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2023-10-23

3秒でバイバイする町民の親切

その日は午前中に一件、お昼過ぎに一件、御茶ノ水・神保町界隈で仕事があったので、家に戻らずハシゴすることにした。ハシゴ途中で老舗のお蕎麦屋さんを見つけ、暖簾をくぐる。

正午をまわって30分ほど過ぎた店内は大いに賑わっていて満席だったが、ちょうど客の入れ替えどきで、1分ほどで席を案内された。

ゆうに70歳をこえているであろう女性が「ありがとうございまーす」「こちら、どうぞー」と声を張り上げながら、ちゃきちゃきとフロアを行き来している。席の案内、注文、配膳とせわしなく動きまわる。

私も彼女の調子に合わせるようにして、ちゃきちゃきとせいろそばを注文。程なくそばがやってきて、するっとすすって一息つく。

ちょうど食べ終える頃に、レジが一気に混みだした。13時を前に、人が会社に戻っていく時間か。客足も落ち着いてきたし、この会計の列がおさまるまでは、ゆっくり蕎麦湯をいただくとしよう。そう思ってレジのやりとりを聞くともなく聞いていた。

私の席は、着席した頭から50センチくらいしか離れていないんじゃないかという真後ろにレジがあり、前を向いていてもだいたいレジで何がやりとりされているか把握できる位置に耳があった。

「お会計は別々に」とか「一緒でいいです」とか「iDでー」とかいう客に、フロアを切り盛りする先ほどの姐さんが「はいー、ありがとうございまーす」と、テキパキ応じていく。

あー、ここ電子マネー使えるんだ、PASMOも使えるかなぁとか思いつつ、私は蕎麦湯をつぎ足して飲む。

次のレジ客は、欧米人の男女二人組。男性のほうが、クレジットカードは使えるか?と英語で尋ねる。姐さんが、え、わからない。ん?何?と言う戸惑いをあらわにする。これまでと打って変わって小さな声量に、明らかなる戸惑いがみてとれた。背中に耳あり、耳に心あり。

私は座ったまま後ろを振り返る。目線の先には、姐さんの困惑した顔。そのすぐ横には、男性がカードリーダーにかざしてみているクレジットカードを認めた。

私は姐さんに「クレジットカードは使えますか?」と尋ねた。「あー、ありがとう。クレジットカードは使えないのよ」と姐さんが言う。私は「使えないみたい」という顔をして、30センチくらい上方の男性を見上げた。彼が “Cash only?”と私に尋ねる。私は「イエス、キャッシュオンリー」とオウム返しした。

本当は「オンリー」なわけじゃないけれど、彼に電子マネーのカードの選択肢があれば、そっちを出してくるだろうから、出してこないということはおそらくその類いのカードを持っていないということだろう。ということにして、シンプルな回答に逃げた。

ともあれ一件落着。彼は現金を支払って、姐さんと私にお礼を言い、スマートに店を後にした。姐さんは私に向かって「ありがとうね」と、再度ていねいに礼を言った。

時間にして3秒、私が発したのは2言だ。専門性も英語力もない、その場に居合わせた、ただの人の、ちょっとした介入。大げさじゃなく本当に3秒で方はついた。

私は最近、この3秒程度の、いち町民としての働きというのを大事にして暮らしている。都心というのは、それで事足りる、ちょっとしたことが、あちらこちらに発生している。なので最近、見知らぬ人に声をかけることが増えた。「あ、案内しましょうか」「どちらに行かれます?」「イエス、キャッシュオンリー」。そして3秒でバイバイする。

本当に3秒程度で、なんの専門能力も発揮せずに方がついて、何かがスムーズに流れ出すのだ。「今ここを共にしていることの突破力」は絶大だと思う。あれとかこれとかの指示語は使い放題、目線と指差しと表情とジェスチャーで大方のことは方がつく。

もちろん小さな小さな段差にハシゴをかけて認識のずれを合わせるとか通行可能にする程度のことしか私がしていないからだが。しかし、そういうことの発生件数はちまたに多い。人口密度が高く、観光客も増えた最近の都心では日夜わんさかと発生している。街中でも、駅ナカでも、店の中でも見かける。

が、意外に放置されている。簡単に取れるツーバンしたゴロみたいなボールで、捕った人もグラウンドも気持ちよくなること請け合いのボールが、けっこう放置されている。

これにどう関わるか。そのとき「いち町民」をホームポジションにして生きていると、ぱっとフットワーク軽く声をかけて動けるものだな、というのが最近の気づきだ。

へたに自分は何者だの、何が専門だの、何は専門じゃないだの、ここでは客だの他人だの、今ここでは自分はサービスを受ける側だの、あっちは与える側の店員だの、そういう狭い枠組みに自分のポジションを固定化しないで、もっと自由に自在にしておくのに「町民」というホームポジションは実に都合がいい。その場その時に必要な動きをシンプルに考えてシンプルに動く自在さがあって、これはちょうどいい按配だなと思う。

この間そんなおしゃべりをした流れで、「町民」というサイズ感が、ちょうどいいんだと思うんですよねという話をした。ここに「いち国民として」とか「いち市民として」みたいな言葉を持ち出しちゃうと、国民も市民もサイズ感が大き過ぎて、ごく身近なものとして自分に働きかけるにはイメージが漠とし過ぎちゃうし、いろんな思想信条なり定義なり文脈がまとわりつきすぎちゃって実用性を欠く。

町民っていうのは、国民や市民みたいなところまで持っていかず、かといって何か特定の職業とか肩書きまで先鋭化して特定ポジションにこだわった行動に縛りつけることもない、ちょうどいいバランスで(ある種、中途半端さで)自在さを確保できる感じが、すごくいいなと。

「客と店員」とかで固定的にとらえることを常とせず、「姐さんと私」のように、自分が居合わせたその場のシチュエーションで、相手の意を汲みながら自在にチューニング合わせして自分の役割を演じることができる。

多様性だ多面性だいうのも、ごつごつした言葉でくくっちゃうと見えづらくなってしまうけれど、同じ町内会の3軒隣りのおじさんをイメージすれば「あの人は面倒なところもあるけれど、悪い人じゃないのよ」というような人を多面的にみる、多様性を受容する、自分との良い距離感を個別に推し測ってはどうにかうまくやっていこうとする、人間の力を自然と引き出してくれるのが「町民」コンセプトだ。

まぁ、やっぱりうまく文章に書けなかったけれど、こういうことは、長々と書かないレベルまで自分のなかで当たり前化するのが一番だな。

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