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2024-04-20

作品が描く年、作者が著した年、読者が読む年

今読んでいる小説に、こんな一節がある。ある読者には補足説明的に読まれただろうそれが、時を経て手にした読者に、重層的な意味合いをもたらす。そのことに作家は、著した当時どれくらい意識があったのだろうかと思いめぐらせる。

主人公は、事務所兼自宅の建物から一度表に出てきて、少し気持ちを回復させた後に、また玄関に戻る。しかし建物の中に「入るのは、出るより面倒だ」とあって始まる一節だ。なぜ、面倒なのか。

玄関のドアの脇の壁面にある鍵穴に部屋の鍵を入れて回さなければならない。すると、ドアのロックが二十秒ほど切れるのである。その間に入るという仕掛けだった。ついでにいえば、部屋に誰かいる時は鍵なしでもいい。インターフォンと並んでプッシュボタンがあり、部屋のナンバーを押すと、その部屋に声が届いた。誰であるかを名乗ると部屋の中で玄関のロックを切ることが出来る。それもやはり二十秒ぐらいで、その間にドアを押してロビーへ入るのである。

私は途中から、んん?と眉間に皺を寄せて慎重に読む。区切りのよいところまで読み終えると「玄関のドアの脇の」の辺りまで戻って、再び読み返した。

これって、オートロックのことだよな。オートロックのことを単に説明しているってことでOKかな?なにか「オートロック未満」であるとか「オートロックプラスアルファの機能を搭載している」とかじゃなくて、いわゆるオートロックの説明ってことでOKだろうか。

それを検品するのに時間を要したのだ。改めて、この作品の初出を調べもした。1987年だった。

つまり1987年当時はオートロックが今ほど普及していなかったから、オートロックについてこれだけの紙幅(全角211文字)を割いて説明する必要があったということでOKだよな、きっとOKだろう、というのに、2024年読者の私は立ち止まったのだ。

発刊早々に読んだ1987年の読者にとって、この一節は「ははぁ、都会にはそういう仕組みがあるのだな」という読まれ方をしたのかもしれないし、2024年読者の中でも「1987年の作品であることを念頭において読んでいる読者」には、時代背景を織り込み済みで立ち止まるところない一節として読んだ読者がいくらでもいるだろう。

が、私のようにいくらか訝しむようにして「これは、いわゆるオートロックでOKか?」と二度三度読み直してしまう人もあれば(そんな不器用はいないかもしれないが)、オートロックに説明が必要な時代もあったなぁと郷愁をおぼえつつ読む人もあろうなと思いを馳せる。

著者は当時、ここにどれくらいの意識を注いで書いたのだろう。全体からすると、かなりさりげない一節ではあるのだけれど。今、書き直すとしたら、ここはオートロックの一言に書き改められるのか、実際どのように書き直すのだろうな。そんなことで、けっこうな時間を過ごしてしまうから一層、私が一冊を読み終える時間は長くなる。

先日、今更ながらジョージ・オーウェル「一九八四年」を初読している旨Xにポストしたら、この作品を初めて読んだのが1984年より前だったという御仁の声に触れることができた。当時それは未来にあったわけで、それは今遠い過去になっている。作品世界を未来として味わい、今として味わい、過去としても味わえる人生というのは、なんとも豊かだ。

山田太一さんは昨年逝去されたが、先に引いた一節の「異人たちとの夏」は、今ここにも読まれている。それを原作とする「異人たち」が、このほどイギリスで映画化され、今週末に日本で公開される。ある人が完成させた作品が、変化する世の中に投じられて、時代を超え、変化に反応して、いろんな人のもとで咀嚼されて広がる波紋の行方に、心を揺さぶられている。

*山田太一「異人たちとの夏」(新潮社)

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