生活と終活を淡々と両立するアラフィフ
生活っていうのは、生きるって字を用いるのだなぁと認識したのは、つい最近のこと。終活と対比して、はっとしたのだ。
昨年は家の中にあるぬいぐるみを手放し、今年に入って手放そうと決めたのはセラミックヒーター。けっこうな図体なのだが、どうも使い勝手が悪くて使わずじまいになり、キッチンの隅に何年も置いてあったのを、これはもう使わないなと手放すことにした。
「これはもう使わない」と思うとき、あたまに「残りの人生で」というのが自然のっかってくる発想のめぐりがアラフィフというやつで、「一生使わない」とか「生涯使わない」とかいうのが言葉の綾でなくリアルな時間感覚として身に迫ってくるようになった。
と言って、もう何十年か生きるかもしれないし、そこのところの尺のかげんがまったく見当つかないのが、現代人の一人一人が負っている、すさまじい生き様である。
とにかく「使っていない、この先も使わない」ものは、一つひとつ手放す手続きをコツコツやっていきたいわけだが、そればかりに偏るのも違うだろうという思いが去来してくるのが、これまたアラフィフ脳の粋なさま。
そんなわけで今年のはじめに、洗濯機を新調しもしたのだ。何十年ものという古い古い洗濯機を、いい加減と一念発起、お正月に家族に焚き付けられて購入に至った。まさに、生活だ。生きる活動のために洗濯機を買う。
この生活と終活の両立は、なかなか味わい深い。そして、徐々にその比率は変わっていくのであろうけれども、今しばらくは生活の比率高く、生きていきたい。終活より生活を、大事にして営んでいきたい。そう意思をもつ私を感じるところに、自分の健康を覚える。
死んじゃうのは嫌だなぁ、惜しいなぁ、怖いなぁと、平常心をもちながら思うことが、ここ1、2年でとても多くなった。それはきっと、ありがたいことなのだ。私は、この世界に愛着がある。そう実感する。静かに、ささやかに、確かな味わいを、大事な人たちと大事に過ごしていきたい。
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