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2023-10-30

俵万智が読み解く紫式部を味わう

古典文学の名作を前にして身構えず、ちょっとちゃかすくらいの気軽さで歩み寄ってみようという意味では、8月に書いた「『罪と罰』を読まない」に負けず劣らず、俵万智の「愛する源氏物語」*も楽しい。俵万智が頼もしい。

私は最近「能」づいていたこともあって、お能の題材とされる紫式部の「源氏物語」周辺に触れることが多かったのだが、どうも「源氏物語」そのものには読む気が高まらなかった。

長すぎる!というのもあるのだけど、紫式部の人となりや「源氏物語」のあらすじを読むにつけ、書き手も題材も女おんなしすぎているというか、俗っぽすぎるというか、女子っぽすぎるのが元来性に合わないのに加えて、歳とって恋愛ものに食指が動かなくなって久しいので、どうもなぁと。

それで「源氏物語」周辺をうろちょろしていたのだけれど、これが俵万智の手にかかると別の味わいを生み出すのだった。「愛する源氏物語」で彼女が読み解く「源氏物語」も、紫式部その人も、実に痛快でおもしろい。

和歌のうまさで名を残した人はいろいろといるけれども、紫式部のすごいのは、自分の作品としての和歌ではなく、自分が作った物語の作中人物が詠んだ和歌として、そのすべてを一人で創作している手腕だ。

「源氏物語」には半端ない数の登場人物があって、老いも若きも男も女もたくさん出てきて和歌を詠むのだが、それぞれのキャラクター、シーンごとの状況や心境、キャラごとの和歌の才能に応じて、実に795首もの和歌を盛り込んでいる。

作中人物にはティーンの男子もあれば、六十近い姐さんも出てくる。恋愛経験豊富な人もあれば、ひよっこもある。性格だって挑発的なの、奥手なの様々。光源氏というモテ男を一人配置することで、たくさんの女性がかわるがわる登場するにふさわしい物語の舞台を設えて、多彩な女性キャラを一人ひとり描き分けたところに、その人がこそ詠む和歌を入れ込んで物語を彩っているのだ。

とんでもなく和歌が上手い六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の詠む歌も、️とんでもなく和歌が下手っぴの末摘花(すえつむはな)が詠む歌も、紫式部が作っているわけだ。

末摘花の作った和歌は、学び始めてまもない人がよくやる掛詞や縁語の多用(乱用)、前回使ったテクニックを今回の歌でもまた使っちゃってる歌になっていて、伝えたいことそっちのけで基本作法を守るのに精一杯の歌が詠まれている。自在に巧拙を操る紫式部の手腕が冴え渡っている。

なんだか時代を越えて紫式部の高笑いが聞こえてきそうでもあって、ちょっと怖い。ちなみに私の脳内で再生される紫式部の顔のイメージは、作家の林真理子だ。

また和歌には返歌がつきもので、そのかけあいを通じて心を通わせたり、心がすれ違ったり、丁々発止のやりとりが繰り広げられたりするのだが、そのすべてを紫式部が作って、深みある物語を展開させている。

ときに相手の和歌の真意をわざと取り違えた返歌をおくり、ときにわざとでなく図らずも読み方に幅が出てしまったかっこうで相手の心を揺さぶるのだ。

和歌の一首31文字に含まれる「は」の解釈ひとつで、「半端な気持ちでは受けつけませんよ」から「真剣なら受けつけるということですか」という余地を生みだす。

そんな源氏物語の読み解き、私には到底無理なわけだが、俵万智によって一見の読者にも紫式部の筆力を垣間見ることが叶って、圧巻の一冊だ。俵万智も、紫式部も、心の機微のつかみ方や描き方が半端なく秀逸だ。

はたして、この「は」一文字から解釈を作り出す能力を、人間は退化させていいものだろうかとの問いが浮かぶ。

私たちは今、何を退化させて良しとし、何を大事に育み続けようとし、何を新たに育んでいく必要があるのかを見定める岐路に立たされているように感じる、これが最近の考えごと。

誰も正解を持っているわけではなく、さまざまなポジショントークも入ってくる中で、自分は自分なりに考えて、望ましい答えを探索している。答えがないのだから、これというゴールはないのだけど、それでも探索行動に意味を見出すことはできる。

