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2023-11-25

インターン生が社長との食事会でゲームをやり出したら?というお題

ライムスター宇多丸さんがパーソナリティを務めるTBSラジオ番組「アフター6ジャンクション2」の特集コーナー(2023/11/22)に、ドロッセルマイヤーズ代表、渡辺範明さんがゲスト出演していた。

渡辺さんは、スクウェア・エニックスのゲームプロデューサーを経て独立したゲームデザイナー兼プロデューサー。「国産RPGクロニクル~初代ポケモン」と題して、ポケモンのメディアミックスについて語った本編(リンク先のSpotifyでアーカイブを聴ける)も胸熱だったのだけど(ゲームのクリエイティブとプロデュースが掛け合わさったプロの生き様を堪能)、その後に収録された放課後ポッドキャストも面白かった。

ドロッセルマイヤーズ代表・渡辺範明さんを交えて、本放送では入りきらなかった「ポケットモンスター」特集のこぼれ話(こちらもリンク先のSpotifyで聴ける

この放課後ポッドキャストは3時間以上あるので、全部を聞くのは大変だと思うが、それはそれとして、主な話題と話題の間にふと挟みこまれた一件(時間にして数分のエピソードトーク)が、強く私の興味をひいた。タイミングでいうと、1:28:55から数分の一コマだ。

ラジオ番組の本番を終え、宇多丸さんらはゲスト渡辺さんも交えて「放課後ポッドキャスト」収録に突入。番組ADのオガワさんは、この収録開始1時間半ほど経ったところで諸々業務を終えてラジオブースに入ってきて、これからみんなで一緒にアナログゲームをやろうというタイミングだ。

ADさんが、放課後ポッドキャスト収録中のラジオブースに、桃鉄(桃太郎電鉄)のセーブをしながら入ってくる。この場はまぁ、別にみんなもお酒を飲みながら収録しているくだけた場なので、ちゃかされながらも全然OKなのだが(深夜0時をまわっている)。それをきっかけに渡辺さんが、私の気を引くワンダーなエピソードをお話ししたのだ。

渡辺さんが、知り合いの(おそらくゲーム会社の)社長と話していて聞いた、その社長の体験談である。その会社ではインターン生の受け入れをやっていて、インターンシップ・プログラムの最終日あたりに、インターン生と社長との食事会がセットされたのだそう。

社長はそれに参加したわけだが、その食事中にインターン生の一人が「スーパーマリオブラザーズ ワンダー」をやっているかと訊いてきたので、社長はちょっと触ってはみたけれど、やり込んではいないというふうに返した。

そうしたら、その学生がその場で(食事中に)Switchを取り出して、ワンダーをやり出した。そうしたら今度、他のインターン生らもSwitchを取り出して、みんなで一緒にワンダーをやり出した。というワンダーフルなエピソード。

社長は、これ、どうしようかなと思った。ひと昔前だったらお説教が始まってもおかしくないパターンだが、社長はあらかじめ人事に、何か失礼に感じることがあっても怒ってはダメと釘をさされていたそう。社員でもないし、インターン生はお客さんなので、怒らないようにと言われていた。それで、社長は胸のうちでアンガーマネジメントを発動して、事なきを得たという。

これはゲーム会社特有のことかもしれないが、けっこうケーススタディとして話し合いがいがあるお題ではないかと、聴きながら興味をひかれた。

「これを不快に感じるか、これはこれでありと思うか」は結局のところ、社長次第なところもあるし、必ずしも問題にならないかもしれない。が、ここでエピソードに登場する社長は明らかに戸惑い、不快感を抱いているようだった。だとするならば、もう少し何かやり方があったんじゃないか?という問いが成り立つだろう。

「あなたなら、どうする?」の「あなた」を、どれで考えるかは、3種くらい選択肢があると思うが。
1.社長
2.人事
3.一緒に参加したインターン生

例えば、こんな切り口で考えてみてはどうだろう。
1.事前にどう回避できるか
2.渦中でどう介入できるか
3.事後にどう対処すべきか

あるいは、もっと「そもそも」論を話し合うネタとしても良い。
1.そもそも、この事象をどう捉えるか
2.そもそも、これを「問題」と捉えるか
3.問題として捉えるならば、問題がどこにあって、どう改善策を講じるべきと考えるか
みたいなお題設定も、話し合うメンバーによってはありかもしれない。

