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2023-09-20

入門書を読み、こと始めるマイ黄金コース

12月に人生初、お能を観られる機会を得た。大元をたどると能楽師の家系ながら、うちは分家の分家な上、京都から遠く離れたところに居を構えたため、本家とはずっと疎遠だった。

そういえば私がまだ十歳にも満たない頃、お正月に「誰々さんが教育テレビに映るってよ」と京都の親戚から電話がかかってきて、がちゃがちゃ回すタイプのテレビでチャンネルを合わせたことがあったな。その程度の貧相な記憶しか、私はもたずに今日までやってきた。あとは本家と父親の間で一応、年賀状だけのやりとりを細々と続けてきた次第、父の年賀状作成は私の仕事だ。

それが今年7月、父の思い出探訪につきあって京都を旅した折り、本家を突撃訪問し、私のまたいとこ(はとこ)にあたる当代と初対面、そこから交流が始まった。

さて、そんなこんなで、お能の観劇である。能楽堂に足を踏み入れるのも初めてだし、なんら知識をもたないわけだが、そんなすっぽんぽんで伺うのは礼を欠くし、せっかくいただいた機会なので、いくらかでも基本を学んで伺おうと入門書を数冊読んでみることに。初めて踏み入る分野は多少でも知識を入れてから臨むと楽しめるぞ!というのは、これまでの人生経験で学んだ大事なことの一つ。

とりあえずAmazonを開き、「能と狂言」を扱っている本をリストアップ。検索枠で「能楽」と引っかけても手っ取り早いが、「本」からカテゴリーを分け入ると「アート・建築・デザイン>日本の伝統文化>歌舞伎・文楽・能」と下ったところに収まっている。検索結果の一覧ページから、上位に表示されているものから順に見ていって、めぼしいもの、星がついているものでざざっとピックアップ。

せっかくなので自分がまったく新しいものの入門書選びを、どんなふうに進めていくのかアンテナをはってみると、こんな感じであった。

1.上位表示されている「スポンサー」マークがついたものを(なんとなく)飛ばす
2.作品一つ、人物一人を取り上げて、じっくり掘り下げるタイプのタイトルをはずす(「世阿弥」「風姿花伝」など)
3.名作・名人を取り上げて紹介するタイプのタイトルもはずす(「名作選」「能楽集」「能楽手帖」「名人列伝」など)
4.「辞典」「ハンドブック」とかリファレンスっぽさ?が強いタイトルもはずす(網羅性が高すぎるのも違う、入門者用にコンセプトだてたシナリオが欲しい)
5.構成要素の一部にフォーカスをしぼったタイトルもはずす(「装束」「謡(うたい)編」「面(おもて)からたどる」など)

そんなこんなで、手元に8冊がリストアップされた。

1冊目に読む本は一択、「マンガでわかる」本である。これまでの失敗経験で「くれぐれも登山口を間違えるな」は肝に銘じている。1冊目はとにかく格好つけずに敷居が限りなく低い本を買って、読めるぞ、私にも読めるぞ!と調子をつける。

ちなみに電子書籍に対応していたので、これは速攻AmazonでKindle版を買って読み出す。iPadで読むと、カラーでさくさく読める。「1ページ」と「2ページ見開き」のサイズ違いを自在に操れるのも勝手が良い。

さて、ここは易々と突破し、次からの選書が思案しどころ。頭の中で構想したステップのたどり方は、こうだ。

2ステップ目は「初めての」「入門」「ことはじめ」あたりがタイトルにつく、入門知識の足場が作れる本。初心者に易しく、適切な言葉選びで、へたなメタファを用いて誤解を生まない良書を押さえたいところ。

3ステップ目に読みたいのが「能楽談義」など、能楽師が語る能楽の楽しみ。あるいは能楽師が登場する小説を読むのも、調子づけに効くかなぁなどと思う。一旦知識をおいて、作り手の熱量をあびて、自分の興味レベルをぐいっと上げ(てもらい)たいところ。

