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2024-07-07

模式図の副作用

抽象概念を扱うことが多いご時世、巷にはいろんな図が溢れている。物事を単純化(シンプルに)して、縦一列で上に積んでみたり、それを横にずらして階段状にしてみた図を見かけるのは日常茶飯事。

図式化イメージ

作図される過程で「複雑さ」や「例外」が削ぎ落とされていることにも意識を向けて、解釈の誤りなく受け取ること、具体を自分で作り出すことは、図を見る側に委ねられている。

どう複雑さを織りこんで、ときにカスタマイズして自分の現場で活かすかは受け取り手次第。今こそこれを活かすべきだと発想して、ドラえもんのごとく、その模式図を脳内ポケットから取り出せるか。あるいは、ここでは活かすべきじゃない、今これは関係ないというジャッジができるかも、受け取り手次第である。

思考フレームワークなんて、たくさん知ってはいるけれども、使うべきときにこれというものを取り出せない、使えないところで下手に持ち出してかえって思考を混乱させている人が少なからずいる。あと、フレームワークに当てはめているだけで、ほとんど何も中身がないもの、何ら発見も導きもない資料などを見るにつけ、「先生、宿題やってきました」にしかなっていない感があって、ときに痛々しかったりする。資料が美しくグラフィカルであればあるほど空疎だ。

閑話休題。図を見る側は、この責任から逃れられない。だって世の中は、複雑性と例外でできている。

という次第で、図を作った人の意図(何を伝えたくて)、単純化の方針(その意図を伝えるため、何を浮き上がらせ、何を削ったか)を、まずは汲み取る必要がある。

さらには、図を作った人の作図能力にも目配せが欠かせない。単純化の明晰さを評価する。要素間の関係性を、包含関係・階層構造・同格など適切に位置づけて図示しているだろうか。言葉(名前)のつけ方は明解で、重複や漏れがなく妥当だろうかなど。

この辺の仮説・検証能力が、いちいち図を見る側に求められる。玉石混交の図が遊び狂う社会では、私は一市民として、その作図レベルまで常に目利きして怠りなくサバイブしていかなくてはならない。

市販の書籍に加えられている図版などでも、明らかに誤解をよぶ図の表し方をしているものに出くわす。今、世の中に出回っている図に対しては、そうとう慎重に、眉間に皺を寄せて、「これは何を言いたい図なのか」「そのために、こういうふうに図にしようとしたわけだな」「それをうまく図にできているか」と一歩一歩踏みしめるように汲みとっていかないと、かえって分かりづらくしている図などに翻弄されることがある。この図がなければ、文章だけであれば、むしろ混乱することはなかった…という図版に出くわしたこともある。

ともかく図を読むというのは、模式図的なものの特性と副作用を知って、よくよく図の解釈と活用をセルフマネジメントしていく必要が、受け手側にある。これは現代、情報を受け取る側のリテラシーだと、改めて思い耽るのだった。

段階を一つ(AからBへ)上がるというのも、1枚目のような図で眺めていると、あたかも「一瞬のこと」「一度で済むこと」「一度上がったら下らないもの」のようにイメージしちゃうけれど、人生の歩みなんかでいったら一段上がるのに(一段が何かによるが)5年とか10年ごし、上がったり下がったりしながらというのがザラだ。そういう行ったり来たりが実際であり、それをこそ楽しんで人生じゃあないか、という整理に至る(画像をクリック or タップすると拡大表示する)。

段階Aから段階Bへの移行を分解してみる

こんなことを思い耽ったのは、自分が、人のキャリア開発支援に従事する上での指針となることが書いてある「人が成長するとは、どういうことか ーー発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ」*を再読していてのこと。

上の図も、これを読みながらの自分ノートを(まぁ結局)図にしたものなのだけども。こうやって、自分で図に起こしながら、言葉を一つひとつ選んだり、言い換えたり、これは本質じゃないからはずしておくかなどと試行錯誤していく、その作図過程こそが、人が作った図をうまく読みこなしたり活かしていく視点や構え、力量を養う正攻法な気がするなぁと思った次第。