私個人としては「社長」も「インターン生」もあまりに遠いポジションなので、自然と「人事」視点で考察していたが、そこから考えると、こういう問題構造で捉えてみるかなぁというメモ書き。

そもそもに立ち返ると、「インターン」というのは就業体験を趣旨とするものですよね。だから、インターンに参加してくれた学生の皆さんには、社会人として仕事に就くにあたってのTPOを汲んだふるまいというのを、体験的に学んでいただきたい、そういう気づきなり学びを得て帰ってもらえたら本望という話だと思うんです。それでいうと、「社長との会食という社会的なコンテキストを汲んで、この会の趣旨を汲んで、自分がどうふるまうべきかを問い、実際にふるまう」というのを学んでもらうのも、インターンシップ・プログラムの一環かなって思う。なので、参加学生に対しても、このことをうまく人事として介入して伝えられたらなぁと思う。

その伝え方とかタイミングとかは、けっこう個別具体でアプローチが異なる気もするし、汎用的に示すのが難しいけれど。

今、この場で、社長と皆さんとで、せっかく直接対面して食事しながら語らえる時間というのを、どうしたらより有意義にできるか。これは、社長や人事の私たちが考えることでもあるし、学生の皆さんがたも同様に考えることでもある。「対等である」というのは、そういうことだと思うので、皆さんも、今ここで、社長そっちのけでインターン生同士でワンダーを楽しむ時間にあてるのが良いのか、ちょっと今日持ち帰って考えてみてほしい。

んー、これこのまま伝えちゃったらただの小言と捉えられて終わっちゃいそうだから、もう少し伝え方を思案しないとダメだけど。これに限らず、世の中が本来の趣旨に立ち返って考え直してみようっていう局面に立っていると思う今日この頃。私もちまたの一角に生きて、健全に本来の趣旨を大事にした働きかけやふるまいをしていけたらなぁって思う。そのためには、心をくだいて、澄んだ目で事象をとらえて、その場その場で機能する仕組みと仕掛けづくりに知恵をしぼっていく必要があると思うんだ。

2023-11-21

メディア・リテラシー教材としてのミルクボーイ・フレームワーク(品評と創作のちがい)

電車に乗っている間にこれ考えていたら、あっという間に目的地に着いてしまった。ミルクボーイのM-1ネタ「コーンフレーク」を下敷きにして漫才ネタを考えてみようという勝手なアクティビティなのだが、あーでもないこーでもないと思考を巡らしているうちに東京から千葉までひとっとび。漫才師への敬意、創作の難しさと面白さを体感するのにお勧めのアクティビティだ。