応用がきく基礎を学ぶ。では、そこでいう基礎とは何なのか、リテラシーとは何なのかを問うている。「現代にアップデートした基礎学習が大事だ」なんて抽象論は偉い人が一人言えばいい。各現場に必要なのは、その現場で基礎が何かをこれと仮に特定して、それを身につけるにはどういう順序、やり方がいいのか仮説立てて、実行計画を立てて賭けに出る活動と活動主体なんだよな。

*俵万智「愛する源氏物語」(文藝春秋)

2023-10-23

3秒でバイバイする町民の親切

その日は午前中に一件、お昼過ぎに一件、御茶ノ水・神保町界隈で仕事があったので、家に戻らずハシゴすることにした。ハシゴ途中で老舗のお蕎麦屋さんを見つけ、暖簾をくぐる。

正午をまわって30分ほど過ぎた店内は大いに賑わっていて満席だったが、ちょうど客の入れ替えどきで、1分ほどで席を案内された。

ゆうに70歳をこえているであろう女性が「ありがとうございまーす」「こちら、どうぞー」と声を張り上げながら、ちゃきちゃきとフロアを行き来している。席の案内、注文、配膳とせわしなく動きまわる。

私も彼女の調子に合わせるようにして、ちゃきちゃきとせいろそばを注文。程なくそばがやってきて、するっとすすって一息つく。

ちょうど食べ終える頃に、レジが一気に混みだした。13時を前に、人が会社に戻っていく時間か。客足も落ち着いてきたし、この会計の列がおさまるまでは、ゆっくり蕎麦湯をいただくとしよう。そう思ってレジのやりとりを聞くともなく聞いていた。

私の席は、着席した頭から50センチくらいしか離れていないんじゃないかという真後ろにレジがあり、前を向いていてもだいたいレジで何がやりとりされているか把握できる位置に耳があった。

「お会計は別々に」とか「一緒でいいです」とか「iDでー」とかいう客に、フロアを切り盛りする先ほどの姐さんが「はいー、ありがとうございまーす」と、テキパキ応じていく。

あー、ここ電子マネー使えるんだ、PASMOも使えるかなぁとか思いつつ、私は蕎麦湯をつぎ足して飲む。

次のレジ客は、欧米人の男女二人組。男性のほうが、クレジットカードは使えるか?と英語で尋ねる。姐さんが、え、わからない。ん?何?と言う戸惑いをあらわにする。これまでと打って変わって小さな声量に、明らかなる戸惑いがみてとれた。背中に耳あり、耳に心あり。

私は座ったまま後ろを振り返る。目線の先には、姐さんの困惑した顔。そのすぐ横には、男性がカードリーダーにかざしてみているクレジットカードを認めた。

私は姐さんに「クレジットカードは使えますか?」と尋ねた。「あー、ありがとう。クレジットカードは使えないのよ」と姐さんが言う。私は「使えないみたい」という顔をして、30センチくらい上方の男性を見上げた。彼が “Cash only?”と私に尋ねる。私は「イエス、キャッシュオンリー」とオウム返しした。

本当は「オンリー」なわけじゃないけれど、彼に電子マネーのカードの選択肢があれば、そっちを出してくるだろうから、出してこないということはおそらくその類いのカードを持っていないということだろう。ということにして、シンプルな回答に逃げた。

ともあれ一件落着。彼は現金を支払って、姐さんと私にお礼を言い、スマートに店を後にした。姐さんは私に向かって「ありがとうね」と、再度ていねいに礼を言った。

時間にして3秒、私が発したのは2言だ。専門性も英語力もない、その場に居合わせた、ただの人の、ちょっとした介入。大げさじゃなく本当に3秒で方はついた。

私は最近、この3秒程度の、いち町民としての働きというのを大事にして暮らしている。都心というのは、それで事足りる、ちょっとしたことが、あちらこちらに発生している。なので最近、見知らぬ人に声をかけることが増えた。「あ、案内しましょうか」「どちらに行かれます?」「イエス、キャッシュオンリー」。そして3秒でバイバイする。

本当に3秒程度で、なんの専門能力も発揮せずに方がついて、何かがスムーズに流れ出すのだ。「今ここを共にしていることの突破力」は絶大だと思う。あれとかこれとかの指示語は使い放題、目線と指差しと表情とジェスチャーで大方のことは方がつく。

