「独創性がない」に噛みついて空回る
先日、話し相手が「自分のには独創性がない」と言うのに、噛みついてしまった。相手は卑下しているわけでもない、平常心で言っているだけなのに。はぁ、時々やってしまう私の悪癖だ。
相手に届いているかどうか、そのとっても大事なことへの感度が落ちまくった状態で、自分が伝えたいことがむくむくわいてくるのに任せて一区切りつくまで話し続けてしまう。その間、相手を観て相手に届けるという肝心かなめが疎かになってしまうやつ。
それが起こるのは局所的なテーマに限られるのだが、なってしまうとたいそう面倒くさい人となる。仕事場面ではそこそこ自制が効いていると思うのだが、飲み屋などで気を許した人と話し込んでいると、ついついやってしまう。今回も飲み屋でのことだ。
結局相手には、ややこしいことを饒舌に語っているなぁというふうにしか伝わらなかったし、そもそも別に卑下して言っているわけでもないから、私の熱弁も持論も反発も励ましも、相手の求めるところではない。これは今後の私の道のりにおいて一つのテーマになるかもしれないな。
それはそれとして、私がそのとき心のうちに何を持ったのか、それを書き残しておこうと思う。それでこそ、心のうちである。
私が相手の言葉を受け取って伝えたいと思ったのは、「創造するのに、独創性はマスト要件じゃない」ということだった。これは最近読んだ本*に、まさにそのことが書いてあって、その一節に感じ入って、おおいに支持することだったのだ。
まず、「創造する」というのは「要素を統合して、筋が通り、機能的な全体を作り上げること」とある。
文章を書くにせよ、絵を描いたり道具を作ったり、企画書・設計図・定義書を作るにせよ、情報、アイデア、物、人などの「さまざまな素材・パーツを再構築して、全体に統合する(synthesize)ことで、それまでは明らかに存在しなかった一つの様式や構造に作り上げる」、物的に・質的に存在を起こすのが創造する行為、そう置いてみよう。
その創造の過程なり結果において、作り手の「独創性」というのは、必要なケースもあるけれども、必要なく成立するケースもあるということ。
私が想定しているのは、作家やアーティストと呼ばれる人たちのそれではなく、私のような市井の人の日常的な「創る」行いについて。その場において、独創性の有り無しや、その度合いが、創ったものの良し悪しや優劣のモノサシとして働く場面は、そんなに多くないのではないかしら、と個人的には思っている。
それを何か、独創性ない創造など意味がないと頭でっかちになって、自分を卑下して創る手を止めてしまったり鈍化させてしまったり、どうせ私なんてという思いに絡めとられてしまっては、もったいないではないか。
たぶん、そういう思いがせっかちに働いて、頭でっかちな世の中への反発心が、そのまま言葉になって飲み屋で転げ出てしまったということだろう。時と場合と、人を選べという話なのだが。
「独創性」そのものが、曖昧なものではある。独創性を辞書で引くと「他人をまねることなく、独自の考えで物事をつくり出す性質・能力」とある。オリジナリティの日本語訳としても使われる。
しかし「他人にまねることなく」という線引きは、ひどく曖昧なものだ。「歴史に学ぶ」「先人の作り出したものを活用する」ということから現代人は逃れることができないわけで、そこではどうしたって「他人にまねること」「他人に学ぶこと」が下敷きになってくる。本人が認めるかどうかに関わらず、他人にまねてやっているところをゼロにはできない。
人にまねぶ舞台に立脚して、独自の要素を含んだ新しいものを作り出せるか、どうしてもそうなるわけだし、それこそが健全な眼差しだし、それでいいではないかと思う。
もう一つ、今回私が噛みついたのは、独創性があるかないかは、自己評価の及ぶところではないのかもしれないな、と感じたからだ。
独創性を追求している人のそれに、独創性がさして感じられなかったり。他方で、自分の作り出すものに独創性はあるか?に全く頓着していない人のそれに、他者から観れば存分に独創性が認められたり。そういうところが多分にあるのじゃないかなと思った。
よしよし、整理してみよう。私がこの一件で心のうちに抱いたのは、一つに「創造する活動に必ずしも、独創性はマスト要件じゃない」、もう一つに「独創性って、自己評価できるものじゃない」。そう私は思うのだが、どうだろうか?ということだ。
さらに、私がなぜ、それに熱をもって噛みついたかの大元を辿ってみると。私自身はなんら独創性など働かないし、働かせようともしてきていないけれども、先ほどの定義に沿えば地味に創る行為をしてきた実感はあって、そのとき自分の生命力が息づくのを知っている、それこそが尊いと感じているからだろうと思った。そんなの個人差があるだろうと言われれば、それまでなのだが。
アーティストとか作家活動とかと縁遠い、私のような市井の人にとっては、独創性なんかに頓着せず、日々の創る行為を通じておぼえる自身の生命力の息吹を実感できることが、何より大事で尊いことなんじゃないか。創ることに身を投じていると、独創性の有りや無しやに関わらず、人は内発的に息づいてゆく。そんなことを私は信じているようだ。
*ロリン・W・アンダーソン、デイビット・R・クラスウォール編著、中西穂高、中西千春、安藤香織訳「学習する、教える、評定するためのタキソノミー ブルームの『教育目標のタキソノミー』の改訂版」(東信堂)
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