内海「どうもー、マリコポーロですー。お願いしますー」
​​駒場「お願いしまーす」
(略)
​​駒場「いきなりですけどね うちのオトンがね 好きな言葉があるらしいんやけど」
​​内海「あっ そーなんや」
​​駒場「その言葉をちょっと忘れたらしくてね」
内海「好きな言葉忘れてもうて どうなってんねそれ」
​​駒場「そやねん」
内海「でもね オトンの好きな言葉なんか 初志貫徹か一気通貫ぐらいやろ そんなもん」
​​駒場「それが ちゃうらしいねんな」
内海「ちがうのん」
​​駒場「でまぁ いろいろ聞くんやけどな 全然わからへんねんな」
内海「わからへんの? いやほな俺がね オトンの好きな言葉 ちょっと一緒に考えてあげるから ちょっとどんな特徴ゆうてたかってのを教えてみてよ」
​​駒場「人が出てきて 馬が出てきて」
内海「ほほほほー」
​​駒場「で 辛いなぁゆうことも 時間経てば良いことに転じたりするもんやから そう動じなさんなっちゅう教えや言うねんな」
内海「おー 人間万事塞翁が馬やないかい その特徴は もう完全に人間万事塞翁が馬やがな」
​​駒場「人間万事塞翁が馬な」
​​内海「すぐわかったやん こんなんもー」
​​駒場「でもこれちょっとわからへんのやな」
内海「何がわからへんのよー」
​​駒場「いや俺も人間万事塞翁が馬と思うてんけどな」
​​内海「いや そうやろ?」
​​駒場「オトンが言うには 死ぬ前の最期の言葉もそれでいいって言うねんな」
​​内海「おー ほな人間万事塞翁が馬と違うかぁ 人生の最期が人間万事塞翁が馬でええわけないもんね」
​​駒場「そやねん」
内海「人間万事塞翁が馬はね まだ寿命に余裕があるから言うてられんのよあれ 時間経てば良きに転じるかもって もう時間ないねんから」
​​駒場「そやねんな」
内海「な?人間万事塞翁が馬側もね 最期の言葉に任命されたら そら荷が重いよ」
駒場「そやねん」
​​内海「人間万事塞翁が馬ってそういうもんやから」
​​駒場「おぉ」
内海「ほな人間万事塞翁が馬ちゃうがなこれ ほな もうちょっと詳しく教えてくれる?」
​​駒場「なんであんなにサラリーマンの座右の銘に選ばれてるのかわからんらしいねん」
内海「人間万事塞翁が馬やないかい どこもかしこもサラリーマンの座右の銘ちゅうたらあれやねんから でも俺はね あれはたいして由来も知らずに言うてんのが大半と睨んでんのよ」
駒場「おー」
​​内海「俺の目はだまされへんよ 俺だましたら大したもんや」
​​駒場「まぁねー」
内海「よー聞いたらね ググってコピペしてるだけで書けん 書けても読めんのよ 俺は何でもお見通しやねんから 人間万事塞翁が馬や そんなもんは」
​​駒場「わからへんねん でも」
内海「何がわからへんの これで」
​​駒場「俺も人間万事塞翁が馬と思うてんけどな」
​​内海「そうやろ」
​​駒場「オトンが言うには 社長が出てきて言うても全然いいって言うねんな」
​​内海「ほな人間万事塞翁が馬ちゃうやないかい 社長がメディア取材で好きな言葉は人間万事塞翁が馬ですー言うたら 社長それは他とかぶるんでなんか別のやつもらえますかって言うもんね」
​​駒場「そやねんそやねん」
内海「な?昇進していくうちにメディア露出増えてくやろ 座右の銘とか聞かれて他とかぶるとか格好つかへんねん なんかユニークなのに変えなきゃいけなくなってくんねん」
​​駒場「そやねんな」
内海「そういうカラクリやからあれ」
​​駒場「そやねんな」
​​内海「人間万事塞翁が馬ちゃうがな ほな もうちょっとなんか言ってなかったか?」
駒場「毎度思い出そうとする度 人が出てきて 馬が出てきて いい教えやってとこで止まってしまうらしいねん」
内海「人間万事塞翁が馬やないかい 若い時分にこれはいい言葉や これを自分の座右の銘にしようって思うのに毎度忘れてもうて 人が出てきて 馬が出てきて えぇ話やったなぁどまりや それで人と馬と中国の格言でぐぐって調べるの繰り返しや 人間万事塞翁が馬よ それは」
駒場「わからへんねんだから」
内海「わからへんことない オトンの好きな言葉は人間万事塞翁が馬 もぉ」
駒場「でもオトンが言うには 人間万事塞翁が馬ではないって言うねん」
内海「ほな人間万事塞翁が馬ちゃうやないかい オトンが人間万事塞翁が馬ではないと言うんやから 人間万事塞翁が馬ちゃうがな」
駒場「そやねん」
内海「先ゆえよ 俺がコピペサラリーマンdisってた時どう思っててんお前」
駒場「申し訳ないよだから」
内海「ホンマにわからへんがなこれ どうなってんねんもう」
駒場「んでオカンが言うにはな」
内海「オカン?」
駒場「馬子にも衣装ちゃうか?って言うねん」
内海「何の教えやねん もうええわー」
二人「ありがとうございましたー」


いやぁ、ぜいぜいしたわ。ミルクボーイのネタよりだいぶ短く締めに入ってしまっているけれども、笑えるかどうかなんてそっちのけ、辻褄あわせてこの辺まで話を運んでくるだけで息切れする。