これを挟んで4ステップ目に読みたいのが「教養としての能楽史」「能楽の本質」「能 650年続いた仕掛けとは」みたいな、それの深み・真髄に迫らんとするもの。1968年に出ている三島由紀夫の「近代能楽集」というのもリストには挙げてみたが、ここまで自分をもっていけるかどうかは正直、あまり自信はない。まぁ楽観的な見通しとして一応リストアップ。

上で、1冊目の後を「何冊目」とせず「何ステップ目」としたのは、各ステップで何冊読むかは、その時々任せがよかろうという考えで、自分の乗り具合というのを都度はかって、自己観察しながら舵をとっていきたい。1冊読んで、次のステップに駒を進めることもあれば、一つのステップにとどまって何冊か読んでみたほうが調子づくところもあろうと。とにかく意識的に緩急をつけて自分をうまく誘っていくのが、気まぐれ入門者の心得。

で、結局どうたどっているかというと、2ステップ目を差し置いて、3ステップ目に書いた緩(お楽しみ)を前倒ししている自分の差配に気づく。私は私の調子の乗せ方(乗らなさ)をよく知っている。まずはがんがん、じっくり、自分の興味に調子をつけて、自分をドライブさせるのだ。自分に甘いというか、自分に期待が薄いというか。紀伊國屋書店に足を運んで、あれこれめくりながら選書していたら、こういう道筋になっていた。

それで今は、談義と小説のたぐいを読んでいるのだが、これがすこぶる良い。温故知新の恵みを与えてくれるというか。能に限らず、こうして気楽に、開放的に、純粋に、新しいものに触れていく健やかさ。そこに、自分のこれまでの記憶・体験と関連づいていくものがあって、立ち止まっては、いろいろ思う豊かさ。手繰り寄せているのか、手繰り寄せられているのか、不思議を味わう。

2023-09-15

その壁に、それぞれが何を見ているのか

独立からこのかた、「とはいえ、おいそれと平日日中に東京を離れる気になれなかった」のだが、半年経て、ついにぶらり旅に出た。住まいが建物ごとネット不通になる時間ができて、家にいても仕事にならんしなというのに乗じただけなのだが。朝の通勤ラッシュが落ち着いた頃合いで、千葉の奥地(佐倉市)にあるDIC川村記念美術館へ出かけた。

目当ては、バウハウスで活躍し、1950年からはイェール大学のデザイン学科長も務めたジョセフ・アルバースの回顧展『ジョセフ・アルバースの授業 色と素材の実験室』(会期は2023年11月5日まで)。彼のデザイン教育方法に興味をもって。

そこに「斜接正方形」という展示があって、リンク先のPen Onlineの記事にある通り、壁に12枚並べられていたと思うのだけど。これを見て、みんな各々に何を読み取っているのかなぁというのが気になって、けっこうな時間、この前に長居してしまった。広い部屋に一人だったのだ。

これって、一枚一枚の配色組み合わせにも意味があるし、おそらくは12枚の配置の仕方・組み合わせ方にもデザイン的意味があるということなんだろうなぁとは、デザイン素人の私でも察するところなのだが。

一枚ずつの配色でいうと、3パターンあるってことなのかなぁとか思い、A、B、Cに分けてみた。1、2、3の数字は色の濃さレベル(下図をクリックかタップすると拡大表示する)。

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でも、それにしてはABCの並びが左右対称じゃなくて、配置がいびつな気もする(下図をクリックかタップすると拡大表示する)。

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上段の左から2番目をBパターンだったり、右から2番目をAパターンにしたほうが整然としていて収まりよくないかしら。いや、この配置も含めて「斜めっている」ほうがコンセプトに合うとか、そういうこと?

