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2024-06-05

楽観的な人の頭はお花畑でなく「わりと堅実」

楽観的な人というのは、お気楽だのおめでたいだのと揶揄されることがあるやもしれぬが、そんなとき心の支えとなる理屈を読んだのでメモしておく(ここでいう楽観性は「ポジティブな結果(成功)を期待する傾向」)。

ものの本によると(*)、楽観性が高いことが幸せをもたらすことを示す研究成果は、ざくざくあるようなのだけど(より適応的で、健康状態が良く、免疫機能が高い、手術後の回復が早い傾向、ストレスフルな出来事を経験した後の抑うつを低減させる作用があるなど)、なかでも興味をひいたのが、これだった(画像をクリック or タップすると拡大表示する)。

Photo_20240605180501

上の図は、楽観性の程度を「悲観者」「中程度の楽観者」「高度の楽観者」の3タイプに分けてみたとき、それぞれが「ポジティブな言葉」と「ネガティブな言葉」にどの程度の注意を払っていたかを調査してグラフ化したもの。上に行くほど、注意を払っていた度合いが高い。

楽観的な人って「頭の中がお花畑」で、ネガティブな言葉をスルーして現実離れした見方をしがちなんじゃないの?という疑惑について、よっしゃ、調べてみたろやないかい!というのが研究意図と思われる。

まず左側の「悲観者」を見てみると、青いほうのネガティブな言葉には、むちゃんこ注意を払っている。一方で、赤いほうのポジティブな言葉に対しては、むちゃんこ注意を払っていない。極端な落差だ。

「楽観者」は、どうだろう。真ん中が「中程度の楽観者」で、右側が「高度の楽観者」。2つとも、赤いほうのポジティブな言葉に注意を払っているのは、さもありなん。だが、青いほうのネガティブな言葉に対しても、バランスを欠くことなく注意を払っているところは注目に値する。

右側の「高度な楽観者」は多少の開きがあるけれど、一番左の「悲観者」がポジティブな言葉をスルーする極端さに比べると、かなり同等にネガティブ情報にも注意を払っていることがうかがえる。

つまり、ちゃうやないかい、悲観的な人のほうが、ポジティブな言葉に注意を払わず、ネガティブなことに固執しすぎて、現実離れな見方をしてるんやないのかい!と、そういう研究結果である。これは味わい深かった。

以下、あくまで「傾向がある」という話にすぎないが、楽観性が高い人は、次のような観点での研究成果が示されている。

1)ポジティブな言葉ばかりでなく、ネガティブな情報にも注意を向けて状況を認知し、受け容れる傾向あり(ポジティブ情報に偏らない)

2)その状況が「統制がきく状況にない」と認めた場合には、無駄な努力をせずに、柔軟に目標を調節し、目標達成につながりやすい傾向あり(達成困難な目標に固執しない)

3)自身にとって有用な情報や関与度が高い情報に、選択的に注意を向ける傾向あり(与えられたすべての情報に注意を向けるのではなく)

4)自身にとって優先順位が高いと考える目標に対しては、積極的に関与し、時間と労力を集中させる傾向あり(状況に応じて目標への関与度を使い分ける)

逆に「楽観性が低い」ことで懸念されるのは、ポジティブな言葉や情報を無視して受け容れない。それによって状況判断を見誤る。それによって最初に立てた目標に固執し続ける、頑張ったところでどうにもならないところで努力し続ける。それによって目標達成を遠のける。

批判的な思考力は、それはそれで大事だし、楽観性だけで何かが達成できるわけじゃない。下の本でも「楽観性の高さはすなわち悲観性の低さを意味する」と一次元的に捉えず、「楽観性と悲観性とでは独自の役割を担っている」と二次元的に捉えたほうが有用であるという指摘をしているから、あまり単純化して話せるテーマではない。そう思いつつ...

批判的精神がつんのめって、悲観的な物言いが垂れ流されがちな今日この頃では、楽観性をもって事に向き合う構えこそ、自分で意識的に育んで備えて発揮したいものだなとも思うのだった。

*小塩真司(編著)「非認知能力 概念・測定と教育の可能性」(北大路書房)

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