人の気持ちは揺れ続けているし、鋲で留めなくていい
武者小路実篤の「真理先生」を読んで思ったことはわんさかとあるのだけど、そのうちの一つが、人の気持ちは揺れ続けているもので、その気持ちを鋲で留めなくていいってことだ。
「余計なこと言ったと気が滅入ったよ。すぐなおったけど」
昨今は、どこか頑なに「一度言ったことを変えるのは無責任」みたいな気負いが、発する側にも受け止める側にも働いているように思うことがあって。そういう今の世の窮屈さを、「真理先生」を読んでいて意識させられたというのかしら。
一度言ったら、それを徹底して通さなきゃいけない、なんてことはない。むしろ人の気持ちは揺れ続けていて、固定的でないほうが自然だ。ちょっと腹が立っても、すぐなおったりする。悲しいと思っても、少ししたら気分が持ちなおす。自制が効いたりする。
僕は悪かったと思ったが、一寸(ちょっと)腹も立った。何か一寸皮肉を言いたかったが、馬鹿一の真剣な顔を見ると何も言う気にならなかった。黙って少し後ろにさがった。
考えることも柔軟で、ああしたほうがいいかなと思ったそばから、いややっぱりこうしたほうがいいかと考え直したり。そうした構えのほうが自然で、揺れを許容しながら目配せを続けて現場判断していったほうが健全に立ち回れることも多いのではないかなと。
もちろん初志貫徹、二言はないというほうが良い事柄やシチュエーションというのもあろうけれど、そういう場合ばかりじゃないだろう。もっとその辺、時と場合で使い分けていいんじゃないか。変わりゆくほうが人間の自然だろうくらいに、鷹揚にかまえていたほうが無理がないんじゃないか。
気分がなおったら、もう腹を立てたそぶりを続けなくていい。許したり詫びたり、泣いたり笑ったり、したらいい。嫌な気持ちなんて、人間そんなに長持ちしないようにできているんだから。そういう生態だと思えば、自分の心変わりも、当たり前のこととして受け入れやすい。人と話していて考え方が変わったときも、そっちのほうがいいねって、力みなく人の意見を取り入れやすい。別に、そこで意固地になる必要はない。
口にしてしまったことを、あぁやっぱり言わなければ良かったと思い返すなんてことも、人間あるあるだ。やってしまって後悔することもある。そしたら反省したら、いいのだ。だんまりを決めこまず、気持ちを整えて、謝りに行ったらいいのだ。自分のしでかしたことを正面で受け止めて、次は踏みとどまろうと思えたら、失敗は糧になる。
僕は自分のしたことを赤面しないわけにはゆかなかった。実に僕は余計なことをしたものだと思った。そして馬鹿一に今更に感心した。
受け止める側も、いたずらに相手に頑なな態度を求めずに、前言撤回も受け流したらいいのだ。考えや気持ちが変わることを、人の当たり前と思ってさらっと見届けるような、見逃すような心遣いができれば、さわやかだ。
受け止める側にそういう度量があることが肌感でわかると、発する側もそれを感知して、素直に前言撤回したり、考えを改めやすくなるものだし。その先に、もっと懐の深いつきあい、より良い考えが広がっていったりする。
こういう当たり前の人間づきあいを、今一度当たり前のこととしてやるように心がけていったら素敵なんじゃないかなぁと。ここんところが、かなり普遍的な、人間の良いとこ成分な気がするのだ。
「先生の考えは実に平凡だ」と言われて、真理先生は、こう返す。
「僕はあたりまえのこときり言いたくない。今の人はあたりまえのことを知らなすぎる。何でも一つひねくらないと承知しない。糸巻から糸を出すように喋るのでは我慢が出来ない。わざと糸をこんがらかして、その糸をほどく競争をしているようなものだ。あたりまえでないことを尤(もっと)もらしく言うと、わけがわからないので感心する。こういう人間が今は多すぎる。僕はそんな面倒なことをする興味は持っていない」
感じ入って読めてしまう今の世の中に、とてもフィットする武者小路実篤の「真理先生」。お気に入りの一冊になった。
*武者小路実篤「真理先生」(新潮社)
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