いや、そもそも、AパターンはAパターンでまとめて、BパターンはBパターンでまとめて4枚ずつ見せてくれたほうが、視覚的効果の違いが伝わりやすくない?ということは、あえて分かりにくくしている?応用編?錯乱させることに意味がある配置?などと、一人でぶつぶつと脳内迷路を散策する。

それを上から見ている私が、素人というのは、ものの見方の型を知らず、論評も足元が不安定で、型から自由でもありつつ、型ありきの型破りが成せるわけでもなし、結局はものの見方の広がりに欠けるものだったりするんだよなぁなどと、デザインではなく私を論評している。

「なぜそのように見えるのか?」に頭が先走ってしまって、「どう見えるのか?」という身体的な体験を疎かにしてきた反省が、帰り道になってからわきあがってくる。

でも、こんなに数を並べられると、一枚一枚が「こう見えます」と丁寧に見ることも叶わず、全体で「こう見えます」とも、なかなかもの言えぬ錯乱状態に巻き込まれる。そんなわけで、みんな、ここからどれだけのどんな情報を読み取っているのかなぁと。大部屋に一人で見ていたから余計に、人の目が気になってしまった。自分の知覚力、処理能力、咀嚼力の弱さを感じた作品として思い出ぶかい。

帰りは、ちょうど「しおさい」と巡り合わせたので、ひょいと乗ってみた(Instagram写真)

2023-09-09

隠しごとを本人に持たせてしまう

最近、遠藤周作「深い河」の一章「磯辺の場合」を読んでいて再認識したのが、家族に末期がんが発覚したとき、余命宣告を本人に伝えるかどうかは家族によって分かれるんだよな、ということ。磯辺の場合、本人に伝えずに幕を閉じるので、あぁ、うちにはうちの家族の法があったなと思い返すこととなった。

うちの母が十数年前に余命宣告を受けたときは、まず父(と兄か妹)が医師から最初に宣告され、そのあと父(と兄か妹)が立ち合いのもとで、医師から母本人に余命宣告がなされた。入院先の病室でのことだ。

そのとき私たち家族に、母がそれを知らされないまま亡くなるという選択肢は、頭に浮かばなかったと言っていいのではないか。医師から、本人に伝えるか問われて判断する父に、いくらかの逡巡はあったのだろうか。逡巡の有無について父本人に尋ねたことはないが、当時の父の様子に、その気配はなかった。辛くて、辛くて、声を震わせていたのは記憶に深く刻まれているが、言う言わないで迷ったという様子は一切汲み取れなかった。私にとっても、本人に伝えないというのは、ありえない選択だった。

母本人が、自分の死期を知らされないで人生を終えるなんて、家族の判断でその情報を遮断されて知る権利が奪われるなんて、そんなことは考えられなかった。今振り返ると、そんなことがあっていいはずがないという暗黙の共通認識が、父にも私にもあったように思うし、おそらくは兄妹にもあったのではないかと。そして、もちろん母にも共通の意思を感じていたからこそ、私はそのように思っていたんだと再認識するのだ。

あるいは父と母の間で、そういうことはすでに話し合われていて、私はその空気に包まれていただけなのかもしれないが。

いずれにせよ、私からみるかぎり、母が「隠しておいてほしい」と望むとは到底思えないし、父が「言わずにおく」判断をするとも思えない。母は「私のことは私が承知しておきたい、私の人生なんだから」と考える人であり、父は「本人のことは本人が知るべきだ」と考える人であり、私はその二人の子である。

こういうものの一切は、私の思い込みに過ぎないのかもしれない。だけど、医師から父へ、医師から母へ、その日のうちに一通りの通達が手早く完了したのは確かな事実だ。本人には隠しておく、2〜3日検討してみるという選択肢は、私たち家族の間で発想されなかったように記憶している。

よその家族には、よその家族の法がある。あくまでこれは、うちの家族の法である。という前提で私の考えるところをつらつら書き記してみるのだが。

彼女がことの次第を知った上で、緩和治療を選ぶのか、数ヶ月であれ延命の可能性があれば延命治療を選ぶのか、それは可能なかぎり本人が選択すべきことだし、本人にしか最適解の出しようがない問いである。

家族のなすべきことは、その宣告をそばで一緒に聞き、支え、本人の意思を聞き、それを尊重し、最期までその思いを守りきること。これに尽きるという信念がある。私が父と母から受け継いだものの一つは、そういう価値観である。

