有吉佐和子「青い壺」、古い時代とみるか異なる時代とみるか
有吉佐和子の「青い壺」を読んだ。第13話までを通して、袖振り合う人から人へと渡っては、それぞれの人生の、あるシーンの目撃者になる青い壺。願わくば、こういう小説が永く好ましく読み継がれる、寛容な社会が続くといいなぁと思った。
この作品は初出誌が昭和51年で、私が生まれたときに文藝春秋で連載されていた小説だ。50年近く前の話だけど、時代背景は「背景」として汲みつつ、当時も今も変わらない作品の「前景」をこそ受け取りたい。私はそういう読者なのだと痛切に感じながら読んだ。
最近は、昔の男女の固定的な性役割だったり女性差別的な日常描写に過敏なところがあって、強烈な違和感なり嫌悪感を覚えて作品を受けつけなかったり、イライラなりムカムカなりが湧き出て正視に耐えない人もいるようで。それにハラハラしたりヒヤヒヤする自分がいる。
それは私が鈍感で、お気楽なせいなのか。世の中の一部で過剰反応が起きているのか。あるいは大変なトラウマを抱えて生き抜いてきた方が、それを背景として軽く流すなど無理な話で、そういう人が実際のところ少なくないからなのか。おそらくは全部が関係しているのだろうけれども。
ただ私はやっぱり、文学作品というものに、こう親しみたいと思うところがある。お気楽と言われればそれまでなのだけど。
異なる時代には、異なる時代の、当時の人たちが、当時の過去から引き継いで導いた合理性というのがあって。それを下敷きにした、当時の価値観や慣わしや日常があったはずで。そこでの豊かな人間関係や営み、それぞれに果たそうとした役割や使命感もあれば、分別もあって、充実も可笑しみも苦悩も、懸命に生きた軌跡もあっただろうと、一人ひとりの人生に。
それを、未来からブルドーザーで踏み込んでいって無分別に論評したり、気ままに嘆いたり、断じたり、ある人を加害者扱いして嫌悪したり、ある人を被害者扱いして可哀想がったりするのは、失礼な気がしてしまう。
その時代ごとに、下敷きになっている背景は背景として鑑みながら、当時を生きた人たちの個人に焦点を定めて、おかしみには顔をほころばせ、背負った苦悩には心を寄せて泣き、登場人物の生きざまに学ぶやり方で文学を味わうのが、自分のやり方だなぁと。そんなことを思いながら読んだ、そう強く思わせてくれる作品だったのだ。
往時の陶工が決して作品に自分の名など掘らなかったように、自分もこれからは作品に刻印するのはやめておこう、と。
人の価値観も、今も昔もいろいろあっていいじゃないか。こういう人もあっていいし、名を馳せたい、歴史に名を残したい人もあっていい。何か一つの志しの持ち方を、唯一秀でたものとして推奨し、それ以外を否定したり排除したり疎んじたりしていては、一向に選択肢は増えないまま。正しい一つが何かが中身を入れ替えるばかりで、画一的な社会というフレームは一向に進化を遂げない。
新しいものに全面移行せず、選択肢として残していいものなら、そのまま旧いのも並べておいたらいい。そうしておいたほうが、若い人もいろいろな型を参照して、自分に合うものを見つけやすく、自分のそれも認めやすくなると思う。そこから自分なりのものも育てていきやすいだろう。それがスローガン掲げる「多様性社会」の具体じゃないのかなぁ。
*有吉佐和子「青い壺」(文藝春秋)
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