際に立たずに立つ長編小説の文章
久しぶりに小説を読んでいる。嶋津輝さんの「襷がけの二人」。豊かな時間さね。和語が心に染み渡る。読み始めてすぐ、お初さんの家の描写があるのだが、
玄関先の竹筒に紫陽花(あじさい)花が挿してある。花弁はまだ色づいておらず葉のような薄緑で、それが却って目に涼やかで、清潔だった。筋目だって掃かれた路面には、きちんと水が打たれている。格子窓の手すりには、陶器鉢がひとつだけ、ちんと置いてある。
もう、これだけで、ぐっと小説を読む愉しみに浸かれる。作品の紹介文に幸田文、有吉佐和子の流れを汲むと見かけた。
際に立ったテキストがあふれるメディア社会において、あっちにつかず、こっちにつかず、文章はこういうところに立ち上がっている姿こそ凛々しく、美しく、価値があるものだなぁと染み入るのだった。はぁ、長編小説の尊さよ(主語がでかい)。
しゃっ、しゃっと、草履の裏で砂利を掃いて路上を浄めるように、滑らかな足取りで調子よく進んでゆく
自分の目に映る光景を、人の立ち姿や足取り、他者へのふるまいを、どうとらえるか。描写のもとには洞察があり、洞察のもとに現実がある。こんなふうに現実を豊かにとらえることができるんだよと、豊かな描写が教えてくれる。
自分の内側をどう豊かにしていくかは、こういう長編小説のなかにこそ、手がかりや助けがあるものだなぁと思う。
展開がうまくて面白い、読ませる物語だからこそなんだけど、いやぁほんとに、こんな作家さんが自分のちょい上の年齢で同時代に生きて作品を発表してくれているなんて、ありがたく心強いことだなぁと思った。
* 嶋津 輝「襷がけの二人」(文藝春秋)
* 山内マリコ「襷がけの二人」書評 家族からはぐれ女中と築いた絆(好書好日)
« 若者の「転職に対する考え方」を日米比較した顛末 | トップページ | 生活と終活を淡々と両立するアラフィフ »
コメント