朝井リョウ「正欲」の愛情に満ちた糾弾
マジョリティとマイノリティ論者のいずれをも壇上に引きずり上げて、どちらにも平等に、対等に刃を向けて言葉でめった斬りにする小説というのか、朝井リョウの長編小説「正欲」は、そういう意味で大変すがすがしい読後感を覚えた。
論者といっても、別に「あなたのように影響力ある人が」と、なにか言えば逆側から叩かれる著名人に限らない。私自身を含めて世の中の全員に向けて、抜け漏れなく八方を塞いで、おまえら全員に言ってんだ!耳をかっぽじって聞け!という感じで突きつけてくる周到さが、すがすがしいのだ。
誰もが「たった一人の人間」として生きる脆弱を抱え、偏狭さ、浅薄さ、卑屈さ、傲慢さ、責任逃れに陥る身の上であることをもって全方位に糾弾してくる。
第1ラウンド。マジョリティこそが正常であり、マイノリティは異常であると信じて疑わないマジョリティ120%な人の偏狭さは、こう攻撃を受ける。
まとも。普通。一般的。常識的。自分はそちら側にいると思っている人はどうして、対岸にいると判断した人の生きる道を狭めようとするのだろうか。多数の人間がいる岸にいるということ自体が、その人にとっての最大の、そして唯一のアイデンティティだからだろうか。
マジョリティであるということが「その人にとっての最大の、そして唯一のアイデンティティだからだ」というのは、皮肉として巧いというより、急所を狙って刺してきた感を覚えた。
第2ラウンド。自分はマジョリティ側の安全圏に生息しつつ、マイノリティの良き理解者気取りで「多様性だ、ダイバーシティだ」とスローガンを掲げて気持ちよくなっている輩の浅はかさは、「私は理解者ですみたいな顔で近づいてくる奴が一番ムカつく」と言って、こうえぐってくる。
「多様性って言いながら一つの方向に俺らを導こうとするなよ。自分は偏った考え方の人とは違って色んな立場の人をバランスよく理解してますみたいな顔してるけど、お前はあくまで”色々理解してます”に偏ったたった一人の人間なんだよ。目に見えるゴミ捨てて綺麗な花飾ってわーい時代のアップデートだって喜んでる極端な一人なんだよ」
よく研いだ刃で、すくすく育ててきたプライドを、ビニールハウスごとズタズタに切りさいて野ざらしにする勢いで。自己認識が「何様」になってしまった人の「様」を片手で剥ぐ。
第3ラウンド。マイノリティ当事者に対しても、糾弾の手を緩めない。今の時代ここに刃を向ける発言は極めて難しい。とりわけ公共の電波にのせる発信者は、ここにアンタッチャブルで、腫れ物にさわるようにして当事者に対しての問題提起は一切しない論者も多い。
だけど、それが今を生きるマイノリティ当事者個々人の幸いを導くかという意味では、良しもあれば悪しもある。誰にとっても、理解者や協力者や救済者が必要なときもあれば、厳しいこと耳が痛いことを言ってくれる人の存在が何かを導いてくれることもある。時と場合で両方が必要なのは、何の問題のマジョリティであれマイノリティであれ変わらない。
「自分で引き受けなきゃいけないことがある」のも、「同じ法律のもとで、悪いことすれば裁かれる」のも、マジョリティとマイノリティで違いはない。その人が悪いことをしていたとしても、マイノリティ・弱者にはそうするほかない特有の事情があったのであり、マジョリティ・強者の側がそれに対して糾弾すべきではないというのは過度の慮りだ。ではマジョリティの一人ひとりは、悩みを抱えていないのかというと、そんなことはない。誰だって個人個人の特有の事情を抱えて、もがきながら生きているのだから。
この小説には、そういう平等で対等な、マジョリティとマイノリティの分け隔てなく個人に向けて切実に訴えかけることを諦めない作家の愛情を感じるのだ。そのために、マイノリティその人がはまりがちな卑屈さも、まな板の上に引きずり出して同等にえぐってみせているように感じた。
世間にマイノリティとすら認知されずラベルづけもされていない、マイノリティの中のマイノリティ120%を引きずり出して、こう言葉を浴びせる。
「全部生まれ持ったもののせいにして、自分が一番不幸って言ってればいいよ」
「そっちだってわかんないでしょ?選択肢はあるのにうまくできない人間の辛さ、わかんないでしょ?」
「不幸だからって何してもいいわけじゃないよ。(略)別にあんたたちだけが特別不自由なわけじゃない」
「マジョリティだって誰だってみんな歯ぁ食い縛って、色んな欲望を満たせない自分とどうにか折り合いつけて生きてんの!」
「はじめから選択肢奪われる辛さも、選択肢はあるのに選べない辛さも、どっちも別々の辛さだよ」
苦しみにはいろんな種類があって、みんなそれぞれに自分の抱える苦しみに飲み込まれないように生きようとしているんだと、泣きながら説得してくる気迫を受け取る。
こういう時代だからこそ、という前置きはどこか薄ら寒い心地をおぼえるのだけれど。私たち巷の人間は、自分が直接に接点をもった人たち個々人と、また自分自身の固有性と、どう向き合っていけるかが、とても大事なんじゃないかと思うのだ。
大きな網をはって括られた、誰かにラベリングされたのっぺらぼうの属性分類にのまれることなく、巷で生きる私は、自分について、自分の身のまわりについて、主体的な責任をもって、自分の力の及ぶかぎりは奮闘してみるというスタンスが大事で、それを支えたり導いてくれるのが文学作品だなぁと思う今日この頃なのだった。
*朝井リョウ「正欲」(新潮文庫)
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