防潮堤がないから、とにかく逃げる
いとうせいこうさんの「東北モノローグ」*が良かった。東日本大震災の被災三県(宮城、岩手、福島)を中心に聞き書きを続けた17の記録(文藝、河北新報で連載をしていたもの)をまとめた単行本。話を聞いたのは2021年〜2023年だから、震災から10年を経た、ごく最近だ。
岩手県洋野(ひろの)町の防災アドバイザーの語りに、
この洋野では人的な被害が一件も出なかった。被災三県の福島、宮城、岩手の沿岸自治体で、人的な被害が出なかったのはここだけです。
という話が出てくる。なぜそんな防災が可能だったか、とにかくここの町民は「逃げる意識が高い」という。八木地区は明治と昭和の三陸大津波で、居住人口の半分くらいが亡くなっている。それを知っているご老人がけっこういるし、震度3とか2の地震でも逃げるのだと。
この地区には防潮堤がありません。だから、とにかく逃げる。即逃げる。八木地区は「地震が起きたら即逃げる集落」なんです。
防潮堤がない八木地区こそが人的被害を一切出さずに済んだというのは、ちょっと見逃せない現実だ。何が有効な施策なのか、何は有効そうに見えて実際には機能しない対策なのか、むしろ脚を引っ張りかねないのか。
もちろん八木地区の事例をもって防潮堤に意味がないと断じて、あらゆる地域に適用しようと考えるのも雑すぎるのであって、あれもこれも「単一の答え」でまとめようとしない丁寧さが、複雑な世の中を前提にして施策を機能させるには重要なことなのだ、ということを教えてくれる。
防潮堤というと「ないよりは、あったほうがいい。あとは、その地区にどれだけの予算を投じられるか。そこに優先順位がつく」という「防潮堤は良きもの」前提に思考してしまいそうになるが、それも単一の答えに立脚した見方だなと自戒する。
その地区ごと、地形によっても、人の営みごとにも違いがあって、海とともに生きている町に、高い高い防潮堤が築かれることが、町民にとって最適解か、そう雑には考えたくない。
そこに人の営みあってこそ、自然現象は自然災害と認識される。そこに生きる人たちの生き方の理解なしに解は見出せない。
ここにバランスがものをいう、デザインの仕事が求められるんだろう。全部・全体に、ばらばらの最適解を個別具体で作るのは現実的でない。一方で、個別具体を一切無視して全部・全体を一つの結論で決着させられるほど雑でもいけない。そこにこそ人の創造力を生かしたい。
全体を通して、市井の人たちの民話的な語りが人を動かし、人を救うことを切々と訴えてくる本だった。
仙台で出版社をやっている土方正志さんの語りが、いとうせいこうさんの、この仕事の意味を表しているように感じた。
結局、データとか客観情報とかというのは、それこそネットでもなんでも、まあ百年後、二百年後にネット空間がどうなってるかわからないけど、とにかく客観データはどこかに残る。でも、残らないのは感情だろうという気がしていて。形あるものとして伝えられないのは、その場にいた、その経験をした、その時代にいた人間の生の感情、気持ち、記憶。これを残すのが一番難しいのかなという気がするんです。
で、それはどうやって残すんだろうと考えると、それこそ今回がそうだったように「あ、昔の人がこう言ってる。やっぱり今と同じなんだね」っていう、その積み重ねでしか残す手段はないんじゃないか。
それから、これはまだうまく言葉で表せないのだけれど、民俗学の視点で、漁師さんの職業観を語りきかせてくれる川島秀一さんのお話は圧巻だった。
経済的な観点で問題を設定して、それに有効な解決策を示すというシナリオだけで洗練化されがちな洞察のあり方を突いて、その思考の貧しさにじっくり向き合わせてくれるというか。人のキャリアを支援することを生業とする私にとっては、とりわけ胸に響いて豊かさを育んでくれる語りだった。読み終えては、また開き、反芻している。読めて良かった、ほんとに。
*いとうせいこう「東北モノローグ」(河出書房新社)
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