俵万智が読み解く紫式部を味わう
古典文学の名作を前にして身構えず、ちょっとちゃかすくらいの気軽さで歩み寄ってみようという意味では、8月に書いた「『罪と罰』を読まない」に負けず劣らず、俵万智の「愛する源氏物語」*も楽しい。俵万智が頼もしい。
私は最近「能」づいていたこともあって、お能の題材とされる紫式部の「源氏物語」周辺に触れることが多かったのだが、どうも「源氏物語」そのものには読む気が高まらなかった。
長すぎる!というのもあるのだけど、紫式部の人となりや「源氏物語」のあらすじを読むにつけ、書き手も題材も女おんなしすぎているというか、俗っぽすぎるというか、女子っぽすぎるのが元来性に合わないのに加えて、歳とって恋愛ものに食指が動かなくなって久しいので、どうもなぁと。
それで「源氏物語」周辺をうろちょろしていたのだけれど、これが俵万智の手にかかると別の味わいを生み出すのだった。「愛する源氏物語」で彼女が読み解く「源氏物語」も、紫式部その人も、実に痛快でおもしろい。
和歌のうまさで名を残した人はいろいろといるけれども、紫式部のすごいのは、自分の作品としての和歌ではなく、自分が作った物語の作中人物が詠んだ和歌として、そのすべてを一人で創作している手腕だ。
「源氏物語」には半端ない数の登場人物があって、老いも若きも男も女もたくさん出てきて和歌を詠むのだが、それぞれのキャラクター、シーンごとの状況や心境、キャラごとの和歌の才能に応じて、実に795首もの和歌を盛り込んでいる。
作中人物にはティーンの男子もあれば、六十近い姐さんも出てくる。恋愛経験豊富な人もあれば、ひよっこもある。性格だって挑発的なの、奥手なの様々。光源氏というモテ男を一人配置することで、たくさんの女性がかわるがわる登場するにふさわしい物語の舞台を設えて、多彩な女性キャラを一人ひとり描き分けたところに、その人がこそ詠む和歌を入れ込んで物語を彩っているのだ。
とんでもなく和歌が上手い六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の詠む歌も、️とんでもなく和歌が下手っぴの末摘花(すえつむはな)が詠む歌も、紫式部が作っているわけだ。
末摘花の作った和歌は、学び始めてまもない人がよくやる掛詞や縁語の多用(乱用)、前回使ったテクニックを今回の歌でもまた使っちゃってる歌になっていて、伝えたいことそっちのけで基本作法を守るのに精一杯の歌が詠まれている。自在に巧拙を操る紫式部の手腕が冴え渡っている。
なんだか時代を越えて紫式部の高笑いが聞こえてきそうでもあって、ちょっと怖い。ちなみに私の脳内で再生される紫式部の顔のイメージは、作家の林真理子だ。
また和歌には返歌がつきもので、そのかけあいを通じて心を通わせたり、心がすれ違ったり、丁々発止のやりとりが繰り広げられたりするのだが、そのすべてを紫式部が作って、深みある物語を展開させている。
ときに相手の和歌の真意をわざと取り違えた返歌をおくり、ときにわざとでなく図らずも読み方に幅が出てしまったかっこうで相手の心を揺さぶるのだ。
和歌の一首31文字に含まれる「は」の解釈ひとつで、「半端な気持ちでは受けつけませんよ」から「真剣なら受けつけるということですか」という余地を生みだす。
そんな源氏物語の読み解き、私には到底無理なわけだが、俵万智によって一見の読者にも紫式部の筆力を垣間見ることが叶って、圧巻の一冊だ。俵万智も、紫式部も、心の機微のつかみ方や描き方が半端なく秀逸だ。
はたして、この「は」一文字から解釈を作り出す能力を、人間は退化させていいものだろうかとの問いが浮かぶ。
私たちは今、何を退化させて良しとし、何を大事に育み続けようとし、何を新たに育んでいく必要があるのかを見定める岐路に立たされているように感じる、これが最近の考えごと。
誰も正解を持っているわけではなく、さまざまなポジショントークも入ってくる中で、自分は自分なりに考えて、望ましい答えを探索している。答えがないのだから、これというゴールはないのだけど、それでも探索行動に意味を見出すことはできる。
応用がきく基礎を学ぶ。では、そこでいう基礎とは何なのか、リテラシーとは何なのかを問うている。「現代にアップデートした基礎学習が大事だ」なんて抽象論は偉い人が一人言えばいい。各現場に必要なのは、その現場で基礎が何かをこれと仮に特定して、それを身につけるにはどういう順序、やり方がいいのか仮説立てて、実行計画を立てて賭けに出る活動と活動主体なんだよな。
*俵万智「愛する源氏物語」(文藝春秋)
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