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2024-05-31

それは能力なのかパーソナリティ特性なのか

それは能力なのかパーソナリティ特性なのかの線引きは曖昧で、最近は何かと「◯◯力」と名づけて喧伝されるから、こんがらがり放題だ。

「セルフコントロール力」と言われれば能力に振り分けたくなるが、「誠実性」と言われればパーソナリティ特性と振り分けたくなる。しかし蓋を開けてみれば「セルフコントロール力」と「誠実性」を構成する要素には多分に重なるところがあったりして、なんだかなと。

例えば次のような人の特徴は、「セルフコントロール力が高い人」の要件としても「誠実性が高い人」の要件としても共通して使えそうな感触をおぼえるのではないか。

- 規則正しく勤勉(↔︎ルーズでだらしない)
- 先を見越して慎重な意思決定を行う(↔︎衝動的に行動してしまうことが多い)
- 責任感をもって計画的に粘り強く課題に取り組む(↔︎責任感や計画性が低い)

ものは言いようというか、「カステラはギュッって潰して小さくすればカロリーゼロ」というサンドウィッチマン伊達さんの名言が脳裏をかすめる。

しかし、線引きを曖昧にして笑える時もあれば、曖昧にすることで害悪を生む場合もある。組織の人材開発とか、個人のキャリア開発という文脈にのせれば、この分別には、各々の現場で慎重な見極め(というか、見極めようと意識を働かせること)が大事だと思う。

というのは一般的にみて人は、「能力」に分類すれば「高ければ高いほどいい」と捉えるが、「パーソナリティ特性」に分類すれば「高ければ高いほどいいわけじゃない」とみる、そういう解釈の違いを生むからだ。

パーソナリティ特性に振り分けた場合には「高すぎると問題を生じうる」とか「組織が全員に求めるとバランスを欠く」とか、そういう見立てを持つことができるのだ。

誠実性(セルフコントロール)が高い・高すぎた場合には、

- 豊かな感情的経験が抑制される
- とくに簡単な仕事においてパフォーマンスが落ちる

などが研究成果として指摘されている。

誠実に事に当たろうとするあまり、あるいは組織が社員に誠実性を求めるあまり、セルフコントロールが効き過ぎて、個性が花開く機会を無用に奪ってしまっては不健全だし、組織が十分に個人を活かす上でも機会損失となりうる。皆、同じことはできるが、同じことしかできない組織になってしまう。組織は弱る。

こうしたことを改めて考えさせてくれたのは、今読んでいる「非認知能力: 概念・測定と教育の可能性」*という本なのだけど、そこに書かれた一節が味わい深い。

特性としての誠実性は、一人ひとりの豊かな個人差を捉える一つの切り口にすぎません。それを外的な働きかけで一方向的に伸ばすというのは、その個人のパーソナリティを否定することにもつながりかねないことであるという点には、自覚的であるべきでしょう。

組織の人材開発施策として伸ばす対象を考えたとき、それが「能力」ならば高める努力を求められることも、それが「パーソナリティ特性」であった場合、人権侵害的な暴力性をもつ恐れがある。社員個人の個性化を阻んで、会社組織を硬直化させる作用をも持ちうることをわきまえて、慎重に、開発すべき能力と、尊重すべきパーソナリティ特性(伸ばすべき個性)を見極める必要があるなと。

それは、もっと広く深く掘り下げれば、ある時代の、ある社会通念の檻に集団を閉じ込めてしまうか、変化する自由を開放しておけるかにも通じているんじゃないかと、そんなことを思った。

*小塩真司(編著)「非認知能力: 概念・測定と教育の可能性」(北大路書房)

2024-05-17

新しいこと探しより、ありふれていること始め

今朝がた「スタートアップの成功モデル」について書かれたFacebookの投稿に触れて、勝手に「個人のキャリア論」と重ね合わせて読んでいた。最近自分が考えていたことと通ずるところを覚えたのだ。