プロの作り手のすごさを体感するぶんには十分であった。ミルクボーイが築いた生垣によじのぼらせてもらって、穴埋めするかたちで漫才師の創作のなんたるかを堪能した。

誰かが作ったものを「品評する」スキルと、品評される何かを「創作する」スキルというのは、まったく別物だ。この「品評」と「創作」の似て非なるスキルのちがいを体感的に分かっておくことって、現代人が養うべきメディア・リテラシーの一つじゃないかと思っていて、とりわけ「品評する側の、創作者に対する敬意」を育むことは、とても尊いことだと思うのだ。

そういうわけで、この違いを体感できる教材を作りたくて試作してみたのが、ミルクボーイ・フレームワークである。

1)まず、ミルクボーイの漫才ネタ「コーンフレーク」をテキストで読み込む。ネタを知らない人や、知らない人と一緒にネタ作りをしたい場合は、YouTubeにあがっている動画*を通して見てもらえば、わりとすっと参加できるんじゃないかと思うが、どうだろう。

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2)これを手本として、ミルクボーイのネタのフレームワークをそのままに、下のかっこ内を埋めるようにして、ネタを自分たちで作ってみる。

Photo_20231121133001

シートの右下に記しているように、下の3つを押さえて「ミルクボーイの漫才フレームでネタを作ってみよう」というわけだ。

1.『      』と(     )内には同じ言葉を入れてください。
2.【      】にはコンビ名を入れてください。
3.下線部は自由記述です。また下線部以外も自由に変えてOKです。

カッコ内を埋めればいいんだなと思うと手を出しやすい。が、実際うまいことやってやろうと思うと、すごく難しくて、それが面白くもある。

その過程でどれくらい「あぁ、品評と創作は全然別物だ」と思い知れるかが、この教材の価値を決めるわけだが、試しうちしてみた感じ私にとってはしみじみ「ミルクボーイってすごい」「漫才作るって難しいんだなぁ、奥が深いんだなぁ」「実際作るにはこんなことをあれこれ考えるのかぁ」と体感できるものであった。

くどいようだが、これは私の作例の上手い下手、笑える笑えないは関係なくて。漫才ネタとしてではなく、メディア・リテラシー教材としての出来不出来が問われるものなのだが、伝わるだろうか(下手の言い訳っぽいが)。

なにか、どこかで使えそうな場があったら、カスタマイズしてでもお役立ていただければ幸い。授業での有効活用は無理でも、会社の忘年会の出し物とか、個人的な電車移動の時間つぶしとか(弱気)。品評と創作の違いを体感するにとどまらず、創作って難しいけど面白いなぁってところまで味わってもらえたら、この上ない幸いである。

*【完全版】ミルクボーイ、M-1ネタ「コーンフレーク」のノーカット版を披露「#Twitterトレンド大賞 2019」(マイナビニュース【エンタメ・ホビー】)

2023-11-18

スタートアップに限らない「スタートアップのための人事制度の作り方」を読んで

金田宏之さんの著作「スタートアップのための人事制度の作り方」が大変ためになったのだけど、この本に掲載されている「従来の日本企業とスタートアップの人事制度の特徴」という表に改めて目を通してみて思ったことメモ(クリックかタップすると拡大表示する)。

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上の表は本の始めのほうにあって、従来企業と対比的にとらえた「スタートアップの人事制度の特徴」を示したもの。「スタートアップのための」本なので、表の右側のスタンスで行くよという本作の方針を指し示しているわけだが、これって「スタートアップ企業のための」に限らないよなって思ったのだ。

現在の人材市場を前提にすれば、これまで左側の「従来の日本企業」型をとってきた企業も、「スタートアップ」型の人事制度に移行・改訂せざるをえない情勢にあるんじゃないかなと。

少なくとも一旦検討プロセスを踏んだ上で、あえて差別化するために移行しないという意思決定をするならいいが、なんとなくそのままというのでは、この先の人材マネジメントがうまくいかなくなるんじゃないかと危惧する。

上の項目一つとっても、外の会社が「実力と成果と経験をベースとした昇格管理」をしている世の中で、「年齢と勤務年数をベースとした昇格管理」を続けているには、それなりの採択理由と説明責任が問われる。そこで納得いく理屈が説明できないと、有能な若手の離職リスクが高まる。