もちろん小さな小さな段差にハシゴをかけて認識のずれを合わせるとか通行可能にする程度のことしか私がしていないからだが。しかし、そういうことの発生件数はちまたに多い。人口密度が高く、観光客も増えた最近の都心では日夜わんさかと発生している。街中でも、駅ナカでも、店の中でも見かける。

が、意外に放置されている。簡単に取れるツーバンしたゴロみたいなボールで、捕った人もグラウンドも気持ちよくなること請け合いのボールが、けっこう放置されている。

これにどう関わるか。そのとき「いち町民」をホームポジションにして生きていると、ぱっとフットワーク軽く声をかけて動けるものだな、というのが最近の気づきだ。

へたに自分は何者だの、何が専門だの、何は専門じゃないだの、ここでは客だの他人だの、今ここでは自分はサービスを受ける側だの、あっちは与える側の店員だの、そういう狭い枠組みに自分のポジションを固定化しないで、もっと自由に自在にしておくのに「町民」というホームポジションは実に都合がいい。その場その時に必要な動きをシンプルに考えてシンプルに動く自在さがあって、これはちょうどいい按配だなと思う。

この間そんなおしゃべりをした流れで、「町民」というサイズ感が、ちょうどいいんだと思うんですよねという話をした。ここに「いち国民として」とか「いち市民として」みたいな言葉を持ち出しちゃうと、国民も市民もサイズ感が大き過ぎて、ごく身近なものとして自分に働きかけるにはイメージが漠とし過ぎちゃうし、いろんな思想信条なり定義なり文脈がまとわりつきすぎちゃって実用性を欠く。

町民っていうのは、国民や市民みたいなところまで持っていかず、かといって何か特定の職業とか肩書きまで先鋭化して特定ポジションにこだわった行動に縛りつけることもない、ちょうどいいバランスで(ある種、中途半端さで)自在さを確保できる感じが、すごくいいなと。

「客と店員」とかで固定的にとらえることを常とせず、「姐さんと私」のように、自分が居合わせたその場のシチュエーションで、相手の意を汲みながら自在にチューニング合わせして自分の役割を演じることができる。

多様性だ多面性だいうのも、ごつごつした言葉でくくっちゃうと見えづらくなってしまうけれど、同じ町内会の3軒隣りのおじさんをイメージすれば「あの人は面倒なところもあるけれど、悪い人じゃないのよ」というような人を多面的にみる、多様性を受容する、自分との良い距離感を個別に推し測ってはどうにかうまくやっていこうとする、人間の力を自然と引き出してくれるのが「町民」コンセプトだ。

まぁ、やっぱりうまく文章に書けなかったけれど、こういうことは、長々と書かないレベルまで自分のなかで当たり前化するのが一番だな。

2023-10-22

ぬいぐるみを手放した日

家の中のぬいぐるみをリサイクルセンターに引き渡しに行った。ぬいぐるみって、自分で買い求めたことはないのだけど、もともと実家の自分の部屋にあって一人暮らしを始めるとき連れてきた子と、どこからともなくやってきた子らとあった。黄金の中クマ、青い微小クマ、白い小イヌ、白と黒の謎な小動物の5体。

実家から連れてきた中クマは背丈が30センチくらいあろうか、他のこまごましたのに比べて、だいぶ存在感があって、引っ越しても引っ越しても、ずっと本棚の一番上の段にあった。ともに過ごした時間は、他の比でなく長い。

小学生の低学年の頃だったか家族で、ららぽーとだったか大きなショッピングモールに出かけて、そこの催しでビンゴ大会をやっていたのに参加して、かなり良いほうの賞として、ぬいぐるみをもらった。子供の体には、これがまたずいぶんとビッグなプレゼントで、ホクホクして連れて帰った。

私と妹が小学生の頃、我が家にはぬいぐるみがたくさんあった。お人形さんごっこというのは、うちではぬいぐるみごっこだった。バービーちゃんとかリカちゃんとかシルバニアファミリーとかの言わばブランドものは一つもなかったが、どこの出身かわからない雑種の動物たちが、20か30か大中小わんさかといた。

私と妹は二人して何時間も、ぬいぐるみごっこして遊んだ。そういう数年間がある。

その日々を、あれはあれで何か情操教育的な意味とか、物語展開力を養うような効果もあったのかもなぁと思いついたのは、それから四半世紀くらい経ってからのことだった。

遊びだす(物語の)入り口をどう作って始めていたのかとか、何体ものぬいぐるみを一人何役も掛け持ちして、何時間も二人だけでどう物語世界を展開させ続けていたのかとか、今となっては何も思い出せないのだが。

