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2024-05-13

幕府がカレンダー販売禁止してデザイン文化が花開いた話

土曜の朝、落語家の立川談笑さんの話に聞き入った。年末になるとカレンダーをもってお客さんとこに挨拶まわりに行くという風習は、そういう起こりかぁと合点がいった。が、それ以上に「制限や不自由」といったものを「環境や前提条件」と捉えて創作につなげていく人の力、人の営みみたいなものに心を惹かれた。

NHKラジオ第1「マイあさ!」6時台後半サタデーエッセイ「知っていますか?カレンダーの歴史」立川談笑(2024年5月11日)

※2024年5月18日6:55配信終了までは、リンク先で「聞き逃し配信」が聞ける。サタデーエッセイ開始は4分30秒後にスタート。

今の日本は、太陽暦(グレゴリオ暦)。4年に一度、調整が必要で「閏年(うるうどし)」がある。これが江戸時代までは、太陰暦だった。これは、月の満ち欠けで暦をたてる。

太陰暦だと毎月、何月だろうと「15日の夜」は必ず満月。これが、いわゆる「十五夜」。月明かりで、夜でも表は明るい。反対に、月末や月初は必ず新月。月が見えず、真っ暗い闇。16日は十六夜(いざよい)、17日は立待月(たちまちづき)と風流だ。

ただ太陰暦も微調整する必要はあって、とくに大規模なものに「閏月(うるうづき)」があった。一年が13ヶ月、ひと月増えちゃう年があったのだ。

ただ基本的には一年は12ヶ月。で、大(だい)の月、小(しょう)の月があった。「大の月」は30日まであって、小の月は29日まで。

これの不便なのが、何月が大か小かは、年ごとに変わった。なのに幕府によって暦(カレンダー)の販売が禁止されていた。これでは日々の生活を送るのに不便で仕方ない。それで江戸の市民たちはどうしたか。

「自分の家で使うためにカレンダーを作る分には問題ございませんよね?」って確認して、「それはよかろう」と許可を得た。それで自分でこしらえた。

さらに「お金をとって販売しなければ、お友達にあげるぶんには問題ございませんよね?」と許可を得た。これもお咎めなしになった。そうして自分で作ったカレンダーを、他の人に配る人が出てきた。

これをおもしろがって、年末になると、来年の暦を作って自作のカレンダーを作っては束にして持ち歩いて「おぅ、これ俺が作ったの、あげるよ」と配る人が出てきた。暦がないと生活に不便だから、たいそう喜ばれた。

これを真似る人が次から次へと出てきて、江戸の大ブームになった。町民から大名まで、自分でデザインして、オリジナルのカレンダーを作って、人にプレゼントしだした。

「当家で作ったものです」「これは見事ですなぁ」と、名刺交換みたいなことにまで発展していった。

「かっこいい」「粋だねぇ」というので、文字・数字を入れるにとどまらず、意匠に工夫を凝らすようになっていく。おめでたいイラストを入れるようになったり、パズルや謎解きなど仕掛けを工夫したもの、極彩色などギンギラしたもの。

さらには、今年の一番の暦を決めようと、暦のデザインコンテストを始めた。

そうして木版印刷の需要が増え、木版を手がける職人さんも増え、多色刷りも生まれ、プロのイラストレーターも出てきた。

浮世絵の祖とされる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)も手がけ、浮世絵の文化につながっていった。幕府によってカレンダーの販売が禁止されたのが、江戸文化の発展に大いに寄与したというのは乙な話じゃないかと、いい調子で聴かせてくれるのだ。

自分の目の前に広がる光景を、「自由を縛る制限」とみるか、「何かを作りだす上での環境・条件や足場」としてみるか。解釈は、こちらに委ねられている。がんじがらめだと思っても、いくらか検討の余地は残されていることが多い。

どちらの箱に入れて見立てるか、私たちの頭は両方の箱をもっていて、後者の箱に入れる癖をつけると、目の前の光景はずいぶんと彩りが変わって見えてくる。誰かが感じている不自由も、むしろ腕がなるモチベーションとして働いたりする。

後者と見立てられれば、その環境・条件をこそ踏み台に利用して、少しずつのジャンプを積み重ね、飛躍することもできる。素敵な励ましのメッセージだし、いいないいな、人間っていいなと思うお話だった。

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