クラシックな市場・ビジネス領域で、高い組織ケイパビリティを発揮してどんどん規模化していく

というスタートアップの成功モデルを提示してあるのに触れ、自分の頭の中で勝手に、個人のキャリアについても「まだ誰もやっていないことを」とか「他の人がたやすく手を出せない専門性を」と最初から気張らずに、「世の中にありふれたことを、自分でやってみること」で、「高い能力・パフォーマンスを発揮」して、「どんどんキャリアを育んでいく」というのが手堅い王道なんじゃないかなぁと読みかえた。もちろん私の勝手解釈だ。

キャリアを論じるところ「自分らしさ」とか「オリジナリティ」といった言葉の呪縛が花ざかりだけど、それは結果的な到達点であって、最初からそこを目指そうとすると、多くの人間は入り口で詰んでしまうと思うのだ。どこから登り始めたらいいか、そもそも登山口を定められず足踏み状態になってしまう。

まだ、誰も立ち入ったことがない登山口をあっちこっち探しまわっているうちに、山を登り始めることなく時間は何年でも何十年でも経過してしまう。時間は止まってくれない、そのまま人の一生は暮れていってしまう。これってタイパ悪いんじゃないのか。

経験的にみても、私を含む多くの一般人を見回してみて、「登山口はここだ」というひらめきやら神の啓示やらが、社会に出る前ある日突然ふってくることはない。すごい人から「君はこれをやるべきだ、君にはとてつもない才能がある」と導かれることも、そうそう起きない。

それで先の話に戻るのだけれど、たぶん職業キャリアを歩みだす登山口は「世の中にありふれていることを、自分でやってみる」ことだと思うのだな。「何をやるか」で奇をてらおうとするのではなくて、「自分がやる」ことによって自ずと、自分なりのものが出てくるのに任せたほうが自分にも無理がかからないし、自然の摂理にかなっている感じがする。

ありふれたことを始めるときは、マラソン大会のスタート地点のように、うじゃうじゃ人がいるように感じるだろうし、スタートを切ってからもしばらくは、わんさかと人がいて芋洗いの芋になった気分を味わうかもしれない。けれど長距離マラソンにおいて、芋洗いのままゴールまでみんなが固まって走り続けるなんてことは、ない。だいたい徐々にばらばらになって、ほどけていく。その見通しをもっていったん芋感も受け入れてみる。

山の中腹まで登った頃には、つまり「ありふれたことを、しばらくやってみた」頃に振り返ってみると、ありふれたことを他の人と同じようにやってきたようであっても、違いが出ていることに気づく。そこには、そんなに難しい観察眼は求められない。現実的な中腹時点での人と自分との違いを観察して、自分にはこういう特徴があるんだと観察結果から自分を知って、それを材料に自分のキャリア戦略を立てればいい。

中腹まで待てなかったら、もう少し手前で振り返ってもいいし、もっと先までがむしゃらに登り続けてみても、その振り返りタイミングの加減は自分で決めたらいい。いずれにせよ、そうやっていったん登山を始めてみて、都度振り返って道を選び直していったほうが、キャリアを歩む上ではずっと能率がいい。

同じ業界、同じ職種で、似たような案件を手がけてきた同世代の一人と比べてみる。その人と自分とでは、好みも違えば、得意と不得意にも違いがある。人との違い、自分の特徴というのは、中腹まで登ってこそ鮮明に見えてくる。

見える景色だって、登山口より中腹のほうが開けてくる。あっちにもこっちにも道筋が見えるし、あそこには他の山に300円で渡れるロープウェイがあるのかーと、山脈を見渡すこともできる。

そうした材料をもとでに戦略を立てられれば、無理がなく自然だし、現実的で建設的だし、道を誤っているんじゃないかという極端な不安感情からも解放される。

こんなことをだらだら書いていると、結局はごくごく王道のキャリア論に帰結するだけなのだけど、登っては振り返り、登っては振り返りで補正していくのが現実的だよなぁと改めて思う。

登ってみることで、見えてくる景色があるんだ、進む道の具体的な選択肢をもてるんだというのは、多くの人が自分のキャリアを考えるときに大事なメンタルモデルって気がしている。

人は、下から見上げて行く先の世界を見通せたり、自分の行く先を見定められたりするほどの力量はもたないし、だからこそ可能性に開かれた世界観で冒険心をもって生をたのしんでいくことができるのかなぁとも思うのだ。はぁ、勢いごにょごにょ書いてしまった。