「従来こうだったから」「うちはこうだから」だけで従来方針を固持するのは早晩無理が出てくるというか、すでに無理が出てきているというか、けっこう今がぎりぎりの局面なのかも。検討の上「それでも、あえて」という会社があっても、それはそれで差別化とも言えるし、労使関係が双方で納得しているならありじゃないかと思うけれども。

この表のうち私が、これは「従来の日本企業」型でも「スタートアップ」型でも、各社でどちら型で行くか方針決めたらいいと思ったのは4項目に過ぎなかった(青色の背景色をしいてある項目)。この4項目は、各社ごとに色が違っていいだろうなぁと普通に読んだ。

1.「職種共通」の等級要件か、「職種別」の等級要件か
どれくらい「職種」ごとの分化して等級要件を定義するかは、事業ステージや各社の方針次第では?と思うので

2.「1次評価者・2次評価者」体制か、「メイン評価者・サブ評価者」体制か
後者は、直属上司をメイン評価者にして評価裁量を与えたほうが納得感高くないか?という話で、それはもっともだと思う。ただまぁ、どちらも評価者2名体制。制度上どちらにしても、結局どちらがメイン裁量権をもつかはその2人次第になりそう(運用圧が強そう)なので、一旦その会社の人たちが受け入れやすいほうを採用するのが現実的かも?ケースバイケース。こだわる人がいるなら、ここは譲りどころ

3.報酬の上下移動を「安定的」にするか、「刺激的」にするか
これは各社のポリシー次第、きちんと方針を決めて社員に共有すべきところ

4.報酬に「賞与、豊富な諸手当」を設けるか、「ストックオプション、最低限の諸手当」とするか
ここも各社の事業ステージとポリシー次第、きちんと制度化して全社共有すれば良いかと

逆に、この4項目以外は、スタートアップ企業かどうかを問わず、移行・改訂(少なくとも、その検討)に迫られている気がしたが、どうなんだろう。私は、従業員が万単位とか十万単位とかの企業とつきあいがないし、業種・業態的にもクライアントが偏っているので、もっと視野を広げたら見解を異にするのかもしれない。あまり決め込まずに、今後も目と心を開いて事にあたっていこう。

とにもかくにも、この本は「スタートアップ企業のための」じゃなくて「スタートアップ企業に限らず、今の時代のあらゆる企業に」有用なエッセンスが詰まっている良書だなぁと、ありがたく拝読した。

金田宏之「スタートアップのための人事制度の作り方」(翔泳社)

2023-11-10

役職と職種、役職と等級、役職と職位を使い分けたい

「職種」のことを「役職」と呼んでいる文章をよく見かける。この言葉の混乱を整理したい。そんな難しいことはなく、いったん覚えてしまえば、もう迷わずに済む。迷ったとしても「どっちがどっちだっけな」と思いつくことさえできれば、迷ってぐぐって迷いから解放されるまで30秒とかからない。その一助になったらと思って、ここに残しておこうと書き出したら、30秒じゃない文章になってしまった。先を急ごう。

とりあえず「役職」と「職種」を使い分けたい。

役職というのは、上下の格付けがある世界だ。本部長とか部長とか課長とか係長とかだ。

職種というのは、上下の格付けがない世界だ。デザイナーとかディレクターとかプロデューサーとか営業とか人事とか経理とかだ。レベルの違いではなく、タイプの違いを表したいときに使うものだ。

だから、職種という水平線が横たわる世界に、役職という垂直線を縦に引かれると、脳内が困惑するのだ。図にしてみたが、下手だ(クリックかタップすると拡大表示する)。

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「役職と職種の使い分け?そんな細かいこと言うなよ。人事関係の仕事でもないかぎり、そんなこと気にならないだろ、実害ないだろ」と思う人もあるかもしれない。そういう話題のときもあるだろう。しかし実害があるときもあるだろう。と思うので、慎重でありたいシーンに慎重に言葉を選べるように、頭の隅に置いておいてほしいのだ。

たとえばデザイナーとディレクター、プロデューサーと営業というのは「職種」区分であって、そこに上下関係はない。そこで、それを「役職」と呼び間違えてしまうと、その言葉が上下の格付けをまとってしまい、話し手と聞き手の認識がずれたり、伝えたいことと伝わることの混乱が生じたり、誰かの心がざわついたりするのだ。