相手の言葉を受けて返すとか、こういうと相手が怒るとか泣くとか笑うとか黙るんだとかをたくさん知った気がするし。一つのキャラクターで、さっき言ったことと今言うことの辻褄を合わせてしゃべるとか、キャラごとに性格を変えるとか、論理破綻を起こさないで筋を通してふるまうとか。即興で発想して、新しい展開をシナリオだてるとか。

まぁどれだけそれがまともに成し遂げられていたかは別として、何年にも渡ってやっていたので、けっこうな場数を踏んで、今に通じる心根を養ってくれていたんだろうなぁと思う。そういうことにしておこう。

とはいえ、実家を出て東京に連れてきてからは、いくつかの家を連れ回したものの、さして面倒みるでもなく本棚の最上段で埃をかぶらせている状態だったので、もっとしっかりかわいがってもらえる子の腕の中に行けるなら、そのほうがずっと良い。

そう思い立つと、埃を拭きとって水洗いして黄金色の輝きを取り戻したクマのぬいぐるみと、あと数体をかばんに入れて、センターに連れて行った。

センターでリサイクル品を受け付けてくれるのは月に一度、13-15時の2時間しかないので盛況だった。年配の方が多く、大きなビニール袋に服やらカバンやら詰め込んで、2つ3つと家族で協力して担ぎ込んでいる感じだった。

ぬいぐるみだけの私はさくっと渡して、さくっと受け付けてもらい、さくっと終わった。10秒もないくらいだった。感傷に浸る間もなく、さようならした。

素敵な「こんにちは」に、どうか巡り会えますように。手放した後に、電車に乗っていくらか感傷に浸った。まぁ何事も感傷に浸るのは手放した後なのが常である。

使っていない電化製品や食器なども、そろそろ手放して、たくさん使ってもらえるところへ引き渡さないともったいないな。部屋も狭いんだし、物は少ないほうがいいし。と言いながら紙の本は相変わらず買い続けているのだが、それはそれ。だってまだ40代だもの。

2023-10-15

「メンバーのアサイン」論への違和感

プロジェクトマネジメントについて書かれた本に「メンバーのアサイン」と見出しを打った見開きページがあって、その内容と語り口に違和感を覚えた。

「メンバーをどう選ぶか」について、他の本ではどう書かれているんだろうと思って、手元にある数冊を読み比べてみて、やはり先の本のそれは著者の独自見解という感を強くした。

他書には、チームを組成するとか、役割に見合う能力をみてメンバーを構成するとかいった記述はあれど、性格検査のアセスメントも有効という切り口で書いてあるのは、この一冊だけ。ほっと胸を撫でおろした。

性格アセスメントを選抜に利用することには、慎重を期する。扱うプロジェクトがどんなものかによるのだろうし、著者が扱うプロジェクトだと、そうしたアセスメントがメンバー選びに有効な案件もあるのかもしれない。大きな会社とかで部署横断でメンバーを集めて大型プロジェクトを起こす際の「若手抜擢」とかだと、そういう選び方がありうるのだろうか。

だとしても、そう一般的なものじゃなかろう?と思う。そもそも読者想定のプロジェクトマネジメントを学ぶ現場の推進者が、メンバーを選べるという状況自体少ない気もするし、社内外で一定の人選の余地があるとしても、性格検査をメンバー選びに活かすというのは、ちょっとしっくりこない。

この本では特定のアセスメントツールを挙げて紹介し、基本的性格特性としてどういう要素があるか(誠実、情緒安定性、情報欲、緻密性、論理性とか)を例示しているのだけど、プロジェクトのテーマに限定もしない広く一般での性格特性で「情報欲がいかほどか」を目安に選抜するしないと評価することは、どれだけ有効で妥当なアプローチなのだろうか。私からすると、それを特定テーマを扱うプロジェクトのメンバー選抜に使うのは、あまりに杜撰(ずさん)じゃないかと思ってしまう。少なくとも、この限られた紙面でノウハウとして押し出すべきことだろうかというのに疑問符を打ってしまうのだ。

