そのスキルは単体で身につくのか問題
最近2、3の席上で同じ話をもちだしたのだけど、それが「そのスキルは単体では身につかないと思うんだ」という話。芦田宏直先生が「シラバス論」の中で、簡潔にこう表している。
「関心・意欲・態度」「思考力」「判断力」などは結果の能力であって、目的にするほどの固有性はない
以前ここを読んだときの「我が意を得たり」感といったらなかった。結果の能力、目的にするほどの固有性はない、こんなふうに言い表すことができるのかと脱帽。
何か具体的な事柄に対して、興味をもつ、意欲がわく、思考力が働く、判断力がつく。その結果として、別の事柄にも興味をもちやすくなる、いろんな方面にも応用がきいて高い思考判断が働きやすくなることはあろうが、最初から全方位的に関心高く思考判断を高める強化プログラムを採用するのは、ちょっと普通の人間のつくりに照らして無理があるんじゃないかと、普通のつくりの私は、この弁に首肯するのである。
この本は大学教育を念頭において書かれたものだが、組織の人材育成にも同じことが言える。というか、こう切り込みたくなる場面に遭遇することが、けっこうある。
人事部門が企画する社員研修、研修会社が提供する汎用的な(全業種対応の)公開講座、前に高校生にお題を出して発表してもらったときに「結局はコミュニケーション能力だ」と言われたときにも面くらったが。
ロジカルシンキングだ、コミュニケーション能力だ、意思決定力、主体性、モチベーションだ、それで何かを特定できているかのように思えてしまうのが言葉のマジックで、しかして、ほとんど何も特定してはいない。
言葉を与えた以上、まったく何も特定できていないということはないわけだが、「求める能力を備えるための解決の道筋をつけるのに十分な特定ができているのか」という物差しをあててみれば、要件定義としてはほとんど意味をもたない言葉にとどまっている。
だけど、よそからもってきた言葉で一言これと言い表してしまうと、何かを特定できた、言い得たような気分になってしまって、そこに安住してしまうことが、ままある。無意識にこれにはまると思考停止に陥る。
高校生との場では、あるグループでは「幼稚園の先生」の職能として、別のグループからは「システムエンジニア」の職能として、「結局はコミュニケーション能力だ」との発表があったので、幼稚園の先生なら幼児や保護者へのコミュニケーションだし、システムエンジニアなら顧客企業のシステム管理部門の人相手に交渉したり、システム環境や要件を聞き出したり。一口に「コミュニケーション能力が大事」といっても、対する相手も内容も、かなり別ものですよねって話して、これからの時代は「抽象的に」、ある種「雑に」くくらないで、解体して、自分なりにばらしてみて具体的にとらえていくことがすごく大事になってくると思うんだという話を返した。
SNSなどでは、プライベートなこと・社外秘のことを書き控え、具体的な内容・文脈を与えぬまま抽象的な概念ワードを交わし合うのが一般的だ。それが意味をもつこともあり、それが抽象と具体をつなぐ言葉の強力さでもあるわけだけど、そればかりに慣れすぎて、具体に落とし込んで考える、次ステップに展開させるための道筋をつけるまで言葉を落とし込む、落とし込んだ言葉で実地検証するプロセスをおろそかにしてしまうと、どんどん思考が薄っぺらくなっていってしまう。
閑話休題。意欲的な人間を育む、何ごとにも関心をもつ人間を育てる、結果的にそうなることはありえても、そこ単体を取り出して「全方位的に関心・意欲が高い人を育てよう」とする施策は、他者に向けたものであれ、自分に向けたものであれ、ちょっと人間の構造を単純にとらえすぎている感を覚える。もちろん、そこを難なく突破できる超人もいるとは思うけれど、それはそれだ。
私は、あくまでオーソドックスなアプローチ、普通の人のために効力をもつプログラムは何かと考える。それをこそ自分の仕事としてやりたい。
それでいくと、やはり「結果の能力」「目的にするほどの固有性はない」ものに対して、単純にそれを冠した講座をやって、施策を講じました、あとは本人次第ですというのは悪手に感じる。この人が、この人の現場で、その能力を発揮して、役立てて、ドライブがかかって、いい仕事をして、組織や社会貢献につながっていくための具体的文脈をとらえていくこと、そこを丁寧に汲み取って考え抜いていくことを大事にしたい。
*芦田宏直「シラバス論:大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について」(晶文社)
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