ちょっと無理があると思うし。

といって、ジョブ型(右列)に転じて、一年ごとに前年度の処遇をひっぺがして、今年度はいくらとジョブを張り替え、給与を昇降させる運用も(そこまでしないのだろうが)、日本の雇用・労働慣行になじまず、全面・全社移行がフィットする企業はそう多くない気がする。

またミッション型(真ん中)の企業が、実質的には年功賃金が色濃く残った運用でうまくいっていないとすれば、そこにこそ問題の真因があるわけで、そのねじれ構造を改められないかぎり、ジョブ型に移行しても根本解決しないどころか、もっと問題は複雑化してしまうかもしれない。

人起点か、職務起点か、どちらで社員のマネジメントシステムを構築・運用するかは、極めて重要な経営判断だ。どちらにも一長一短あって「どのタイプをベースに敷くのが我が社にとって合理的か」「そのタイプをベースにして、どうチューニングする必要があるか」は各社各様だ。三菱電機は、上位層にジョブ型、一般従業員にミッション型を適用するハイブリッドを採用している。

自社にジョブ型を導入すべきかは、会社の人事ポリシーや組織風土、求める人材の採用市場環境とか、事業環境の変化スピード、先行き不透明さなど総合的に評価して、自分のところで導く結論であって、国が一様に推奨できるタイプはなかろう。組織の人材マネジメントはそんな単純な話じゃないし、ジョブ型はそんなに唯一無二の正解じゃない。

みんな大好き「多様性社会」だ「ダイバーシティ」だ言うのだったら、もともとあった従来の仕組みを軒並み排除していって、新しいものに全面移行を迫るよりも、前のものも改良を加えながらタイプとしては残しつつ、新しいタイプも増やしていったらいい。社会の中にいろんな選択肢があって、個々人が自分の志向性や価値観、その時々の状況にあわせて選択できる、融通がきく社会を作っていったほうが豊かだと思うんだが。

左列のメンバーシップ型だって、全部じゃなければ社会の選択肢の一つにあっていい勤め先だろうし、実際に寒天メーカーの伊那食品工業なんかは、あえて年功賃金を継続して、身の丈にあった「持続的な低成長」を志向し、高業績をおさめて組織に地域に貢献している。いろいろあって、それが表明され、自分に合ったところを選べる豊かさが好ましい。

社員の幸せを露骨に追求する会社 年功序列、終身雇用、低成長―伊那食品工業が問う「会社とは何か」┃日経ビジネス

他にもいろいろあーじゃこーじゃ考えたことがあるのだが、脳内うろうろしていて埒があかない。はぁ、自分の頭のまな板を拡張したい。といってもなかなか叶わないので、とりあえず一旦吐き出して、次行ってみよう。ぷはぁ。

2024-07-07

模式図の副作用

抽象概念を扱うことが多いご時世、巷にはいろんな図が溢れている。物事を単純化(シンプルに)して、縦一列で上に積んでみたり、それを横にずらして階段状にしてみた図を見かけるのは日常茶飯事。

図式化イメージ

作図される過程で「複雑さ」や「例外」が削ぎ落とされていることにも意識を向けて、解釈の誤りなく受け取ること、具体を自分で作り出すことは、図を見る側に委ねられている。

どう複雑さを織りこんで、ときにカスタマイズして自分の現場で活かすかは受け取り手次第。今こそこれを活かすべきだと発想して、ドラえもんのごとく、その模式図を脳内ポケットから取り出せるか。あるいは、ここでは活かすべきじゃない、今これは関係ないというジャッジができるかも、受け取り手次第である。

思考フレームワークなんて、たくさん知ってはいるけれども、使うべきときにこれというものを取り出せない、使えないところで下手に持ち出してかえって思考を混乱させている人が少なからずいる。あと、フレームワークに当てはめているだけで、ほとんど何も中身がないもの、何ら発見も導きもない資料などを見るにつけ、「先生、宿題やってきました」にしかなっていない感があって、ときに痛々しかったりする。資料が美しくグラフィカルであればあるほど空疎だ。

閑話休題。図を見る側は、この責任から逃れられない。だって世の中は、複雑性と例外でできている。

という次第で、図を作った人の意図(何を伝えたくて)、単純化の方針(その意図を伝えるため、何を浮き上がらせ、何を削ったか)を、まずは汲み取る必要がある。

さらには、図を作った人の作図能力にも目配せが欠かせない。単純化の明晰さを評価する。要素間の関係性を、包含関係・階層構造・同格など適切に位置づけて図示しているだろうか。言葉(名前)のつけ方は明解で、重複や漏れがなく妥当だろうかなど。

この辺の仮説・検証能力が、いちいち図を見る側に求められる。玉石混交の図が遊び狂う社会では、私は一市民として、その作図レベルまで常に目利きして怠りなくサバイブしていかなくてはならない。

市販の書籍に加えられている図版などでも、明らかに誤解をよぶ図の表し方をしているものに出くわす。今、世の中に出回っている図に対しては、そうとう慎重に、眉間に皺を寄せて、「これは何を言いたい図なのか」「そのために、こういうふうに図にしようとしたわけだな」「それをうまく図にできているか」と一歩一歩踏みしめるように汲みとっていかないと、かえって分かりづらくしている図などに翻弄されることがある。この図がなければ、文章だけであれば、むしろ混乱することはなかった…という図版に出くわしたこともある。

