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2023-12-31

伝えようとする人の意を汲もうとすること

鶴見俊輔さんの「文章心得帖」の中に、

自分の言いたいと思うことが、完全に伝わることはない。表現というのは、何か言おうとしたならば、かならずうまく伝わらなかったという感じがあって、出発点に戻る

という一節がある。そうして「無限の循環をする」のが表現というものなんだと、冒頭で腹をくくる。

文章というのは、書いたものが人に読まれたときに初めて意味をもつわけではなくて、自分の内面で何か思いついたときから意味をもちだしている、とも。

実は自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるものが文章であって、文章が自分の考え方を作る。自分の考えを可能にする。だから、自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を書くとすれば、それがいい文章です

自分の文章であれ、人の書いた文章であれ、何かを思いつかせてくれたり、何か自分にはずみをつけてくれたとき、そのことを大事に認識したい。文章に限らず、人が表現したものに対して。

何かを完璧に伝えられたなんて表現はない。そういう前提に立てば、自分の表現にも、人の表現にも寛容さが生まれる。

そういう中でも表現を試み続けている人のそれを、両手を差し伸べるようにして受け取る心もちになる。その姿勢がとても大事だし、それによって実際に自分が受け取れるものもぐっと豊かになっていくだろう実感がある。

鍛錬すべき能力というと、とかく批判的にものを見たり文章を読んだりするスキルが語られがちだけれど、それ以上に大事なのが(大事なのに当たり前すぎてなかなかメッセージ化されて情報流通していないのが)、なにかの出来事に触れたり、話や文章を通じて人の考えや気持ちに接したときに、そこにポジティブな意味を見出そうと努めること、相手の意を汲んで読み取ろうとすること、それを発見して前に展開させる力だと思う。

うまく表現しきれていないけれど、相手が表現しようとしていることに己の想像力をめぐらせて汲み取ることができる。汲み取ろうと努めることができるし、鍛錬によって汲み取るスキルを高めていくことができる。これって、とても尊い人の性質だと思う。

大事なことってだいたい両極をもっているし多義的だ。何か一つのことに傾注しているとき、他にもいろんな大事なことがあるって前提を見失ってしまうと足元をすくわれてしまう。シーソーの中心に立っている自分の足の感覚をいつでも大事にもっていたいし、その足腰を支える基礎を養い続けることを一番に大事にしたい。

鶴見俊輔「文章心得帖」(筑摩書房)

2023-12-26

『Agend』のインタビューで普通のことを力説

「将来いんたーねっつになりたい」と願ってやまない事業家のフジイユウジさんが、私との茶飲み話を記事にしてくれました。

「これからどうなりたい」を話すと、個人もチームも良いことがある。キャリアプランを活かすチームコミュニケーション。

「仕事でのチームコミュニケーション」をテーマにした情報を発信するメディア『Agend』(アジェンド)。経営層向けの組織論とかじゃなくて、もっと中間層のマネージャー向けに現場の実践に焦点をあてた記事を出したい、ということでメディア活動をされているのだとか。

お声がけいただいたときは、役立つことが一言でも言えるのか正直分かりませんでしたが、茶飲み話的に話してみて、つまめるところがあったら記事にするという感じでお受けして、わいわいおしゃべりしたのでした。その後、いただいた原稿をたたきにしてあーじゃこーじゃと書き直したりして記事が仕上がった次第。

しかし日を追うごと「普通すぎる」とか「凡庸すぎる」とかで終わっちゃうんじゃないかという気が充満してきて、私はこれが等身大だから仕方ないとしても、このメディアを傷つけることになるんじゃないかと悶々、とりあえず年内に出しておくのがいいんじゃないかと少々気が焦った年末…。

それが今朝の公開を見届けるに、フジイさんがSNSでシェアしたのを読んで、共感を示してくれたりする方の声に触れることができ、感涙するほど嬉しい気持ちになりました。あぁ、こういうふうに現場で有意義に仕事されている方の声が彰らかになる作用がはたらいたなら、媒介価値があったと自分を許してやっていいんじゃないかと、そういう安堵がありました。本当に、ありがたい。

