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2024-02-23

病床で「吸血鬼ドラキュラ」に励ましてもらった

実は、父娘の熱海旅行から帰って間もなくコロナに罹患してしまって肝を冷やした。自分の症状はともかく、高齢の父がかかってしまったら、もうこれは後悔してもしきれないと気が気でなかった。が、1週間しても父に症状が出ないのを確認し、ようやっとほっとした次第である。

私も週末2日間は高熱にうなされたものの、月曜から回復基調にのって今はほぼほぼ落ち着いた。クリニックの医師によると今は隔離期間が5日間のようで、それも開けた。

高熱がおさまってくると、ベッドの中で読みかけの怪奇小説「吸血鬼ドラキュラ」を開いて過ごしたが、思いのほか、この物語が私を励ましてくれた。

1897年に発表された、アイルランドの作家ブラム・ストーカーの長編小説で、ホラー映画はまったく観られない私だが、どう映像化するかが私自身にゆだねられている小説形式なら怪奇ものも読めないことはない、というのは発見だった。私の脳内監督は、一貫してピンボケ映像化に努めていた…。

このお話、メインキャラクターによる日記(あと手紙とか新聞記事とか)をつないで展開される「書簡体小説」という形式をとっていて、これが複数の主要人物による文章でつながっていくことで、立体的に状況が見えてくる物語になっている。

そこのおもしろさも多分にありつつ、私にとっては「知性とまごころの物語」と読めて、それが大いに励ましと示唆を与えてくれた。

長編小説には、本当に人を「大事にする」とはどういうことかが汲み取れる作品が多いと感じる。私が、それをこそ読み取ろうとする性向にあるというだけのことかもしれないが。

「大事だと言う」のは簡単だし一瞬だが、「大事にする」ということは難しく時間を要する。それがどういうものかを伝えること、二者の違いを伝承することも、また容易ではないし紙幅を要する。きちんとした物語世界を構築しないと、なかなか人から人へ伝えるということが叶わない。

単純な結論の導き方をすれば、例えば「高齢の父を旅行に連れ出し、コロナ罹患のリスクを負った」ところから「今後、安易に旅行に連れ出すべきではない」という結論も導けるわけだが、知性を働かせて、まごころを尽くして、人を思い、人を大事にするということの中で結論を導かんとすると、そこにはまた違った結論が起こしうる。むしろ、さきの結論の導き方は単純すぎて、軽薄で、浅はかで、無知性ともなる。そこにはいろんな結論の導き方があり、その選び方・作り方に個性も出てくる。

私は私で、自分なりの結論を、一つひとつのことに対して大事に導いていきたい。思慮深く、知性をもって、まごころを尽くして、私はどうするか、どうしないかを作っていきたい。それを豊かにするのに、こうした長編小説は大いに示唆を与え、励ましてくれる存在だ。まさかドラキュラを読んで、そんな励ましを得られるとは思わなかったのだが。

人は言葉に酔い、言葉に溺れやすい。自分を振り返って、「大事にする」行為より「大事だと言う」発信活動によっていると察したら要注意だ。しっかり立ち止まって、例えば長編小説を開き、居住まいを正す必要がある。そう思うのもまた、私の個性なんだろう。

*ブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」(創元推理文庫)

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