「うちの会社では上下関係あるよ、デザイナーよりプロデューサーのほうが偉いんだ」ということもあるかもしれないが、それは一般名詞としての「職種」の管轄からはずれている。その社内だけの意味づけだ。それに、もしかすると「組織的に上」なんじゃなくて、「実質的に強い」だけの話かもしれない。場合によっちゃ単にプロデューサーの「何某さんが強い」だけかもしれない。敏腕デザイナーからすると「自分は何某プロデューサーの部下じゃない」と腹を立てたり気分を害するかもしれない。そういう個別具体は、別の話だ。

「職種」という言葉はあくまで、個々人が担当する仕事タイプを類型的に分類して表す言葉であって、組織の中の上下を格付ける「役職」とは使い分けたい。

実は「役職」と「等級」も使い分けたい。

もうすこし細かくみていくなら、会社で扱う格付けというのは一般に、2つに分けられる。人事制度上は「役職」の他に「等級」の世界が存在しているのだが、これを混同しているケースが少なくない。役職は「組織上の格付け」、等級のほうは「人事上の格付け」だ。図にすると、こんな感じだ(クリックかタップすると拡大表示する)。

役職と等級の使い分け

「役職」は一般に社内外に公表されるものだが、「等級」は必ずしも公表されていないものだろう。「等級」は、その会社の中で、その社員がどのレベルに格付けられているかを示すもので、その人が基本給いくらかの根拠になっているものだ。

名刺の肩書きは、ここでの話と別だ。名刺に「シニアデザイナー」か「デザイナー」か「アシスタントデザイナー」かを書き分けている会社もあれば、等級上はアシスタントレベルのスタッフでも名刺に「アシスタント」とつけず「デザイナー」で統一している会社もあるだろう。名刺にどう書くかは広報的な用途もあいまって各社の方針次第なので、ここで話している論とは別である。

「役職」は、(部とか課とかで括った)ある組織の責任者として、責任と権限を与えられていることを示す。その組織内に所属している部下のマネジメント業務(勤怠管理や評価・育成など)も含む。

「職位」と「役職」も使い分けたいことがある。

「担当部長」「次長」「エグゼクティブプロデューサー」というように、会社によっては、組織の長としての責任を負わない・権限をもたない肩書きを作っていることがある。これらを含めた場合に「役職」と呼び、(これらを含めず)明確な責任と権限、部下をもつ「本部長」や「部長」だけを指したい場合は「職位」と呼び分けることもある。

基本的に「職位」は、一組織に一人だ。「本部長」は◯◯本部に一人しか配置しないし、「部長」は◯◯部に一人しかいない。そうしないと責任の所在が曖昧になってしまう。

「役職」と「等級」の違いに話を戻して、「等級」というのは、2等級だったら何々ができるレベル、3等級だったら何々ができるレベルというふうに、等級ごとの要件定義書を作って、それに照らし合わせて各人を格付けするものだ。これは、その人がもっている能力、発揮した行動・パフォーマンス、今後期待できる伸びしろなどを反映して付けられるもの。各社ごとに人事制度を作って運用しているので、何をもって格付け・序列化しているかは社ごとに異なるが、先に述べたとおり「等級」を基本給の根拠としていることが多い。

「役職」は任命するか解任するか、「等級」は昇格するか降格するかだ。

「役職」と「等級」を分けて制度化しておくと何が良いのか。役職者の処遇にとらわれず、柔軟に組織改編しやすくなる。

組織改編によって、ある部署が統廃合されたりして、ある人が役職(部長職)からはずれても、等級(部長クラス)はそのまま維持することができる。部長クラスに求められる要件を満たしてくれれば、組織改編の都合で等級(基本給)が大ブレすることなく処遇できる。「誰それさんを部長職からはずすわけにはいかないから、簡単には組織改編できない」といった本末転倒を回避できる。

なんて、ごにょごにょした人事制度の話を掘り出したらキリはないが、とにかく最初の「役職」と「職種」を使い分ける世界の一助になったらいい。いつか、どこかで、誰かがぐぐったときに、これがひとつまみでも役に立ったらなと思う。ぐぐって来て、ここまで読む方はほぼいないだろうけれども。