2024-05-13

幕府がカレンダー販売禁止してデザイン文化が花開いた話

土曜の朝、落語家の立川談笑さんの話に聞き入った。年末になるとカレンダーをもってお客さんとこに挨拶まわりに行くという風習は、そういう起こりかぁと合点がいった。が、それ以上に「制限や不自由」といったものを「環境や前提条件」と捉えて創作につなげていく人の力、人の営みみたいなものに心を惹かれた。

NHKラジオ第1「マイあさ!」6時台後半サタデーエッセイ「知っていますか?カレンダーの歴史」立川談笑(2024年5月11日)

※2024年5月18日6:55配信終了までは、リンク先で「聞き逃し配信」が聞ける。サタデーエッセイ開始は4分30秒後にスタート。

今の日本は、太陽暦(グレゴリオ暦)。4年に一度、調整が必要で「閏年(うるうどし)」がある。これが江戸時代までは、太陰暦だった。これは、月の満ち欠けで暦をたてる。

太陰暦だと毎月、何月だろうと「15日の夜」は必ず満月。これが、いわゆる「十五夜」。月明かりで、夜でも表は明るい。反対に、月末や月初は必ず新月。月が見えず、真っ暗い闇。16日は十六夜(いざよい)、17日は立待月(たちまちづき)と風流だ。

ただ太陰暦も微調整する必要はあって、とくに大規模なものに「閏月(うるうづき)」があった。一年が13ヶ月、ひと月増えちゃう年があったのだ。

ただ基本的には一年は12ヶ月。で、大(だい)の月、小(しょう)の月があった。「大の月」は30日まであって、小の月は29日まで。

これの不便なのが、何月が大か小かは、年ごとに変わった。なのに幕府によって暦(カレンダー)の販売が禁止されていた。これでは日々の生活を送るのに不便で仕方ない。それで江戸の市民たちはどうしたか。

「自分の家で使うためにカレンダーを作る分には問題ございませんよね?」って確認して、「それはよかろう」と許可を得た。それで自分でこしらえた。

さらに「お金をとって販売しなければ、お友達にあげるぶんには問題ございませんよね?」と許可を得た。これもお咎めなしになった。そうして自分で作ったカレンダーを、他の人に配る人が出てきた。

これをおもしろがって、年末になると、来年の暦を作って自作のカレンダーを作っては束にして持ち歩いて「おぅ、これ俺が作ったの、あげるよ」と配る人が出てきた。暦がないと生活に不便だから、たいそう喜ばれた。

これを真似る人が次から次へと出てきて、江戸の大ブームになった。町民から大名まで、自分でデザインして、オリジナルのカレンダーを作って、人にプレゼントしだした。

「当家で作ったものです」「これは見事ですなぁ」と、名刺交換みたいなことにまで発展していった。

「かっこいい」「粋だねぇ」というので、文字・数字を入れるにとどまらず、意匠に工夫を凝らすようになっていく。おめでたいイラストを入れるようになったり、パズルや謎解きなど仕掛けを工夫したもの、極彩色などギンギラしたもの。

さらには、今年の一番の暦を決めようと、暦のデザインコンテストを始めた。

そうして木版印刷の需要が増え、木版を手がける職人さんも増え、多色刷りも生まれ、プロのイラストレーターも出てきた。

浮世絵の祖とされる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)も手がけ、浮世絵の文化につながっていった。幕府によってカレンダーの販売が禁止されたのが、江戸文化の発展に大いに寄与したというのは乙な話じゃないかと、いい調子で聴かせてくれるのだ。

自分の目の前に広がる光景を、「自由を縛る制限」とみるか、「何かを作りだす上での環境・条件や足場」としてみるか。解釈は、こちらに委ねられている。がんじがらめだと思っても、いくらか検討の余地は残されていることが多い。

どちらの箱に入れて見立てるか、私たちの頭は両方の箱をもっていて、後者の箱に入れる癖をつけると、目の前の光景はずいぶんと彩りが変わって見えてくる。誰かが感じている不自由も、むしろ腕がなるモチベーションとして働いたりする。