ともかく図を読むというのは、模式図的なものの特性と副作用を知って、よくよく図の解釈と活用をセルフマネジメントしていく必要が、受け手側にある。これは現代、情報を受け取る側のリテラシーだと、改めて思い耽るのだった。

段階を一つ(AからBへ)上がるというのも、1枚目のような図で眺めていると、あたかも「一瞬のこと」「一度で済むこと」「一度上がったら下らないもの」のようにイメージしちゃうけれど、人生の歩みなんかでいったら一段上がるのに(一段が何かによるが)5年とか10年ごし、上がったり下がったりしながらというのがザラだ。そういう行ったり来たりが実際であり、それをこそ楽しんで人生じゃあないか、という整理に至る(画像をクリック or タップすると拡大表示する)。

段階Aから段階Bへの移行を分解してみる

こんなことを思い耽ったのは、自分が、人のキャリア開発支援に従事する上での指針となることが書いてある「人が成長するとは、どういうことか ーー発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ」*を再読していてのこと。

上の図も、これを読みながらの自分ノートを(まぁ結局)図にしたものなのだけども。こうやって、自分で図に起こしながら、言葉を一つひとつ選んだり、言い換えたり、これは本質じゃないからはずしておくかなどと試行錯誤していく、その作図過程こそが、人が作った図をうまく読みこなしたり活かしていく視点や構え、力量を養う正攻法な気がするなぁと思った次第。

書く経験を積むことでしか、ほんとうに読む力は養えないのかも。自己理解なしに、深い他者理解など成し得ないように。

*鈴木規夫「人が成長するとは、どういうことかー発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ」(日本能率協会マネジメントセンター)

2024-07-02

脳の活動を、胃の活動と同一視して期待しすぎているのかもしれないと思いつく

ネットで知った情報、本を読んで知ったこと、誰かに教えてもらったこと、新しい情報を得るや、そのまま「新しい知識をインプットした。必要なタイミングで、この知識は思い出されて発揮されるであろう」とまで盛って期待してしまう。

知ったところで学習プロセスは完了し、あとは体が勝手に運用してくれるかというと、そう一足飛びにはいかないのだが、こうした思い込みが発動するのは、けっこう自然なことかもなぁと、ふと思ったのだ。「胃」のような活動と同一視しちゃうのは、人のサガではないのかと。内蔵器官に人がもつだろう素朴なメンタルモデルとでもいうか。

食物を体内に取り込むとき、口の中でもぐもぐやっているうちはいくらか意識もあろうが、これだって大変なごちそうでもないかぎり自動化されていて、無意識に咀嚼しているものだ。本を読んだりテレビを見たり考えごとしながらの、もぐもぐだ。

そこから食道を通って、胃の中で消化する活動なんかは、もう完全に体任せだ。肉はこのように、葉ものはこのように消化してくれと、いちいち胃に指令を出したりはしない。頼まれずともいい感じでやっておいてくれるという期待があり、実際いい感じに消化したり栄養にしたりしてもらって何年も関係を築いてきた。

脳が情報を知識化するのも、同じような自動操縦を体に(脳に)期待してしまって、なんらおかしくない。意識して「胃と脳は別なのよ」と注意を促されないかぎり、そう勝手に期待しちゃうのが自然だよなぁと改めて思ったのだ。

新しい情報を知ると、それが自動的に自分の脳内に取り込まれ、咀嚼されて知識となり、脳の中に組み込まれたそれは、必要なタイミングで自動的に発揮される。そこまでを勝手に運用してくれるものと、人は体に(脳に)期待してしまうものじゃないかと。

実際、生命に危険が及ぶレベルのことなら、それは自動でなされているのかもしれないなぁとも思うのだ。めちゃくちゃ不穏な雰囲気を漂わせた巨大な生物を視界にとらえたら逃げるにかぎる!とか、ものすごい異臭を放っている代物は食べたらダメだ!とか、そういう類のもの。

そういうことは、一度知ったら、そのまま脳に刻まれて、ずっと先にそれを感知したときにも長期記憶から自動的に知識が呼び起こされて発動し、「逃げる」「食べない」と判断するまで自動操縦でやってくれるのかもしれない。

が、現代社会で求められる学問とか、知的労働とか、複雑性高い問題・課題にどう取り組むかみたいな高次レイヤーに及ぶと、そうは問屋がおろさない。情報は勝手に知識に変換され、必要なタイミングで自動的に記憶が呼び起こされて、いい感じに知識が発揮されて物事に対処しておいてくれたりしない。

一度読んだはず・聞いたはずのものが、記憶に残っていない。テスト問題に出ても、答えが浮かんでこない。こうしたことは既に10代のうちに多くの人が経験済みで、よくよく考えると、みんな承知していること。なので、たいした話ではないことを書き連ねているわけなのだが、飲み屋の駄話のようなものと堪忍してほしい。

情報と知識は別物とは、方々で説かれて久しいけれども改めて、見聞きした情報を私のものとして活かしたいなら、知識にする、知恵となすまで丹念に学習プロセスを歩んでいかねば仕方ないと、分厚い本を再読しながら、もぐもぐしている次第。

« 2024年6月 | トップページ | 2024年8月 »