この本は、良くも悪くも幅広いPM関連知識を取り入れた構成に特徴があって、組織とは何か?リーダーシップの類型、ファシリテーション技法、パリッシュのモデルと、ビジネス推進の知見を広げる上で役立つあれこれを網羅的に紹介しようというスタンスがうかがえ、これに著者の知り合いの話なども、エピソードトークともノウハウともつかぬ感じで、わんさか盛り込んであるので、読み物として楽しめる人には楽しめて充実の品揃え感があるのかもしれないが、「いろいろあってみんないい」としても、ここのところだけはどうにもつまずいてしまった。

やはり性格アセスメントは基本、本人が自己洞察を深めるため、組織的に使うとしても人材育成に役立てるのが真っ当と思ってしまう。

そういうつまずきを覚えて思い出したのは、社会学者の星加良司さんが提起されていた「能力評価の領域で、横滑り問題が起きている」という話。「ある領域でのみ評価される能力が、本来は無関係なはずの領域の評価にまで横滑りしている」という話。このYoutube動画、すごく良かったな。

【成田悠輔vs伝説の東大教授】必見!社会人のための真の教養講座【合理性とは何か】- Youtube番組ReHacQ(リハック)「mudai」

それぞれのプロジェクトにおいて、何がメンバーをアサインする指標として妥当なのか、何は本質からはずれるのかに意識をしっかりもって、その指標をこそ選り分けたいところ。

プロジェクトに参加することで、性格検査では低く出てしまうような役割意識、完遂しようとする意思、落ち込んでも立ち直る回復力、他者への配慮、知的好奇心なんかが育まれていくことは、大いに考えられる。私は、プロジェクトをそういう契機に使いたいし、性格アセスメントツールの扱いには慎重を期し、用途を明確に範囲を限定して、有効に使いたいと思う。

2023-10-06

アレオレと言わなくてもいい心持ち

江戸時代に活躍した彫刻職人に左甚五郎(ひだりじんごろう)という人物がいて、「左甚五郎作」と伝えられる彫刻作品が全国各地に100近くある。その制作年代を調べてみたら安土桃山時代から江戸時代後期まで300年に及び、出身地も様々。そのすべてを「個人としての左甚五郎」がつくることは不可能だと言われている話を、興味深く読んだ。

江戸時代初期に活躍した伝説的な職人の名が、各地で腕をふるった工匠たちの代名詞として使われたのだろうとのこと。今でいう「栃木県の大谷翔平」みたいな言い回しに近いだろうか、遠いか…。

お能の世界でいうと「世阿弥作」と伝わる作品の中にも、明治時代に入って成立年代や作者性を評価してみたところ、世阿弥(ぜあみ)が作ったのでは辻褄が合わない作品があるのだとか。

逆に言うと、明治以前の日本人にとっては、それらを「左甚五郎作」「世阿弥作」としても問題が生じなかったということ。著作権がらみの裁判も起きず、アレオレ詐欺が横行することもなかった時代、「個人としての」という観念がなかったか薄かったか、そのような時代背景が浮かび上がってくる。

能楽師の安田登さんが著した「あわいの力 『心の時代』の次を生きる」*に、この辺のことが詳しく書かれていて面白く読んだ。

世阿弥が書いたとされる「風姿花伝」も、父の観阿弥の言葉を世阿弥が書き写したもので、どこまでが観阿弥の思想で、どこからが世阿弥の思想かは判別がつかないし、はっきり区別する必要もなかった

これをもって、今の時代と比べて「個人としての心が貧しかった」と言えるだろうか。今のほうが「個人としての心が豊かになった」と言えるだろうか。そう問い立ててみると「否」という感じがするんだな、なんとなく。

身分の差なんかで「個の意識」に違いはあったかもしれないが、一般の町民想定で妄想してみるに、個人として歴史に名を残すという意識より、綿々と続く歴史の中に組み込まれた自分というものを、無意識であれ自然と受け入れて生きていたイメージがわき立つ。

indivisualを「個人」と日本語訳したのは明治初期のこと、江戸時代までに日本の中でどれだけ「個人」という意識があったか思い巡らすと、なにか牧場の羊のような気持ちになる。牧場の羊になったことはないけれど。

「他者と自分の境界線」というのがうっすらとしていって、家族の中の自分とか、住む町の集合体に組み込まれた自分、綿々と続く時代の中に生きて死にゆく自分というものが、無意識であれ、生き物の自然な心の構えとして備わる(育まれる)土の匂いに、もっと包まれた空間だったかもしれない。