後者と見立てられれば、その環境・条件をこそ踏み台に利用して、少しずつのジャンプを積み重ね、飛躍することもできる。素敵な励ましのメッセージだし、いいないいな、人間っていいなと思うお話だった。

2024-05-11

「教える」ことは手段であって

恩田陸の長編小説「蜜蜂と遠雷」を読んでいる。とても面白い。数年前に映画化されているらしいが、そうとは知らず、本屋でジャケ買いした。表紙も素敵なのだ。とある国際ピアノコンクールを舞台に物語が展開されるのだが、エンタメ性も高く、奥が深く、筆致が素晴らしい。

こちとら一般庶民からすると、登場人物の誰も彼もが神童という感じなのだが、なかでも風変わりなのが16歳の少年、風間塵(かざまじん)。彼の演奏は、審査員の評価を二分する。「アンビリーバブル、ファンタスティック、奇跡的だ」と絶賛する派と、「下品だ、いたずらに煽情的だ、サーカスだ」と批判する派。

少年の演奏に、なぜ拒絶感を覚えるのか。これを審査員の三枝子が分析するくだりが時間をおいて二度、三度と出てくるが、その深掘りと変化していく様は実に読み応えがある。

私の脳内では、音楽業界に限定しない、さまざまな産業に拡張しうる話として解釈された。それは私が、クリエイティブ職の人材開発まわりを生業にしているからだが。それを、いくつかつまんでみる。

この、いわば苦労や勉強のあとが全く見えないことも、審査員の拒絶を招いているのではないだろうか。

審査員を「若手を育成するエキスパート・年配者」に置き換えると、さまざまな仕事現場で、なくもない気がしてこないだろうか。たたき上げの玄人からすると、若手に「苦労や勉強のあとが全く見えない」ことには拒絶感をおぼえやすい。

そして、昨今の風潮のくだりに入る。

近年、演奏家は作曲者の思いをいかに正確に伝えるかということが最重要課題になった感があり、いかに譜面を読みこみ作曲当時の時代や個人的背景をイメージするか、ということに重きが置かれるようになっている。演奏家の自由な解釈、自由な演奏はあまり歓迎されない風潮があるのだ。

私の脳内では、演奏家が「実務家」に、作曲者が「研究者・理論家」に置き換えられた。

若手の実務家が、自分の業界で基本とされるセオリーに学び、セオリーに従って実践することを重視するあまり、あるいは自社より市場で評価されるキャリアを積むことに傾注するあまり、「目の前の案件で人の役に立つ」「今ここで自分が何をすべきか、自分で考えて動く」という当たり前の大前提が、二の次になっていく危うさ、そこに底流する世の風潮を覚えなくもない。

そんなふうに勝手解釈をくわえながら読んでいると、次の「音楽教育に携わる者」が「産業界で若手の人材育成に携わる者」的に読めて、ここらを言ったり来たりしてしまった次第。

だが、風間塵の演奏はそんな解釈からは自由なところにある。もしかすると、作曲者の名前すら知らないのではないかと思わせる、真の自由とオリジナリティに溢れているのだ。曲そのものと、一対一で生々しく対峙しているような印象を受ける。それなのに、演奏は完璧─確かにこれは、今の音楽教育に携わる者にとっては受け入れがたいに違いない。

分析を加える三枝子が、少年への評価を変えていく様は、読者にも学びを分け与えてくれているように読めた。

最初のオーディションのときは、三枝子も拒絶感を覚えて、高く評価する他の二人の審査員に抵抗を示していたのだ。その主張は、少年が師事した巨匠の音楽性を真っ向から否定するようなスタイルの演奏は許しがたいというものだった。

まるで、師匠の音楽性を冒涜し、師匠に喧嘩を売っているようなものではないか。それは音楽家の態度としていかがなものか。彼が音楽家として独り立ちして、改めて師匠のスタイルから離れていくというのなら分かる。だが、この段階で師匠の音楽を全く理解していないというのは問題だと思う。

