それは能力なのかパーソナリティ特性なのか
それは能力なのかパーソナリティ特性なのかの線引きは曖昧で、最近は何かと「◯◯力」と名づけて喧伝されるから、こんがらがり放題だ。
「セルフコントロール力」と言われれば能力に振り分けたくなるが、「誠実性」と言われればパーソナリティ特性と振り分けたくなる。しかし蓋を開けてみれば「セルフコントロール力」と「誠実性」を構成する要素には多分に重なるところがあったりして、なんだかなと。
例えば次のような人の特徴は、「セルフコントロール力が高い人」の要件としても「誠実性が高い人」の要件としても共通して使えそうな感触をおぼえるのではないか。
- 規則正しく勤勉(↔︎ルーズでだらしない)
- 先を見越して慎重な意思決定を行う(↔︎衝動的に行動してしまうことが多い)
- 責任感をもって計画的に粘り強く課題に取り組む(↔︎責任感や計画性が低い)
ものは言いようというか、「カステラはギュッって潰して小さくすればカロリーゼロ」というサンドウィッチマン伊達さんの名言が脳裏をかすめる。
しかし、線引きを曖昧にして笑える時もあれば、曖昧にすることで害悪を生む場合もある。組織の人材開発とか、個人のキャリア開発という文脈にのせれば、この分別には、各々の現場で慎重な見極め(というか、見極めようと意識を働かせること)が大事だと思う。
というのは一般的にみて人は、「能力」に分類すれば「高ければ高いほどいい」と捉えるが、「パーソナリティ特性」に分類すれば「高ければ高いほどいいわけじゃない」とみる、そういう解釈の違いを生むからだ。
パーソナリティ特性に振り分けた場合には「高すぎると問題を生じうる」とか「組織が全員に求めるとバランスを欠く」とか、そういう見立てを持つことができるのだ。
誠実性(セルフコントロール)が高い・高すぎた場合には、
- 豊かな感情的経験が抑制される
- とくに簡単な仕事においてパフォーマンスが落ちる
などが研究成果として指摘されている。
誠実に事に当たろうとするあまり、あるいは組織が社員に誠実性を求めるあまり、セルフコントロールが効き過ぎて、個性が花開く機会を無用に奪ってしまっては不健全だし、組織が十分に個人を活かす上でも機会損失となりうる。皆、同じことはできるが、同じことしかできない組織になってしまう。組織は弱る。
こうしたことを改めて考えさせてくれたのは、今読んでいる「非認知能力: 概念・測定と教育の可能性」*という本なのだけど、そこに書かれた一節が味わい深い。
特性としての誠実性は、一人ひとりの豊かな個人差を捉える一つの切り口にすぎません。それを外的な働きかけで一方向的に伸ばすというのは、その個人のパーソナリティを否定することにもつながりかねないことであるという点には、自覚的であるべきでしょう。
組織の人材開発施策として伸ばす対象を考えたとき、それが「能力」ならば高める努力を求められることも、それが「パーソナリティ特性」であった場合、人権侵害的な暴力性をもつ恐れがある。社員個人の個性化を阻んで、会社組織を硬直化させる作用をも持ちうることをわきまえて、慎重に、開発すべき能力と、尊重すべきパーソナリティ特性(伸ばすべき個性)を見極める必要があるなと。
それは、もっと広く深く掘り下げれば、ある時代の、ある社会通念の檻に集団を閉じ込めてしまうか、変化する自由を開放しておけるかにも通じているんじゃないかと、そんなことを思った。
*小塩真司(編著)「非認知能力: 概念・測定と教育の可能性」(北大路書房)
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