読んだことがない者だけが楽しめる遊びフォーマット
最近お気楽(になりたい時)に読んでいるのが、「『罪と罰』を読まない」だ。電車で移動中とか、仕事の合間とか、寝る前とか。
世界的名作として知られるドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいない4人が、読まずしてその内容を推しはかる会話録みたいな本なのだが、とにかく三浦しをんの物語展開力がエンタメ感たっぷりに楽しませてくれ、江戸っ子4人の軽妙なやりとりも楽しい。
とある宴席の片隅で、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことがあるか?という話になり、みんな「ない」と、居合わせた4人が4人とも首を横に振ったことに端を発して作られた本らしい。最初は同人誌で作ろうとしていたが、文藝春秋が刊行役を買って出た。
この「遊びのフォーマット」がおもしろく、他の作品に差し替えたり、自分たちでメンバーを集めてやっても楽しめそう。小説にかぎらず、実は観ていない映画の名作とか、長編マンガとかでも良いかもしれない。
「どの作品でやるか」は、まず誰もがいくらかの聞きかじり情報をもつ有名作だと話に花が咲く。長編の名作だといろんな人の妄想を飲み込めるだけの懐の深さがあって良い。
そして、実は読んでみたかった、観てみたいとずっと思ってはきたのだが、長くて難解そうで、今日まで結局手に取らずじまいで来てしまったという名作が良さそうだ。この会を開いたら、重たい腰あげて読み始められそう、観る気になりそうだという作品だと一挙両得な気がしている。自分たちの推理と答え合わせしたい欲が、ぐいっと自分の重たい腰を押し上げてくれそうだ。
そして「どんなメンバーでやるか」が、この遊びを面白くするかどうかの成否を分けそうなのだが、こればかりはなかなか難しい。話にのる人同士でやってみるしかないかもしれない。
そうやって考えると、偶発的とはいえ『罪と罰』という作品選びは実に見事だし、三浦しをんを筆頭に、この本の構成メンバーはさすが、外野から観戦しているだけでおもしろい。
三浦しをん的存在が集まれば集まっただけいいという話でもなく(たぶんカオスになる)、作家、翻訳家、装丁家が入り混じり三者三様に会話に彩りを与えているのが好ましい。いずれも小説にたずさわる仕事をしてきた文学に造詣深い面々で、文藝春秋が乗り出してくるわけだなという盤石の基礎を築いている。
簡単な遊びの手順・ルールとしては、まず皆で一所に集まって、最初の1ページと最後の1ページだけ読んでみる。これすらないと、さすがに話が進まない。『罪と罰』は上下巻トータルで千ページ近く6部構成の長編小説なのだが、そのうちの最初と最後2ページだけを読んで、まずは「どんな物語なのか、話の筋を推測して、作者の意図や登場人物の思いを探り当てる」会話を始める。
これって連載だったらしいよという情報が投げ込まれれば、連載中は『革命戦士ラスコの冒険』みたいなタイトルだったかもしれないよね、みたいな話に転がり。確かなの不確かなの、いろんな聞きかじり情報が投げ込まれては、わいわいやる。
「しをんさんが、これくらいの長編小説で二人殺される話を書くとしたら、いきなり第一部で殺りますか?」と、書き手としての三浦しをんを呼び出して「いや、殺りませんね」「どのくらいで殺る?」「ドストエフスキーの霊を降ろして考えるとーそうだなぁ」と頭をひねったりとか。
自分が書き手だったらという作家視点、自分がドストエフスキーだったらというドスト視点、それもドストがこの作品で何を描こうとしているか、主人公ラスコーリニコフをどう描くか、ドストエフスキーが作品を書いた時代背景も読みながら縦横無尽にいろんな視点を取り入れて展開する。それを読まずしてやっているので会話の小気味良さがある。
「彼は敵。いけないわ」――第二部はこのようにハーレクイン的に攻めて、第三部で神の残酷さを本格的に問う宗教論争になだれこむ。
みたいにして、各部をどういうふうに位置づけて物語を展開していこうとするか、小説作品の玄人がわいわい話しているのをみるのは、何か一つの舞台を鑑賞しているようなおもしろさがある。
最初と最後の1ページを読んだ後、ひとしきり話したなというところで、6部構成のうち、各部3回まで、ページを指定して、1ページ分だけ文春の人に朗読してもらえるというルールを作る。追いページで味変するのだ。遊び道具ほとんどなしに遊ぶのも、やりながら遊びのルールを自分たちで作っていくのも、実に人間の原初的な営みが感じられて素敵だ。
そうして、とある1ページを読んでもらうと、知らぬ名前が出てきて新たな登場人物が加わり、こいつは「重要人物なのか、捨てキャラか」という位置づけも模索していくことになる。「ラズミーヒンて、誰?響きからして馬?」とか、人名もなじみがない上、同じ人でも全然別の呼び名で出てきたりするから、この名とこの名とは同一人物か?というところも危うく、文脈からの手探りだ。この文脈の手探りが楽しい、これぞ遊びなのだ。もちろん私も『罪と罰』を読まずして、これを読んでいる。
*岸本 佐知子、三浦 しをん、吉田 篤弘、吉田 浩美「『罪と罰』を読まない」(文藝春秋)
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