「道具の進化か、能力の修練か」という選択
お能の入門書を読んでいて面白いなと思ったことの一つに、お能の楽器は600年だか700年だかの長きにわたって改良・進化せず、人間のほうに修行させる方針を貫いてきた話がある。道を具えるのは、楽器の側ではなく人間の側であるという構えだ。
能のお囃子(はやし)には笛、小鼓、大鼓(おおつづみ)、太鼓(たいこ)とあるのだけど、4種ともすべて音が鳴りにくいそう。でも何百年もの間、楽器に電気を通すこともなく、もっと音が鳴りやすくする改良を加えることなく、同じ形を保ち続けてきている。
それがなぜかというと、鳴らない楽器と対峙することによって人間の側の精神性を養っていくことを重視した、修行の過程と位置づけてのことらしい。
これをどう捉えるかは人それぞれの考えがあろうし、肌に合う人もいれば合わない人もいるだろう。それはどっちだっていいし、むしろ人の価値観は画一化されず散っていたほうがいいんだろうと思うタチだが、大事なのは「選択肢をもつ」ことだ。
お能を離れて、あらゆる分野で今の時代に否応なく問われるのは、技術の進化一辺倒に陥らず、人間の修行一辺倒にも陥らずに、「自分は、この件では、こっちを取る」と選択できる力量じゃないかと思う。もっと言えば、そう簡単に二分できるわけでもなく、それぞれの分野で、いい感じに按配して調合して、自分流のオリジナルを創りだせる能力と技術のブレンド能力が問われる。
記憶力なんかを例にとるとイメージしやすいだろうか。どれくらい自分の身体の記憶力を養ってこき使うのが得策で、どれくらい外部記憶装置を活用するのが得策と考えるか。体外の記憶装置の進化によっても変わるだろうし、どのように体内に連携して組み込まれていくかにもよるのだろうが、人間の記憶力もかなり複雑に高度に個性的に働いてくれるので、私の人体・生涯ベースでいうと個人的にはこれを軽視できない。
個人はもちろんのこと、さまざまな教育機関も企業組織も、教育や人材育成の方針にこれという唯一の正解がない中で方針を問われ、カリキュラムやHR戦略施策の見直しを迫られているように思う。何を重んじて、それゆえ何の能力は手放さず伸ばすを尊しとするか、何は技術進化にゆだねて能力開発を手放すか、機械化・IT化・AIに任せるか見定めていく岐路に立っているように思う。
全部が全部、AIだなんだで効率化に全振りした場合、気づいたときには人の営みの最も大事なところを失って、もはや取り戻せなくなっているかもしれない。といって、あらゆる現状を堅持して頑なになっていては時代適応がかなわず廃れていってしまう。
頭の使いどころであり、唯一無二の正解なき各人各社各様のデザインのしどころだなぁと思う。私の生業からしてみると、キャリアデザインであり、インストラクショナルデザインというところ。いずれも「今このタイミングだと」「うちの会社の、うちの部署メンバーだと」「この事業フェーズだと、この市況だと」と、いろんな文脈を読み込んだ上での個別最適を組み上げるほかなく、そう話は単純ではない。
共通認識を結べるところまで方針立ててシナリオ化したら、あとはもうやってみるしかないところもあって、各々やってみてどうなるかの社会実験にならざるをえない気もするけれども、それが人間界を生きる面白さでもある。
私も今おつきあいしているところでは細々と自分の見解を共有したり問い立てしてみたりしているけれど、個別最適の創造性に富み、難しくも面白い局面だなぁとも思う。
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