書く経験を積むことでしか、ほんとうに読む力は養えないのかも。自己理解なしに、深い他者理解など成し得ないように。

*鈴木規夫「人が成長するとは、どういうことかー発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ」(日本能率協会マネジメントセンター)

2024-07-02

脳の活動を、胃の活動と同一視して期待しすぎているのかもしれないと思いつく

ネットで知った情報、本を読んで知ったこと、誰かに教えてもらったこと、新しい情報を得るや、そのまま「新しい知識をインプットした。必要なタイミングで、この知識は思い出されて発揮されるであろう」とまで盛って期待してしまう。

知ったところで学習プロセスは完了し、あとは体が勝手に運用してくれるかというと、そう一足飛びにはいかないのだが、こうした思い込みが発動するのは、けっこう自然なことかもなぁと、ふと思ったのだ。「胃」のような活動と同一視しちゃうのは、人のサガではないのかと。内蔵器官に人がもつだろう素朴なメンタルモデルとでもいうか。

食物を体内に取り込むとき、口の中でもぐもぐやっているうちはいくらか意識もあろうが、これだって大変なごちそうでもないかぎり自動化されていて、無意識に咀嚼しているものだ。本を読んだりテレビを見たり考えごとしながらの、もぐもぐだ。

そこから食道を通って、胃の中で消化する活動なんかは、もう完全に体任せだ。肉はこのように、葉ものはこのように消化してくれと、いちいち胃に指令を出したりはしない。頼まれずともいい感じでやっておいてくれるという期待があり、実際いい感じに消化したり栄養にしたりしてもらって何年も関係を築いてきた。

脳が情報を知識化するのも、同じような自動操縦を体に(脳に)期待してしまって、なんらおかしくない。意識して「胃と脳は別なのよ」と注意を促されないかぎり、そう勝手に期待しちゃうのが自然だよなぁと改めて思ったのだ。

新しい情報を知ると、それが自動的に自分の脳内に取り込まれ、咀嚼されて知識となり、脳の中に組み込まれたそれは、必要なタイミングで自動的に発揮される。そこまでを勝手に運用してくれるものと、人は体に(脳に)期待してしまうものじゃないかと。

実際、生命に危険が及ぶレベルのことなら、それは自動でなされているのかもしれないなぁとも思うのだ。めちゃくちゃ不穏な雰囲気を漂わせた巨大な生物を視界にとらえたら逃げるにかぎる!とか、ものすごい異臭を放っている代物は食べたらダメだ!とか、そういう類のもの。

そういうことは、一度知ったら、そのまま脳に刻まれて、ずっと先にそれを感知したときにも長期記憶から自動的に知識が呼び起こされて発動し、「逃げる」「食べない」と判断するまで自動操縦でやってくれるのかもしれない。

が、現代社会で求められる学問とか、知的労働とか、複雑性高い問題・課題にどう取り組むかみたいな高次レイヤーに及ぶと、そうは問屋がおろさない。情報は勝手に知識に変換され、必要なタイミングで自動的に記憶が呼び起こされて、いい感じに知識が発揮されて物事に対処しておいてくれたりしない。

一度読んだはず・聞いたはずのものが、記憶に残っていない。テスト問題に出ても、答えが浮かんでこない。こうしたことは既に10代のうちに多くの人が経験済みで、よくよく考えると、みんな承知していること。なので、たいした話ではないことを書き連ねているわけなのだが、飲み屋の駄話のようなものと堪忍してほしい。

情報と知識は別物とは、方々で説かれて久しいけれども改めて、見聞きした情報を私のものとして活かしたいなら、知識にする、知恵となすまで丹念に学習プロセスを歩んでいかねば仕方ないと、分厚い本を再読しながら、もぐもぐしている次第。

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