それでいうと今は複雑に頭で考えすぎて、意識で方向づけすぎて、不自然に心の構えを縛りつけて息苦しくなっているところがあるんじゃないかなと、そんなふうに思って、心をほどいていく気持ちになる。

今も伝統芸能の世界で見られる「襲名」という慣わしも、個人としての尊重とは、わりと対極の構えなのかも。歌舞伎役者とか落語家とか、個人の名を歴史に刻んで残したければ都度ユニークな名前をつけたほうが独立性高まるように思うけれど、「何代目の何某」を継ぐという襲名制を今も大事に続けている。

そこには、その名を引き受けることを尊しとする価値観が感じられる。綿々と続いてきた長い歴史のなかに自身を組み込み、これまでを引き継いで、次に受け継いでいく役割に尊い意味を見出している、そんな心の構えを感じるのだ。

「個人として尊重されるべき」はまったくその通りだと同意する。その一方で、もっと大きな流れの中に個人を位置づけて、それに自分を委ねてみるという見方も、そんな軽視せず、手放さずに、快しと感じられる心をもっておいたらいいんじゃないかなと思う。両視点を大事に育てて懐に持っておいて、時と場合でうまく使い分けられたほうが勝手が良く、心豊かに生きていける気がする。

「一度きりの人生」「自己実現」「どう生きるか」を眼前に突きつけられ、個人として何か背負っているのがつらい時期には、背景に長い歴史巻物を敷いて、その上にぽんと自分を置いてみるようにしたり、何かずっと大きなものに寄りかかって自分を見る選択肢ももっておいたほうが、充電したり立ち上がったりを柔軟に切り替えながら、健康的にやっていけるのじゃないかなと。

どうも世の中というのは、現在地(ここ)ではない対極地点(あっち)に向かうことに課題設定して移動に傾注するあまり、もともとあったものの見方を過剰に敵視して、手放しがちだなと思うのだ。

「画一的な見方を打破しよう」とスローガンを掲げているわりに、AからBの見方へと大移動を図ろうとする。それじゃ「Aの画一的な見方」から「Bの画一的な見方」に移動するだけじゃないか。「Aに加えて、Bも手にする」ことで初めて、画一性を打破して多様性に一歩踏みだせる、2つもてれば3、4に応用展開するのは、ずいぶんと楽になる。そんなふうに按配が考えられるといいなぁと思う。心は選択肢があるほど、自由に立ち回れるものだ。

*安田登「あわいの力 『心の時代』の次を生きる」(ミシマ社)

2023-10-03

「道具の進化か、能力の修練か」という選択

お能の入門書を読んでいて面白いなと思ったことの一つに、お能の楽器は600年だか700年だかの長きにわたって改良・進化せず、人間のほうに修行させる方針を貫いてきた話がある。道を具えるのは、楽器の側ではなく人間の側であるという構えだ。

能のお囃子(はやし)には笛、小鼓、大鼓(おおつづみ)、太鼓(たいこ)とあるのだけど、4種ともすべて音が鳴りにくいそう。でも何百年もの間、楽器に電気を通すこともなく、もっと音が鳴りやすくする改良を加えることなく、同じ形を保ち続けてきている。

それがなぜかというと、鳴らない楽器と対峙することによって人間の側の精神性を養っていくことを重視した、修行の過程と位置づけてのことらしい。

これをどう捉えるかは人それぞれの考えがあろうし、肌に合う人もいれば合わない人もいるだろう。それはどっちだっていいし、むしろ人の価値観は画一化されず散っていたほうがいいんだろうと思うタチだが、大事なのは「選択肢をもつ」ことだ。

お能を離れて、あらゆる分野で今の時代に否応なく問われるのは、技術の進化一辺倒に陥らず、人間の修行一辺倒にも陥らずに、「自分は、この件では、こっちを取る」と選択できる力量じゃないかと思う。もっと言えば、そう簡単に二分できるわけでもなく、それぞれの分野で、いい感じに按配して調合して、自分流のオリジナルを創りだせる能力と技術のブレンド能力が問われる。

記憶力なんかを例にとるとイメージしやすいだろうか。どれくらい自分の身体の記憶力を養ってこき使うのが得策で、どれくらい外部記憶装置を活用するのが得策と考えるか。体外の記憶装置の進化によっても変わるだろうし、どのように体内に連携して組み込まれていくかにもよるのだろうが、人間の記憶力もかなり複雑に高度に個性的に働いてくれるので、私の人体・生涯ベースでいうと個人的にはこれを軽視できない。