これに対して、少年を高評価する他の二人は、彼女に理解を示しつつも、こう切り返す。

彼に頭抜けたテクニックとインパクトがあることは認めるね?ならば、彼の音楽を許すの許さないのというのは我々が決めるべきことではない。ある一定ラインに達していれば、機会を与える。それがこのオーディションの目的なのであって、候補者の音楽性が気に入るか気に入らないかは、現時点では問題ではない。

自分たちは「許すの許さないの」を決める立場にない。「機会を与える」のが我々の役割だ。我々が提供する場の目的は「機会を与える」ことである。というのは、多くの教え手が一度は吟味しておきたい着眼点で、核心をついているんじゃないかなぁと読んだ。

教えることが目的化してしまうと、許す・許さないもうっかり顔を出してきかねないんだけれど、あくまで教えることを手段としてとらまえておくと、うまく「教える」という行為とつきあっていける気もする。

教える者の役割も、教える場の目的も、機会を与えることにあるんじゃないか。学ぶ機会を与えること、活かす機会を与えること、伸びる機会を与えること。役割を果たす機会を与えて、それによる充実感を覚えたり、それが社会の豊かさにつながる支援をすること。そうやって若手に、社会的役割を継承していくこと。

「教える」というのは、そういうことの手段の一つ、みたいにとらえると、より健全につきあいやすくなるかもなぁなどと思い巡らせながら読んでいる。文学は、心の柔らかいところをすくい上げて読者の意識にのぼるよう独特の働きをしてくれて尊い。

*恩田陸「蜜蜂と遠雷」(幻冬舎)

2024-05-09

構造を理解し、批評視点を養い、作品を味わう

ここひと月ほどは静かな読書時間をたしなんでいる。思うところあって、物語の作り手がどう物語を構造立てて作っているのか、それを批評家はどういう視点をもって批評しているのか、そうしたものの入門書をいくらか読んだ。

それと行ったり来たりしながら実際に作品そのものを味わってみると、作品上に表面化されていない作り手の創意工夫、物語構造の成り立ちに思いはせる領域が広がった感覚を覚えた。

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作家がはたして何をしてくれているのかというのが、(当社比だが)より深く理解できるのは至福だ。私には、そこのところを自分でより深く知覚して、作り手の手腕だとか思慮深さ、態度などに想像をめぐらせて頭を垂れたい欲求があるようで。この3つを行ったり来たり脳内で訪ね歩きながら、作品一つひとつを味わっていく時間の過ごし方が、とても好みのようだ。

作品というのは、もちろん小説に閉じたものではない。最近話題の映画「オッペンハイマー」と、19世紀初頭にメアリー・シェリーが著した小説「フランケンシュタイン」、二人の性格描写に共通性を見出して感嘆したりもした。

廣野由美子「批評理論入門:『フランケンシュタイン』解剖講義」で叙述されているフランケンシュタインの性格描写を引くと、次のようなのが挙げられるが、この辺を読んでいると、最近観た「オッペンハイマー」が、自然と脳裏に浮かんでくる。

興味・関心をもっぱら自然科学に向ける
その探求活動に集中投下する熱中癖がある
英雄的行為に憧れのぼせ上がりやすい気質をもつ
自分の能力に対する自信と野心が半端ない
激しやすく孤立しがちな傾向
ときに陰気になったり荒々しくなったり気性が激しい

こうした性格が結びついて破滅的な行動に走り、道を踏み外していくという物語は多いなぁなどと認識新たにする。

私は名作のたぐいを、ほんと若いときに読んでこなかったので、これから熱心に読み続けても(遅読もあいまって)ほんの一握りの作品しか読むこと叶わずに終わってしまうだろう。

これまで読んできた本、ふれてきた作品のあれこれも、薄っぺらいまま終えてしまっているものが多く、たくさんの発見を残したままになっていることは想像に難くない。

なので、数を追わず、読みきれないのは割り切った上で、縁ある作品を一つひとつ丁寧に、そして二度三度と繰り返し読んでは、手にとれた作品の作り手のなした創意工夫にふれて、そのテーマの本質に近づけるよう努めて、作り手に頭を垂れ、自分なりに味わいを深めながら過ごせたら幸せだなと思う。余生の弁はなはだしいやもしれぬが。