そして、この遠藤周作の「深い河」を読みながら十数年越しに思ったのだ。母が、余命もって数ヶ月と自身で知って、だからこそ交わせた母と家族との会話があったなと。もし本人が知らずじまいだったら、交わせなかった会話、過ごせなかった時間があったなと。

たとえ隠しても、母は察知しただろう。しかし家族が隠していたら、母は自分がそれを察知していることを家族に言わずじまいだったかもしれない。その隠しごとを一人で抱えたまま、この世を去らねばならなかったかもしれない。私は、そういう思いをさせずに一緒に過ごせて良かったと思う。いずれをとっても乗り越えねばならない辛い局面は本人にも家族にもあるわけだが、一人にしなくて良かったなと、十数年ごしに改めて思った。

読書っていうのは、本当にいろんな味わいを時空を超越して与えてくれるものだなと感じる。もう何年も文庫本とKindleを行ったり来たりどっちつかずで来たのだけど、「深い河」を読んで、これから当面「文庫で出ている文学本は紙で読もう」という暫定的な結論に至った。なんだか、やっぱり、物語を味わうには紙のほうがいいみたいだ。これが私のぜいたくだ。

2023-09-07

定数と見切るか、変数と見立てるか

MBS毎日放送のバラエティ番組「林先生の初耳学!」で、インタビューする林修さんと、ゲストの森岡毅さんとが意気投合している動画をチラ見した。動画というか、動画のキャプチャ画像をつまみ食いしただけなのだが、世の中のことを数学的にとらえて「変数」か「定数」か見極めることが大事だという話で盛り上がっていた。

つまり、定数にあたる「変えられないもの」に向かって変えようと努力しても仕方ないわけで、変数にあたる「変えられるもの」に向き合って変える策を講じる頭の使い方をせよという話で、「なるほど、納得」と人を惹きつける話を提示している。

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私も「なるほど、そういう整理の付け方は分かりやすいかもなぁ」と脳内でもぐもぐ味わいながらキャプチャ画像や周辺のセリフを読んだり見たりしたのだが、そのうちに思い至ったのは、自分が直面する実際問題でいうと、これを知った先こそが険しい道なんだよなぁという話だ。

いざ、世の中のこと、自分の身近な問題に当たろうとすると、「これは変数にあたり、これは定数にあたる」という唯一無二の正解がない。そこを決めるのは結局、自分ということになる。最終的には「決めつける」といっても差し支えないかもしれない。決めつけて、決めつけた責任を自分で負って、腹くくってやってみないことには「どうなるかわからん」ことばかり、というか。

例えば、よく言う「靴を履く習慣がない国に2人のセールスマンが派遣されて、一方は靴を履く習慣がないので一足も売れないと見切ったが、もう一方は全国民が潜在顧客だ、ここなら靴が大量に売れるぞ!と見立てた」という話がある。

これなど前者は、その国の習慣を「定数」とみて見切りをつけたのに対し、後者は「変数」と見立てたという話。両者の見極めに、唯一無二の正解など現場にはなくて、「定数と見切るか、変数と見立てるか」は自分の決めの問題であることを示す好例じゃないかと思うが、どうだろうか。

世の中のこと、自分の身近なことに対して、「変数か定数かを見極めよ」というのは、まったく明快な示唆深い助言として、そこが「わかる」ところから、それが「できる」ところまでには、ガンジス川とは言わぬまでも、太平洋に出る手前の利根川級の川幅があってだな(一キロ近くある)ということを思い耽った。

自分が何ごとを「定数」と見切って、何ごとを「変数」と見立てて事に仕えていくか。それが自分の仕事となり生業になるって話かもしれないなぁとも思ったりした。それが、人それぞれ違って、社会の役割分担になっていく。それぞれに「自分が」何を当てはめるかは、数学じゃなくて、例えば文学とか別の分野が力になってくれるかもしれない。そういう話も、番組の中でしているかもしらんけれども。

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