伝えようとする人の意を汲もうとすること
鶴見俊輔さんの「文章心得帖」の中に、
自分の言いたいと思うことが、完全に伝わることはない。表現というのは、何か言おうとしたならば、かならずうまく伝わらなかったという感じがあって、出発点に戻る
という一節がある。そうして「無限の循環をする」のが表現というものなんだと、冒頭で腹をくくる。
文章というのは、書いたものが人に読まれたときに初めて意味をもつわけではなくて、自分の内面で何か思いついたときから意味をもちだしている、とも。
実は自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるものが文章であって、文章が自分の考え方を作る。自分の考えを可能にする。だから、自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を書くとすれば、それがいい文章です
自分の文章であれ、人の書いた文章であれ、何かを思いつかせてくれたり、何か自分にはずみをつけてくれたとき、そのことを大事に認識したい。文章に限らず、人が表現したものに対して。
何かを完璧に伝えられたなんて表現はない。そういう前提に立てば、自分の表現にも、人の表現にも寛容さが生まれる。
そういう中でも表現を試み続けている人のそれを、両手を差し伸べるようにして受け取る心もちになる。その姿勢がとても大事だし、それによって実際に自分が受け取れるものもぐっと豊かになっていくだろう実感がある。
鍛錬すべき能力というと、とかく批判的にものを見たり文章を読んだりするスキルが語られがちだけれど、それ以上に大事なのが(大事なのに当たり前すぎてなかなかメッセージ化されて情報流通していないのが)、なにかの出来事に触れたり、話や文章を通じて人の考えや気持ちに接したときに、そこにポジティブな意味を見出そうと努めること、相手の意を汲んで読み取ろうとすること、それを発見して前に展開させる力だと思う。
うまく表現しきれていないけれど、相手が表現しようとしていることに己の想像力をめぐらせて汲み取ることができる。汲み取ろうと努めることができるし、鍛錬によって汲み取るスキルを高めていくことができる。これって、とても尊い人の性質だと思う。
大事なことってだいたい両極をもっているし多義的だ。何か一つのことに傾注しているとき、他にもいろんな大事なことがあるって前提を見失ってしまうと足元をすくわれてしまう。シーソーの中心に立っている自分の足の感覚をいつでも大事にもっていたいし、その足腰を支える基礎を養い続けることを一番に大事にしたい。
鶴見俊輔「文章心得帖」(筑摩書房)
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