2023-11-06

底と先知れぬ「VRモチーフのアナログ小説」

「友人」と呼んでは相手に失礼だが、「知人」と呼んではちょっとさびしくなってしまう間柄の池谷さんが、小説で新人賞を受賞した。私は文学界にまったく明るくないが、選考委員に江國香織の名前をみとめて目が飛び出た。ほか滝口悠生、豊﨑由美、山下澄人、佐々木敦の各氏が選考委員を務めたという「第5回ことばと新人賞」、これに選ばれたという。

受賞作「フルトラッキング・プリンセサイザ」は、今月初めに文芸誌「ことばと vol.7」に掲載され、2024年春頃には単行本が刊行されることになっているそう。自分と同世代にして、大学の事業部執行役員を務めながらの快挙。どんな時間の使い方をして暮らし、どんな人生観をもって生きているのか、皆目見当がつかない人だ。

「バーチャルリアリティ技術やメタバースに関するモチーフが多く使われている」「デジタルネイティブ世代のテクノロジーカルチャーを描写しているという側面もある」とは、ご本人の弁。人によっては「フルトラッキング・プリンセサイザ」という題名から、そのことに察しがつく方もあるだろうということなのだが、私はまったくもって関連づく前提知識をもっていない。

そうでありながら、物語世界をぐいぐい展開していく説明のなさが潔くて、これをして成り立たせるだけの丁寧な筆力を、存分に味わいながら読んだ。

「携帯電話」という命名が、ふと思い出された。携帯電話が世に出てきた当時、誰もが知っている「電話」を足場にしながら「携帯」という新しい言葉を乗っけて、受け取る側が過剰に怯えたり無視したりしない程度の実態性と、向く先の方角と高い将来性に見当がつく程度の可能性を言葉で示してみせた、あの感じ。過剰な説明なしに新しいコンセプトを世に定着させ、それの底知れなさを漸次的に世の中に展開してみせた、あの感じ。

バーチャルリアリティ全開の世界どっぷりで物語を展開されては、私なんぞすぐに放り出されてしまうのだけど、夏の手すりに感じる熱さ、黒Tシャツに映し出される汗の色、日曜の朝の駅の風景、アイフォンの手触り、そうしたものの丁寧な描写によって、今こことあちらをつなぎ、アナログ世界とデジタル世界を分ける線を曖昧にぼかし、一つの物語世界に居着く足場が私の頭の中で確かになっていく感覚をおぼえた。

私たちの認識する世界は、拡張しているのか、それとも狭窄しているのかわからなくなる空恐ろしさみたいなものが読後に残った感覚の一番だ。逆にいえば、先にふれた丹念な日常描写なしに、この空恐ろしさを抱えながらの読書は持ち堪えられなかったのかもな、とも思った。

それと、この小説の読書体験は、今この世に生きる、たかだか数十歳差の世代間で、受け取るものや脳内にイメージする世界に大いなる違いが出るだろうという想像がめぐった。同世代であっても、今すでにVR世界に馴染んでいる友人と、馴染んでいない私の間では大いに差が出るだろう。読者一人ひとりイメージするものは違う、それが小説というものだと言ってしまえば、その通りなのだが、それにしたって。

言葉では表しきれないコンセプトを、言葉による丁寧な造形描写によって積み重ねていった先に、人の頭のなかに新しい世界の像を立ち上げる言葉の底力みたいなものを感じる。文学ってすごいなぁ、こんなものを作る人の創作行為ってすごいなぁと、雑すぎる余韻。私は作り手のサポーターをするばかりだが、作り手と人の創作行為への真なる敬意を新たに、サポーターを生涯つとめあげたいなぁと改めて深く思った。

それにしても「自分は何者なのか」という人の認識は、どんどん捉えどころがなくなり、一般化しては何も物言えなくなってくるのかもしれない。どんなに引いて引いてみても「多様である」としか言えない枠組みの崩壊みたいなものが起こったとして、人間一人ひとりは、その自由さにどれくらい持ち堪えられるのだろうか。それへの適応を、人類の進化の一過程として振り返る時代がくるのかな。