個人はもちろんのこと、さまざまな教育機関も企業組織も、教育や人材育成の方針にこれという唯一の正解がない中で方針を問われ、カリキュラムやHR戦略施策の見直しを迫られているように思う。何を重んじて、それゆえ何の能力は手放さず伸ばすを尊しとするか、何は技術進化にゆだねて能力開発を手放すか、機械化・IT化・AIに任せるか見定めていく岐路に立っているように思う。

全部が全部、AIだなんだで効率化に全振りした場合、気づいたときには人の営みの最も大事なところを失って、もはや取り戻せなくなっているかもしれない。といって、あらゆる現状を堅持して頑なになっていては時代適応がかなわず廃れていってしまう。

頭の使いどころであり、唯一無二の正解なき各人各社各様のデザインのしどころだなぁと思う。私の生業からしてみると、キャリアデザインであり、インストラクショナルデザインというところ。いずれも「今このタイミングだと」「うちの会社の、うちの部署メンバーだと」「この事業フェーズだと、この市況だと」と、いろんな文脈を読み込んだ上での個別最適を組み上げるほかなく、そう話は単純ではない。

共通認識を結べるところまで方針立ててシナリオ化したら、あとはもうやってみるしかないところもあって、各々やってみてどうなるかの社会実験にならざるをえない気もするけれども、それが人間界を生きる面白さでもある。

私も今おつきあいしているところでは細々と自分の見解を共有したり問い立てしてみたりしているけれど、個別最適の創造性に富み、難しくも面白い局面だなぁとも思う。

2023-10-01

巷は我がふり直す機会にあふれている

先月のこと、ある朝うちのインターネットが急につながらなくなった。パソコンもスマホも、Wi-Fiにつながらない。部屋のWi-Fiルーターに問題が?それともマンション全体がネット不通?(いや、マンション外も?日本中?世界中?を押し留め)、ざっくり2方向で考えてみる。私の住んでいるマンションはインターネット完備というやつで、部屋まではネット回線が用意されている。

前者か後者かの分岐点がさくっと解せれば進展は早いが、隣り近所とつきあいがなく「そちらさんどうですか?」と気軽に尋ねることができない。マンションの管理会社に電話する前に、とりあえず自室でできる検証作業をするとしよう。ということで、部屋のWi-Fiルーターのコンセントを挿し直して再起動してみたり、LANケーブルの断線を疑ってみたりするが、なんら変化なし。有線LANの変換ケーブルが手元にないので、そこは検証ならず。

買い物ついでに部屋を出て、1階エレベーター脇の住人向け掲示板に目をやってみたが、通達は見当たらない。

んー、どうしようかなぁ。今日明日はまだスマホのテザリングでもしのげるが、明後日はお客さんとのオンラインミーティングがある。そこまでにはちゃんとしておかないといけない。

そこで管理会社に電話をかければ良いものを、せっかちが私を隣町の家電量販店にいざなってしまった。ここまでの室内検証作業をやった上であれば、管理会社も「自室だけの問題を、マンション全体のせいにする輩」とは思わなかっただろう、話し方ひとつだろうよと、後から振り返ればそう思うのだが。

ネットで調べるとWi-Fiルーターの寿命は4年ほどと書いてある。私のは使い始めて3年程度。でもまぁ、2台持っておくと、今度また同じ問題が起きた時にも付け替えてみて検証器に使えるだろう、新調することでいくらか性能の良いものにグレードアップもあろうと、今すぐ買う理由に満たない理由をかき集めて家を出る。ともかく、今のWi-Fiルーターに問題があるのかないのかはっきりさせたいだけだ。

店に着くや、さっさとこれと決めて、5千円ほどのWi-Fiルーターを新調。レジを済ませるや、すぐさま帰宅、接続を試みる。それで早々に、原因はWi-Fiルーターでないことが確認された…。

そこでようやく、そこまでしたんだからと腹を決めて、心置きなくマンションの管理会社に電話を入れた。すると「今朝8時頃からつながらなくなっているようでして、どうも現地調査が必要だということでマンションのほうまで行って確認したところ、NTTの機材に問題があることが確認されまして、11時半頃に委託先の業者さんのほうに修理依頼をお願いしたところです」と。

そこで話が途絶えてしまったので、「見通しのほうは?」と先を促すと。「あぁ、見通しですか。それは委託先のサポートセンターに電話をしていただいて、物件名を言えば随時更新された情報をご確認いただけます」と。