また個人的には、この機に乗じてお話ししたり文章を書いたりする過程で、自分一人ではなかなか言葉がまとまらなかった考えに当たる時間をいただけて、これだけでも大変ありがたいことでした。

一方で、やはり「普通に大事なこと」を現場仕事ではなくメディア記事のような形で出力しようとすると、どうしてもエッセンスが抽象化されるわけで、「抽象化した普通のこと」の語りって、どうしても「凡庸」と紙一重になってしまう。そこを簡潔に巧く示せる人もいるとは思うんですが、私はその辺が力不足で、メタファとして地図っていっても、具体的にどういう地図よっていうようなのが下手だよなぁと思います。

「普通のことすぎる!」というお叱りの言葉もあろうかとは思いますが、普通を具現化する仕事こそ大事だし難しいし、現場の各人の腕次第だしという思いを詰め込んだということで堪忍して。おせち料理の中の「なます」みたいな感じで、年末年始のごちそうの合間につまんで味わっていただければ幸いです。

メディアを騒がす極論と極論のあいだに、最適な按配を見極めて自分たちの答えを作り出していく現場の創造力が、すごく尊いと思っていて。手法としては斬新ではないんだけど、丁寧に個別具体で当たらないと意味をなさないタイプの創造的な仕事ってあって、目立たないけれどそここそ頭数が必要で、自分はそこが持ち場だと思っている。なので私も、入らせてもらえる現場で「組織の人材マネジメント」と「個人のキャリアデザイン」を止揚する役割を果たせるよう、来年もせっせと働けたらなと思っております。

2023-12-23

「あの年から始めたんだよな」

前にブログを書いてから、1ヶ月が経とうとしている。このひと月で一気に冬が深まった。年の瀬だ。もう私の年中行事からクリスマスは消えて久しいので、「一年の節目」これ一本という感じだ。

今年は会社を辞めて一人仕事を始め、春、夏、秋とやってきて今に至るので、なんだか感慨深い。すごく穏やかで、ありがたい年末だ。

お仕事のほうは、すごく刺激的で、一つひとつ濃密な経験と発見をさせてもらえたし、今さらながら家筋の能楽に触れられたのも新たな身の置きどころをもつことができて、ありがたかった。人生初にして2回、能楽堂を訪ねた。なぜかお能が始まると涙がぽろぽろこぼれてくる習性も知るに至った。

この間、友人と話していて認識あらたにしたのは、今の自分は「今後の自分の仕事」をどう構成立てていくかという軸ではなくて、「今後の自分の人生時間」をどう使っていくかを軸に生きているんだなということ。

残り時間がいくらかわからないのを前提にして、自分が何を味わって、何に仕えて、何に役立っていけたら幸せだろうなぁと。物欲も食欲もさほどなので、本当にひっそりとしたものなのだけど。

私は仕事と縁のある人生なので、使いたい時間が仕事になるところも多く、それがたいそうありがたいのだけど、結果的にそうなのであって、自分が何をするかの判断軸は、仕事としてどう戦略立てて動くかというところと全然違うところに立脚して生きているのを事後的に認識した。

手に取る本も、人事制度設計から風姿花伝までテーマいろいろだが、全部が頭の中で融け合っていくのが快い。

うーん、なんと言葉にしたら言葉にできるのか、うまく表せていないことは自覚しているのだけど。もう勝手に自分が選んで動いているので、私はそうかいそうかいと自由にさせているような感覚である。

コロナ禍が落ち着き、自身のキャリア転換の契機もあいまって、今年はいろんな人に会えていろいろお話しできたのも嬉しかった。父が年始に転んだところから復活劇を果たし、一緒に京都の思い出探訪に出かけられたのも嬉しかったし、毎週末に映画館へ一緒に行く習慣ができたのも、今年の春からのこと。

そうそう、封書で手紙を書いて送るというのも、今年から始めたことの一つ。いろんなご縁があって、今年に入って六通したためた。内容を練って、書いては書き直して、宛名書いて封して、郵便局に行って出すまでに大変な時間を使ったけれど、豊かな時間だった。一つのことを大事にして、ずっと心を動かしていた。

なんだか、いろんな節目の年だったのかも。「あの年から始めたんだよな」と、いずれ懐かしく思い出すことを多分にふくんだ一年だったかもしれない。

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