*文学ムック ことばと vol.7(書肆侃侃房)

2023-11-03

本屋に行って、棚からとる

Amazonから届く本のレコメンドメールに、わりとよく目を通す。メール内のリンクからAmazonサイトにとんで本を吟味し、めぼしいのをピックアップ。そこで購入ボタンを押さず、都内の大型書店のサイトにとんで在庫を調べ、フロアと棚番号をメモする。店舗に足を運び、紙の本を買って帰ってくる。これが最近の習慣になってしまった。

以前は直接Amazonで買っちゃうこと、なんなら電子書籍をその場でダウンロードしちゃうことも多かったのだが、最近は「本屋」と「紙の本」の価値が(私の中で)見直されていることもあって、本屋に行って紙の本を買う。

Amazonには申し訳ないが、このAmazonトスには感謝している。ただ、このままAmazonの「私はこれを買いました」情報を更新滞らせていると、私の好みもアップデートされないままになってしまうのか?という疑念がよぎる今日この頃。

本屋に行って、目当ての本を買うかどうかは現地でページをめくってみて決める。ぜいたくだ。ぺらぺらめくってみて芽生える印象というのはやっぱりあって、それで買う気が消沈したり、めきめき買う気になったりする。装丁家の仕事が効いているのだろうか。ぜいたくだ。

その本の周辺をひやかすのも楽しい。本屋の一覧性の高さというのは本当に素晴らしい。ごく当たり前の光景なんだけど、いちど本屋から遠のいてAmazonで買うことに偏った時期を経たぶん、改めて本屋に通い出してみると特別の充実感をおぼえる。本屋と映画館は(私の中で)フィジカルなアトラクション感がすごい空間だ。

棚番号をメモって都内の大型書店に行った場合、目当てのフロアまではたいてい階段で上がってしまうが、フロアに一歩入ると目当ての棚に急がずきょろきょろし、ゆっくりと歩く。本屋さんが与えてくれる「へぇ」「ほぉ」を楽しむ。

フロア入るやどーんと目に飛び込んでくる特設コーナーは、どーんという衝撃をもって受け止める。フロア内の目抜き通りぞいに配された一押し本も、一心に推されながら歩く。一冊一冊を丁寧に見るわけではないけれど、棚の一段、ひとまとまりのコーナーを、自分の好みの枠組みで一束にくくって、書店員さんのつけたラベル、それと別に自分なりのラベルをつけて「類」で認識できる自在さは、本屋のユニークな魅力だ。

棚の面積をけっこう割いているテーマだと、ぐいっと視界に食い込んでくるのも楽しい。最近だと、心理的安全性って本屋でもけっこうな幅とってるんだなぁとか。河出文庫は、現代作家に日本の古典文学を新釈してもらって「古典新訳コレクション」始めたんだなぁとか。中野長武さんが一人出版社(三五館シンシャ)で展開している職業日記「汗と涙のドキュメント日記シリーズ」が、ごく小さな書店で棚を占拠しているのを見て驚いたり。

目当ての棚の前までたどりついても、平積みやら面陳列された本をきょろきょろして、よそ見を楽しむ。さらに棚に差してある背表紙を上段から最下段まで眺めて、自分の目当ての本の周辺にどんな本が並んでいるのか目が泳ぐ。

たった数秒の間に、この平積み、面陳列、棚差しの100冊かそこらありそうな一つの棚をざーっと一覧できる本屋の、本棚づくりの、人間の視覚と認知に最適化された構造とでもいおうか、これを堪能して改めてすごい空間だなぁと感心する。

紀伊国屋書店の新宿本店で在庫を調べると、棚番号が3つ併記されていることがある。1階フロアの売れ筋コーナー、3階フロアの一押しコーナー、同じ3階フロアの通常の棚というように複数箇所に置かれていることがあるのだけど、こういう場合、私は1階フロアで買わずに3階フロアまで上がって、通常の棚で本をとるようにしている。この道程こみこみで本屋に行くぜいたくだ。

昔、本屋で本を買う以外の選択肢をもっていなかったときには、こんな当たり前のことを文章にするなんて思わなかったなぁということをつらつら書いているのだが、一周回ってこんなことを長文書いちゃうところに帰ってきた。

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