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2023-08-10

選択の自由を与えた側が、手放しているもの

芦田宏直先生の「シラバス論」を読んで、企業の人材開発に携わってきた立場からも実務的に役だつポイントは多分にあったし、メインで語られているところの大学教育にも多少関わりをもっているので、そこでも早速紹介させてもらったのだが、それはそれとして。こうした直接的な枠組みをはずしても尚、読みごたえ、噛みごたえある本だった。それを昨日、X(Twitter)に一言で書いてみた読書感想文が、これだった。

多様性に傾倒すると、標準性を軽んじる。弾力性にばかり気を取られると、構造性を失う。多様性と標準性、弾力性と構造性、文脈に応じて両方をうまく調和させられるのが、デザインの仕事だよなって思った。

大学教育を例に挙げるならば、昔は大学進学率って15%に満たず、大学はエリートが進む道だった。それが15%を超えるマス段階を経て、50%超のユニバーサル・アクセス段階へと変遷した(米国の社会学者、教育政策学者マーチン・トロウ)。

そうなると入学を受け入れる大学生も多様化し、それに応じた大学カリキュラムも移り変わる。分かりやすいところでいえば、選択科目の数が増えてバラエティ豊かになり、必修科目を減らして選択科目で取れる単位数が増えるとか。

けれど、その弾力性(融通がきく)と引き換えに手放しているものにも目配せが必要だ。それがカリキュラムの構造性であり、その大学が確保する教育の標準性と言えるのかなと。

4年間で124単位以上を履修することとされ、1科目に2単位とかが割り当てられる中、必修科目で40科目、80単位(必修割当比率64.5%)枠を押さえてあるカリキュラム構造であれば、この大学では確実にここの基礎固めをした人材を社会に輩出したいんだなという意向もつかめる。

が、多様性とか自由とか、各人の自立性を育むといったスローガンを掲げて、各々自由に学びたいものを学んだらよろしいという選択科目に偏ったカリキュラムとなると、弾力性は認めるが、構造性を欠き、多様性は認めるが、標準性を確保できない仕組みに堕する。

著者は、「標準性」について「最低限の共通性」と表している。

必修科目で何を教えるか、何は必修科目としないのか。ここには大いに、大学側の方針が現れるもの、現れるべきものだなと思う。

構造というのは、体系性とか網羅性とか順次性とか、そういうものを内包している。この辺りを学ぶにおいては、あれとこれとそれを学ぶ必要があるという要素を網羅的に挙げて、それをどこまで学べば必要十分か、それをどの順で学んでいったら基礎、応用、高度なレベルへと歩を進められるのか、そういう構造を立てられるのは、教える側がもつ能力であって、学び手にはそれが叶わない。だからこそ、弾力性を欠いても不自由な構造をしいて教えることが価値をもつのだ。

それを言及主義(知るべきことは話したから、あとは本人次第)に陥らず、それをどうしたら本人が会得できるのかも、会得している側しか組み立てられない、創意工夫の施しようがない知恵の領域が多分にあって、それら一切を学ぶ側の自律的なセルフマネジメントにゆだねるのは、ちょっと無理難題じゃないかなぁと思う。

「シラバス論」で書かれているのは、もっと骨太で肉厚な内容なのだが、そこを噛み砕いてここに記せる力量もない。個人的メモとして、ここに残すのは、多様化だ自由だ自律性だと説かれる時代に、反対側に何を対置させてバランスをとることが、デザインの仕事だろうかと考えるに際し、大局的にとらえるためのキーワードを与えてもらえたなと思う。ものごとを捉えていく上で、多様性と標準性、弾力性と構造性を示してくれたこの本のありがたみは大きい。

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