タイパの「パフォーマンス」って何さ問題
タイパというと、動画の倍速再生だとか、名著をあらすじだけ押さえておく方法だとかがあれこれ情報流通しているけれども、方法以前にそもそも、その期待するところの「パフォーマンス」って何を指しているのかなというのが気になって、ちょっとググってみた。
タイムパフォーマンス、略してタイパ、訳して時間対効果。つづけて語釈っぽい文章を読んでみると、かけた時間に対する「満足度」としているのと「効果」としているのとあった。
「満足度」というのであれば、それに使った時間の直後に本人が満足した度合いということだろうから、本人が満足しているなら、ようござんしたで結構だ。
が、いや「直後の満足度合い」では物足りない、もっと先々の自分の人生に役立つかどうかとか、そういう「中長期的な効果」を得るための効率のことよ!ということだとすると、話は変わってくる。もう少し「パフォーマンス(効果)」というのを、案件ごと、自分ごととして都度、特定してみたほうが道筋を誤らないではないか?と思ったのだ。
私は一考した。そうして自分に引き寄せてタイムパフォーマンスを考察してみると、むしろ一つの作品を二度、三度と繰り返し味わったほうが、自分にとっては大方のこと、パフォーマンスに好影響を及ぼすだろう気がしてきた。
なので最近は、同じ本を二度読んだり、同じ映画を二度観たり、そうしてじっくり味わう繰り返しを、好んで実行してみている。そうすると二度目の拾いものが、たいそう多いのだ。
二度目に整理されて理解できること、知識として定着するもの(というより定着させたいと思いついて編集したり記録したりするもの)、二度目になって初めて発見したり味わえたりするもの。二度目は、そんなことの宝庫だ。
それにとどまらず、今読んでいる本と、一つ前に読んでいた本、その間に観た映画、最近やった仕事、今やっている仕事、あれこれが私の頭の中で勝手に交流を始める。それぞれの作者たちが、私の頭の中で、自分の訴えと、私の経験とをつなぎ合わせてものを言ってきたりする。
あっちの作者と、こっちの作者が、勝手に話し合いを始めるような饗宴もある。私は引き合わせ役にして、鑑賞者の役得を得る。二度目だと、私の脳内にも余裕が生まれるからこそ、そんなミラクルが起こる。
一つひとつを効率重視で手短に切り上げて、直後の一時的な満足感に満足して、それを日々積み上げていくと、それは足し算にしかならない。掛け算や指数関数的な手がらの増大は狙えない。「効果」の要件定義しだいでは、タイパ上たいそう効率が悪いことをしていることにもなる。
一度手にしているモノサシが正しいか見直してみる必要があるし、都度都度でも何のモノサシで自分がタイムパフォーマンスを測ったらいいかを吟味してかかる必要がある。そんなことを考えたのだった。
もちろん、一度読んで、観て、ぱっと頭に入って、理解したり定着させられる人だったら、それで構わない。私の頭だと、そうはいかないという話だ。
ここまで二度目の味わいが深いと、一度目というのは自分にとって「読みました」「観ました」のアリバイ作りでしかないのではないかと、しょげる。そこそこしっかりした作品群は、はなから「二度味わう」のをデフォルトとしておいたほうが自分にはいいのではないかと思う今日この頃。
情けなさがわかないではないが、一つのことをしっかり味わい、自分に根づかせて、次の何かと勝手に紐づいてゆくくらいに自分に浸透させないと、先々の役立ち度のメーターが全然振れないのだし。仕方ないというより、それも人生、それこそ人生の味わいかと思えるくらいに歳もとった。
タイムに比してパフォーマンスは、かなり個人ごと、案件ごとで何とするか設定が異なる。そこばかりは人任せにしようがない。そこをはずすと、潜在的に自分が欲しているのと真逆の効果を獲得してしまうことを、くれぐれもわきまえてかからねば。
« 自分の時代、自分の環境を特殊化して見がち | トップページ | 構造を理解し、批評視点を養い、作品を味わう »
コメント