そこのところを深めずして、自分にとって良い仕事を果たすことも叶わないだろうし。歳をとると、何をわりきって、どこに焦点をあてて過ごしたいかがシンプルに考えやすくなってよいな。

廣野由美子「批評理論入門:『フランケンシュタイン』解剖講義」(中央公論新社)

2024-05-02

タイパの「パフォーマンス」って何さ問題

タイパというと、動画の倍速再生だとか、名著をあらすじだけ押さえておく方法だとかがあれこれ情報流通しているけれども、方法以前にそもそも、その期待するところの「パフォーマンス」って何を指しているのかなというのが気になって、ちょっとググってみた。

タイムパフォーマンス、略してタイパ、訳して時間対効果。つづけて語釈っぽい文章を読んでみると、かけた時間に対する「満足度」としているのと「効果」としているのとあった。

「満足度」というのであれば、それに使った時間の直後に本人が満足した度合いということだろうから、本人が満足しているなら、ようござんしたで結構だ。

が、いや「直後の満足度合い」では物足りない、もっと先々の自分の人生に役立つかどうかとか、そういう「中長期的な効果」を得るための効率のことよ!ということだとすると、話は変わってくる。もう少し「パフォーマンス(効果)」というのを、案件ごと、自分ごととして都度、特定してみたほうが道筋を誤らないではないか?と思ったのだ。

私は一考した。そうして自分に引き寄せてタイムパフォーマンスを考察してみると、むしろ一つの作品を二度、三度と繰り返し味わったほうが、自分にとっては大方のこと、パフォーマンスに好影響を及ぼすだろう気がしてきた。

なので最近は、同じ本を二度読んだり、同じ映画を二度観たり、そうしてじっくり味わう繰り返しを、好んで実行してみている。そうすると二度目の拾いものが、たいそう多いのだ。

二度目に整理されて理解できること、知識として定着するもの(というより定着させたいと思いついて編集したり記録したりするもの)、二度目になって初めて発見したり味わえたりするもの。二度目は、そんなことの宝庫だ。

それにとどまらず、今読んでいる本と、一つ前に読んでいた本、その間に観た映画、最近やった仕事、今やっている仕事、あれこれが私の頭の中で勝手に交流を始める。それぞれの作者たちが、私の頭の中で、自分の訴えと、私の経験とをつなぎ合わせてものを言ってきたりする。

あっちの作者と、こっちの作者が、勝手に話し合いを始めるような饗宴もある。私は引き合わせ役にして、鑑賞者の役得を得る。二度目だと、私の脳内にも余裕が生まれるからこそ、そんなミラクルが起こる。

一つひとつを効率重視で手短に切り上げて、直後の一時的な満足感に満足して、それを日々積み上げていくと、それは足し算にしかならない。掛け算や指数関数的な手がらの増大は狙えない。「効果」の要件定義しだいでは、タイパ上たいそう効率が悪いことをしていることにもなる。

一度手にしているモノサシが正しいか見直してみる必要があるし、都度都度でも何のモノサシで自分がタイムパフォーマンスを測ったらいいかを吟味してかかる必要がある。そんなことを考えたのだった。

もちろん、一度読んで、観て、ぱっと頭に入って、理解したり定着させられる人だったら、それで構わない。私の頭だと、そうはいかないという話だ。

ここまで二度目の味わいが深いと、一度目というのは自分にとって「読みました」「観ました」のアリバイ作りでしかないのではないかと、しょげる。そこそこしっかりした作品群は、はなから「二度味わう」のをデフォルトとしておいたほうが自分にはいいのではないかと思う今日この頃。

情けなさがわかないではないが、一つのことをしっかり味わい、自分に根づかせて、次の何かと勝手に紐づいてゆくくらいに自分に浸透させないと、先々の役立ち度のメーターが全然振れないのだし。仕方ないというより、それも人生、それこそ人生の味わいかと思えるくらいに歳もとった。

タイムに比してパフォーマンスは、かなり個人ごと、案件ごとで何とするか設定が異なる。そこばかりは人任せにしようがない。そこをはずすと、潜在的に自分が欲しているのと真逆の効果を獲得してしまうことを、くれぐれもわきまえてかからねば。

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