で話が終わってしまったので、「では、お電話番号をお伺いできますか」と尋ねて、教えてもらった。先方「先ほど手配を終えたところなので、すぐだと、まだ見通しが立っていないかもしれませんが」というので、それは夕方に電話することにする。それはいい。

しかし今後も同じようなことがあった場合、何が私のふるまいとして最善策なのかを見定めたい。私からすると「電気・水道・ガス」と同等レベルで「情報」のインフラ断絶は問題大なのだが、あまりそういう認識は先方になさそう。不動産業でも、そういうものなのだろうか。その辺の按配を、このやりとりを通じて承知しておきたいところ。

それで「今後もこのようなことが起こりうると思うのですが、1階エレベーターの掲示板のところに一枚掲示物を貼っておくとかしていただけると、マンション全体の問題なのか自室だけの問題なのかすぐに切り分けられると思うんですが、掲示して伝えるとかはなかなか難しいんでしょうかね」など、しどろもどろ口にしてみたが、「んー、そうですね」と、あっさりNG回答だった。

私のバカバカ。「難しいんでしょうかね」と言ったら、相手は「そうですね」と、なんとなく返して終わってしまうの請け合いじゃないか。出だしからして、実にだらだらしていて要領を得ない。もっと、ぱきっぱきっと一文を区切って提案するように話せれば答えは違っていたかもしれない。

「1階エレベーター脇の掲示板に一枚案内を出してくださると助かるんですが、いかがかしら」という提案モード。譲歩的なニュアンスを醸し出して「全戸数分を印刷してポスト投函するなんて、そんなことしなくていいと思うんですよ。みんな毎日ポストをチェックするとも限らないし。状況と進捗確認先の電場番号を手書きして1枚掲示板に貼ってくださったら、それでみんなに周知できると思うんですよ。そちらの電話問い合わせのご負担も減るでしょうし。一度社内で話題にあげてもらって、検討願えないかしら」くらい詰め寄ってみる手もあった。

そしたら先方も勢い「今後は善処します」とか「社内で検討してみます」くらい口にしていたかもしれない。

いや、しかし「みんな、そう思っているはず」とうそぶくのに私はひどくためらいを覚えるようになって久しい。もはや使えなくなってしまったと言っても差し支えない程度に、みんなそう思ってるふうの言葉をあやつるのに抵抗がある。「みんなって誰やねん。おまえの思っていることを、おまえの思いとして語れ」という自己ツッコミが自動で入る仕様になっているので、こういったセリフを流暢に展開できない。そういう役柄を憑依させてしゃべるとしても、瞬発的にここまでのセリフを紡ぎ出せる手腕もない。暮らしを営むって難しい。

で、ここからだ。その日の夕方まで待って、委託業者のサポートセンターに電話してみた。機器を交換する必要があり、翌日の13時から17時の間に行う予定なので、翌日17時には修復見通しだというのを確認した。ここから後のほうが、本件で私に残した反省は大きい。

この情報を得た私には、自分でお手製の掲示物を1枚作って、マンションの掲示板に「一住人からの共有事項」として貼り出しする選択肢があった。思いついた。が、結局やらなかった。でしゃばりかな、1日だしなぁ、みんなは私ほど困っていないのかもしれないしなぁと思って、結局やらずじまいにしてしまった。

でも、別にその掲示が1枚あることで人に迷惑をかけることはなし、1日足らず勝手に掲示を貼っても管理会社が見つけて気を悪くすることもなかったろう。助かる人が1、2人でも見込めるなら、ちょいミニッツ、ほぼノーコストを自身が請け負うべきだったろう。それをずっと引きずり、ネットが復旧した後もずるずるとあれやこれや考えふけり、その割りにまったく役立たずに終わってしまって、本当に情けない。

何が仕事か、職業的に何の仕事に就いているかなんて小さな枠組みに、結局とらわれている自分のふるまいにゲンナリした。仕事じゃなくて生業だよ、自分をどう生きるかだよ、まったく、いい歳してなんなんだ。人のふり見て、我がふり直せ。ほんとに、まったくだ。人のなりふり見て気になるところ、自分もだいたい足らぬところあるからこそ気になっているのだ。我が足元を見て、我がふるまいを直せ。世の中は我がふり直す機会にあふれている。

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